第11話 本当の理由
ロウソクの炎が、小さく揺れていた。
湊はしばらく黙っていた。どこから話せばいいのか、言葉を探しているようだった。
朝陽は待った。急かさず、ただ——湊が語り始めるまで、静かに息を潜めていた。
やがて——湊は、静かに口を開いた。
「……大学の時、覚えてるか」
「え?」
「お前と、同じサークルにいた頃」
朝陽の胸が、ざわついた。大学時代。文芸サークル。湊が小説を書いていた頃——。
「俺、新人賞に応募する小説を書いてた」
湊の声は遠くを見つめるようで、まるで古い記憶の底を辿っているかのようだった。
「渾身の作品だった。自分の全部を、注ぎ込んだ。才能がなくても、これだけは……って、必死に書いた」
朝陽は、その記憶を辿った。確かに、あった。湊が、何ヶ月もかけて一つの小説を書いていた時期が。夜遅くまで、原稿用紙に向かっていた彼の姿を——。窓の外が白み始めても、まだ万年筆を走らせていた湊の背中が、朧げに浮かび上がってくる。
「応募する前に、お前にだけ読んでほしかった」
湊は朝陽を見た。その瞳には、古い痛みが——まるで決して癒えることのない傷のように、深く刻まれていた。
「一番信頼してた、お前に」
朝陽の喉が、乾いた。
「お前は、一晩で読んでくれた。次の日、興奮した顔で感想を言ってくれた」
湊の声が、わずかに震えた。
「『すげえよ、湊!最高傑作だ』って——」
朝陽は、記憶を探った。そんなことが、あっただろうか。湊の小説を読んで、感想を言った記憶——。朦朧とした記憶の中に、何かが浮かび上がってくる。サークル室の古いソファ。窓から差し込む朝の光。興奮して湊に駆け寄った自分——。
「でも、お前は続けて言った」
湊の声が、一段低くなった。
「『でも、一つだけ……こいつの気持ち、俺にはちょっと分かんないな。もっと、こう…希望のある終わり方じゃダメなのか?』って」
その瞬間——朝陽の中で、全てが鮮明に蘇った。
そうだ。あの時、確かにそう言った。湊の小説を読んで、素晴らしいと思った。けれど、主人公が最後に夢を諦める結末が、どうしても理解できなくて——。もっと、希望のある終わり方があるんじゃないかと、善意から、そう言ってしまった。
朝陽の顔から、血の気が引いた。
「あれは……」
朝陽の声が掠れた。
「俺は、ただ……」
「分かってる」
湊は首を横に振った。
「お前は、善意で言ってくれた。俺の作品を、より良くしたかっただけだって——分かってる」
湊の目から、また涙が零れ落ちた。ロウソクの光を反射して、その涙が——まるで小さな宝石のように、頬を伝っていく。
「でも、俺には……あの言葉が、全てを否定されたように聞こえた」
湊の声は震えていて、その響きには——長い年月をかけて澱のように積もった痛みが滲んでいた。
「俺が書いたのは、どうしようもない現実の中で、ほんの少しの尊厳を守るために、静かに何かを諦める人間の物語だった。それは——俺自身だった」
「お前みたいに、いつも希望を信じて、前を向いて生きられる人間には——理解できない世界だったんだと思う」
湊は自嘲するように笑ったが、その笑顔には悲しさしかなかった。
「お前は太陽だった。いつも明るくて、眩しくて、誰もがお前に惹かれた。お前の言葉には、力があった。希望があった」
湊は朝陽を見つめた。
「でも、俺は違った。光じゃなくて、影だった。希望じゃなくて、諦めだった。そんな俺が書く物語は——一番届いてほしい人間に、届かなかった」
朝陽は、何も言えなかった。ただ、湊の言葉を——その痛みを、全身で受け止めることしかできなかった。胸が締め付けられ、喉の奥に何かが詰まって、呼吸が浅くなる。
「お前に『分からない』って言われた時」
湊の声が途切れる。
「世界中から拒絶されたみたいに感じた。自分の内面を、全部否定されたみたいに感じた」
湊は顔を覆った。その長い指が、震えている。
「もう、何も書けなくなった。いや——書くのが、怖くなった。また否定されるくらいなら、書かない方がいいって——」
朝陽の目から、涙が溢れ出た。
「俺が……」
声が震える。
「俺が、お前の夢を……」
「違う」
湊は首を横に振った。
「お前のせいじゃない。俺が、弱かっただけだ。一言言われただけで、全てを諦めた。才能がないって、逃げた。そうやって——」
湊の声が崩れた。
「書くことから、逃げ続けてきた」
二人は、しばらく黙っていた。ロウソクの炎だけが揺れている。その光の中で、二人の涙が——同じように、悲しく光っていた。外の嵐の音が、まるで二人の心の叫びのように、遠くで唸りを上げている。
「でも」
湊は顔を上げた。涙を拭おうともせず、朝陽を見つめる。
「今も、書いてる。お前が見た、あの原稿——」
朝陽は頷いた。あの、万年筆で綴られた文字。『さいはての灯台』というタイトル。散らばった原稿用紙に刻まれた、湊の魂の言葉——。
「誰にも見せるつもりはなかった。ただ、書かずにいられなかった」
湊の声は静かだった。
「小説家になる夢は、諦めた。でも、書くことは——諦められなかった」
湊は自分の手を見つめた。その長い指が、わずかに震えている。
「矛盾してるよな。諦めたのに、それでも書き続けてる。夢を諦めたって言いながら、まだ言葉を紡いでる」
朝陽は、湊の手をそっと握った。
湊の体が、びくりと震える。でも、手を引こうとはしなかった。むしろ、朝陽の温もりに——すがるように、力を込めた。
「俺が……お前の夢を奪った」
朝陽の声は震えていた。
「俺の、無邪気な一言が……お前の才能を、お前の未来を……」
「朝陽」
湊は朝陽の手を握り返した。
「お前は、悪くない」
その言葉に、朝陽は顔を上げた。湊は、泣きながら——微笑んでいた。それは、痛みと優しさが混じり合った、複雑な表情だった。
「お前が言ってくれたから、気づけたこともある」
湊の声は優しかった。
「俺の物語には、希望がなかった。光がなかった。だから——誰にも届かなかった」
湊は朝陽を見つめた。
「でも、お前が来てくれた。この町に。俺のところに——」
湊の声が途切れる。
「お前は、俺を撮ってくれた。俺の日常を、俺の生きてる場所を——美しいって、言ってくれた」
湊は握った手に力を込めた。
「お前のレンズを通して、俺は初めて——自分が生きてることを、実感できた気がした」
「だから」
湊はゆっくりと言った。
「お前が、あの写真を世界に晒した時——嬉しかった部分もあったんだ」
朝陽は息を呑んだ。
「お前が、俺を見つけてくれた。俺の存在を、認めてくれた。世界に——こいつがいるって、示してくれた」
湊の声が震える。
「でも、同時に怖かった。お前が、また光の中に戻っていって、俺だけが取り残されるのが怖くて——怒ったんじゃない。俺は、お前が諦めずに立ち上がろうとする姿を見て——自分の弱さを、お前にぶつけたんだ」
湊は目を閉じた。
「嫉妬と、劣等感と、そして——"俺はまた、お前に置いていかれる側の人間なんだ"って気持ちが、全部混ざって……」
朝陽は、もう一方の手で湊の頬に触れた。その肌は、涙で濡れていて、冷たかった。湊の目が開く。朝陽を見つめる、その瞳には——もう、恐れはなかった。ただ、裸の魂があった。
「俺は」
朝陽ははっきりと言った。
「お前を置いていかない」
湊の瞳が揺れた。
「お前が書く物語を、俺は読みたい。お前が紡ぐ言葉を、俺は知りたい」
「お前の暗闇も、お前の諦めも、お前の痛みも——全部、俺に見せてくれ」
朝陽は湊の手を強く握った。
「そして、俺の光も、俺の希望も——全部、お前に分けたい」
湊の目から、また涙が溢れた。でも、それは——もう、悲しみの涙ではなかった。何かが解放された、安堵の涙だった。
◇ ◇ ◇
二人は、どれくらいそうしていたのだろう。
互いの手を握り合ったまま、言葉もなく、ただ——そこにいた。ロウソクの炎が少しずつ小さくなっていく。蝋が溶けて、短くなっていく。その光の中で、二人の影も——少しずつ、寄り添うように変わっていった。
外の嵐の音が弱まっていた。雨が屋根を叩く音が優しくなっている。風の唸りも静まっていく。まるで、世界が——深く息を吸って、ゆっくりと吐き出しているかのように、全てが鎮まっていく。
「……ごめん」
朝陽がようやく口を開いた。
「……俺も、ごめん」
湊も首を横に振った。
二人の声は重なった。そして——小さく、笑った。
それは、悲しい笑いではなかった。苦しい笑いでもなかった。ただ——長い年月をかけて積もった重荷を、ようやく降ろせた者の、安堵の笑いだった。
またしばらく、二人は何も言わなかった。ただロウソクの炎を見つめていた。小さく揺れる光。その温もりが、部屋を柔らかく照らしている。外の嵐の音が遠くなっていく。雨が、優しい音に変わっていく。
湊は朝陽の手から、そっと自分の手を離した。そして窓辺へと歩いていく。カーテンを少しだけ開けると、外の様子が見えた。
雨は、まだ降っている。でも、その勢いは弱まっていた。雲の切れ間から、わずかに星の光が見える。
「……嵐、過ぎていくな」
湊の声は静かだった。
「ああ」
朝陽も湊の隣に立った。二人で、同じ窓の外を見つめる。
夜が、少しずつ明けようとしていた。東の空がわずかに白み始めている。まだ暗いけれど、確かに——夜明けが近づいている。その予感が、空気の中に満ちていた。
「……朝陽」
「ん?」
「お前、これからどうするんだ」
朝陽は少し考えた。東京に戻るのか。それとも——。
「分からない」
正直に答えた。
「でも、一つだけ確かなことがある」
朝陽は湊を見た。
「お前がいる場所に、俺はいたい」
湊の目がわずかに見開かれた。
「東京でも、この町でも、どこでもいい。お前が、そこにいるなら——俺も、そこにいたい」
「お前を撮りたい。お前の物語を知りたい。お前と、一緒にいたい」
湊はしばらく黙っていた。それから——小さく、頷いた。
「……バカ」
その声は優しかった。
「お前は、本当にバカだ」
朝陽は笑った。
「そうかもな」
二人は、また窓の外を見た。雨は、ほとんど止んでいた。雲が少しずつ流れていく。その向こうに、星が瞬いている。世界が、生まれ変わろうとしていた。
「……行くか」
湊が突然言った。
「え?」
「灯台」
湊は朝陽を見た。その瞳には、微かな光が宿っていた。
「夜明けを、見に行こうぜ」
朝陽の胸が高鳴った。
「今から?」
「ああ」
湊は小さく笑った。
「嵐の後の夜明けは、最高に綺麗なんだ」
朝陽は頷いた。
「行こう」
二人は部屋を出た。階段を降りる。店を抜け、外へ。玄関の扉を開けると、湿った空気が流れ込んできた。雨上がりの、土の匂い。草の匂い。そして——潮の香り。それらが混じり合って、世界が洗い流されたことを告げていた。
外は、まだ暗かった。でも、空は——確かに、白み始めていた。世界が、生まれ変わろうとしている。
二人は並んで歩き始めた。言葉はない。ただ、隣を歩く互いの存在を感じながら。時折、腕が触れ合う。その温もりが、確かに伝わってくる。
道には雨の跡があった。水たまりが、空を映している。星の光が、水面に揺れている。二人はその水たまりを避けながら、ゆっくりと岬へと向かった。
朝陽はふと思った。この道を——この夜明け前の道を、湊と一緒に歩いていることが、それが、どれほど奇跡的なことか。
嵐が、全てを洗い流してくれた。二人の間にあった壁を。互いが抱えていた痛みを。そして——言えなかった言葉を。
今、二人は——本当の意味で、向き合っていた。弱さも、傷も、過去も——全てを曝け出して。それでもなお、隣にいることを選んで。
朝陽の胸が温かくなった。この感覚を、何と呼べばいいのか分からない。友情とも、愛情とも、違う。でも、確かに——湊という存在が、朝陽の心の海に降ろされた、唯一の錨だった。
湊も、同じことを感じているのだろうか。朝陽は、隣を歩く湊の横顔を見た。彼は前を向いて歩いている。その表情は穏やかだった。長い前髪が風に揺れ、その下の瞳が——静かに、光を宿していた。
岬への道が見えてきた。灯台が、夜明け前の空を背景に、凛と立っている。その姿は、どこまでも孤独で、そして——美しかった。
二人は黙って灯台へと向かった。夜が明ける。新しい一日が始まる。
そして——二人の、新しい物語も。
互いが互いの錨として。互いが互いの光として。これから、どんな嵐が来ようとも——二人は、もう独りではなかった。




