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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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7/13

第7話 衝動と、ためらい

 

 灯台から帰った翌日、朝陽は店の窓際で本を読んでいた。


 いや——正確には、本を読んでいるふりをしていた。

 視線は活字の上を滑っているが、一文字も頭に入ってこない。ページをめくっても、何が書いてあったのか思い出せない。文字は意味を失い、ただの黒い記号の連なりでしかなかった。


 朝陽の意識は、カウンターの向こう側に居る、湊に向いていた。


 彼は今日も、古い本の修繕をしている。背表紙に糊を塗り、丁寧に補強していく。その長い指が、ゆっくりと紙の上を滑る。時折、前髪を指で払いのけて、瞳を細めて作業に没頭する。窓から差し込む午後の光が、その横顔を柔らかく照らしていた。


 朝陽は、その姿から目を離せなかった。


 昨日、灯台で見た湊の姿が、頭から離れなかった。

 レンズを磨く彼の手つき。窓辺に座って海を見つめる表情。祖父の話をする時の、微かに震えた声。そして——『まだここに居てもいいんだって思える』と言った、あの言葉。


 それらの全てが、朝陽の中で渦を巻いていた。消えることなく、むしろ時間が経つほどに鮮明になっていく。まるで、心の奥底に焼き付けられたかのように。


 ——撮りたい。


 名前の付いたその衝動が、朝陽の胸の奥から、沸き上がってきた。


 理屈では説明できない、本能的なものだった。枯渇していたはずの創作意欲が、目の前の湊という存在によって、強制的にこじ開けられる。


 湊という人間を、カメラに収めたい。彼の存在を、フィルムに焼き付けたい。彼の生きている時間を、永遠のものにしたい——。


 朝陽は本を閉じ、立ち上がった。

「なあ、湊」

 声をかけると、湊は顔を上げた。前髪の隙間から覗く瞳が、静かに朝陽を見つめる。


「ん?」

「……カメラ、取り寄せてもいいか」

 朝陽の言葉に、湊は少しだけ目を見開いた。その瞳に、一瞬だけ何かが揺れたように見えた。


「カメラ?」

「ああ。東京の部屋に置いてきてる。送ってもらおうと思うんだけど」


 湊は、少しだけ考え込むような表情をした。視線を本に落とし、それからまた朝陽へと戻す。その間に、彼の中で何かが動いているのが分かった。


 やがて、小さく頷いた。

「……別に、構わないけど」

「ありがとう」


 朝陽はそう言って、スマートフォンを取り出した。電源を入れるのは、汐凪町に来てから初めてだった。


 案の定、画面には大量の通知が表示された。メール、メッセージ、着信履歴——。それらは朝陽を責めるように、次々と画面を埋め尽くしていく。朝陽はそれらを全て無視して、東京の友人に短いメッセージを送った。


『カメラ送ってくれ。住所は後で送る』

 返信を待たずに、朝陽はまた電源を切った。画面が暗くなる。世界との接続が、再び途切れた。


 ◇ ◇ ◇


 三日後、宅配便でカメラが届いた。


 朝陽は段ボール箱を開け、中から愛用のフィルムカメラを取り出した。黒いボディ。重厚な金属の感触。レンズの冷たさ。その重みが、懐かしくて、そして——少しだけ怖かった。


 久しぶりに手にしたカメラは、まるで古い友人のようだった。けれど同時に、それは朝陽の挫折を知っている、無言の証人でもあった。


 朝陽はカメラを首から下げ、ファインダーを覗いてみた。店内の風景が、小さな四角い枠の中に切り取られる。


 本棚。窓。カウンター。そして——。

 湊が、フレームの中に入った。


 朝陽の心臓が、一拍飛んだ。


 ファインダー越しに見る湊は、肉眼で見るのとは全く違って見えた。より輪郭がはっきりとして、より存在感があって——そして、何より美しかった。光と影が彼の顔に複雑な表情を与え、その横顔が一枚の絵画のように完璧に見える。


 朝陽は息を止めて、その姿を見つめた。

 でも、シャッターは切らなかった。まだ、その時ではない気がした。許可を得ていない。それに——この瞬間を撮ることは、何か大切な一線を越えてしまう気がした。


 それから数日間、朝陽はカメラを持ち歩くようになった。

 町を散策する時も、店番を手伝う時も、常に首から下げている。その重みが、胸の上で確かな存在感を主張していた。でも、一枚も撮らなかった。ただ、時折ファインダーを覗いて、風景を切り取るだけ。シャッターを切らずに、ただ見つめるだけ。


 湊は、そんな朝陽の様子を黙って見ていた。特に何も言わない。ただ、カメラに視線を向けることはあった。その瞳には——何が映っていたのだろう。警戒か、好奇心か、それとも——。


 朝陽には、分からなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ある午後、朝陽は店のカウンターで、湊の姿をぼんやりと眺めていた。


 彼は本棚の整理をしていた。背伸びをして、高い位置にある本を取ろうとしている。白いリネンのシャツの裾が少しだけ持ち上がり、腰のラインが見える。その動きが、どこか猫のように優雅で、朝陽は思わず息を呑んだ。


 その瞬間——朝陽の指が、無意識にカメラを掴んでいた。

 ファインダーを覗く。湊の後ろ姿が、フレームの中に収まる。


 完璧だった。

 光の角度、影の落ち方、彼の姿勢——全てが、奇跡的なバランスで調和していた。窓から差し込む午後の光が、湊の髪を照らして、その黒髪が艶やかに輝いている。

 朝陽の指が、シャッターボタンに触れる。


 でも——撮れなかった。

 カメラを下ろし、朝陽は深く息を吐いた。心臓が早鐘を打っていた。手のひらに、汗が滲んでいる。


 何をためらっているんだ、と自分に問いかける。

 答えは、分かっていた。


 朝陽は怖かったのだ。

 湊を撮ることで、何かが変わってしまうことが。今のこの、穏やかで静かな関係性が、壊れてしまうことが。カメラを向けるという行為が、二人の間にあった心地よい距離感を破壊してしまうのではないか——。


 そして——もっと怖いのは、湊に拒絶されることだった。

「撮らないでくれ」と言われたら。「嫌だ」と顔を背けられたら。


 その可能性を考えるだけで、胸が痛んだ。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、朝陽と湊は並んで夕食を食べていた。

 湊が作った、シンプルな親子丼。卵が半熟で、出汁の香りが食欲をそそる。朝陽は箸を動かしながら、何度も口を開きかけては、また閉じた。喉の奥で言葉が絡まって、なかなか形にならない。


「……なあ」

 ようやく、声を絞り出す。湊が顔を上げた。箸を止めて、静かに朝陽を見つめる。


「何だ」

「お前を、撮ってもいいか」

 その言葉を口にした瞬間、朝陽の心臓が激しく脈打った。喉がカラカラに乾いている。


 湊は、箸を止めて、朝陽を見つめた。その瞳には——何の感情も浮かんでいないように見えた。まるで、深い海の底のように、静かで、暗くて、読み取れない。


 沈黙。

 時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。チク、タク、チク、タク——。その音が、朝陽の鼓動と重なって、耳の奥で響いていた。


「……なんで」

 ようやく、湊が口を開いた。その声は、いつもより少しだけ低かった。


「なんで、俺なんだ」

「分からない」

 朝陽は正直に答えた。嘘をつくことはできなかった。

「でも、撮りたいんだ。お前を。お前が生きてる、この場所を。その全部を」


 湊は、じっと朝陽を見つめていた。その視線の意味を、朝陽は読み取れなかった。拒絶なのか、戸惑いなのか、それとも——。


「……やめろよ」

 湊の声は、小さかった。まるで、自分に言い聞かせているかのような。

「俺なんか、撮る価値ないから」

「そんなことない」

「ある」


 湊は目を伏せた。前髪が顔を覆い、表情が見えなくなる。

「俺は、何も特別じゃない。ただ、この町で、古い本を売って、生きてるだけだ。何の取り柄もない、つまらない人間だ」


「それでいいんだよ」

 朝陽は身を乗り出した。テーブルの上で、二人の距離が縮まる。


「俺が撮りたいのは、そういうお前なんだ。特別じゃない、日常を生きてる、月島湊っていう人間を。お前が本を読んでる姿も、珈琲を淹れてる姿も、ただ海を眺めてる姿も——その全部が、俺には撮りたいものなんだ」


 湊は何も答えなかった。ただ、自分の手を見つめていた。その長い指が、わずかに震えている。


 朝陽は、彼が拒絶するかもしれないと覚悟していた。「嫌だ」と言われたら、もう二度とこの話はしないと決めていた。湊の意思を尊重する。それが、彼への——唯一の誠意だと思っていた。


 でも——。

「……好きにしろ」

 湊は、ため息のようにそう言った。諦めたような、でもどこか——受け入れたような響きがあった。


「ただし」

 彼は顔を上げ、朝陽をまっすぐに見つめた。その瞳には、静かな決意のようなものが宿っていた。


「勝手なことするな。撮る前に、一言声かけろ」

「……分かった」

 朝陽は頷いた。胸の奥が、熱くなるのを感じた。喉の奥が詰まって、それ以上言葉が出てこない。


「ありがとう、湊」

「別に」

 湊は顔を背けた。でも、その耳が——ほんの少しだけ、赤くなっていた。朝陽は、それを見逃さなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日から、朝陽は本格的に撮影を始めた。


 最初の一枚は、朝の珈琲を淹れる湊の手元だった。

「……撮るぞ」

「ああ」


 湊の短い返事。その声には、緊張が滲んでいた。朝陽はファインダーを覗き、シャッターを切った。


 カシャッ。

 その音が、静かな店内に響いた。


 フィルムを巻き上げる、機械的な音。それは、何かが始まる合図のようだった。新しい関係性の始まり。朝陽と湊の間に、カメラという媒介が生まれた瞬間だった。


 朝陽は、湊の日常を追いかけた。


 店番をしている横顔。本を読む姿。窓の外を眺める後ろ姿。町の猫に餌をやる瞬間。灯台へ向かう道を歩く背中。

 一枚一枚、丁寧に。焦らずに。まるで、湊という人間の輪郭を、少しずつ確かめていくように。


 朝陽は常に、湊に声をかけてから撮った。そして湊は、毎回「ああ」とだけ答えた。その返事は短いが、拒絶ではなかった。


 最初は強張っていた湊の表情も、少しずつ自然になっていった。カメラを意識しすぎず、でも完全に無視するわけでもない——ちょうどいい距離感が、二人の間に生まれていった。それは言葉にできない、繊細なバランスだった。


 ある日の夕方、朝陽は港で湊を撮っていた。


 夕陽に照らされて、海が金色に輝いている。湊は防波堤に座り、海を眺めていた。風が彼の髪を揺らし、シャツの裾をはためかせている。その姿は、まるで一枚の絵画のようだった。


 朝陽はファインダーを覗きながら、ふと思った。

 湊は、カメラを向けられることを——本当は嫌がっていないのかもしれない。


 拒絶はしない。でも、積極的に受け入れているわけでもない。ただ、許している。朝陽が自分を見ることを、記録することを。


 それは、もしかしたら——。

 誰かに「見つけて」もらいたいという、彼の無意識の願いなのかもしれない。


 この町で、一人で、静かに生きてきた湊。誰にも注目されず、誰にも特別視されず——それを自分で選んだはずの彼が、本当は。本当は、誰かに自分の存在を認めてほしかったのではないか。見つけてほしかったのではないか。


 朝陽は、そんなことを考えながら、シャッターを切った。

 ファインダーの向こうで、湊がゆっくりと振り返った。

 その瞳と、朝陽の視線が——レンズ越しに交わった。

 時間が、止まったように感じられた。


 ◇ ◇ ◇


 撮影を始めて一週間ほど経った頃、朝陽はフィルムを一本撮り終えた。


 全部で三十六枚。その全てが、湊の姿だった。店の中、町の路地、港の防波堤——様々な場所で撮った、湊という人間の断片。


 朝陽は、現像に出すために町の写真店を訪ねた。店主は老人で、朝陽のカメラを見て懐かしそうに笑った。


「フィルムか。今どき珍しいねえ」

「はい。これ、現像お願いできますか」

「もちろん。一週間ほどかかるけど、いいかい?」

「大丈夫です」

 朝陽は頷いて、フィルムを預けた。


 店を出る時、不意に胸の奥がざわついた。

 何だろう、この感覚。期待と、不安と——そして、微かな罪悪感のようなもの。湊を撮ることは、本当に正しかったのだろうか。彼の許可は得た。でも——彼は本当に、心から受け入れてくれたのだろうか。


 朝陽は首を振って、その考えを追い払った。今は、ただ——現像が上がるのを待つだけだ。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、キッチン横のリビングで、二人は思い思いに過ごしていた。


 朝陽は古い小説を読み、湊は何か書き物をしていた。万年筆を走らせる、かすかな音が聞こえる。カリ、カリ、と紙を引っ掻くような音。それは、この静かな部屋に、心地よいリズムを与えていた。


 ふと、朝陽は顔を上げて、湊を見た。

 彼は机に向かって、何かに没頭していた。前髪が目にかかり、表情は読み取れない。でも、その背中には——どこか、孤独な影があった。まるで、世界から切り離されているかのような。


「なあ、湊」

「ん?」

「撮らせてくれて、ありがとな」

 朝陽の言葉に、湊は手を止めた。万年筆が、紙の上で静止する。それから、振り返らずに答えた。


「……別に」

「いや、嬉しいんだ。お前が、俺にそれを許してくれて」

 湊は何も言わなかった。ただ、わずかに肩を震わせた。その震えが、何を意味しているのか——朝陽には分からなかった。


「朝陽」

「ん?」

「……お前は、なんでカメラ撮ってるんだ」

 その問いに、朝陽は少し考えた。なぜだろう。自分でも、完全には理解していない。


「分からない。でも、撮りたいものがある時は、撮らずにいられないんだ。それが何なのか、言葉にはできないけど——ファインダーを覗いてる時だけ、世界が意味を持つような気がする」


「それが、今は俺なのか」

「ああ」

 朝陽は頷いた。

「お前を撮ってると、何て言うか……俺、生きてるって感じがするんだ。東京で失ったものが、少しずつ戻ってきてるような——」


 湊は、ゆっくりと振り返った。その瞳が、じっと朝陽を見つめる。その視線には、何か——言葉にならない感情が揺れていた。


「……変なやつ」

「そうかもな」

 朝陽は笑った。湊も、ほんの少しだけ——本当に小さく、口角を上げた。


 その笑顔が、どれほど貴重なものかを、朝陽は知っていた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、ベッドに入る前、朝陽は窓を開けて海を眺めた。


 遠くで灯台の光が点滅している。規則正しく、海を照らし続けている。一秒、二秒、三秒——その光は、決して消えることなく、暗闇の中で輝き続けている。


 朝陽は、ふと思った。

 自分は今、何かを始めたのだと。


 それが何なのか、まだはっきりとは分からない。でも、確かに——何かが、動き始めている。


 湊を撮ることで、朝陽の中で枯れていた何かが、少しずつ蘇ってきているのを感じていた。


 それは創作意欲だけではなかった。もっと根源的な、生きる力のようなものだった。誰かを見つめること。誰かの存在を記録すること。その行為そのものが、朝陽に——生きている実感を与えてくれていた。


 そして同時に、朝陽の中で別の感情も芽生え始めていた。

 それは、まだ名前のつかない感情だった。湊という人間を、もっと知りたい。もっと見つめていたい。彼の全てを、記録したい——。


 それは、創作者としての欲求なのか。それとも——。


 朝陽は窓を閉め、ベッドに潜り込んだ。

 そして、明日また湊を撮ることを考えながら——静かに、眠りに落ちていった。


 夢の中で、朝陽は——ファインダーを覗いていた。

 その向こうには、いつも湊の姿があった。




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