第3話 再会と珈琲
ガラス戸に触れた手が、震えていた。
朝陽は、自分でも理由が分からないまま、その戸を引いた。小さな鈴が、カランと軽やかな音を立てる。それは、この静かな町に似合わない、どこか懐かしい音色だった。
店の中に一歩踏み入れた瞬間——どこか懐かしい匂いに包まれた。
古い紙の匂い。インクの匂い。そして、わずかに混じる海の匂い。それらが渾然一体となって、朝陽の鼻腔をくすぐる。記憶の底に眠っていた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくるような感覚。
店内は薄暗かった。
窓から差し込む朝の光が、無数の本の背表紙を照らしている。天井まで届く本棚、色褪せた装丁。読み込まれて角の丸くなったページ。どの本も、長い時間をかけて愛されてきたことが分かる佇まいをしていた。
足元の木の床が軋んだ。その音が、静寂の中で妙に大きく響く。
朝陽は、店の奥へと視線を向けた。
そこには、カウンターがあった。そしてその向こうに、人影が見えた。
逆光で、顔ははっきりとは見えない。けれど、その輪郭に朝陽は奇妙な既視感を覚えた。細い体躯。少し前かがみの姿勢。本を手にしている、長い指。
——知っている。
その確信が、雷のように朝陽の胸を貫いた。
人影が、顔を上げた。
光の中から、ゆっくりとその顔が浮かび上がる。艶のある黒髪。長めの前髪が目にかかっている。色白の肌。そして、静かな海の底のような、深い色の瞳——。
朝陽の呼吸が、止まった。
「……朝陽?」
その声は、記憶の中の声よりも低く、落ち着いていた。けれど、間違いない。この声を、朝陽は確かに知っている。
「……湊……なのか?」
自分の声が、掠れていた。喉が渇いているだけじゃない。驚きと、信じられなさと、そして——何か、名前のつけられない感情が、喉の奥で絡み合っていた。
月島 湊。
大学時代の、親友。同じ文芸サークルに所属していた。
朝陽が映像の道を選んだ時、湊は小説家を目指していた。互いの才能を認め合い、夢を語り合った、かけがえのない存在。
それなのに、いつの間にか、連絡を取らなくなっていた。卒業後、それぞれの道を歩み始めて、忙しさに紛れて、気づけば何年も会っていなかった。
その湊が、今、目の前にいる。
こんな小さな港町で。こんな古い書店で。まるで、ずっと昔からここにいたかのように。
湊は、朝陽をじっと見つめていた。
その瞳には、驚きの色があった。けれど、それ以上に——何か、測りかねるような、静かな感情が宿っていた。
数秒の沈黙。
それは、永遠のように長く感じられた。
「……久しぶりだな」
湊が、ようやく口を開いた。その声には、感情の起伏がほとんどなかった。まるで、昨日会ったばかりの知人に挨拶するかのような、あまりにも平坦な響きだった。
朝陽は、何と答えていいのか分からなかった。
——久しぶり。そんな言葉で片付けられるほど、朝陽の中では、短い時間じゃなかった。何年だ? 三年? それとも四年?
湊は本をカウンターに置き、朝陽へと一歩近づいた。
その瞬間、窓からの光が湊の顔を照らした。
朝陽は、息を呑んだ。
湊は、変わっていた。
いや、変わっていないようにも見えた。矛盾した感覚だったが、それが朝陽の正直な印象だった。
顔の輪郭は、記憶の中のままだ。けれど、どこか削ぎ落とされたような、余計なものを全て捨て去ったような印象を受ける。学生時代のあどけなさは消え、代わりに——静謐という言葉がぴったりな、落ち着いた佇まいがあった。
リネンのシャツが、体に柔らかく馴染んでいる。袖を少しまくり上げた腕は、思ったよりもしっかりしていた。本を運ぶ仕事をしているからだろう。
そして、その指——。
朝陽の視線は、無意識に湊の手に吸い寄せられた。長く、美しい指。関節が細く、爪の形も整っている。かつて万年筆を握り、原稿用紙に言葉を紡いでいた、あの指。
——今も、書いているのだろうか。
その問いが、喉まで出かかった。けれど、朝陽はそれを飲み込んだ。聞いてはいけない気がした。
湊は、朝陽の顔をじっと観察していた。
その視線は、批評的でも、詮索的でもなかった。ただ、静かに、確かめるように、朝陽という存在を見つめている。
やがて、湊は小さく息を吐いた。
「……ひどい顔してるな」
その言葉に、朝陽は思わず顔を上げた。
「え……?」
「寝てないだろ。それに、いつから食ってない」
ぶっきらぼうな口調。けれど、そこには——批難ではなく、どこか心配するような響きがあった。
朝陽は、答えられなかった。
昨日の朝から、何も口にしていない。バスの中で少し眠っただけで、それも熟睡とは言えなかった。鏡を見ていないから分からないが、きっとひどい顔をしているのだろう。
湊は、しばらく黙って朝陽を見つめていた。
そして——何も聞かなかった。
なぜここに来たのか。何があったのか。どうしてこんな時間に、こんな場所にいるのか。
そういった、当然の疑問を、一切口にしなかった。
代わりに、湊はこう言った。
「……とりあえず、上がれよ」
◇ ◇ ◇
朝陽は、湊に導かれるまま、カウンターの奥へと進んだ。
狭い通路。本に囲まれた空間。そこを抜けると、小さな扉があった。湊がその扉を引いて開ける。
「ここから、住居スペース」
言葉少なに、湊はそう告げた。
朝陽が中に入ると——視界が、一気に開けた。
部屋は、思ったよりも広かった。いや、広く「見えた」と言うべきか。物が少なく、整理整頓されているため、実際の面積以上に開放感がある。
窓が大きかった。
そこから見えるのは——港だった。
朝陽は、思わず窓辺に歩み寄った。
小さな港。数隻の漁船が係留されている。防波堤の向こうには、穏やかな海が広がっていた。朝日が水面を金色に染めている。その光景は、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。
「……いい場所だな」
朝陽の口から、自然と言葉が漏れた。
「そうか」
湊の、いつもの口癖。その響きに、朝陽は思わず小さく笑った。
湊は、部屋の隅に置かれた小さなキッチンへ向かった。
「座ってろ。珈琲、淹れる」
それは命令ではなく、提案でもなく——ただの、事実の陳述だった。
朝陽は、窓際の椅子に腰を下ろした。
古い木の椅子。座面が少し窪んでいる。長年使い込まれた証拠だ。きっと、湊が小さい頃から使っていたものなのだろう。
部屋を見回す。
本棚が一つ。そこには、海に関する専門書や、古い文学全集が並んでいる。小さなテーブル。その上には、万年筆が一本と、インク瓶が置かれていた。
——やはり、書いているのかもしれない。
その思いが、また胸をよぎった。
湊の背中が、キッチンで動いている。
水を沸かす音。豆を挽く音。それらが、静かな部屋に響く。
朝陽は、その音に耳を澄ませた。
やがて、珈琲の香りが部屋に満ちてきた。
それは、濃厚で、少し苦く、そして——どこか、ほっとする香りだった。
湊は、ハンドドリップで珈琲を淹れていた。
お湯を注ぐ手の動きが、驚くほど丁寧だった。ゆっくりと、円を描くように、豆全体に均等にお湯を行き渡らせる。蒸らす時間を正確に測り、二度目のお湯を注ぐ。
その所作の一つ一つが、まるで精密な儀式のように美しかった。
朝陽は、言葉を失ってそれを見つめていた。
湊の長い指が、ドリッパーを支えている。その動きには、一切の無駄がない。けれど、機械的でもない。そこには、何かを大切に扱うという、静かな意志が宿っていた。
——こんなふうに、丁寧に何かをする人だったっけ。
朝陽は、記憶を辿った。
大学時代の湊は、もっと饒舌で、もっと感情を表に出していた気がする。笑い、怒り、悩み、そして——夢を語っていた。
でも、今の湊は違う。
全てが、内側に収められている。感情が消えたわけではない。ただ、表に出さなくなった。まるで、深い海の底に沈めてしまったかのように。
湊が、珈琲カップを二つ持って、テーブルに戻ってきた。
一つを朝陽の前に置く。もう一つは、自分の前に。
「……ほら」
短い言葉。けれど、そこには拒絶を許さない響きがあった。
朝陽は、カップを手に取った。
温かい。その熱が、冷え切った手のひらに染み渡る。
口をつける。
——苦い。
けれど、その苦味は不快ではなかった。むしろ、心地よかった。舌の上で、複雑な味わいが広がる。酸味と甘味と苦味が、絶妙なバランスで混ざり合っている。
喉を通り、胃に落ちる。
その瞬間、朝陽は初めて、自分がどれほど渇いていたかを実感した。
「……うまい」
素直に、そう言った。
湊は、自分のカップに視線を落としたまま、小さく頷いた。
「……そうか」
それだけだった。
しばらく、二人は黙って珈琲を飲んだ。
沈黙。けれど、それは気まずいものではなかった。
窓の外から、波の音が聞こえる。遠くで、カモメが鳴いている。部屋の中には、珈琲の香りと、古い紙の匂いが漂っている。
朝陽は、そのすべてに包まれて、ふっと力が抜けるのを感じた。
昨夜からずっと張り詰めていた何かが、ほどけていく。逃げるように乗ったバス。見知らぬ町。凪いだ海。そして、予期せぬ再会。
全てが、夢のようだった。
でも、手の中のカップの温もりだけは、確かに現実だった。
「……なぜ、ここに?」
ようやく、湊が口を開いた。
朝陽は、カップを見つめたまま答えた。
「……分からない」
嘘ではなかった。本当に、分からなかった。なぜこの町を選んだのか。なぜこの店に入ったのか。全て、偶然だった気もするし、必然だった気もする。
湊は、何も言わなかった。
追及もしない。慰めもしない。ただ、静かにそこにいる。
その在り方が、朝陽には——救いだった。
珈琲を飲み終えると、湊は立ち上がった。
「……少し、横になってろ」
「え……?」
「まともに眠ってないだろ。とりあえず、寝ろ」
そう言って、湊は部屋の隅にあるソファを指差した。古いソファだが、清潔で、クッションも置かれている。
「でも、俺……」
「いいから」
湊の声には、有無を言わさぬ響きがあった。
朝陽は、抵抗する気力もなく、ソファに横になった。
思ったよりも柔らかかった。体が、沈み込む。
湊が、薄い毛布を持ってきて、朝陽の上にかけた。
「……ありがとう」
朝陽は、かすれた声でそう言った。
湊は、何も答えなかった。ただ、窓のカーテンを半分閉めて、部屋を少し暗くした。
そして、自分の椅子に座り、本を手に取った。
朝陽は、薄目を開けて、その横顔を見た。
窓から差し込む柔らかな光の中で、湊は静かに本を読んでいる。長い指が、ページをめくる。その仕草は、やはり美しかった。
朝陽の瞼が、重くなってきた。
珈琲の余韻。毛布の温もり。波の音。
そして——湊がそこにいるという、不思議な安心感。
——なぜだろう。
何年も会っていなかったのに。お互いの人生に、もう関わることはないと思っていたのに。
それなのに、こうして同じ部屋にいるだけで、朝陽は——安心していた。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
最後に見えたのは、本を読む湊の、穏やかな横顔だった。




