第12話 夜明けの錨
岬への道は、静かだった。
嵐が過ぎ去った後の世界は、まるで生まれ変わったかのように澄んでいた。
空気が冷たく、肌に触れる風が心地よい。雨に洗われた草木が夜明け前の薄明かりの中でしっとりと濡れ、かすかに草の匂いを放っている。
朝陽と湊は並んで歩いていた。言葉はなかったが、互いの足音だけが湿った地面の上で小さく響き、それが二人を繋ぐリズムのように心地よかった。
朝陽は横を歩く湊の横顔を見た。彼の表情は穏やかだった。長い前髪が風に揺れ、その下の瞳が静かに前を見つめている。
さっきまで涙を流していたとは思えないほど落ち着いているが、その瞳の奥には微かな光が宿っていた。それは希望とも安堵とも言えない——ただ、何かが解放された者だけが持つ静かな輝きだった。
道には雨の跡があった。水たまりが空を映し、まだ暗い空の端がほんの少しだけ白み始めている。星の光が水面に揺れ、その儚い煌めきが夜の終わりを告げていた。
朝陽はその水たまりを避けながら歩いた。
時折、湊の腕が朝陽の腕に触れる。その度に朝陽の心臓が小さく跳ねた。触れ合う温もりが、湊がそこにいることを確かに告げていた。
朝陽はふと思った。この道を——この夜明け前の道を、湊と一緒に歩いていることが、どれほど奇跡的なことか。
東京で挫折して、何もかもから逃げて、この町に辿り着いた。そこで湊に再会して、彼を撮って、傷つけて、そして——嵐の夜に互いの全てを曝け出した。弱さも、傷も、過去も、全部——。
それでも、今、こうして隣を歩いている。
朝陽の胸の奥が熱くなった。嬉しさとも安堵とは別の、名前のつけられない温かさがゆっくりと広がっていく。
やがて坂道を上り切ると、視界が開けた。そこに灯台があった。
汐凪灯台は岬の先端に凛と立っていた。白い塔が夜明け前の空を背景に、まるで世界の境界線を示すかのように佇んでいる。その姿はどこまでも孤独で、そして美しかった。
朝陽は立ち止まって息を呑んだ。何度見ても、この灯台の姿には心を奪われる。
湊も立ち止まった。彼は灯台を見つめている。その瞳には、畏敬とも、郷愁とも——あるいは、亡き祖父への静かな報告のようにも見える、複雑な光が宿っていた。
「……行くか」
湊が静かに言った。
「ああ」
朝陽は頷いた。
二人は灯台へと向かった。古い鉄の扉を開ける。軋む音が静寂を破り、中のひんやりとした空気が流れ出てくる。石造りの壁が長い年月の冷気を蓄えていた。
螺旋階段を一段、一段、ゆっくりと上っていく。朝陽の足音と湊の足音が交互に響き、それはまるで二人の心臓の鼓動のように規則正しいリズムを刻んでいた。
窓から少しずつ光が差し込んでくる。空が白んで、夜が終わろうとしていた。
やがて二人は頂上に辿り着いた。そこにはいつもの巨大なフレネルレンズが存在感を示していて、まだ微かにしか差し込んでいない朝の光を何倍にも増幅して輝いていた。
湊はレンズに手を添えた。その指が表面をゆっくりとなぞる——まるで古い友人に挨拶するかのような、優しい仕草だった。
朝陽は窓辺へと歩いた。そこから見える景色に、言葉を失った。
水平線が金色に染まり始めていた。東の空から太陽がゆっくりと、しかし確実に昇ろうとしている。その光が海面を照らし始め、穏やかな波が鏡のように凪いで光を反射している。世界全体が柔らかな金色に包まれていく。
朝陽は息を止めた。美しい、と思った。こんなにも美しい光景がこの世界にあったなんて。
嵐が過ぎ去った後のこの静けさ、夜が明ける瞬間のこの荘厳さ。
全てが生まれ変わるようなこの奇跡のような時間——。
「……綺麗だな」
朝陽の口から、自然と言葉が漏れた。
湊が隣に立った。
「ああ」
その声は静かだったが、そこには確かな満足感があった。
二人はしばらく黙って夜明けを見つめていた。太陽が少しずつ姿を現していく。その光が二人の顔を照らし、温かく、優しく、希望を運んでくる。
朝陽はふと気づいた——自分の首にカメラが下がっていないことに。東京から取り寄せた愛用のフィルムカメラ。あれは部屋に置いてきてしまった。SNSの件以来、存在を思い出す余裕さえなかった。
でも今、朝陽はそれを後悔していなかった。むしろ、良かったとさえ思った。
この瞬間をカメラに収める必要はない。ファインダー越しに見る必要もない。
ただこの目で、この心で、この全身で感じればいい。
湊と一緒に見るこの夜明けを、二人で迎えるこの新しい朝を。
それは写真には収められない。でも心の奥底に、永遠に刻まれる。
朝陽は湊を見た。彼は水平線を見つめている。その横顔が朝の光に照らされて、神々しいほどに美しい。長い睫毛が影を作り、その瞳が静かに光を宿している。
朝陽の胸が熱くなった。湊と出会えて良かった。湊に全てを曝け出せて良かった。湊とここにいられて——本当に、良かった。
「……湊」
朝陽が口を開いた。
湊が顔を向ける。
「ん?」
朝陽は深く息を吸い、そして真っ直ぐに湊を見つめた。
「俺は、お前を撮りたい」
湊の目がわずかに見開かれた。
「お前が生きてるこの場所を——この町を、この灯台を、この海を、俺の作品にしたい」
朝陽の声には、過去の過ちを繰り返さないという決意が、その言葉に込められていた。
「でも、それは誰かに見せるためじゃない。評価されるためでもない」
朝陽は一歩近づいた。
「俺と、お前のために。俺たちの物語として——撮らせてほしい」
沈黙が流れた。風が窓を通り抜けていく。レンズが光を反射してきらめく。
湊はしばらく朝陽を見つめていた。その瞳の奥で何かが揺れている。
やがて湊は、ふっと息を吐くように微笑んだ。
それは朝陽が初めて見る、心の底からの笑顔だった。目尻が下がり、頬が緩み、唇の端がほんの少しだけ上がる。その笑顔にはもう痛みも恐れもためらいもなく——ただ、純粋な喜びがあった。
「……ああ」
湊の声は優しかった。
「撮ってくれ」
朝陽の胸が高鳴った。喉の奥が熱くなる。目頭が熱くなる。
「ありがとう」
朝陽の声は掠れていた。
「本当に……ありがとう」
湊は首を横に振った。
「……俺の方こそ」
その声もわずかに震えていた。
「お前が来てくれて——ありがとう」
二人はしばらく見つめ合っていた。言葉はもう必要なかった。互いの瞳の中に、全てがあった。
◇ ◇ ◇
太陽が完全に姿を現した。
その光が世界を照らす。海が金色に輝き、空がオレンジから青へと変わっていく。雲が光を浴びて白く染まり、新しい一日が始まった。
湊はレンズに向き直った。その表面をそっと撫でる——まるで何かに感謝するかのように。そして、ぽつりと呟いた。
「さいはての町に、男が流れ着いた」
朝陽の心臓が大きく跳ねた。
「男は全てを失っていたが、ただひとつだけ——古いカメラを持っていた」
湊の声は静かだったが、その響きには芯があった。物語を語る者の、揺るがない意志が宿っていた。
「その町で男は——ひとりの男に出会った。古い灯台を守る男に」
湊は朝の光を見つめている。
「二人は互いの傷を見せ合った。そして気づいたんだ——」
湊は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「独りじゃない、って」
湊は目を開けた。朝陽を見る。
その言葉に、朝陽の目から涙が零れ落ちた。
「互いが互いの、錨になれるって」
湊は微笑んだ。
「だから男たちは——また、海に漕ぎ出すことにした」
湊はレンズを見つめた。
「この物語の終わりはまだ無い。でも、きっと——悪くない」
朝陽は涙を拭おうともせず、ただ湊を見つめていた。
胸の奥が熱く、喉の奥が詰まっている。それなのに——心は、驚くほど軽かった。
湊が今、物語を語っている。夢を諦めたはずの湊が、再び言葉を紡ぎ始めている。
それは二人の物語だった——朝陽と湊の、ここから始まる物語。
「……湊」
朝陽が声を絞り出した。
「お前のその物語——いつか、読ませてくれるか」
湊は少しだけ考え込むような表情をした。それから、小さく頷いた。
「……ああ。いつか」
湊の声には、静かな決意が込められていた。もう書くことから逃げない——その覚悟が、短い言葉の中に宿っていた。
「完成したらな」
朝陽は笑った。涙を流しながら、笑った。
「待ってる」
「……バカ」
湊も笑った。
「気長に待てよ。俺、筆、遅いから」
二人は笑い合った。その笑い声が灯台の中に響く。それはもう悲しい笑いでも苦しい笑いでもなく、ただ純粋な喜びの笑いだった。
◇ ◇ ◇
朝陽は窓辺に立った。湊もその隣に立つ。
二人は並んで朝の海を見つめた。水平線がどこまでも続いている。その先には何があるのだろう——未知の世界、見たこともない景色、新しい物語。
「……なあ、湊」
「ん?」
「俺たち、これからどうする?」
湊は少し考えた。
「……分からない」
湊は正直に答えた。
「でも、お前がここにいるなら——俺は、それでいい」
朝陽の喉の奥が熱くなった。それだけで十分だと、心の底から思えた。
「俺も。お前がここにいるなら——俺も、それでいい」
二人はまた笑い合った。そして視線を海へと戻した。
太陽が高く昇っていく。その光が二人を照らし、足元に影が落ちた。並んで立つ二人の影は、もう離れてはいなかった。数時間前、ロウソクの光の下で離れていた二人の影は——今、確かに重なり合っていた。
風が潮の香りを運んでくる。その風が二人の髪を揺らし、シャツの裾をはためかせる。
朝陽は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
全てが始まる。ここから、新しい物語が——朝陽と湊の。
二人は長い時間そこに立っていた。言葉もなく、ただ海を見つめながら。
◇ ◇ ◇
外に出ると、世界は完全に明るくなっていた。青い空、輝く海、緑の草木——全てが生命力に満ちている。
二人は並んで歩き始めた。来た道を戻っていく。でもそれは後戻りではなく、前に進むための帰還だった。休息を得て、力を蓄えて、また新しい一歩を踏み出すための帰還。
朝陽はふと思った。湊という存在が自分にとって何なのか。
親友?それだけでは足りない。恋人?それも違う気がする。
言葉では表せない。でも確かに——湊は朝陽にとって唯一無二の存在だった。
朝陽にとって湊は、心の海に降ろされた錨。嵐が来ても、波が荒れても、朝陽をその場に留めてくれる確かな重み。そして同時に、朝陽がまた海に漕ぎ出すための勇気をくれる存在。
湊もきっと同じように思っているのだろう。互いが互いの錨であり、光である。
二人は町へと戻っていった。朝の光の中を、新しい一日の始まりの中を——そして、新しい物語の始まりの中へ。




