第6話 灯台と祖父の影
汐凪町での生活が日常となった頃、朝陽は町の外れにある岬へと足を伸ばした。
きっかけは、店の常連客が話していた言葉だった。
「あそこから灯台が見えるよ。晴れた日は綺麗だから、一度行ってみるといい」——その何気ない言葉が、朝陽の中に小さな興味の種を蒔いた。
朝陽は、湊に軽く声をかけて店を出た。
「ちょっと岬まで行ってくる」
「……ああ」
湊は本から顔を上げ、一瞬だけ何か言いかけるような表情を見せた。けれど、結局何も言わずに頷いただけだった。その横顔に、ほんの一瞬だけ何かが翳ったような気がしたが——朝陽は、それが何なのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
町の中心から岬までは、徒歩で三十分ほどだった。
舗装されていない細い道を、朝陽は一人で歩いた。両側には背の高い草が生い茂り、風に揺れてざわざわと音を立てている。その音は、まるで誰かの囁き声のようだった。時折、遠くから海鳥の鳴き声が聞こえてくる。それ以外、世界は静かだった。
道は少しずつ高度を上げていく。足元の土がやがて岩に変わり、草の匂いが潮の香りに変わっていく。朝陽の呼吸が、少しだけ荒くなった。汗が額に滲む。けれど、不思議と心地よかった。体を動かすこと、目的地に向かって歩くこと——そんな単純なことが、久しぶりに心を満たしてくれる。
やがて、視界が開けた。
そこに——灯台があった。
朝陽は、思わず足を止めた。
切り立った岬の先端、青い空を背景にして、白い灯台が凛と立っていた。円筒形の塔は、長い年月を経て少し色褪せている。表面には、潮風に削られた無数の傷跡があった。それでもなお、この場所を守るかのように、毅然とした佇まいでそこに在った。
孤独で、気高くて、そしてどこか——寂しげだった。
朝陽の胸の奥が、不意に締め付けられた。
なぜだろう。この灯台を見ていると、胸が苦しくなる。それは、懐かしさなのか、切なさなのか、それとも——自分自身の姿を見ているような、奇妙な共鳴なのか。
朝陽は、自分でも名前のつけられない感情を抱えたまま、灯台へと近づいていった。
灯台の入り口は、古びた鉄の扉だった。
朝陽はそっと手をかけてみた。冷たい金属の感触。錆がざらざらと手のひらに触れる。けれど、当然のように鍵がかかっていた。押しても引いても、びくともしない。
「そりゃそうか」
朝陽は苦笑して、扉から手を離した。中を見てみたかったが、仕方ない。外から眺めるだけでも十分だろう。
彼は灯台の周りをゆっくりと歩き始めた。
岬の先端からは、果てしなく広がる海が見渡せる。水平線が、空と海の境界線を静かに引いていた。その線は、まるで世界の果てのようにも見えた。
風が強い。
潮の香りと、草の匂いが混じり合った空気が、朝陽の髪を激しく揺らした。シャツが体に張りつき、肌が塩気を含んだ風に冷やされる。
ふと、灯台の頂上部にある窓に目をやると——光が灯っているのに気づいた。
朝陽は目を凝らした。
確かに、窓の向こうに何かが動いている。人影だ。誰かが、中にいる。
もしかして、管理人だろうか。それとも——。
その時、鉄扉がゆっくりと開いた。
朝陽は反射的に身を引いたが、そこに現れたのは——見慣れた、黒髪の人物だった。
「……湊?」
月島湊は、扉の前に立って、朝陽をじっと見つめていた。白いリネンのシャツに、黒いパンツ。手には、古い布が握られている。その姿は、どこか——現実離れして見えた。
「やっぱり来たか」
湊の声には、驚きよりも、諦めのような響きがあった。
「……なんでお前がここに」
朝陽は戸惑いながらも、そう返した。湊は小さく息を吐いた。前髪の隙間から覗く瞳が、揺れている。
「……入るか?」
「いいの?」
「もう見られたし」
湊はそう言って、扉を大きく開けた。朝陽は一瞬ためらったが——湊の背中に何かを感じて、彼に続いて中へと入った。
◇ ◇ ◇
灯台の内部は、ひんやりとしていた。
外の暑さが嘘のように、冷たい空気が肌を包む。それは、石造りの壁が蓄えた、長い年月の冷気だった。
円形の狭い空間。壁は古い石で組まれ、表面には苔が生えている。足音がこだまして、何度も何度も反響した。中央には、螺旋階段が上へと伸びていた。鉄製の手すりは錆びて、ところどころ剥がれている。触れれば、きっと錆が手に付くだろう。
「気をつけろよ。階段、古いから」
湊はそう言って、先に階段を上り始めた。その背中は、どこか——重いものを背負っているように見えた。朝陽は黙って、その後ろをついていく。
一段、また一段。
螺旋階段は延々と続き、窓から差し込む光が、規則的に二人を照らしては影に沈めた。湊の足音と、朝陽の足音だけが、静かに響いていた。カツン、カツン、カツン——その音が、時計の秒針のように規則正しい。
朝陽は、上を見上げた。
階段は、まるで天へと続いているかのように、どこまでも続いているように見えた。湊の姿が、光と影の中で揺れている。
やがて、頂上に辿り着く。
そこには、巨大なフレネルレンズが据えられていた。
朝陽は、息を飲んだ。
レンズは、無数のガラスの破片が組み合わされたような、複雑で美しい構造をしていた。陽光を受けて、それはまるで宝石のようにきらきらと輝いていた。虹色の光が、壁や床に散らばって、部屋全体を幻想的な空間に変えている。
——美しい。
朝陽は、その言葉しか思いつかなかった。
そして、そのレンズの前に——湊が立った。
彼は手にした布で、レンズの表面を丁寧に、ゆっくりと磨き始めた。円を描くように、優しく、けれど確かな力を込めて。その所作は、まるで何かの儀式のようだった。祈りのようだった。愛おしいものに触れる者の、静かな献身だった。
朝陽は、その光景に言葉を失った。
湊の横顔は、今まで見たどの表情とも違っていた。それは、何かを守る者の顔だった。孤独で、神聖で、そして——ひどく、切なかった。長い前髪が風に揺れ、その下の瞳が、レンズの光を映して輝いている。
朝陽は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
名前の無い衝動が、雷のように朝陽の中を貫いた。
この光景を、この瞬間を、この人の横顔を——残したい。
けれど、朝陽は動かなかった。
朝陽は、ただ黙って——その光景を、瞼の裏に焼き付けた。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が経ったのだろう。
湊はレンズを磨き終えると、布を丁寧に畳んで、窓辺に腰を下ろした。朝陽も、その少し離れた場所に座る。二人の間に、沈黙が流れた。それは気まずい沈黙ではなく——ただ、言葉を必要としない時間だった。
窓の外では、海が静かに凪いでいる。風は穏やかで、波の音さえ聞こえない。世界が、息を止めているようだった。
「……この灯台、今は使われてないんだろ?」
ようやく、朝陽が口を開いた。湊は小さく頷く。
「ああ。もう十年以上前に自動化された。人は要らなくなった」
その言葉の響きに、何か——諦めのようなものが混じっていた。
「でも、お前はここに来てる」
「……週に一度だけだ」
湊は窓の外を眺めながら、静かに言った。その視線は、遠くを見ているようで、同時に——何も見ていないようだった。
「じいさんとの約束だ。じいさんが、この町の最後の灯台守だった」
湊の声は、いつもより少しだけ低かった。朝陽は黙って、その言葉を待った。何も急かさず、ただ——湊が語りたいと思うまで、待った。
「じいさんは……この灯台を、誰よりも愛してた」
湊の指が、窓枠をゆっくりとなぞる。その動きは、まるで遠い記憶に触れているかのようだった。
「毎日レンズを磨いて、機械を点検して、嵐の夜も、雪の日も、ここを守り続けた。灯台は生き物だから、愛情を注がないと死んでしまうって——いつもそう言ってた」
朝陽は、湊の横顔を見つめた。
その表情は、穏やかで、でもどこか——痛みを含んでいた。まるで、大切な何かを失った人間の顔。
「灯台が自動化されると決まった時、じいさんは何も言わなかった。文句も言わず、悲しみも見せず、ただ黙って——最後の日まで、いつも通りレンズを磨いてた」
「……そうか」
「そして、亡くなる前に、俺に言ったんだ」
湊の声が、微かに震えた。
「『湊、この灯台を頼む。人が要らなくなっても、誰かが手入れをしてやらないと、灯台は寂しがる』って」
朝陽は、息を止めた。
その言葉の重さが、胸に沈んでいく。
「馬鹿みたいだろ。灯台が寂しがるなんて」
湊は、自嘲するように笑った。けれど、その笑顔は——どこか悲しそうだった。
「……いや、」
朝陽は首を横に振った。
「そんなことない」
湊は、少しだけ驚いたように朝陽を見た。前髪の隙間から覗く瞳が、揺れている。朝陽は、湊の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「灯台は、きっと寂しがってた」
朝陽の声は、静かだった。けれど、確信に満ちていた。
「誰にも手入れされなくなって、誰にも必要とされなくなって——。でも、お前が来てくれたから、また生き続けられてる。お前が、この灯台を守ってるんだ」
「……朝陽」
「お前の祖父は、正しかったと思うよ。そして——お前も、正しい」
朝陽の言葉に、湊は何も答えなかった。ただ、ゆっくりと窓の外へと視線を戻した。
でも——その横顔は、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。肩の力が抜け、呼吸が深くなっている。まるで、長い間張り詰めていた何かが、ほどけたかのように。
それから、二人はしばらく無言で海を眺めていた。
風が、窓から吹き込んでくる。レンズが、時折光を反射してきらめく。遠くで、カモメが鳴いている。その声は、まるで歌のようだった。
「……なあ、湊」
「ん?」
「お前は、どうしてこの町に戻ってきたんだ?」
朝陽の問いに、湊は少しだけ考え込むような表情をした。その瞳が、遠くを見つめる。
「……じいさんが倒れたからだ。店を継ぐ人間が必要だった」
「それだけ?」
「それだけ」
湊は即答した。けれど、その声には——どこか、諦めのような響きがあった。まるで、本当の理由を隠しているかのような。
朝陽は、それ以上聞くべきではないと感じた。
湊には、まだ語れない何かがある。それは、彼の心の奥深くに沈んでいて、簡単には引き上げられないもの。朝陽がそこに踏み込む権利は——まだ、ない。
代わりに、朝陽は立ち上がって、レンズに近づいた。
「……すげえな、これ」
「フレネルレンズ。光を集めて、遠くまで届けるための仕組みだ」
「遠くまで、か」
朝陽は、レンズの表面にそっと手を伸ばした。ひんやりとしたガラスの感触。無数の面が、それぞれ違う角度で光を屈折させている。その複雑さが、そして——美しさが、朝陽の指先から伝わってくる。
「昔の船乗りたちは、この光を頼りに港へ帰ってきたんだな」
「ああ」
「この光が、道標だった」
朝陽は、ふとレンズの向こう側にいる湊を見た。無数のガラスの破片を通して、彼の姿が歪んで見える。輪郭がぼやけ、色が滲み、まるで蜃気楼のようだった。でも、その瞳だけは——はっきりと、朝陽を見つめていた。
「……なあ、湊」
「何だ」
「お前にとって、この灯台は何なんだ?」
湊は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、長く、重かった。朝陽は待った。答えを急かさず、ただ——湊が言葉を見つけるまで、待った。
やがて、湊はゆっくりと立ち上がり、レンズに手を添えた。朝陽のすぐ隣に立って、同じようにガラスの表面に触れる。その距離が、今までになく近かった。
「……分からない」
湊の声は、かすれていた。
「でも、ここに来ると——自分が、まだここに居てもいいんだって思える」
「ここに?」
「この世界に」
その言葉の意味を、朝陽は完全には理解できなかった。
でも、何となく——分かる気がした。
湊にとって、この灯台は単なる建造物ではないのだ。それは、彼が自分の存在を確かめるための場所。自分がまだ、この世界に繋がっていることを感じられる、唯一の場所。
それは、朝陽が今、この汐凪町で感じていることと——どこか似ていた。
朝陽は、何も言わなかった。
ただ、湊の隣に立ち、レンズに手を添えたまま、一緒に海を見つめていた。二人の手が、レンズの上で、わずかに触れ合っている。その温もりが、ガラスを通して伝わってくる。
時間が、止まったように感じられた。
風の音も、波の音も、カモメの鳴き声も——全てが遠くなって、世界にはただ、二人だけがいるようだった。
◇ ◇ ◇
帰り道、二人は並んで岬を下った。
陽は少しずつ傾き始め、空が茜色に染まっていく。風は穏やかで、草が優しく揺れていた。その音は、もう囁き声のようには聞こえなかった。ただの、風の音だった。
「……今日のこと、誰にも言うなよ」
ふと、湊が呟いた。その声は、いつもより少しだけ小さかった。朝陽は彼を見る。
「言わないよ」
「助かる」
「でも、なんで?」
「……恥ずかしいから」
湊の言葉に、朝陽は思わず笑った。
「何がだよ」
「灯台を磨いてる姿とか。じいさんとの約束とか。全部」
「恥ずかしいことなんて、何もないだろ」
朝陽は真面目な顔で言った。
「むしろ、格好いいと思うけどな。俺には、ああやって誰かとの約束を守り続けるなんて——できないから」
湊は、驚いたように朝陽を見た。
それから——小さく笑った。本当に小さく、でも確かに——笑った。それは、朝陽が初めて見る、湊の本当の笑顔だった。
「……お前、変わってるな」
「そうかな」
「ああ」
湊はそう言って、また前を向いた。でも、その横顔は——朝陽が初めて見る、穏やかな表情をしていた。まるで、何か重いものを少しだけ、降ろせたかのような。
◇ ◇ ◇
その夜、店に戻って食事をした後、湊はいつものように珈琲を淹れてくれた。
二人は、カウンターでそれを飲んだ。少し苦くて、でも温かい。体の芯から、ゆっくりと力が抜けていく。その味が、今日という一日を、静かに締めくくってくれる。
「……ありがとな、今日は」
「別に」
湊は素っ気なく答えたが、その声には棘がなかった。むしろ——どこか、柔らかさがあった。
朝陽は、カップを両手で包み込みながら思った。
自分は今日、湊という人間の、もう一つの顔を見たのだと。
灯台でレンズを磨く彼の横顔。祖父との思い出を語る、少しだけ震えた声。そして——「まだここに居てもいいんだって思える」と言った、その言葉。
湊は、この町で何かを背負って生きている。
それが何なのか、朝陽にはまだ分からない。でも、確かなことが一つだけあった。
——もっと知りたい。
朝陽の中に、その感情が静かに芽生え始めていた。
月島湊という人間を、もっと——。
彼が何を考え、何に傷つき、何を守ろうとしているのか。その全てを、知りたかった。
その夜、ベッドに入る前、朝陽は窓から灯台の方角を見た。
暗闇の中、遠くに小さな光が点滅しているのが見えた。自動化された灯台の光。それは規則正しく、海を照らし続けている。一秒、二秒、三秒——そのリズムは、心臓の鼓動のようだった。
朝陽は、ふと思った。
あの光は、今も誰かの道標になっているのだろうか。嵐の夜、迷った船を、港へと導いているのだろうか。
そして——湊自身は、自分の道標を持っているのだろうか。
朝陽は、その答えを知らなかった。
でも、胸の奥で何かが——静かに、動き始めていた。
それは、まだ形にならない衝動。名前のつかない予感。創作への、渇望。
朝陽は窓を閉め、ベッドに潜り込んだ。
そして、灯台の光を思い浮かべながら——ゆっくりと、眠りに落ちていった。
夢の中で、朝陽は——カメラを手にしていた。




