4.いきなり前途多難
世界が回った。違う、回っているのは私だ。
いつの間にか私は、宙に投げだされていた。この世界に来たときのふわふわとしたものではなく、めちゃくちゃに体がすっ飛んでいくのを感じる。
何がどうなっているのか、さっぱり分からない。混乱していたら、いきなり体が何かにぶつかった。
「痛ったあ……」
太ももと肩を思いっきり打ってしまって、そんな声が勝手にもれ出る。というか、全身痛い。顔にもしゃもしゃした何かが……これ、木の枝だ。
そのときようやく、自分の置かれた状況をきちんと理解できた。
ついさっきまでシェスターと話していたはずの私は、なぜかすぐ近くの木の枝、それも身長より高いところの枝に引っかかっていたのだ。下のほうに、シェスターの頭が見えている。
「えっ、何これ!?」
びっくりした拍子に落っこちそうになって、あわてて枝にしがみつく。
「死にたくなければ、そこでおとなしくしていろ」
木の下から、シェスターの声が聞こえてきた。さっきより、さらに声が固い。
「ちょっと、死にたくなければってどういうこと!?」
「黙っていろ。来た」
今度はもう、どういうことなのかは尋ねなかった。遠くのほうから、いくつもの人影が走ってくるのが見えたから。
走っているのは男ばっかりで、みんなぼろぼろの服を着ていて、目がやけにぎらぎらしている。それだけでなく、それぞれナイフとか斧とか剣とかを持っていた。しかもただ持ってるだけじゃなくて、今にもそれらを振り回しそうな、そんな雰囲気だ。
……あれ、どう見ても普通じゃないよね。通り魔……にしては人数が多い。たぶん、十人以上はいる。シェスターは戦えるみたいだけど、大丈夫かな。
必死になって枝にしがみつきながら、そんなことを考える。すると、とんでもない声が聞こえてきた。
「有り金置いてけ!」
「そっちの女も置いてけ!」
声の主は、走ってきた男たちだ。やっぱりあの人たち、危ない人たちだった! 強盗……というか、盗賊!?
震えながら身を縮め、そっと下をのぞく。そうして、びくりと身を震わせることになった。
男たちの一人が大き目のナイフを構えて、体当たりをするようにシェスターに襲いかかったのだ。
シェスター、危ない。私がそんな言葉を口にするより先に、目を疑うような光景が広がった。
シェスターは、ただすっと一歩動いただけのように見えた。それなのに、いつの間にか彼の手には剣がにぎられていて……彼の足元には、さっきの男が倒れていた。
何が起こったのか、分からない。私が理解するより先に、勝手に場面が切り替わっていく。夢にしたって、あまりに雑だ。
そんなことを考えずにはいられないくらいに、現実味のない……そもそも夢だから、現実じゃないけれど……光景だった。
次から次へと男たちがシェスターに襲いかかっていって、シェスターは落ち着いた様子ですっと移動して。そうして、男たちがばたばたと倒れて。
しばらくしたら、恐ろしいほど静かになった。下の地面に立っているのは、シェスターひとりだけ。彼が剣を振ると、血しぶきらしきものが地面に散っていった。
そこでようやく、状況がのみこめた。彼はたったひとりで、男たちを全部倒してしまったのだ。それも、息ひとつ乱すことなく。
時代劇で、こんな感じのシーンを見たことがある。主人公はたった一人で、たくさんの敵を鮮やかにやっつけ、涼しい顔をしていた。ちょうど、今のシェスターのように。
けれど一つ、決定的に違っているところがあった。時代劇では、敵はただ倒れているだけ。
でも今、地面に倒れている人たちの下には、血だまりがあった。それはどんどん広がり、土を、草を、ぞくりとするような赤に染めていく。
「……死んじゃった、の……?」
そうつぶやいた私の声は、震え、かすれていた。シェスターが木の下までやってきて、こちらを見上げてくる。
「ああ。もう危険はなくなった。降りてこい」
「……降りられない……木登りとか、したことないんだもん……」
高いところへの恐怖と、辺りに満ちた血の臭いへの嫌悪と忌避感。それらにがちがちと奥歯を鳴らしながらつぶやくと、シェスターは深々とため息をついて、両手を差し伸べてきた。
「だったら、落ちてこい。受け止めてやる」
彼は、見かけより力がある、と思う。さっき私をあっさりとここまで放り上げていたし、受け止めることもできる、と思う。
でも……下の人たちを殺したのは、彼だ。そうしなければこちらが殺されていたのだと、分かってはいるけれど……彼のことが、怖い。
木の枝にしがみついた腕がこわばって、動かせない。けれど、彼から目をそらすこともできない。
「……本当に、お前は平和なところで暮らしてたんだな」
そんな私を見上げたまま、シェスターがひどく寂しげにつぶやいた。今まで見たことのない表情に、思わず目を見張る。
けれど彼はすぐに顔をひきしめると、力強く言い放った。
「目を閉じろ、カレン」
「う、うん……」
彼が私に何をさせようとしているのか、分からない。それでも言われるがまま、指示に従った。
目の前が暗くなって、ほっと息をつく。けれどそのせいで、辺りに立ち込める血の臭いが強く感じられた。恐怖をかき立てる生々しい臭いは、とても夢の中だとは思えない。
えずきかけた私に、また鋭い声が飛んできた。
「カレン! 左足を下に伸ばせ!」
指示に従うと、また次の指示が飛んでくる。
「次は、左腕を下!」
自分がどんな姿勢になっているのか考えることすらできず、どんどん体を動かす。
「そのまま、左に体重をかけろ!」
そんなことしたら落ちちゃう……と正気に戻りかけたそのときには、もう落ちていた。びっくりして目を開けたら、空が見えた。でも、すぐに見えなくなる。
「じっとしていろ!」
シェスターの声が、やけに近い。どうしてかなと思ったその時、ぼんぼんと体が揺れるのを感じた。あ、どうやら彼が私を抱えて運んでるみたい。
なんでもいいや、あの場所から離れられるのなら。ぼんやりとそんなことを考えながら、もう一度目を閉じた。
そのまましばらく運ばれ続けて、ふと、我に返った。
私の背中から右肩と、ひざの下に腕の感触がある。もちろんこれは、シェスターの腕で……それに、体の左側だけが妙に温かくて……わ、これって、いわゆるお姫様抱っこ!?
しかもただ抱え上げられているだけではない。私は上体を軽くひねって、彼の胸板に寄り添うような、というか抱きつくような体勢になっていた。
た、たぶんこれって、彼なりの配慮なんだと思う。恐怖で動けなくなっていた私を、これ以上怖がらせずに、しかも安全にあの場から連れ出そうという。
つまり、えっと、ここで騒いだり暴れたりしたら、余計に迷惑がかかっちゃうから。じっとしてないといけないんだけど……密着し過ぎていてどうしよう。ほんとどうしよう。
どうしていいか分からずにフリーズしたまま、私は荷物のように運ばれていった。
そのまましばらく運ばれて、ようやくシェスターは立ち止まった。
地面に下ろされた時にはもう、足ががくがくで……どうして運ばれてた私より、人ひとり抱えて走ってた彼のほうが平然としてるのかな。
とはいえ、その前に言うべきことがある。彼に向き直って、勢いよく頭を下げた。
「……ありがとう。助けてくれて、それと、木から降ろしてくれて。えっと、あと、ここまで運んでくれて」
突然のことだったとはいえ、彼には迷惑をかけまくってしまった。そのことがありがたくて、申し訳ない。
木の上でじっとしていたから、戦いの邪魔はしなかったと思うけれど……結局、木から降りられなくなっちゃったし……。
それにさっきまでの私は、見事に浮かれていた。きっと彼がぴりぴりしていたのは、こういう事態を想定していたんだろう。それにも気づかず、私は彼にしつこくなれなれしく話しかけてはうっとうしがられて……。
「……旅が危ないって知らなくて、私、浮かれてた。反省します」
しょんぼりしながらもう一度深々と頭を下げたら、困ったような声が返ってきた。
「いや、気にするな。とりあえず顔を上げろ。調子が狂う」
そろそろと顔を上げると、静かにこちらを見つめているシェスターと目が合った。気のせいか、ちょっと悲しそう。
「……この世界って、こういうこと……よく起こるの?」
「ああ。だからじいさんたちは、世界を平和に導くという聖女を呼ぼうと必死になっている。今頃、改めて聖女を呼ぶための儀式の準備に大わらわだろうな」
そう説明する彼の口調は、やけにとげとげしい。私から目をそらして、遠くの空を見つめて、彼は続けた。
「……聖女なんかに頼る前に、やることがあるだろうに」
どういうこと? と尋ねたけれど、答えてはもらえなかった。ただ、気にするなと返されただけで。
目を細めた彼の辛そうな横顔が、やけに印象に残った。