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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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13/13

エピローグ

 

 数ヶ月後、東京・新宿。

 古いビルの二階にある小さなギャラリーに、今日は朝から人の出入りが絶えなかった。


『夜明けの海、さいはての灯台』


 入り口の看板にはそう書かれている。壁には三十枚ほどの写真が飾られていた。港町の風景を捉えた写真。岬に立つ古い灯台を撮った写真。凪いだ海が広がる写真。そして何枚もの、一人の男を被写体にした写真。本を読む横顔。猫を撫でる指先。灯台のレンズを磨く後ろ姿。海を見つめる瞳。


 どの写真にも静謐な美しさがあった。それは華やかでも派手でもない。ただ見る者の心に、波が砂浜に染み込むように静かに届いていく力を持っていた。


 会場の中央、他のどの写真よりも大きく丁寧に額装された一枚がある。灯台の窓辺、朝焼けの光を浴びて微笑む男の横顔。その瞳には希望と、生きることへの静かな肯定が宿っていた。


 会場の片隅には小さなテーブルが置かれている。そこに並ぶのは、私家版の小説だった。


『夜明けの海、さいはての灯台』

 月島 湊 著


 手に取った人がページを開く。そこには万年筆で綴られたような丁寧な活字で、一つの物語が紡がれていた。さいはての町に流れ着いた男の物語。全てを失った男が古い灯台を守る男に出会い、互いの傷を知り、支え合い、そしてまた海へと漕ぎ出していく物語だった。


 写真と小説は呼応していた。写真が言葉にできないものを語り、言葉が写真にできないものを紡ぐ。二つの表現が寄り添い合い、一つの世界を作り出していた。


 ◇ ◇ ◇


 会場の奥、窓際に二人の男が立っていた。

 ヘーゼル色の瞳を持つくせ毛の男と、艶のある黒髪の色白の男。


 朝陽は会場を眺めながら、数ヶ月前のことを思い返していた。


 嵐の翌朝、湊と灯台で夜明けを見た後、朝陽は決めたのだ。一度、東京に戻ると。

 逃げたままでは何も始まらない。けじめをつけなければ、新しい一歩は踏み出せない。湊はその決意を黙って受け入れてくれた。「戻ってこい」とだけ言って。


 東京に着いた朝陽は、まずクライアントの元を訪ねた。会議室で頭を下げた。三ヶ月かけた企画を独りよがりな内容にしてしまったこと、意見を聞かず突き進んでしまったこと、全てを謝罪した。

 クライアントの責任者は呆れたような顔をしたが、最後にこう言った。「謝りに来ただけ、まだマシだ。次があるなら、人の話を聞けよ」


 次にプロデューサーに会った。チームメンバー一人一人にも謝罪した。「才能があっても、独りよがりじゃ誰もついてこれない」と言われた言葉の重みを、朝陽はようやく理解した。

 何人かは許してくれなかった。それも当然だと思った。


 部屋を引き払う時、朝陽は自分の機材を見つめた。カメラ、レンズ、編集用のパソコン。これらを使って、自分は何を撮りたかったのか。誰のために撮りたかったのか。

 答えは、汐凪町にあった。


 朝陽は汐凪町に戻った。湊は何も聞かず、いつものようにコーヒーを淹れてくれた。その少し苦い味が、朝陽の心に染み渡った。


 それから数ヶ月、朝陽は町の風景を撮り続けた。湊の日常を撮り続けた。今度は誰かに評価されるためではなく、ただ自分が撮りたいから撮った。この町の美しさを、この人の存在を、記録したかったから。

 湊も物語を書き続けた。夜な夜な万年筆を走らせる音が、朝陽には心地よかった。


 そして今日、二人の創作がこうして一つの場所に集まった。


「……緊張してるか?」

 湊が小声で聞いてきた。

 朝陽は苦笑した。

「めっちゃ緊張してる」

「そうか」

 湊の口元がわずかに緩んだ。

「俺もだ」


 湊は自分の小説が置かれたテーブルを見ていた。訪れた人が一冊手に取り、数ページ読んで静かに微笑んだ。その光景を見て、湊の耳が少しだけ赤くなる。


「評判いいな、お前の小説」

 朝陽が言った。

「……お前の写真のおかげだろ」

「いや、お前の文章のおかげだ」

「お前の写真だ」

「お前の——」

 二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。


 朝陽は湊の横顔を見た。もうあの頃のような痛みの影はない。穏やかで、どこか誇らしげな表情をしていた。


 二人は互いに干渉しすぎず、でも常に寄り添ってきた。朝陽が撮った写真を湊が見る。湊が書いた原稿を朝陽が読む。それは批評のためではなく、ただ互いの世界を共有するためだった。


「この物語の終わりは、まだ無い」

 ふと、湊が呟いた。

 朝陽は目を細めた。

「でも、きっと悪くない」

 湊も朝陽を見る。二人の視線が交わり、湊の目尻が下がった。


 ◇ ◇ ◇


 会場の窓から夕陽が差し込んでいた。

 オレンジ色の光が床を染め、壁に飾られた写真を柔らかく照らしている。


 訪れた人々が写真を見て、小説を読んで、何かを感じている。その光景を見ていると、朝陽の胸が温かくなった。評価や賞賛ではない。ただ自分たちが表現したものが、誰かの心に触れている。それだけで十分だった。


 窓の外では人々が行き交い、車が流れている。東京の喧騒は相変わらずだった。でもこのギャラリーの中だけは静かで穏やかだった。まるで汐凪町の朝凪のように。


 朝陽は深く息を吐いた。

 自分は今、ここにいていいのだと思えた。

 東京で挫折して、逃げて、でも戻ってけじめをつけた。その上で選んだ道だ。湊と一緒に創作する道を。これは逃避ではない。自分の意思で選んだ、新しい人生だ。


 朝陽は湊の肩にそっと手を置いた。湊が朝陽を見る。

 言葉はなかった。でも朝陽の中には感謝の想いが溢れていた。支えてくれて、信じてくれて、待っていてくれて。その想いを込めて、朝陽は湊の肩に少しだけ力を込めた。湊も小さく頷いた。


 やがて夕陽が沈み始める。会場の光がオレンジから茜色へと変わっていく。壁の写真が、まるで呼吸をするように明滅した。


 朝陽と湊は並んで立ったまま、静かにその移ろいを見つめていた。

 彼らの物語はまだ始まったばかりだ。これから先、どんな展開が待っているのかは誰にも分からない。でも二人は、もう独りではなかった。


 照明が灯り始める。会場は少しずつ夜の装いに変わっていく。

 朝陽と湊は会場を後にした。階段を降りて、ビルの外に出る。夜の東京が二人を迎えた。


「明日、汐凪町に帰るか」

 朝陽が言った。

「ああ」

 湊が頷く。

「あの町で、また新しい物語を作ろう」


 二人は並んで夜の街を歩いていく。

 どこへ向かうのか、まだ決めていない。でもそれでいい。

 互いがいれば、どこへだって行ける。


 星一つ見えない東京の夜空の下、二人の足音が静かに響いていた。





【あとがき】


 この物語を思いついたのは、ある冬の日でした。

 海辺の町を訪れた時、岬に立つ古い灯台を見て、ふと思ったのです。この灯台は、誰を待っているのだろう、と。


 灯台は孤独な存在です。嵐の夜も、誰もいない昼間も、ただそこに立ち続けている。でも同時に、灯台は希望でもあります。迷った船に道を示し、帰る場所を教えてくれる。

 そんな灯台のような存在が、人にもいるのではないか。

 そう思ったことが、この物語の始まりでした。


 朝陽と湊、二人の男性を主人公に選んだのは、私自身が描きたかった関係性が、既存の「友情」や「恋愛」という言葉では収まりきらなかったからです。

 魂の深い部分で共鳴し合う。互いの弱さを知り、それでもなお寄り添う。そんな絆を、私は「互いが互いの錨」という言葉で表現しました。


 朝陽は、才能がありながらも独りよがりで挫折した男です。湊は、夢を諦めながらも書くことをやめられなかった男です。

 二人はどこか似ています。でも決定的に違う部分もある。その違いが、互いを補い合う力になる。そんな関係性を描きたかったのです。


 舞台となった汐凪町は、実在しない架空の町です。でも私の中では、確かに存在している場所でもあります。朝凪の美しさ、潮の香り、古い木造家屋の軋む音——それらは、私がいくつかの港町で感じた記憶の断片から生まれました。


 この物語は、逃避の物語ではありません。

 傷ついた人間が、ただ傷を舐め合うだけの話でもありません。

 これは、一度倒れた者が、もう一度立ち上がるまでの物語です。そしてその時、隣に誰かがいてくれたら——それがどれほど心強いことか、を描きたかったのです。


 最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

 この物語が、誰かの心に小さな光を灯せたなら、それ以上の喜びはありません。


 あなたの人生にも、あなただけの「錨」が見つかりますように。

 そして、あなた自身が誰かの「灯台」になれますように。


 評価やブクマ、感想、リアクションなどいただけると、今後の執筆の励みになりますのでどうぞよろしくお願いいたします。


 ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
美しい描写に心奪われました。
完結おめでとうございます。派手さはないのに、登場人物たちの選択や再生が確かな温度で伝わってきます。創作を通して寄り添う二人の関係性がとても誠実で、美しかったです。心に小さな灯りがともる、丁寧で優しい物…
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