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生物研究者の記録映像

生物研究者の記録映像


淡く灯る塔の回廊に、次の扉はひっそりと口を開けていた。

 主任研究者、工学研究者、情報構築担当者――三つの記録を見終えたあと、優人たちはしばらく言葉を失っていた。

 世界の真実は、あまりにも静かで、あまりにも重かったからだ。

 それでも、まだ終わっていない。

 塔の内部には、まだ見ていない部屋がいくつも残っている。

「……もう一つ、ありますね」

 ユリナが小さく呟いた。

 指先が示す先、薄暗い通路の奥に、半開きの扉がある。そこからは、ほのかに土の匂いのような、どこか懐かしい香りが漂っていた。

 機械油と金属の匂いが支配していたこれまでの部屋とは、明らかに空気が違う。

「行こう」

 優人が静かに言うと、麻美が少しだけ肩をすくめながら頷いた。

 エレノア姫は無言のまま、周囲を警戒している。

 扉を押し開けた瞬間――

 ふわり、と。

 乾いた葉と土の混じった、温かな匂いが彼らを包み込んだ。

 部屋の中は、これまでの記録室とはまるで違っていた。

 壁際には棚が並び、その上には無数の小瓶や布袋が整然と置かれている。瓶の中には種のようなもの、粉末、乾燥した植物片。

 床には木箱がいくつも重ねられ、片隅には見慣れない農具らしき道具が立てかけられていた。

 そして中央の作業台には、分厚い記録装置。

 だが周囲には、作りかけの機械や精密工具はほとんどない。

 代わりに、温室を思わせる小型の培養装置や、透明な容器に入った苗のようなものが並んでいた。

「……ここだけ、雰囲気が違うね」

 麻美が小声で言う。

 優人も同じことを感じていた。

 この部屋は、未来の最先端施設であるはずなのに――どこか、昔の研究室のような、人の手の温もりが残っている。

「記録を起動しよう」

 エレノア姫の問いに、優人はゆっくりと頷いた。

 指先で装置の起動ボタンに触れる。

 低い起動音とともに、空中に光が集まり、やがて一人の人物の映像が立ち上がった。

 そこに現れたのは、これまでの研究者たちとは明らかに異なる雰囲気の人物だった。

 年齢は三十代後半ほど。

 柔らかな茶色の髪を無造作に後ろで束ね、白衣ではなく、動きやすそうな深緑色の作業着を着ている。袖口は土で薄く汚れ、胸ポケットには手書きのメモが何枚も差し込まれていた。

 鋭い研究者というより、畑に立つ学者――そんな印象だった。

 優しい目をしたその人物は、少しだけ照れくさそうに笑ったあと、静かに語り始める。

『……ああ、起動したか。

 君がこの映像を見ているということは、塔に辿り着いたということだろう』

 声は穏やかで、どこか人懐こい。

『先に断っておく。私は、他の三人とは立場が違う。

 この塔の管理に関わって呼ばれたわけではない』

 ユリナが小さく首を傾げる。

 映像の研究者は、作業台に軽く寄りかかりながら続けた。

『私は生物研究者だ。

 文明が極度に発達する以前――つまり、自然の動物や植物がまだ「自然のまま」存在していた時代の生態を研究していた』

 その言葉に、優人の胸がわずかにざわめく。

『主任研究者に呼ばれた理由は単純だ。

 農作物の種、栽培方法、そして古典的な生産手段の知識を、この塔に保管してほしいと頼まれたからだ』

 映像の背後に映る棚の瓶が、静かに光を反射する。

 ――やはり、あれは種なのか。

『未来へやってくる君へ。

 まず、我々人類の生物的な歩みについて話しておこう』

 研究者は一度、遠くを見るように目を細めた。

『私たちの時代の農業は、完全に自動化されている。

 土すら必要ない。培養槽と制御工場があれば、あらゆる食料が安定して生産可能だ』

 麻美が目を丸くする。

「土がいらない……?」

 優人は黙って映像を見続けた。

 研究者は、苦笑した。

『土に種を植え、水をやり、成長を待つ。

 そういう「原始的」な農法を知っている人間は、私のような変わり者だけになってしまった』

 その言葉には、自嘲と誇りが混ざっていた。

『人間についても、すでに説明があっただろう。

 我々の時代の人間は、生まれた時点で体内に情報を受け取るための装置が埋め込まれている』

 優人は、情報構築担当者の記録を思い出す。

 目に見えない微細な存在が世界を満たし、それを媒介に情報が伝達される社会。

『そして人間だけに留まらず、多くの動植物も、人間の手によって改変され、生み出された存在が増えている』

 研究者の表情が、ほんのわずかに曇る。

『……私は、それを人類の負の遺産だと考えている』

 静かな言葉だった。

 だが、その重さは、これまでのどの記録よりも深く胸に沈んだ。

『一昔前、世界的に流行した施設があった。

 「幻獣動物園」と呼ばれるものだ』

 【幻獣動物園】その言葉を聞いた優人が真っ先に思い出したのはブラッククロウ--八咫烏のことだった。

『複数の動物の特性を組み合わせ、

 ドラゴン、ユニコーン、妖精、人魚のような存在を人工的に生み出し、展示していた』

 部屋の空気が、一瞬で冷えた気がした。

『遺伝子を調整して生み出された彼らは、

 気性が荒く、攻撃的な個体も多かった。

 しかし当時は、強制的に従わせる制御装置も同時に発達していたため問題にはならなかった』

 エレノア姫の手が、わずかに剣の柄を強く握る。

『だが、第4次世界大戦の混乱の中で――

 多くの施設が崩壊し、彼らは世界各地へ逃げ出した』

 優人の脳裏に、外の荒廃した世界がよぎる。

『中でも、ドラゴンは人間を積極的に襲う個体が多く、

 各地で討伐対象となり、絶滅させられた』

 研究者は深く目を伏せた。

『もし、はるか未来でも生き残っているユニコーンや妖精がいるのなら……

 どうか、そのまま自然の中で生かしてやってほしい』

 その願いは、研究者というより、一人の生命を愛する人間の祈りだった。

 やがて彼は顔を上げ、少しだけ柔らかく微笑む。

『農業に使う道具、肥料、種子。

 すべて、この部屋に残してある。自由に使ってくれて構わない』

 麻美がはっとしたように棚を見る。

『また、すぐに食べられる食料も大量に備蓄してある。

 保存量から考えて、約一年は問題なく生活できるだろう』

「一年……!」

 麻美が小さく声を上げる。だがすぐに、眉をひそめた。

「……でも、三千年も経ってるんだよ?

 そんなの、食べられるわけ……」

 その瞬間。

 まるで彼女の疑問を見透かしていたかのように、映像の研究者が次の言葉を口にした。

『食料の保存について心配しているかもしれないが、安心してほしい』

 優人と麻美は同時に顔を上げる。

『保管庫は、いわば「時間が停止した状態」を維持する装置になっている。

 外部の時間経過の影響を受けない』

 研究者は、画面の外にある何かを指差した。

『解除ボタンを押すことで、時間凍結を解除できる。

 解除しなければ、何千年でも品質は変化しない』

 優人は、思わず息を呑んだ。

 時間を止めた保存。

 それは単なる保存技術ではない。

 時間干渉そのものの応用だ。

『……本来、時間干渉技術は』

 研究者の声が、少しだけ低くなる。

『正しく使えば、人類の生活をどこまでも豊かにできるものだった』

 沈黙が落ちた。

『だが、我々は――

 それを戦争に使ってしまった』

 後悔の色が、はっきりと表情に浮かんでいる。

 部屋の静寂が、重くなる。

『これが、私の記録だ。

 他の研究者たちのように、壮大な理論や装置の話はできないが……』

 彼は、優しく笑った。

『この塔は、君たちが自由に使っていい。

 食料も、道具も、知識も。すべてだ』

 最後に、研究者は真っ直ぐこちらを見つめた。

『どうか、生き延びてほしい。

 そして――この世界を、自分の目で見て判断してくれ』

 淡い光が揺らぐ。

『記録映像は、これで終わりだ。

 ……健闘を祈る』

 その言葉と同時に、映像は静かに霧散した。

 再び、部屋には静寂だけが残る。

 棚に並ぶ無数の種子。

 整然と置かれた農具。

 そして、三千年の時を越えて待ち続けていた食料。

「……なんか」

 麻美がぽつりと呟いた。

「一番、優しい人だったね」

 ミレイも小さく頷く。

 ユリナは無言のまま、部屋を見回していた。

 優人は、ゆっくりと深く息を吐いた。

(科学、情報、工学……そして、生物)

 塔に残された記録は、ただの技術の遺産ではない。

 それは、人類がどこまで進み、どこで過ち、何を守ろうとしたのかという記録そのものだ。

 優人の視線が、棚に並ぶ種子の瓶へと向く。

 三千年。

 それでも、命の可能性はここに眠っている。

 そして同時に、彼の胸の奥で、別の感情が静かに芽生えていた。

(この塔は……ただの拠点じゃない)

 ここは、未来の人類が過去へ託した――

 最後の希望の保管庫なのだ。

 優人は拳をゆっくりと握りしめた。

 塔の外には、科学を失った世界が広がっている。

 そして、この塔の中には、再び文明を取り戻すためのすべてが残されている。

 判断するのは、自分たちだ。

 科学を、解放するのか。

 それとも――封じたままにするのか。


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