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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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第5話 無為な日々のリハビリ

 

 目を覚ます時、朝陽はいつも一瞬だけ、ここがどこなのか分からなくなる。


 天井の木目。カーテン越しに差し込む白い光。遠くから聞こえる、海鳥の声。それから、階下から漂ってくる——珈琲の香り。


 ああ、そうだ。

 ここは汐凪町で、この部屋は湊の店の二階で、今も彼はきっと、階下で黙々と豆を挽いているんだ。


 その認識が体の中に染み込んでくるまでの、ほんの数秒間。朝陽はベッドの中で静かに目を閉じ、自分の呼吸が穏やかであることを確かめる。悪夢は見なかった。東京のことも、プロジェクトのことも、壊れた自分のことも——少なくとも眠っている間は忘れていた。


 それだけで、朝陽は少しだけ救われた気持ちになった。


 ゆっくりと起き上がり、窓を開ける。

 潮の香りが部屋に流れ込んできた。それは濃く、生々しく、そして——懐かしい匂い。港の方から、漁船のエンジン音がかすかに聞こえる。朝陽は窓辺に腰掛け、そこから見える海を眺めた。


 今日も、凪いでいる。

 水面は鏡のように穏やかで、朝の光を柔らかく反射している。風もない。波もない。ただ、静かに呼吸をするように、海は在る。まるで、世界が深く息を吸って、吐くのを忘れているかのような——完全な静寂。


 朝陽は、この町に来てから何日経ったのか、正確には分からなくなっていた。


 三日か、四日か。あるいはもっと長いような気もする。時間の感覚が、都会にいた頃とは全く違う速度で流れていた。一日が長く感じられるのに、同時に一瞬のようにも思えた。朝が来て、昼が来て、夜が来る——ただそれだけのことが、こんなにも豊かな時間だったなんて。


 スマートフォンの電源は、まだ入れていない。

 バッグの底に押し込んだまま、見ないふりをしている。あの小さな画面の向こうに待っているものと向き合うには、朝陽はまだ準備ができていなかった。


 ◇ ◇ ◇


「……起きたか」

 階段を降りると、カウンターの奥から湊の声がした。


 彼は白いリネンのシャツに黒いエプロンを着けて、ドリッパーを手にこちらを見ている。その姿が、窓から差し込む朝の光の中で、ぼんやりと浮かび上がっていた。逆光に包まれた湊の輪郭が、どこか非現実的なほど美しく見える。


「ああ。おはよう」

「おはよう」

 短い挨拶。湊は小さく頷いて、もう一つのカップにドリッパーを載せ始めた。


 細く、注がれる湯。それが豆の表面に触れた瞬間、ふわりと膨らんでいく。珈琲の香りが、一段と濃く空間を満たした。それは苦く、深く、そして——どこか、温かい匂いだった。


 朝陽はカウンターの前の椅子に腰掛け、その所作をぼんやりと眺めた。


 湊の長い指が、ゆっくりと円を描くようにドリップポットを傾ける。その動きには一切の無駄がなく、まるで茶道の作法を見ているような厳かさがあった。お湯が細い糸のように落ち、豆全体に均等に行き渡っていく。蒸らす時間を正確に測り、二度目のお湯を注ぐ。


 その一連の流れが、あまりにも美しくて、朝陽は言葉を失ってしまった。

「……上手いな」


 思わず呟くと、湊は顔を上げずに答えた。

「じいさんに教わった」

「そうなんだ」

「珈琲だけは、こだわれって言われた。本を読むための儀式だって」


 湊の口調は相変わらずぶっきらぼうだったが、祖父の話をする時の声には——微かに、柔らかさが混じっていた。まるで、遠い記憶の中の温もりに触れているかのような。朝陽は黙ってそれを聞いていた。それ以上、何も聞かない方がいい気がした。


 やがて、カップに注がれた珈琲が朝陽の前に置かれた。

 白い陶器のカップ。立ち上る湯気。少し苦い香り。


 朝陽はカップを両手で包み込むようにして持ち上げ、一口飲んだ。苦味の奥に、ほんの少しだけ酸味がある。それから、焙煎された豆の深いコクが舌の上に広がり、喉を通り、胃に落ちていく。体の芯から、少しずつ温まっていくような感覚。


「……美味い」

「そうか」

 湊は短く答えると、自分のカップを持って店の奥へと歩いていった。朝陽はその背中を見送り、それからもう一度珈琲を口に運ぶ。


 温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく。

 朝陽は目を閉じて、そのぬくもりを味わった。この味が、この香りが、この静かな朝の空気が——全てが、朝陽の汐凪町での朝の日課になっていた。東京では決して味わえなかった、ささやかな、けれど確かな幸福だった。


 ◇ ◇ ◇


 朝食は、湊が焼いてくれたトーストと、昨夜の残りのスープだった。

「悪いな、毎日手間かけさせて」

「別に。どうせ俺も食うし」


 湊は素っ気なく答えたが、朝陽の分の目玉焼きには、ちゃんと塩胡椒が振られていた。黄身の表面に、細かな黒い粒が散っている。朝陽は小さく笑って、「ありがとな」と付け加えた。湊は何も言わず、ただ自分のトーストにバターを塗っていた。けれど——その耳が、ほんの少しだけ赤くなっていた気がした。


 二人とも、特に話すこともなく、ただ黙々と食べる。

 窓の外では、三毛猫が日向ぼっこをしていた。丸くなって、気持ち良さそうに目を細めている。時折、通りを誰かが通り過ぎる足音が聞こえる。古い柱時計が、規則正しく時を刻んでいた。チク、タク、チク、タク——その音さえも、心地よいリズムに聞こえた。


 不思議と、この沈黙は気まずくなかった。

 朝陽が今まで生きてきた世界では、沈黙は常に何かを意味していた。


 気まずさ、拒絶、無関心——。だから人は沈黙を埋めようとして、意味のない言葉を吐き出し続ける。天気の話、ニュースの話、誰かの噂話。本当は何も言いたくないのに、ただ沈黙が怖くて、言葉を並べ立てる。朝陽自身も、そうやって生きてきた。


 でも、この店の中では、沈黙はただの沈黙だった。

 それは拒絶でも無関心でもなく、ただ「言葉を必要としない時間」というだけのことだった。湊は朝陽に何も聞かない。なぜここに来たのか、何から逃げてきたのか、これからどうするつもりなのか——。


 彼はただ、朝陽がそこに居ることを、静かに受け入れていた。

 その在り方が、朝陽には救いだった。


 食後、朝陽は湊に店番を手伝わせてほしいと申し出た。

「……別にいいけど」

 湊は少し戸惑ったような顔をしたが、結局頷いた。前髪の隙間から覗く瞳が、一瞬だけ揺れたように見えた。


「じゃあ、掃除。床と、棚の埃を払っておいてくれ」

「了解」

 朝陽は箒を手に取り、店内を掃き始めた。


 古い木の床。背の高い本棚。窓際に並べられた観葉植物。

 全てが、時間をかけて丁寧に手入れされていることが分かった。床の木目は磨かれて艶があり、本棚の隅々まで埃一つない。観葉植物の葉は、一枚一枚が拭かれて、健康的な緑色をしている。


 湊がこの店を、どれほど大切にしているか——それが、店の隅々から伝わってきた。


 湊は、カウンターで古い本の修繕をしていた。

 傷んだ背表紙に糊を塗り、丁寧に補強していく。その指先の動きは、珈琲を淹れる時と同じように美しかった。長い指が、愛おしむように古い装丁を撫でている。ページの端を確かめ、破れた箇所に薄い和紙を当て、慎重に貼り付けていく。


 朝陽は掃除をしながら、時折そんな湊の姿を盗み見た。

 彼の横顔は、いつも少しだけ憂いを帯びていた。


 長い前髪が目にかかり、表情が読み取りにくい。でも、本に触れている時だけは、その瞳の奥に微かな光が宿っているように見えた。それは、情熱とも、愛情とも言えない——ただ、何かを守ろうとする者の、静かな決意のような光。


「……なんだよ」

 ふと、湊が顔を上げた。朝陽と目が合う。

「いや、何でもない」

「見てただろ」

「見てねえよ」

「嘘つけ」


 湊は呆れたように溜息をついたが、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。朝陽は「悪い悪い」と笑って、また掃除に戻った。けれど——胸の奥は、少しだけ温かくなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 店には、時折客が訪れた。


 町の老人が新聞を片手にやってきて、湊と世間話をしていく。

「今朝の海は穏やかだったな」

「そうですね」

「台風の季節が来る前に、防波堤の補修をしてほしいもんだ」

「町役場に言ってください」

 ——そんな、何気ない会話。


 学校帰りの中校生が、参考書を探しにくる。

「英語の問題集、ありますか」

「こっちだ」

 湊が案内した棚から、少女は目当ての本を見つけて、嬉しそうに微笑んだ。


 散歩中の主婦が、絵本を買っていく。

「孫にプレゼントするんです」

「喜ぶといいですね」

 湊は丁寧に包装し、リボンまでつけて渡していた。


 湊は、誰に対しても同じように丁寧だった。

 必要以上に愛想を振りまくこともなく、かといって冷たくもない。ただ静かに、相手の話を聞き、必要な本を差し出す。


 その姿は、まるで——この町の図書館の司書のようだった。


 その姿を見ていると、朝陽は何となく分かった気がした。

 この店は、湊にとって単なる商売の場所ではないのだ。それは彼の聖域で、同時に——この町の人々の、小さな拠り所なのだと。本を通して、人と人が緩やかに繋がる場所。言葉を交わさなくても、ただそこに居るだけで、心が落ち着く場所。


 朝陽もまた、この店に救われている一人だった。


 ◇ ◇ ◇


 ある日の昼過ぎ、客の波が途切れた頃、朝陽は店を出て町を散策することにした。

「ちょっと歩いてくる」

「ああ。迷うなよ」

「迷わねえよ、こんな小さい町で」

「迷うやつは迷う」


 湊の言葉に朝陽は苦笑して、店を後にした。カラン、と鈴が鳴る。その音が、背中を見送ってくれているようだった。


 汐凪町は、本当に小さな町だった。

 メインストリートと呼べるような道は一本だけで、そこから枝分かれした細い路地が、海へと続いている。古い木造家屋が軒を連ね、錆びた看板が風に揺れていた。ペンキの剥げた壁。色褪せた暖簾。ひび割れた舗装道路——その全てが、時間の経過を物語っている。


 でも、それは荒廃ではなかった。ただ、静かに、ゆっくりと年を重ねているだけ。


 朝陽は目的もなく歩いた。


 商店街には、八百屋と魚屋と、小さな食堂があった。

 八百屋の店先には、新鮮な野菜が並んでいる。

 魚屋からは、潮の香りと魚の匂いが漂ってくる。

 食堂の看板には、「本日のおすすめ 煮魚定食」と手書きで書かれていた。


 郵便局の前では、老人たちが将棋を指していた。

「王手」

「参ったな」

 という声が聞こえる。


 公園には、子供たちの声が響いていた。

 ブランコを漕ぐ音。笑い声。誰かが泣いている声。


 全てが、ゆっくりと時間が流れていた。


 東京にいた頃、朝陽はいつも時間に追われていた。

 締め切り、打ち合わせ、プレゼン——。一分一秒を無駄にしないように、常に何かをしていなければならなかった。立ち止まることは、遅れることで、遅れることは、敗北を意味していた。スケジュール帳は真っ黒で、休む暇さえなかった。


 でもこの町には、そんな焦燥がなかった。

 人々は立ち話をし、猫は道の真ん中で昼寝をし、風はただゆっくりと吹いていた。誰も急いでいない。誰も競っていない。ただ、それぞれのペースで、それぞれの人生を生きている。


 その光景が、朝陽には——とても眩しかった。


 朝陽は防波堤に腰掛け、海を眺めた。

 波の音。カモメの鳴き声。潮の香り。


 何もしないで、ただここに座っている。それだけのことが、こんなにも心地よかった。風が頬を撫でていく。髪が揺れる。シャツの裾がはためく。全てが優しく、穏やかで、何も求めてこない。


 ふと、スマートフォンの存在を思い出した。

 電源を切ったまま、バッグの底に放り込んである。きっと、今頃は着信が何十件も溜まっているだろう。クライアントからの催促、同僚からの心配、友人からの問いかけ——。


 でも、今はまだ、その全てに向き合う気力がなかった。

 朝陽は目を閉じ、海風を顔に受けた。冷たくなく、温かくなく、ただ——心地よい風。


 ——もう少しだけ。

 もう少しだけ、このままでいさせてくれ。

 誰に向けたわけでもない、その祈りのような言葉が、心の中で静かに響いた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、店に戻ると、湊がカウンターで本を読んでいた。

「ただいま」


 自然と、そんな言葉が口をついて出た。湊は顔を上げ、少しだけ驚いたような表情をしたが——すぐに「ああ」と頷いた。その瞳が、ほんの一瞬だけ、柔らかくなったように見えた。


「散歩、どうだった」

「良かったよ。この町、意外と面白い」

「面白いか?」

「ああ。なんか、時間が違う速度で流れてる感じがする」


 朝陽の言葉に、湊は少しだけ考え込むような顔をした。それから、ぽつりと呟いた。

「……そうかもな」


 その声には、何か——遠い記憶に触れているような、懐かしさが混じっていた。


「お前は、ずっとここに?」

「大学出てから。じいさんが倒れて、店を継いだ」

「そっか」


 朝陽は、それ以上は聞かなかった。湊の表情が、ほんの少しだけ翳ったような気がしたから。目を伏せ、手元の本のページを見つめている。その横顔は、どこか寂しげに見えた。


 代わりに、朝陽はカウンターの横に並べられた本棚に目をやった。

「なあ、何か面白い本ある?」

「面白いって、どういう?」

「分かんない。何でもいい。お前が好きなやつ」


 湊は少し迷うような顔をしてから、立ち上がって本棚の前に立った。長い指が背表紙をなぞり、一冊の文庫本を引き抜く。その動作は、まるで古い友人に挨拶するかのように、優しかった。


「これ」

 差し出されたのは、古い推理小説だった。表紙は色褪せ、ページの端は少し黄ばんでいる。でも、大切に読まれてきたことが分かる佇まいをしていた。


「面白いのか?」

「……俺は好き」


 湊の声は、いつもより少しだけ小さかった。それは、何か大切なものを他人に見せることへの——微かな照れのようなものだった。朝陽はその本を受け取り、ぱらぱらとページをめくった。活字が、びっしりと詰まっている。紙の匂いが、鼻をくすぐる。


「読んでみる」

「そうか」

 湊は小さく頷いて、また自分の席に戻った。朝陽は窓際の椅子に腰掛け、本を開いた。


 それから数時間、二人はただ黙って、それぞれの本を読んでいた。


 時折ページをめくる音だけが、静かな店内に響く。窓の外では、夕陽が海を赤く染めていた。オレンジ色の光が、水面をキラキラと照らしている。柱時計の音が、規則正しく時を刻んでいた。チク、タク、チク、タク——。


 朝陽は、ふと顔を上げて湊を見た。

 彼は本に視線を落としたまま、微動だにしない。長い睫毛が影を作り、その横顔は彫刻のように静かだった。でも、その瞳は確かに動いていて、ページを追っていて——彼はちゃんと、そこに生きていた。呼吸をし、瞬きをし、時折唇を動かして、何かを呟いている。


 朝陽は、なぜか胸の奥が締め付けられるのを感じた。

 この時間が、この静けさが、こいつの存在が——たまらなく、愛おしかった。


 ◇ ◇ ◇


 夜、二人は並んで湊の私室で食事をした。

 湊が作った簡単なパスタと、サラダ。それから、昼間買ってきたという惣菜パン。


「料理、上手いよな」

「一人暮らし長いし」

「俺、全然ダメだわ。いつもコンビニとか外食とか」

「だろうな」


 湊の言葉に、朝陽は「ひでえな」と笑った。湊も、ほんの少しだけ口角を上げた。それは微笑みと呼ぶにはあまりに控えめだったが——確かに、笑っていた。


 食後、朝陽はソファに寝転がり、昼間の続きを読んだ。

 湊は机で、何か書き物をしていた。万年筆を走らせる、かすかな音が聞こえる。カリ、カリ、と紙を引っ掻くような音。それは、この静かな部屋に、心地よいリズムを与えていた。


 朝陽は本から顔を上げ、その背中を眺めた。

 湊は、何を書いているんだろう。

 日記だろうか。それとも——。

 朝陽は、そこまで考えて、首を振った。


 聞くべきじゃない。それは、きっと彼の領域だ。誰にも踏み込ませない、心の奥の場所。朝陽がそこに触れることは——許されていない気がした。


 代わりに朝陽は、また本に視線を戻した。物語の中の探偵が、事件の真相に迫っている。朝陽は、その行く末を静かに追いかけた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、ベッドに入る前、朝陽は窓を開けて海を眺めた。

 月明かりに照らされた水面が、銀色に光っている。波の音が、遠くから聞こえてくる。それは、昼間よりも少しだけ大きく、リズミカルに響いていた。寄せては返す、永遠に続く音。


 朝陽は、ふと思った。

 ——このままでいいのだろうか、と。


 東京に戻らなくていいのか。仕事は、人間関係は、自分の人生は——全部放り出して、こんな町で無為な日々を過ごしていて、本当にいいのか。


 でも、その問いに対する答えは、まだ見つからなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。

 ここにいると、心が静かになる。


 湊の淹れる珈琲の香りで目を覚まし、意味のない散歩をして、本を読んで、夜は海の音を聞きながら眠る——そんな日々が、今の朝陽には、何よりも必要な気がしていた。


 それは、リハビリのような時間だった。

 壊れた心を、少しずつ修復していくための、静かな時間。


 朝陽は窓を閉め、ベッドに潜り込んだ。

 暗闇の中、遠くから聞こえる波の音を子守唄にして、彼はゆっくりと目を閉じた。シーツから、太陽の匂いがする。洗い立ての、清潔な匂い。それが、優しく朝陽を包み込む。


 そして今夜も、悪夢を見ることなく、深い眠りに落ちていった。


 ◇ ◇ ◇


 そんな日々が、繰り返された。


 朝は珈琲の香りで目覚め、店の手伝いをして、昼は町を散策し、夕方は本を読み、夜は湊と他愛のない会話をして眠る。


 何も起こらない。何も変わらない。


 でも、確かに何かが——朝陽の中で、少しずつ癒されていくのを感じていた。


 ささくれ立っていた心の表面が、波に洗われるように滑らかになっていく。張り詰めていた神経が、ゆっくりとほどけていく。胸の奥に詰まっていた重いものが、少しずつ溶けて、流れ出していく。


 それは、痛みを伴わない、静かな再生だった。


 湊は何も言わない。何も聞かない。

 ただ、朝陽がそこに居ることを、当たり前のように受け入れてくれる。朝になれば珈琲を淹れ、食事を作り、夜になれば「おやすみ」と声をかけてくれる。その存在が、朝陽にとって——言葉にできないほど、ありがたかった。


 ある朝、朝陽が目を覚ますと、いつものように珈琲の香りが漂ってきた。


 彼は窓を開け、海を眺めた。

 今日も、凪いでいる。


 朝陽は深く息を吸い込んだ。潮の香りが肺に満ちる。それは、生きていることを実感させてくれる、確かな匂いだった。


 ——もう少しだけ、ここに居てもいいかもしれない。

 その思いと同時に、朝陽の中で、何かが静かに動き始めていた。


 それは、まだ名前のつかない、小さな予感だった。まるで、長い冬の後に、土の中で種が芽吹こうとしているような——そんな、微かな兆し。


 階下から、湊の声が聞こえた。

「朝陽、起きてんだろ。珈琲冷めるぞ」

 朝陽は、小さく笑った。


「今行く」

 そう答えて、部屋を出た。

 なんでもない、新しい一日が始まろうとしていた。




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