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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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2/13

第2話 汐凪


 目を覚ましたのは、車内アナウンスの声だった。

「まもなく終点、汐凪町に到着いたします」


 朝陽は硬直した首をゆっくりと動かしながら顔を上げた。窓の外はもう明るくなっていて、薄紫色の空が少しずつ青みを帯び始めている。


 いつの間にか眠っていたらしい。口の中が渇いて張りつき、体中が鉛のように重い。

 何時間乗っていたのだろう。バスの揺れと、エンジンの低い唸りだけが耳に残っている。時間の感覚が、どこかへ消えてしまっていた。


 バスが停車する。ドアが開く音が響き、数人の乗客たちが静かに降りていく。

 朝陽もふらふらと立ち上がった。足が痺れていて、最初の一歩が上手く踏み出せない。通路を歩きながら肩を座席にぶつけ、小さく呻いた。

 運転手が「お疲れ様でした」と声をかけてくれたが、朝陽は曖昧に頷くことしかできなかった。


 バスを降りた瞬間——潮の香りが、朝陽を包んだ。


 それは濃厚で、生々しく、そして懐かしい匂いだった。

 海藻と潮風と、どこか甘い磯の香り。東京では決して嗅ぐことのない、あまりにも純粋な海の匂い。

 その香りが肺に満ちた瞬間、朝陽の体から余計な力が抜けていくのを感じた。

 

 ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。濡れた髪——昨夜の雨に打たれたまま乾いた髪が、風に揺れて額にかかった。朝陽はそれを払いのけながら、小さなバス停を見回した。


(ここ、汐凪町だ……)


 記憶の底から、その名前が浮かび上がってきた。

 幼い頃、両親に連れられて一度だけ訪れた海辺の町。あれは確か、小学校に上がる前だった。父の仕事の都合で立ち寄った小さな港町。

 砂浜で拾った白い貝殻。父が買ってくれた、船の形をした飴。防波堤の上を、手を繋いで歩いた記憶が、ぼんやりと蘇る。

 それ以来、一度も来たことはなかった。


 小さなバス停の周囲には、誰もいなかった。乗客たちはすでに散り散りに去っていて、朝陽だけがぽつんとそこに取り残されている。

 時計を見ると、午前四時を少し過ぎたところだった。町は、まだ眠っていた。

 

 朝陽はあてもなく歩き始めた。

 足が勝手に動く。行き先なんて、どこでもよかった。

 ただ、立ち止まっていることができなかった。動いていないと、昨夜の出来事が——会議室の光景が、クライアントの冷たい視線が、全てが押し寄せてくる。


 道の両脇には、古い木造の建物が並んでいる。錆びついた看板、色褪せた暖簾、閉まったままのシャッター。どの家も時が止まったように静かで、窓という窓にはカーテンが引かれたままだった。舗装された道路はところどころひび割れていて、その隙間から雑草が遠慮がちに顔を出している。街灯のガラスは曇り、いくつかは割れたまま放置されている。

 

 かつてはもっと栄えていたのだろう。看板の文字も、建物の塗装も、まだ鮮やかだった頃があったはずだ。けれど今は、静かに、ゆっくりと朽ちていく途中にあるように見えた。それは荒廃というより——穏やかな老い、とでも言うべきものだった。


 それでも、朝陽はこの町が嫌いではなかった。むしろ、どこか心地よかった。

 誰も自分のことを知らない。誰も自分に何も期待していない。ここでは、篠宮朝陽という名前も、映像作家という肩書きも、何の意味も持たない。ただの、名もない旅人でしかなかった。

 その匿名性が、今の朝陽には救いだった。


 海鳥の声が、遠くで響いた。

 朝陽はその声に導かれるように路地を曲がった。坂道を下る。古い石段、錆びた手すり。

 足元に注意しながら一段ずつ降りていくと、やがて視界が開けた。

 

 そこには、海が一面に広がっていた。


 朝陽は思わず立ち止まり、息を呑んだ。

 水平線が淡い朝焼けに染まっている。空と海の境界線が曖昧で、世界全体が柔らかな光に包まれていた。波の音は驚くほど静かで、まるで海そのものが寝息を立てているようだった。遠くで、一羽の海鳥が低く飛んでいる。その羽ばたきさえも、音を立てないかのように静かだった。


 (——これが、「凪」というものなのか)


 朝陽は文字の上の理解ではなく、その言葉の意味を初めて体で理解した気がした。風がなく、波が穏やかで、全てが静止している時間。世界が深く息を吸って、吐くのを忘れているような瞬間。時間が流れているのか止まっているのか、それさえ分からなくなるような静けさ。


 防波堤が海に向かって伸びている。朝陽の足は自然とそこへ向かっていた。

 防波堤のコンクリートは年月を経て(にび)色に変色し、表面は砂粒(さりゅう)がむき出しになったような感触がした。ところどころに貝殻がへばりつき、亀裂からは緑の苔が生えている。朝陽は滑らないよう注意しながら、その上をゆっくりと歩いた。

 

 足元では、小さな波が規則正しく防波堤を舐めている。チャプン、チャプン、チャプン——その音は世界で唯一の音のように聞こえた。他には何も聞こえない。車の音も、人の声も、都会の喧騒も。ただ、波の音だけがあった。


 ——ここを、歩いたことがある。

 朝陽の中で、古い記憶が鮮明に蘇った。幼い自分が父の手を引いて、この防波堤を走っていた光景。「危ないぞ」と笑いながら追いかけてくる父。その後ろで、母が心配そうに見守っていた。

 

 あの頃の自分は、何も恐れていなかった。世界は広くて、明るくて、可能性に満ちていた。未来は、いつだって希望の色をしていた。

 それが、いつから変わってしまったのだろう。


 防波堤の先端まで来て、朝陽は立ち止まった。

 目の前には、ただ海だけが広がっている。あまりにも穏やかで、あまりにも静かで、あまりにも——何もない海。

 その海面は鏡のように凪いでいた。波ひとつない。さざなみさえ立たない。完璧なまでに平坦で、静謐な水面が、空の色をそのまま映し出している。

 

 朝陽はその光景に、妙な苛立ちを覚えた。

 なぜ、こんなに穏やかなんだ。なぜ、何も動かないんだ——。

 

 自分の心は、こんなにも荒れ狂っているのに。昨夜の雨のように、都会の雑踏のように、全てが混沌としているのに。

 それなのに、この海は、何もかもを知らないかのように、ただ静かに凪いでいる。その対比が、朝陽の胸を締め付けた。


 朝陽は目を逸らした。海を見ていると、自分の内側の嵐がより鮮明に感じられてしまう。この静けさが、逆に自分を責めているように思えた。

 ——お前だけが、荒れているのだ。

 ——世界は、何も変わっていないのに。


 振り返ると、町の風景が目に入った。古い家々、静まり返った路地。どこか遠くで犬が吠えている。

 煙突から一筋の煙が上がっていた。誰かが朝食の支度を始めたのだろう。焼き魚の香りが、わずかに潮風に混じっている。

 

 ごく普通の港町の朝だった。何の変哲もない、けれど確かに人が生きている場所。皆、ここで生きている。毎日、朝が来て、夜が来る。仕事をして、食事をして、眠る。そんな当たり前のことを、当たり前に繰り返している。


 自分は、それさえできなくなってしまった。東京での生活、仕事、人間関係——全てが糸の切れた凧のように、どこか遠くへ飛んでいってしまった。自分だけが、取り残されている。

 

 何かを失ったのか。それとも、元々何も持っていなかったのか。

 朝陽には、もう分からなかった。


 海鳥が一羽、朝陽の頭上を横切った。その影が一瞬、防波堤の上を滑る。朝陽は顔を上げてその鳥を目で追った。白い翼、優雅な飛翔。鳥は何も迷わず、ただ風に乗って飛んでいく。

 

 羨ましい、と思った。あんなふうに、自由に、軽やかに、目的地も決めずに飛べたら。

 けれど次の瞬間——朝陽は自分がまさに今、そうしていることに気づいた。目的もなく、行き先も決めず、ただ風に流されるように、この町へ辿り着いた。

 

 でも、それは自由じゃない。それは、ただの逃避だ。

 朝陽は唇を噛んだ。口の中に、微かな鉄の味が広がった。


 ◇ ◇ ◇


 潮の香りが、また強く鼻をついた。

 それは記憶の匂いでもあった。幼い頃のあの夏の日の匂い。まだ何も知らず、何も失わず、ただ純粋に世界を愛していた頃の匂い。

 

 あの頃に戻りたいわけじゃない。ただ——あの頃の自分が持っていた何かを、もう一度手に入れたかった。それが何なのか、言葉にはできないけれど。

 希望、とでも呼ぶべきものだろうか。それとも、もっと単純な——生きる力。

 

 朝陽はポケットに手を突っ込んだ。スマートフォンの電源は、まだ切ったままだ。起動する気にもなれなかった。きっと、何十件もの着信とメッセージが溜まっているだろう。心配か、叱責か、あるいは契約解除の通知か。

 どれも今は、向き合う気力がなかった。


 太陽が、少しずつ昇ってきた。空の色が淡いオレンジから明るい青へと変わっていく。

 町も、ゆっくりと目覚め始めている。どこかで自転車のベルが鳴った。遠くでエンジン音が聞こえる。

 世界が動き出している。

 

 朝陽は防波堤から降りた。足元がふらついた。昨夜からまともに食事をしていない。喉も乾いている。どこかで水でも買わなければ——けれど、朝陽の足はなかなか前に進まなかった。

 どこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。分からなかった。

 

 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

 ——自分は、ここにいる。

 

 東京から遠く離れた港町に。時が止まったような、この場所に。それが逃避であろうと、敗北であろうと、今の朝陽には、ここしか居場所がなかった。


 ◇ ◇ ◇


 朝陽はゆっくりと町の中へと戻っていった。

 

 古い家々の間を抜け、坂道を上り、曲がりくねった路地を歩く。どこへ向かっているのか、自分でも分からない。ただ、足が勝手に動いていた。まるで何かに導かれるように。

 

 やがて、一本の細い道に出た。そこには古い看板が立っていた。錆びついて、文字がほとんど読めない。けれど、かろうじて「商店街」という文字が見える。

 その矢印に従って道を進むと、昭和の香りが残る小さな商店街が現れた。


 八百屋らしき店。魚屋らしき店。どれも、まだシャッターが閉まっている。

 朝陽はその静かな通りを、ゆっくりと歩いた。自分の足音だけが、やけに大きく響く。

 そして——その先に、一軒の店を見つけた。

 それは小さな、古びた、けれどどこか懐かしい佇まいの書店だった。

 看板には、手書きの文字でこう書かれている。


「みなと書房」


 朝陽の足が、止まった。

 なぜだか分からないけれど、その店の前から動けなくなってしまった。

 まるでそこに吸い寄せられるように。まるで、ずっと昔から、この場所を知っていたかのように。

 胸の奥で何かが疼いた。それは懐かしさなのか、それとも——。


 ガラス戸の向こうには、無数の本の背表紙が見える。古い、色褪せた、けれど愛されてきたことが分かる本たち。

 そして——その奥に、人影があった。

 逆光で、顔ははっきりと見えない。けれど、その輪郭に、朝陽は妙な既視感を覚えた。

 

 知っている、ような気がする。でも、それは気のせいかもしれない。疲労と寝不足と感情の混乱が、幻覚を見せているだけかもしれない。


 それでも、朝陽の手は自然と店のドアに、そっと触れていた。冷たいガラスの感触が、手のひらに伝わってくる。

 そして、朝陽は——その扉を、ゆっくりと引いた。



 

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