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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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第10話 ロウソクの灯りの下で


 その日の夕方から、空の色が変わり始めた。

 厚い雲が低く垂れ込め、世界全体が灰色に沈んでいく。風が強くなり、店の看板が軋んだ音を立てる。海鳥たちが慌ただしく鳴き交わしながら飛び去っていく。

 嵐が来る——。汐凪町の住民たちは、長年の経験でそれを悟り、店を早仕舞いし、窓に板を打ちつけ始めた。


 みなと書房の中では、朝陽と湊が言葉を交わすことなく窓の補強をしていた。同じ空間にいるのに、二人の間には見えない壁があった。昨日の出来事から続く、重苦しい沈黙。互いの存在を意識しながらも、決して視線を合わせようとしない。


 朝陽が窓枠に養生テープを貼る。湊が本棚から貴重な本を取り出し、奥の部屋に運ぶ。その動きは機械的で、感情が削ぎ落とされたようだった。

 やがて、最初の雨粒が窓を叩き始めた。それはすぐに激しさを増した。雨が、まるで誰かが窓に石をぶつけているかのような勢いで降り注ぐ。風が唸りを上げ、店の扉をガタガタと揺らした。


「……今日はもう閉めるぞ」

 湊が朝陽を見ずに言った。その声は、平坦だった。

「ああ……」

 朝陽も短く答えた。それ以上、何も言えなかった。


 店の明かりを消す。看板を仕舞う。鍵をかける。全ての作業を終えると、湊は何も言わずに自室へと向かった。扉が閉まる音。それは、拒絶を告げる冷たい音だった。

 朝陽は、階下に取り残された。


 ◇ ◇ ◇


 夜になると、嵐はさらに激しさを増した。

 雨が屋根を打つ音。風が建物を揺らす音。遠くから聞こえる、何かが倒れる音。それらが混じり合って、世界は轟音に包まれた。


 朝陽は店のカウンターに座り、膝を抱えて窓の外を見つめていた。雨に叩かれた窓ガラスが激しく震えている。その向こうには、何も見えない。ただ、闇と雨だけがあった。

 まるで、自分の心を映しているようだった。荒れ狂う海。唸る風。止まない雨——。全てが、朝陽の内側で渦巻いている感情と重なっていた。


 後悔が胸を締め付ける。東京での会議室の光景が、鮮明に蘇ってくる。

 あれは、三ヶ月かけて作り上げたドキュメンタリー企画だった。『見えない東京』——都会で生きる人々の孤独を、美しく切り取ろうとした。朝陽は、自分の感性を信じていた。クライアントの「もっと明るく、ポジティブに」という要望を、何度も退けた。


 『これが、俺の作品だ。これが、真実だ』

 

 プレゼンの日、会議室には五人のクライアントが座っていた。朝陽は映像を流した。三十分間、誰も何も言わなかった。その沈黙が、全てを物語っていた。

「篠宮さん、これは……私たちが求めていたものとは、全く違います」

「方向性が違う、とでも言いますか」

「もう少し、こう……万人受けするものを」


 その言葉の意味を、朝陽は今になって理解し始めていた。自分の感性を貫くことと、独りよがりは紙一重だったのだと。相手の求めるものを無視して、自分の「正しさ」だけを押し付けていた。

 朝陽は顔を伏せた。あの時、自分は何を考えていたんだろう。才能があれば、何をしても許されると思っていたのか。自分のビジョンさえ信じていれば、周りの声は聞かなくてもいいと——。


 そして今回も、同じ過ちを繰り返した。湊の気持ちを考えずに、自分の満足のために——。

 その時、電気が消えた。

 世界が一瞬で闇に沈む。停電だ。朝陽は暗闇の中で身動きできなくなった。店の中は完全な暗黒に包まれ、何も見えない。ただ、外の嵐の音だけが、より大きく響いていた。


 心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。この闇の中で、一人——。

 朝陽は震える手でスマートフォンを取り出した。画面の光がわずかに闇を照らす。その光を頼りに、周囲を見回す。

 棚の上に、ロウソクがあった。湊が停電の時のために常備しているものだ。朝陽はそれを手に取り、マッチで火をつけた。

 小さな炎が、暗闇の中で揺れる。その光はあまりにも頼りなかったが、何もない闇よりはましだった。


 朝陽はキッチンの方を見た。向こうに、湊がいる。彼は今、何を考えているんだろう。一人で、暗闇の中で、何を思っているんだろう——。

 このままでいいのか。このまま、何もせずに、朝を待つのか。それとも——。

 朝陽の中で、何かが動いた。湊に会わなければ。話さなければ。このまま終わらせるわけには、いかない。


 朝陽は立ち上がった。ロウソクを手に、廊下へと向かう。足が震えていた。心臓が激しく脈打っている。一歩一歩、ゆっくりと歩く。古い木の床が軋んだ音を立てた。

 リビングの更に奥。湊の部屋の扉が目の前にあった。朝陽はその前で立ち止まった。

 手を伸ばす。ノックをしようとして——ためらう。もし、拒絶されたら。もし、「来るな」と言われたら。それでも——。


 朝陽は扉を叩いた。コン、コン、コン。その音が、嵐の轟音の中で、あまりにも小さく聞こえた。

 返事はない。ただ、沈黙。朝陽はもう一度叩いた。コン、コン、コン。やはり、何も返ってこない。

 朝陽はドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。軋む音が、闇の中で響いた。


 ◇ ◇ ◇


 部屋の中は、暗かった。

 朝陽が持つロウソクの光がわずかに室内を照らす。その揺れる光の中で、朝陽は湊の姿を見つけた。部屋の隅、窓際の床に、湊は座り込んでいた。膝を抱えて顔を伏せている。その姿は、どこまでも小さく、孤独に見えた。まるで、世界から見捨てられた者のように。


「……湊」

 声をかける。湊はわずかに体を強張らせたが、顔を上げようとはしなかった。

「……出てってくれ」

 その声はかすれていて、力がなかった。

「いや」

 朝陽は部屋の中に入り、扉を閉めた。

「話させてくれ」

「……話すことなんか、ない」

「ある」


 朝陽は湊の前に膝をついた。ロウソクを床に置く。小さな炎が二人の間で揺れている。その光が、二人の影を壁に映し出した。離れた、交わらない影。

「……俺の話を、聞いてくれ」

 朝陽の声が震えた。湊は何も答えず、ただ膝を抱えたまま動かない。


 朝陽は深く息を吸った。

「東京で、俺は——プロジェクトを潰した」

 その言葉が、闇の中に落ちる。

「三ヶ月かけて作った企画を、クライアントに全否定された」

 朝陽は拳を握りしめた。

「ドキュメンタリーだった。都会で生きる人々の孤独を撮りたかった。誰も気づかない、でも確かにそこにある——寂しさを」


「クライアントは、もっと明るくしろって言った。ポジティブにしろって。でも、俺は——聞かなかった」

 湊が、わずかに顔を動かした。

「俺の感性が正しいと思ってた。自分のビジョンさえ信じていれば、他の声は聞かなくてもいいって——そう思ってた」

 朝陽の声が苦しげに歪む。

「プレゼンの日、三十分間、誰も何も言わなかった。その沈黙が……全てだった」


 朝陽は床に両手をついた。

「『方向性が違う』って言われた。婉曲な拒絶だって、分かってた。でも、本当に辛かったのは——その後、自分で気づいたことだった」

 朝陽は顔を上げた。その目には、後悔と自責の涙が滲んでいた。


「誰も俺についてこなかった理由が、分かったんだ」

 声が掠れる。

「俺は、相手の言葉を聞いてなかった。クライアントの要望も、チームの意見も——全部、無視してた。自分の『正しさ』だけを、押し付けてた」

 朝陽の肩が震えた。

「才能なんかじゃなかった。あったのは、ただの——独りよがりだった」

 涙が頬を伝う。

「期待に応えられなかった。信頼を裏切った。全部——俺のせいだった」

 朝陽は深く頭を下げた。


「それで、逃げた。全部から逃げて、この町に来た。……でも」

 嗚咽が漏れる。

「お前に会って——また同じことをした」

 朝陽の声が崩れた。

「お前の気持ちも考えずに、自分の満足のために——写真を世界に晒した。また、相手の声を聞かなかった。また、自分の『正しさ』だけを押し付けた——」

 朝陽の肩が激しく震える。


「俺は……何も変わってなかった……東京でも、ここでも——同じ過ちを繰り返して……」

 声が途切れる。

「期待に応えられない恐怖から逃げてきたのに——お前の信頼まで、裏切った……」

 言葉が途切れ、重い静寂が二人の間に横たわった。外の嵐の音だけが、部屋に響いていた。

 

「……俺、限界なんだ、湊」

 朝陽は涙で濡れた顔を湊に向けた。

「才能もない。相手の声も聞けない。独りよがりで、周りが見えなくて——それでも、諦められない。夢も、創作も——お前も」

 朝陽は拳を握りしめた。

「お前が羨ましい」

 その言葉に、湊の体がわずかに強張った。


「お前には、この町がある。守るべき場所がある。祖父との約束がある。灯台がある。お前は、ちゃんとここに根を下ろしてる。毎日、この町で生きてる。誰かとの繋がりを、大切に守り続けてる」

 唇を噛む。

「でも、俺には何もない。東京にも帰れない。ここにも居場所がない。ただ流れ着いただけだ。何も持たず、何も守らず——ただ、逃げてきただけだ」

 朝陽の声がかすれた。

「ごめん……本当に、ごめん……」


 長い沈黙が、二人の間に横たわった。ロウソクの炎だけが揺れている。その光が、二人の交わらない影を壁に映し出していた。

 やがて、湊がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、涙が浮かんでいた。ロウソクの光を反射して、キラキラと揺れている。


「……バカ」

 湊の声は震えていた。

「お前は……本当に……バカだ……」

 朝陽は何も言えず、ただ湊の涙を見つめることしかできなかった。

「『お前が羨ましい』だと……?」

 湊は顔を覆った。その指の隙間から、涙が滴り落ちる。

「お前は……何も分かってない……」

 湊の肩が震える。


「俺が羨ましかったのは——お前の方だ」


 その声は、絞り出すようだった。

「お前の、その……諦めない力が。前を向く力が。失敗しても、また立ち上がろうとする強さが——」

 湊はゆっくりと顔を上げた。涙に濡れた瞳が、朝陽を見つめる。

「俺には、それがなかった。一度倒れたら、もう立ち上がれない。そういう人間だった」


 彼は自嘲するように笑った。

「才能がない、なんて——言い訳だったのかもしれない」

 湊は自分の手を見つめた。

「本当は、また傷つくのが怖かっただけなのかもしれない」

 朝陽は息を止めた。


「でも、お前は違った」

 湊の声がわずかに柔らかくなった。

「お前は、傷ついても、挫折しても——また、立ち上がろうとする。また、何かを撮ろうとする」

 湊は朝陽を見た。

「その姿を見てて、俺は——嬉しかった。羨ましかった。そして……怖かった」


「怖かった……?」

 朝陽が聞き返した。湊は小さく頷いた。

「お前が、俺を撮ることで——また、何かを取り戻していくのを見るのが、怖かった」

 湊の声が震える。

「お前が光の中に戻っていって、俺だけが——また、ここに取り残されるんじゃないかって」

 湊は目を伏せた。


「あの写真を、SNSの画面を見た時、お前が世界に認められていくのを見た時——嬉しいはずなのに、怖かった」

 湊は朝陽を見た。その瞳の奥が、何かに耐えるように揺れていた。

「お前は、もうすぐここを出ていく。東京に戻って、また誰かを撮って、評価されて——俺は、ここに残る。ずっと、一人で——」

 朝陽の胸が、締め付けられた。

「でも」

 湊は続けた。その声は震えていた。

 

「それだけが、理由じゃない」

 朝陽の心臓が、大きく跳ねた。

「俺が、お前に怒ったのは——いや、怒ったんじゃない」

 湊の声が途切れ、しばらく黙り込んだ。彼は言うべきか、言わざるべきか、迷っているようだった。


 長い沈黙が、二人の間に横たわった。ロウソクの炎だけが、小さく揺れている。


 やがて、湊は深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……話す。全部、話す」

 その声は震えていた。

 朝陽は息を止めた。湊の瞳を見つめる。その奥に、覚悟が宿っているのが見えた。

「でも、今夜だけだ」

 湊は朝陽を見た。

「これを話したら——もう二度と、この話はしない」


 朝陽は黙って頷いた。湊が唇を震わせている。まるで、長い間心の奥底に封印していた何かを、今、解き放とうとしているかのように。

 外では、嵐が少しずつ弱まっていた。雨の音が優しくなっていく。でも、部屋の中では、もう一つの嵐が始まろうとしていた。




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