トイレから夫
女の独り暮らしをしております。
1Kの小さなアパート住まいです。
19歳の美少女ですので、表札には男の名前を書いています。
この間のことでした。
私が買い物に行くため、玄関へ向かって歩いていると、ペットの白猫ちゃんが追いかけてきました。これはいつものことなんですけど──
「ごめんねー、すぐ帰ってくるからお留守番しててねー」と言おうとして振り向くと──
ちょうど目に入る位置にあった、トイレのドアが、すうっと開いて、その隙間から誰かが覗いて、慌てたように、すぐに閉まったんです。
血の気が引くってこういうことなんだなと思いました。
どう考えても見間違いじゃなかった。窓を閉め切ってるから風で開いたりするわけないし、何よりドアはぴったり閉まっています。
おそるおそる、トイレのドアに近づきました。
中から鍵がかかってるかも? と思いましたが、レバーは簡単に動きました。
これでレバーを引けば、ドアが開きます。
……しまった、何か武器になるものを手に持ってればよかったと思いましたが、そう思った時にはもう、ドアを開けてしまっていました。
中にはにっこり笑顔の男のひとが立っていました。
40歳ぐらいの、ふさふさとした鳥の巣みたいな頭のひとです。服は着ていました。声も出せずに一瞬固まった私が悲鳴を上げるよりも早く、そのひとは言いました。
「あっ。びっくりしないで、瑞希」
自分の名前を正確に言われたので、さらに固まってしまいました。
『だ……、誰?』と無言で問い詰める私に、そのひとは優しい笑顔で答えました。
「俺、君の未来の夫。こんなところにタイムスリップして来ちゃった」
「け、警察を呼びますよ!」
ようやく私の口から声が出ました。
白猫ちゃんはどうしたらいいのかわからないように、私と男のひとを交互に見ていました。
「信じられないのは無理もない。こんなのフィクションじゃよくある話だけど……」
男のひとは私をなだめようとする手つきをしながら、必死に説明します。
「ちょっと理由あってね、時空を飛び越えて会いに来たんだ。聞いてくれ、瑞希」
私は何か武器になるようなものは部屋の中になかったかと頭を巡らせ、震えて言うことをきかない手足をガクガクさせながら、白猫ちゃんを抱き上げ、男のひとにそれを武器として突きつけようとして、動顛してしまった自分を恥じ、大人しくなりました。白猫ちゃんは爪をひっこめた手で私に抱きつきました。
「改めて自己紹介させてくれ」
彼が私を安心させるように笑顔で言います。
「俺の名前はキリト。君が25歳の時に出会い、2年交際してから結婚することになる。
君のことは何でも知ってるよ。
趣味は牛丼屋巡り、特技はたまご割り、好きなバンドは『つゆだく豚丼』、好きな体位は……おっと、これは俺が開発したんだった。左の腰骨の上に大きなホクロがあるだろう?」
私の足が、自分の足じゃないようにガクガクブルブル震えだしました。
このひと、どうして私のことをそんなに知ってるの?
どこで私をどんなふうに観察していたの? ホクロのことまで……
「とにかく……聞いてくれ、瑞希!」
彼の声がおおきくなりました。
「君は27歳の時、俺と結婚してすぐに、子どもを産めない身体になってしまう! だから、今すぐ俺と、そうなる前に、子どもを作るんだ!」
「はぁ!?」
「未来の君も、子どもを欲しがっている!」
彼が手を広げました。
「俺も、俺の子を、君に産んでほしい! 産ませたい! だから……さぁっ!」
彼が飛びかかるように襲いかかってきました。
「待てや!」
トイレの中から、今度は女のひとの大声がしたので、私たちは固まり、そっちのほうを見ました。
するとそこに20年後の私がいて、彼と私を睨みつけています。
そのひとはトイレからゆっくりずんずんと出てくると、男のひとの胸ぐらを掴んで持ち上げ、殺気のこもった声で言いました。
「あんた、何を浮気しようとしとんじゃ? ああん!?」
「いやいや……! 浮気じゃないだろ、コレ。この娘は21年前の瑞希……君自身なんだから」
「おおかた若い頃の──それどころか出会う前の若い私とだったら合法にえっちぃことができる思うて、タイムマシン悪用しよるんじゃろ? ああんっ!?」
「いや……。この頃の君なら子どもが産める! 彼女に産ませて、未来へ連れて帰って……」
「若い頃の私の意思は!? 合意の上の子作りなんか? あああんっ!?」
私は彼女に声をかけました。
「……私、子どもが産めない身体になっちゃうの?」
ピタリと彼女の怒声が止まりました。
優しい目つきになると、私に近づいてきて、白猫ちゃんの頭を撫でます。皺のやわらかそうなひとでした。
「白猫ちゃん……。わぁ、また会えたね。……あのね、私、病気にかかって、子宮を全摘出しちゃったの。……でも、子どもが産めなくなった以外は、身体はなんともないのよ?」
「そうだ!」
彼が大声で言いました。
「3Pしよう!」
未来の私の全力を込めたキックが彼をトイレの中のその向こうの未来まで吹っ飛ばしました。
彼を追うように、未来の私もトイレに駆け込み、彼女が後ろ手に閉めたドアを開けた時にはいなくなっていました。
その夜、私は寝つけませんでした。
知りたくない未来を知らされてしまった……。
どうせ出てくるなら、なんでも望みを叶えてくれる猫型ロボットのほうがよかった。そう思いながら──
いえ、子どもが産めなくなるのはべつにいいのです。27歳が近くなったら、自発的に病院に行けばなんとかなるかもしれないんだし。
それよりも──
知りたくもなかったことでした、未来の夫があんなのだなんて……