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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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第4話 灯台のある港

 

 朝陽が目を覚ましたのは、昼を過ぎた頃だった。


 部屋の中は静かで、まるで時間が止まっているようだった。窓の外から、遠くで波が囁くような音が聞こえる。どこかで、カモメが一声鳴いた。それ以外、世界は深い沈黙に包まれていた。


 朝陽は、ゆっくりと体を起こした。

 首筋が鈍く痛む。ソファで寝たせいだろう。けれど不思議なことに、体には昨日までの重さがなかった。頭の中の霧が晴れ、視界も澄んでいる。


 どれくらい眠っていたのだろう。

 窓の外を見ると、太陽がすでに中天近くに昇っていた。白い光が部屋の中に満ちて、古い家具を柔らかく照らしていた。


 湊の姿はなかった。

 テーブルの上に、一枚のメモが置かれている。そこには、簡潔な文字が並んでいた。


『店番してる。腹減ったら、冷蔵庫に食い物がある』

 それだけだった。余計な言葉が一切ない、要点だけの文。けれどその短い文章の中に、湊の不器用な気遣いが現れていた。


 朝陽は、そのメモを見つめながら、小さく息を吐いた。胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 立ち上がり、窓辺へと向かう。

 そこから見える港の風景。係留された漁船が、穏やかに揺れている。防波堤の向こうには、どこまでも続く海。青い空には、綿のような雲が浮かんでいた。


 ——湊は、毎日この景色を見ているのか。

 朝も、昼も、夜も。春も、夏も、秋も、冬も。


 その事実が、なぜか胸に染みた。この静かな風景を、独りで見続けている湊の日常を思うと、何か名前のつけられない感情が、喉の奥で絡み合った。


 ◇ ◇ ◇


 店の方から、物音が聞こえた。

 朝陽は部屋を出た。狭い廊下を抜け店に出ると、湊がカウンターの向こうにいた。


 本の整理をしているようだった。古い本を丁寧に拭き、表紙の埃を払い、ページの状態を確かめてから、書棚の元の位置へと戻していく。その動きには無駄がなく、まるで長年の習慣が体に染みついているような動きだった。


「……起きたのか」

 朝陽の足音に気づいて、湊が顔を上げた。前髪の隙間から覗く瞳が、一瞬だけ揺れたように見えた。


「ああ……悪い、長く寝ちまった」

「別に。好きなだけ寝ればいい」


 相変わらずのぶっきらぼうな口調。けれど、その目には——ほんの一瞬だけ、安堵したような色が浮かんだ気がした。すぐに消えてしまったが、朝陽は確かにそれを見た。


 朝陽は、カウンターに近づいた。

「店、やってんのか?」

「一応な。客はほとんど来ないけど」


 そう言いながら、湊は本を拭く手を止めなかった。長い指が、愛おしむように古い装丁を撫でている。その仕草があまりにも丁寧で、朝陽は思わず見入ってしまった。


 朝陽は、店内を見回した。

 本棚が壁一面を覆っている。海に関する専門書、色褪せた文学全集、小さな絵本、重厚な写真集——ジャンルは雑多だが、どれも丁寧に分類され、愛情を込めて整理されている。背表紙の色が褪せているものもあれば、角が擦り切れているものもある。けれど、そのどれもが——誰かに読まれ、大切にされてきた本たちだったのが分かる。


「……いい店だな」

 素直に、そう思った。本たちが、静かに呼吸をしているような空間。古い紙とインクの匂いが、まるで時間そのものの香りのように、店内に満ちている。


 湊は、何も答えなかった。ただ、手元の本を見つめたまま、わずかに唇の端を動かした。それは、笑顔と呼ぶにはあまりに小さな変化だったが——確かに微笑んだ。


 二人はしばらく、静かに、言葉なく過ごした。

 けれど、それは気まずいものではなかった。店の中に響く、古い柱時計の秒針の音。遠くから聞こえる波の音。湊が本のページをめくる、紙の擦れる音。それらが重なり合って、心地よいリズムを作っている。


 朝陽は、その静けさの中に身を置いていることが——不思議なほど心地よかった。東京にいた頃は、こんな沈黙に耐えられなかった。常に何かの音が必要で、誰かの声が必要で、スマートフォンの画面が必要だった。


 でも、ここでは違う。

 何もない静けさが、逆に全てを満たしてくれるような気がした。


「……なあ、湊」

 朝陽が口を開いた。

「ん?」

「俺……しばらく、ここにいてもいいか?」

 その問いに、湊の手が止まった。


 顔を上げる。静かな海の底のような瞳が、まっすぐに朝陽を見つめる。その視線には、何かを測るような色があった。それは詮索ではなく——ただ、確かめようとしているだけのように見えた。


「行くあて、ないんだろ」

 それは、質問ではなかった。ただ、事実の確認だった。

「……ない」

 朝陽は、正直に答えた。


 東京には帰りたくない。いや、帰れない。あそこには、自分の居場所がもうない気がした。スマートフォンの電源も、まだ入れる気になれない。あの小さな画面の向こうに待っているものが、怖かった。


 湊は、しばらく黙っていた。

 窓の外を見る。港に停泊する船。穏やかな海。その視線の先に、何があるのか——朝陽には分からなかった。


 やがて、湊は小さく息を吐いた。

「……しばらくここにいろよ」

 その言葉は、ぶっきらぼうだった。


 感情の起伏もなく、まるで天気の話をするかのような、あまりに淡々とした口調だった。

「二階に、じいさんが使ってた部屋がある。今は物置みたいになってるけど、掃除すれば使える」


「いいのか?」

「家賃とかは、いらない。その代わり、店番くらいは手伝ってもらう」

 有無を言わさぬ口調。まるで、最初からそう決めていたかのような。


 なぜ、そこまでしてくれるのか。何年も連絡を取っていなかった自分を、なぜこんなに簡単に受け入れてくれるのか。

 問いたいことは山ほどあった。けれど、どの言葉も喉の奥で絡まって、形にならなかった。ただ、胸の奥が熱くなって、視界が少しだけ滲んだ。


「……ありがとう」

 ようやく絞り出せたのは、その言葉だけだった。声が、わずかに震えていた。


 湊は、何も答えなかった。ただ、再び本を手に取り、整理を続けた。その横顔は、相変わらず表情を読ませない。けれど——その肩の線が、ほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。


 ◇ ◇ ◇


 本の整理が一段落すると、湊は朝陽を二階の部屋へ案内した。


 階段を上り、廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まる。湊が古い真鍮の取っ手に手をかけ、ゆっくりと引いた。扉が軋んだ音を立てて開く。


「ここだ」

 中に入ると、埃っぽい匂いが鼻をついた。


 長い間、誰も入っていなかったのだろう。窓が閉め切られていて、空気が淀んでいる。湊が窓を開けると、一気に新鮮な風が流れ込んできた。レースのカーテンが揺れ、部屋の中に光が満ちる。


 部屋は、思ったよりも広かった。

 六畳ほどのスペースに、古いベッドが一つ。小さな机と椅子。それだけのシンプルな部屋。壁際には、埃をかぶった段ボール箱が数箱積まれている。


「じいさんの荷物だ。いずれ整理しないとと思ってたんだが……」

 湊の声が、少しだけ遠くなった。その響きに、何か——言葉にならない感情が混じっているような気がした。


「手伝うよ」

 朝陽は、そう言った。

 湊は、少し驚いたように朝陽を見た。前髪の隙間から覗く瞳が、わずかに見開かれる。


「……別に、急がなくていい」

「いや、世話になるんだし。それくらいはさせてくれ」

 湊は、しばらく朝陽を見つめていた。


 その視線は、何かを測るようで、何かを確かめるようで、そして——どこか、安堵したようにも見えた。

 やがて、小さく頷いた。

「……そうか」


 二人で、部屋の掃除を始めた。

 窓を全開にして、風を通す。埃を払い、床を拭く。段ボール箱を一つずつ開けて、中身を確かめ、必要なものとそうでないものを選別していく。


 作業中、二人はほとんど喋らなかった。

 けれど、沈黙は心地よかった。言葉がなくても、互いの動きが自然と調和する。朝陽が床を拭けば、湊が窓を拭く。湊が荷物を運べば、朝陽がそれを受け取る。まるで、ずっと前から一緒に暮らしていたかのような、不思議な連携だった。


 朝陽はふと窓の方に目をやると、窓から差し込む西日が部屋の塵をキラキラと照らしていた。

 その光の粒を見つめながら、朝陽は思った。

 ——美しい。


 こんななんてことのない光景が、こんなにも美しいものだったなんて。埃さえも、光の中では宝石のように輝いて見える。東京にいた頃は、「美しい」だなんて、一度たりとも思わなかった。いつも何かに追われていて、立ち止まることができなかった。締め切りと、クライアントの要望と、SNSの反応と——そういうものに、心を支配されていた。


 一秒が長く、一瞬が深い。ここでは——時間が、違う速度で流れている気がした。


 ◇ ◇ ◇


 作業の途中、湊が軽い食事を用意してくれた。

 簡単なサンドイッチと、温かいスープ。それだけだったが、朝陽にはご馳走に思えた。パンの柔らかさ、野菜のシャキシャキとした食感、スープの塩気——全てが、生きていることを実感させてくれた。


「……うまい」

 朝陽が言うと、湊は何も答えず、ただ自分のサンドイッチを黙々と食べた。けれど、その横顔は、ほんの少しだけ、柔らかく見えた。


 食事を終え、再び掃除に戻る。

 夕方になる頃には、部屋は見違えるほど綺麗になっていた。ベッドには、湊が持ってきた清潔なシーツが敷かれている。机の上には、小さなランプが置かれた。窓辺には、埃を払った古い時計。秒針が、規則正しく時を刻んでいる。


「……ありがとう」

 朝陽は、部屋を見回しながら言った。

「別に」


 湊の口癖。けれど、その目は——どこか満足げだった。部屋が生まれ変わったことへの、静かな誇りのようなものが、瞳の奥に宿っていた。


「今日は疲れただろ。早めに休め」

 そう言って、湊は部屋を出ようとした。

「湊」

 朝陽が呼び止める。


 湊が、振り返った。廊下の薄暗がりの中で、その輪郭だけが浮かび上がる。

「……本当に、ありがとう。俺、お前に……どう感謝していいか分からない」


 湊は、しばらく黙っていた。

 そして——ほんの少しだけ、目を細めた。それは、微笑みと呼ぶにはあまりに控えめな表情だったが、確かに笑っていた。


「……昔、お前が言ってたことがある」

「え?」

「『困った時は、助け合えばいい』、って」

 その言葉に、朝陽の記憶が蘇った。


 大学時代。サークルの仲間が悩んでいた時、確かに自分はそう言った。だがそれは世界はもっと単純で、人はもっと優しいものだと信じていた頃、軽い気持ちで言った、自分の声。


 ——まさか、覚えていてくれたのか。

「だから、困ってる時は、頼ればいい」

 湊は、そう言った。そして、何も付け加えることなく、そのまま部屋を出ていった。階段を降りていく足音が、遠ざかっていく。


 朝陽は、閉まった扉を見つめたまま、動けなくなった。


 胸の奥が、熱かった。

 涙が出そうになるのを、必死に堪える。喉の奥が詰まって、呼吸が浅くなる。


 ——ありがとう。

 その言葉だけでは、足りない気がした。けれど、他に何と言えばいいのか分からなかった。


 ◇ ◇ ◇


 朝陽はベッドに横になった。

 シーツから、太陽の匂いがした。洗い立ての、清潔な匂い。風に揺れて乾いた布の、優しい香り。それが、朝陽を包み込む。


 朝陽は、枕元に置かれていた古い小説を手に取った。

 夏目漱石の『こころ』。


 ページを開く。インクの匂い。紙の手触り。その全てが、懐かしかった。いつ、最後に本を読んだだろう。東京では、本を読む余裕さえなかった。


 読み始めたが、数ページで目が重くなってきた。

 文字が滲む。意識が遠のく。

 本を胸に抱きしめるようにして、朝陽は目を閉じた。


 窓の外から、波の音が聞こえる。

 それは、子守唄のように優しく、朝陽を眠りへと誘った。規則正しいリズム。寄せては返す、永遠に続く音。


 ——ここは、港だ。

 朝陽は、そう思った。


 長い嵐を抜けてきた船が、束の間の休息を得るための、静かな港。傷ついた船が、修理され、補給を受け、再び海に出るための準備をする場所。


 そして、この港には——灯台がある。

 暗闇の中で、帰る場所を示してくれる、一筋の光。湊は、その灯台なのかもしれない。口数は少なく、表情も乏しいけれど、確かにそこにいて、道を照らしてくれる存在。


 その夜、朝陽は久しぶりに——本当に久しぶりに、悪夢を見なかった。


 会議室の光景も、クライアントの冷たい声も、自分を責める着信音も。

 何も、夢に出てこなかった。


 代わりに見たのは——海だった。

 穏やかな、凪いだ海。


 そこに、一隻の船が浮かんでいる。錨を降ろして、静かに停泊している船。波にゆらゆらと揺れながら、それでもその場を動かない。


 朝陽は、その船の上にいた。

 風はなく、波もなく、世界は完璧に静かだった。空は青く、海も青く、その境界が分からないほど、全てが一つに溶け合っている。


 ——ここで、もう少しだけ。

 もう少しだけ、この場所にいよう。

 そして——いつか、また海に出られるように。

 夢の中で、朝陽はそう思った。


 『しばらく、ここで休んでいけ』


 誰かの声が聞こえた。それは、許可だった。

 自分自身からの、そして——誰かからの。湊の声だったかもしれない。あるいは、もっと遠い誰かの声だったかもしれない。


 でも、その声は温かくて、優しかった。




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