第42話:昔懐かし銭湯へ
「だから銭湯よ、銭湯! シャワーの使えないお風呂よりも、使えるお風呂の方がいいでしょ!?」
「そんな事言われてもよ、ここら辺に銭湯なんてあるのか?」
言いながら俺は、携帯のアドレス帳を開いて、銭湯のある場所を知っていそうな奴の名前を探していた。
そんな俺達は今、リビングの中心にあるテーブルを囲むようにして座っており、シャワーが使えないと知った和葉が我が儘を言っているという状況だ。
「あ、圭吾に聞いてみたらどう? 彼ほどの情報通なら詳しいかもしれないわよ?」
言われる前に、圭吾の携帯にコールしていた。
それから数秒待たされ、そして聴き慣れた声が受信機器を通して聞こえた。
『うぃ、どうした?』
「あぁ、聞きたい事があるんだが、桐河町付近に銭湯があるか知ってるか?」
問うと、圭吾は少し間を空けてから答えた。
『………いや、記憶にねぇな。わりぃ。――おい、ちょっと待て。そこはゴシックにした方がいいぞ。影付きのな』
「……聞くが、何やってんだ?」
『いや、気にするなって。ちょっと作業中なだけだ』
『圭吾さん、誰と話しているんですか?』
……女の声?
『前に話した霧島 亮だよ。――わりぃ、作業に戻りたいんだが……もう良いか?』
「あ、あぁ! もう良いぞ! お疲れな!!」
これ以上、圭吾の邪魔をする訳にはいかない気がした為、すぐに電源ボタンを連打した。
……にしても、一緒にいた女は誰だったんだろうか?
声からして学生に値する年齢だろうが、小中高のどれかかはさすがにわからない。
聞いた事のあるような何か少し違うような声だった、というのだけは分かる。
「ねぇ、どうだったの?」
正面からの和葉の問いと同時に、俺は思考を停止させて首を左右に振った。
駄目だった、という意味をもった表現に、和葉は溜息をついた。
っと、その時だ。
不意に、キッチンの方から夢月の声が響く。
「お兄ちゃん、奈々ちゃんに聞いてみたらどうかな?」
「奈々? ……あぁ、姉御か。どうしてだ?」
「だって、奈々ちゃんのような喋り方ってお爺さんみたいじゃない? だから、銭湯とかにも詳しいかなっと思って」
妹よ、爺だからと言って銭湯に詳しいという考えは間違っているぞ……。
少なくとも、クソジジイは銭湯に関して無知だ。
っというか、常識に関して無知だ。
……とは思ったものの、可能性を試してみるのも悪くないな。
「わかったよ、駄目元で聞いてみる」
言いながらアドレス帳から川瀬 奈々の名を探し出し、早速コール。
そしてしばらく待つと、
『――お前がわしに電話するなど、初めてじゃな。どうしたのじゃ?』
「初っ端から失礼だな……あっと、聞きたい事があるんだが、桐河町付近に銭湯があるか知ってるか?」
『銭湯か……』
しばしの沈黙。
やっぱり、知ってるわけないか?
っと思ったその時、予想外の返答が帰ってきた。
『なら、いい場所を知っておるぞ? 住所と名前を教えるから、紙を用意せい』
「マジかよ!?」
思わず声に出てしまった事に苦笑しつつも、前に居る和葉に声を出さないよう、かみとぺん、と口を動かしておく。
すると和葉はしばらく間を置き、何かわかったのか立ち上がってどこかへ行った。
そして戻って来て俺の前に何かを置いた。
それは、
「……惜しい、何かが惜しいんだよ。缶とペンじゃない、紙とペンなんだ」
俺の前には、ご丁寧にペンを缶の中に挿した物が置かれていた。
「そ、そうならそうと、ちゃんと言いなさいよっ! 恥、掻いちゃったじゃない!」
頬を真っ赤にして訴える和葉に苦笑しつつ、俺はペンを缶から抜いてペンの後部を押す。
そうして出たペンの先端を自分の手の甲に近付け、書く構えをする。
「ま、ありがとな。――準備出来たぞ、姉御。住所と名前を教えてくれ」
「ふむ、それはだな――」
俺達の住むマンションから十五分ど歩いた先に、それはあった。
昔懐かしい作り、と言えばいいのか、外の入口からいきなり男湯と女湯が分かれているというレトロな作りになっている。
そしてそれぞれの入口が引き戸になっており、その手前には青や赤の暖簾が掛かっていた。
「銭湯〝任侠自慢〟……何と無く近寄り難い名前よね……」
引き攣った笑顔を作る和葉は、どうしても一歩が踏み出せないようだった。
だが隣に居る夢月は、早く入りたくてウズウズしているようだった。
「……そいやぁ夢月、お前銭湯初めてだっけか?」
「うん! そうなんだよ! だから楽しみなんだっ!!」
大分、楽しみにしているようだな……。
何はともあれ、もう九時を回っているからか、客の出入りが全く見られないこの銭湯は、果たして儲かっているのか疑問である。
「とりあえず、入るしかないだろ」
「背に腹は変えられないってのは、まさにこの事なのね……」
和葉はまるで、収容される囚人のように渋々と、赤い暖簾を潜って夢月が開けた引き戸から入って行った。
それに続いて俺は青い暖簾を潜り、引き戸を開けて中に入る。
そしてその時に聞こえた声は、
「おぉよく来たのう! 待っておったぞ?」
入ってすぐ左側にある番台から、聞き覚えのえる声がした。
っというか、それはついさっき聞いた声であって……。
「あ、姉御!?」
そこには腕を組んで、満面の笑みを見せている姉御の姿があった。
「あ、奈々ちゃんじゃん! 久しぶり!」
「うむ、久方ぶりじゃな、夢月。それと……お主は転校生の如月 和葉じゃな?」
「えぇ、そうよ。こんな所で会えるなんて奇遇ね、川瀬さん」
微かな笑みで返した和葉は、会釈して早々とロッカーへと向かった。
それを追って、夢月もロッカーへと向かい、すぐに二人の姿は見えなくなった。
すると姉御は、俺の方を向いてため息をつく。
「無愛想な娘じゃのう……わしの苦手な性格じゃ」
「どうやら、そのようだな。ま、その内慣れるだろ。――っと、それより聞きたい事があるんだが」
「ん? 何じゃ」
「何で今更、レトロな銭湯なんてやってんだ? ここら辺はニュータウンだから、建てたのは最低でも三年前だと思うから尚更だ」
問うと姉御は、ふむ、っと言って銭湯の中を見渡した。
それはまるで、俺にも見渡してくれと言っているようだった為、俺も見渡す。
「……わしの祖父が江戸っ子でのう、どうしても昭和の感じが蘇る銭湯を建てたがってたのじゃ」
見渡す先、浴室方向には低い仕切りがあり、その隅には牛乳などが入ったガラス張りの冷蔵庫があり、その手前の壁際には年代物の、椅子型の赤いマッサージ機が数台置かれている。
そして仕切りの向こう側には木製で長方形型のロッカーが平行に並んでおり、それより奥がガラスとガラス張りの扉で隔てられた浴場が見える。
「見事な再現力だな。テレビでしか見た事無いがわかる。さぞかし爺さんは喜んでたろ?」
「あぁ、喜んでおった。……今はもう、亡くなっておらんがの」
視線を姉御に戻すと、懐かしい何かを思い出すような表情で虚空を見ていた。
だが、俺の視線に気付くと、すぐに視線を俺に合わせて微笑した。
「なんじゃ? 見とれてたか?」
「それは、自分が綺麗だと自惚れてるのか?」
「……少しはお世辞でも上手くなれい。さもなくば、ただの甲斐性無しにしか見えぬ」
言って笑う姉御は、不意に片手を差し出してきた。
「………?」
「代金じゃ、代金。銭湯は先払い制である故、はよう全員分の六百円を出すのじゃ」
「六百円? って事は……一人二百円!? 安すぎるだろ!」
そう言いつつも財布から千円札を取り出し、姉御が差し出している手に載せる。
すると姉御はそれを番台の下にあるであろうレジに入れ、代わりに四枚の硬貨を俺に渡した。
「これくらいの値段でないと、お客が来ぬのでな。それに、維持費は充分にある。後は、銭湯に安く入りたい者へのサービスじゃな。――さ、疲れを癒しに行って来い」
わかったよ、と返事をして、俺は木製のロッカーへと向かった。
見るとそのロッカーには、部屋と部屋を隔てる仕切りが無く、代わりに衣服を入れるのに丁度いい籠が置かれていた。
……にしても、思えば俺も銭湯は初めてなんだよなぁ。
湯船に浸かる前にやる事とかあるのか?
タオルは湯に浸けたら駄目だったよな?
シャンプーとか置いてあるのか?
無かった場合はどうすりゃいいんだ?
持って来てねぇぞ?
っと、そこまで思考して急停止させた。
「………悪い癖だな………」
服を脱ぎながら呟き、苦笑する。
悪い癖というのは、一つの疑問を持つと思考に集中し、されど疑問だけを増やしてしまう事だ。
それは小学生の頃からだったが、二年前からそういう思考はしないようにしている。
疑問を思考しても新たな疑問を増やすだけとなるのなら、最初から思考しなければいい、と思い立ったからだ。
「――ほうほう、やはり鍛え上げられておるのぉ。いい身体をすれおるわい」
「なっ!?」
不意に聞こえた姉御の声に驚き振り向くと、番台から身を乗り出している姉御の姿が見えた。
「た、質が悪いぞ姉御!!」
「ふふふっ、鬼神と呼ばれた男がどんな鍛え方をしておるのかと思ってのう。――案の定、いい鍛え方じゃのう! 無駄な肉は何一つ無く、見た感じは普通に見えるが、実際の筋力はそれを思わせないほど協力じゃ」
そ、そこまで力説されると、姉御が色んな意味で怖くなる……。
内心で呟き、少し引き気味の俺を他所に姉御は、うんうん、と二度頷いた。
「さすが、如月翁に鍛えられたと言われているだけあるのう」
「……如月翁? ……クソジジイか!!」
聞きたくも無い名前を耳にした俺は、声を上げた。
同時に、クソジジイの腹の立つ顔を思い出してしまった。
歳の癖に、飛び跳ねるほどの元気があるクソジジイを。
「そうか、やはりクソジジイと呼んでおったか。ご老体は大事にせぬといかんぞ?」
「あいつは大事にしなくても、ゴキブリ並みの生命力を持ってるから大丈夫だ。不死だぞ? あれは」
言いながらズボンを脱ぎ、籠に突っ込んだ所で止まる。
「………な、なぁ、姉御。そろそろ向こう向いてくれるか? もう全裸になるんだが……」
半目で姉御を見ながら言うと、当の本人は急に笑い出した。
「ふっ、はっはっはっ! 鬼神ともあろう男が、女子に裸を見られるくらいで恥ずかしがるとはのぉ! お主、やはり面白い奴じゃ!!」
「いやいや、それは昔の呼び名で……――ってか、俺は男だぞ!? 恥ずかしがるに決まってるだろ!」
「じゃったら、わしに見られぬよう、同時にプライドを守る必要があるのう……ほれ、さっさと脱ぐがよい」
俺、唖然。
ってか、風呂入りに来ただけだったよな? 俺。
それにさっきから、姉御からSっ気が伝わってくる気がする。
などと冷や汗を掻きながら思った俺は、ロッカーの上にあった貸し出し式のタオルを手に取り、それを壁代わりにして下着を脱いでタオルをしっかり腰に巻くと、一目散に浴場へと突入した……瞬間、視界が急に天井を向いた。
「――はぃ!?」
原因は足に感じた濡れている固形物、石鹸であろうそれによって滑ったようだ。
だが、ここで転べば、オープン状態の入口から直で姉御の視界に入り、笑い者とされてしまう……。
だが……!!
刹那、宙にある身体を力一杯仰け反らせ、両手をタイル張りの床に着けて後ろに宙返りし、転ばすに着地する。
そうなる筈だった。
身体を仰け反った直後、視界の両手が着く位置に一つの物が映った。
それは、
「また石鹸!?」
叫んだのとほぼ同時、石鹸が両手に当たって滑り、石鹸は浴場に向かって発進した。
そして俺は、大の字のような体勢でタイルの上に落ちた。
痛みに苦笑する中、頭上の方向からは姉御の苦しそうな笑い声が聞こえた。