14.聖女、降臨する
カレンたちが民を救いながら旅を続けていた、ある日のことだった。
聖堂に隣接する祭壇、かつてカレンが舞い降りてきた、あの場所に、一人の女性が立っていた。
彼女は明るい茶色に染めた髪を巻いて背中に流し、暗い茶色の目を見開いている。明らかに成人しているその顔には、丁寧に化粧が施されていた。
「……なによ、ここ……あたし、夢でも見てるの?」
タイトスカートにブラウスといったシンプルな装いで、首にかけた紐の先には、透明なケースに入った社員証が下がっている。足元は、動きやすくしゃれたパンプス。
彼女のいでたちは、重厚な石造りの祭壇にはまるで釣り合っていなかった。
カレンのときとは異なり、祭壇を囲む民衆の姿はない。そのせいか、辺りはやけに寒々しかった。
そんな彼女に、小さな影が近づいていく。神官たちを従えたアルモニックだ。突然現れた見慣れない装束の一団に、女性は警戒もあらわに身構える。
「……お名前を、お聞かせ願えますかな」
女性は一瞬ためらい、アルモニックをじっと見つめる。穏やかな笑みを絶やさないその様子に、少しだけ警戒を解いたようだった。
「その……早川かりん、だけど。あ、外国の人みたいだし……カリン・ハヤカワ。これで通じる?」
カリンの言葉を聞いた神官たちが、一斉に色めき立つ。いきなり歓喜の声を上げ始めた彼らを見て、カリンがまた身構えた。
「ようこそいらっしゃいました、カリン様。あなたこそ、わたくしたちがずっと待ち望んでいたお方です」
そんな彼女の緊張をほぐすように、アルモニックがひときわ柔らかな声で呼びかける。
「待ち望んでいた……って、そもそもここはどこなの!?」
「あなたがおられた世界とは、異なる世界にございます。そしてあなたは聖女として、選ばれました」
「せ、聖女!? なにそれマンガかなにか? それともあたし、夢でも見てるの!?」
「夢ではございません。あなた様は確かに、この世界を救うため遣わされた聖女」
アルモニックの言葉を聞いているうちに、少しずつカリンも落ち着きを取り戻し始めていた。
そして彼女は、こんなことを考えていたのだった。夢だとしても、なんだかかっこいいシチュエーションよね、と。
彼女は現代日本の、ごくありふれた会社員だ。早く玉の輿に乗って仕事を辞めて、専業主婦になりたいという野望を抱いてはいるが。
その野望のために、彼女はたゆまない努力を続けていた。女磨きをし、いい男のいる場所に頻繁に出向いていた。それでも成果は出ず、玉の輿どころかここ数年恋人すらいない、そんな生活を送っていたのだ。
そうやって失敗を重ねていくうちに、彼女はどんどん落ち込んでいった。もしかしたら自分は取るに足らない、だめな女なのかもしれないと、近頃ではそんなふうに考えてしまうこともあったのだ。
「……夢でもなんでもいいわ。ようやく、あたしにも運が回ってきた……」
神様、ありがとう。あたし、この世界では重要な存在みたい。
内心ガッツポーズをしながら、カリンは接客用の笑みを浮かべている。彼女が聖女としての立場を受け入れたことを見て取ったのだろう、アルモニックの顔にも安堵の色が広がっていた。
「ねえ、あたしは聖女なのよね。この世界を救う……とかなんとか言っていたけれど、何か特別な力があったりするの?」
ちょっぴりわくわくした顔で、カリンはアルモニックに尋ねている。アルモニックは深々とうなずいて、厳かに答えた。
「はい。聖女は一つだけ魔法を使うことができるのです。この世界を救うため、神が与えたもうた力だと、そう言われております」
「魔法! すっごい!」
カリンは両手を合わせて、目を輝かせている。そのさまを、アルモニックは静かに見守っていた。
と、聖堂から祭壇に通じる通路が、にわかに騒がしくなった。
「副長、怪我の手当てを!」
「かすり傷だ、問題ない」
「しかし、私をかばってそのような……」
「盗賊どものなまくら刃など、取るに足らん」
男たちの一団が、そんなふうに話しながらアルモニックに近づいてきた。神官騎士たちだ。先頭を歩くメルヴィルの袖がほんの少し切れていて、血がにじんでいた。
メルヴィルはきびきびとアルモニックの前に立つと、敬礼をして口を開いた。
「アルモニック様、周辺の盗賊たちの討伐、完了いたしました」
あ、イケメンだわ。メルヴィルを見たカリンは、真っ先にそんなことを思った。それに、ちょっといい地位についているみたいね。周りの男性たちが、敬意を払っているし。
彼女はメルヴィルに少しだけ見とれていたが、メルヴィルとアルモニックの話が終わったとみるや、すかさず口をはさんだ。
「そちらのあなた、腕は大丈夫ですか? とても痛々しい……」
今までの女磨きで鍛え上げた、ちょっぴり男にこびるような仕草と目線、それに声音。それらを総動員して、カリンはメルヴィルにちょっかいをかけることにしたのだった。
「お気遣い、ありがとうございます。失礼ですが、お名前をうかがっても……?」
そしてメルヴィルは、カリンのいでたちを見てすっと背筋を伸ばした。かしこまって尋ねる彼に、カリンは優雅に、しかし上目遣いで答える。
「はい。カリン・ハヤカワと申します」
それを聞いたメルヴィルが驚きもあらわに、カリンにひざまずいた。
「なんと、やはりあなたが聖女様でしたか……私はメルヴィル・コリンス、神官騎士団の副長を務めております。以後、お見知りおきを」
地位も実力もある好青年が、自分にかしずいている。その事実に喜びを覚えながら、カリンはそっと手を差し伸べた。
「ええ、もちろんです。それよりも、その腕……手当てしたほうが……」
彼女の手がメルヴィルの腕に触れたとき、それは起こった。
カリンの手がふわりと光を放ち、メルヴィルの腕に吸い込まれたのだ。メルヴィルがはっと目を見開いて、自分の腕を、血に染まったそこを確かめている。
「……傷が……消えた……?」
祭壇が、静寂に包まれた。そして次の瞬間、神官と神官騎士たちがカリンとメルヴィルに殺到する。
そうして本当に傷が消えていることを確認すると、彼らは一斉に叫んだ。聖女様の魔法だ、こたびの聖女様は癒しの魔法を使われるぞ! と。
そのままみなで、喜びにわいわいと騒ぎ始める。
「……無事に、聖女様も降臨なさいました。こうなると……」
神官たちと神官騎士たちに囲まれて幸せそうな笑みを浮かべているカリンを見て、アルモニックがつぶやく。しかしその顔からは、いつもの微笑は消えていた。
「彼女の存在が、邪魔になりますね……」
それを聞きつけたのか、カリンにあれこれ話しかけられていたメルヴィルがその場を離れ、アルモニックのそばまでやってくる。
「アルモニック様、そのことについて一つお話が」
がっしりとしたその顔は、緊張にこわばっていた。
「先日、私は彼女と会い、言葉を交わしました。彼女は聖女についての研究者として、既にこの世界になじんでいるようです」
メルヴィルはかつて、嘘をついた。
彼はカレンの事情について知らないふりをしていたけれど、彼女が間違ってこの世界に呼ばれてきたことも、彼女が聖女の記録を集めている理由も、全て知っていた。
そうして、さりげなく彼女に接触した。彼女がどのような人物なのか、見定めるために。
「彼女は、無害です」
それが、メルヴィルの結論だった。カレンが望むのはただ元の世界に戻ることだけであり、事を荒立てることも、表舞台に立つことも望んでいない。まして、むやみに世を乱し、人々を混乱させるなど。
「メルヴィル。この世界の秩序を保つためなら、一人の少女の犠牲など小さなものでしょう」
しかしアルモニックは、穏やかな笑みを浮かべたままそう言った。
「彼女は、存在そのものが危険なのです」




