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工学研究者の記録

 主任研究者の映像が静かに途切れると、部屋の中に残されたのは、機械の低い駆動音と、どこか人工的に整えられた空気の静寂だけだった。

 白い床。無機質な壁。天井に埋め込まれた光源は柔らかく均一で、松明もランプも存在しないこの空間は、塔の外の世界とはあまりにも異質だった。

 優人はしばらく動かなかった。

 ――西暦七〇二七年。

 その数字が、頭の奥でゆっくりと反響している。

「……未来、か」

 思考としては理解できる。

 だが、感覚としてはまだ追いつかない。

 ユリナは胸元で手を組み、静かに息を整えていた。

「優人様……あの映像の人物は、まるで私たちに直接語りかけているようでしたね」

「ええ。録画された記録ですが、“いずれ来る誰か”を想定して作られている。完全に計画されたメッセージです」

 麻美は周囲を見回しながら、小声で呟いた。

「でも……他にも記録があるって言ってましたよね。二階とか、別の部屋とか……」

「探してみましょう」

 エレノアが即座に応じる。

「この塔は情報の保管施設としての性質も強い。主任研究者以外の記録も間違いなく保管されているのだろう」

 五人は静かに通路を進み始めた。

 塔の内部は驚くほど静かだった。

 足音がやけに乾いて響く。石造りの塔であるはずなのに、反響の仕方が城の回廊とは明らかに異なる。硬質で、吸音性が高く、どこか近代建築の研究施設を思わせる音の返り方だった。

 壁面には継ぎ目の見えない板状の素材が使われており、窓も装飾もない。ただ機能だけを追求したような構造。

 優人は指先で壁に軽く触れた。

「……コンクリートでも石でもない。複合素材でしょうか」

「やっぱり、優人さんの世界の建物に近いんですか?」

 麻美が尋ねる。

「はい。少なくとも、この世界の文明水準とは一致しません」

 優人は淡々と答えたが、その声の奥にはわずかな緊張が滲んでいた。

 しばらく進むと、通路の先に半開きの扉が現れた。

 他の部屋と違い、その扉の周囲には細かな傷や黒ずみがある。

 まるで、長い年月の間に何度も出入りがあったかのような痕跡だった。

「……ここ」

 ミレイが小さく呟く。

 優人はゆっくりと扉を押した。

 重い音はしない。

 むしろ、滑らかに、静かに開いた。

 中に入った瞬間、空気の匂いが変わる。

「……機械油の匂い」

 麻美が思わず口にする。

 そこは明らかに研究室ではなかった。

 作業場だ。

 部屋のあちこちに、組み立て途中の機械が置かれている。金属フレームだけの装置、内部構造がむき出しの箱型の機器、複雑な配線が絡み合った制御装置。床には細かな部品が整理されたトレーが並び、壁際には大小さまざまな工具が無造作に立てかけられていた。

 レンチ、ドライバー、見たことのない形状の精密器具。

 中には、まるで手術器具のように繊細な道具も混ざっている。

 整然としているようでいて、どこか雑多。

 だがその“雑多さ”は、混乱ではなく、忙しさの痕跡だった。

「……作業途中のまま放置された部屋、ですね」

 エレノアが静かに観察する。

「うん……誰かが、ここでずっと機械をいじってた感じ」

 麻美は机の上に置かれた工具を見つめた。

「エンジニアの作業場って雰囲気」

 優人の視線が、部屋の奥に固定される。

 そこには、壁に埋め込まれた黒い板があった。

 入口の扉にあったディスプレイと、よく似た構造だ。

「……記録装置でしょう」

 優人が近づくと、まるでそれを待っていたかのように、黒い板が淡く発光した。

 次の瞬間、空中に立体映像が投影される。

 そこに映し出されたのは、一人の人物だった。

 年齢は三十代後半から四十代ほど。

 やや無精髭の残る顎。鋭いが疲労の色を隠しきれていない目。

 乱れた黒髪を後ろで軽く束ね、首元には細い通信機のような装置が装着されている。

 服装は白衣ではない。

 濃紺の作業用ジャケットに、無数のポケットが付いた機能的な装備。袖は肘までまくり上げられ、手袋は片方だけ外して腰に引っかけている。まるで今まで機械を整備していたかのような姿だった。

 背後には、今この部屋にあるのと同じ工具と機械群。

 彼は軽くため息をついてから、映像越しに視線を向けた。

「……この記録を見ているということは、未来へのタイムトラベルが成功したということだろう」

 落ち着いた声。

 だがどこか、現場の技術者らしい率直さがある口調だった。

「私はこの塔の時間移送装置の設計および整備を担当していた工学研究者だ。主任研究者の記録を見た後にここへ来たのなら、話は早い」

 彼は机の上の工具を無意識に指で弾いた。

 金属が小さく鳴る。

「さて、本題に入ろう。

 我々の時代では、タイムトラベル理論はすでに確立している」

 麻美が息を呑む。

 優人は無言のまま映像を見つめ続けていた。

「“確立している”と言っても、君たちにとっては突拍子もない話だろう。

 そもそも、実用的な素数の一般項が解明された後に起きた技術革新以降の科学体系を前提としている。……まあ、そのあたりを知らない相手に説明しても理解は難しい」

 研究者は苦笑するように肩をすくめた。


 ――「実用的な素数の一般項が解明された後に起きた技術革新以降の科学体系を前提としている」

 その一言が発せられた瞬間だった。

 優人の思考が、完全に止まった。

 まるで時間そのものが凍りついたかのように、彼の視界から周囲の音が遠ざかっていく。

 工具の金属音も、機械の低い駆動音も、すべてが霞の向こうに押しやられた。

「……は?」

 ぽつりと漏れた声は、いつもの冷静さから大きく外れていた。

 映像の中の工学研究者は淡々と話を続けている。

 だが優人の耳に入っているのは、ただ一つの言葉だけだった。

 ――素数の一般項。

 その単語は、数学者にとって“禁忌”に近い響きを持つ。

 優人の瞳がわずかに見開かれる。

「優人さん……?」

 麻美が不安そうに声をかける。

 だが、優人はすぐには答えなかった。

 代わりに、ゆっくりと映像の研究者を見つめたまま呟く。

「……実用的な素数の、一般項……?」

 その声は、信じがたい事実を前にした者のものだった。

 ユリナが首を傾げる。

「優人様、その“実用的な素数の一般項”というのは……それほど特別なものなのですか?」

 優人はしばらく沈黙したまま、深く息を吸った。

 そして、ようやく現実に引き戻されたかのように視線を仲間たちへ向ける。

 その表情は、これまで見たことがないほど真剣だった。

「……結論から言います」

 静かに、しかしはっきりとした声で言う。

「現代――少なくとも私がいた時代では、実用的な素数の一般項は発見されていません」

「発見……されていない?」

 エレノアが目を細める。

「はい。完全には、です」

 優人は近くの作業台に置かれていた金属板を指で軽く叩きながら、思考を整理するように続けた。

「まず、“素数”というのは、1と自分自身でしか割り切れない自然数のことです。

 2、3、5、7、11、13……と続く、あの数列ですね」

 ミレイが小さく頷く。

「ゆ、優人さんに教わった、数学の基本に出てくる数、ですよね……」

「ええ。ですが、その“基本”こそが、実は最も深い謎の一つなんです」

  2,3,5,7,11,13,17,19……

「この並びには規則性があるようでいて、明確な規則が見つかっていません。

 どの位置に次の素数が現れるかを、完全に予測する“単純な公式”は存在しないのです」

 麻美が目を丸くする。

「えっ、でも……いっぱい研究されてるんですよね?数学って」

「されています。何百年も、です」

 優人は苦笑に近い表情を浮かべた。

「素数の研究は、人類の数学史の中心にあるテーマの一つです。リーマン予想をはじめとして、素数分布に関する理論は山ほどあります。近似式や性質はかなり分かっている。ですが――」

 そこで言葉を区切る。

「“n番目の素数を正確に一発で与える簡潔な一般項”

 これが、決定的な形では見つかっていない」

 部屋の空気が静かに張り詰める。

 ユリナが息を呑む。

「つまり……素数は、完全には予測できないのですか?」

「少なくとも、初等的で美しい形の公式では、という意味です」

 優人は頷いた。

「複雑な式でいいのなら存在します。ですが、それは膨大な計算量が必要で、直感的な一般項とは言い難い。

 もし本当に、簡潔で実用的な一般項が解明されたとしたら――」

 優人の声が、わずかに低くなる。

「それは、数学史上最大級の発見の一つになります」

 エレノアが真剣な眼差しで問う。

「そこまで、ですか?」

「ええ。間違いなく」

 優人はゆっくりと言葉を選びながら説明を続けた。

「まず第一に、数論全体が再編されます。

 素数は“数の原子”と呼ばれるほど、整数の基礎構造そのものです。すべての自然数は素因数分解によって素数の積として表せる。つまり、素数の構造を完全に理解するということは、整数の構造を根本から理解することに等しい」

 麻美が思わず呟く。

「数の原子……」

「はい。

 そして第二に、暗号技術への影響が極めて大きい」

 優人の視線がわずかに鋭くなる。

「私と白石先生のいた現代の情報社会では、大きな素数が暗号の安全性の基盤になっています。例えば公開鍵暗号と言われる仕組みの多くは、“大きな数の素因数分解が難しい”という性質に依存しています」

 麻美が即座に反応する。

「ということは、素数の一般項が分かれば……」

「暗号の多くが理論的に崩壊する可能性があります」

 その一言に、部屋の空気が一瞬凍りついた。

 ミレイが小さく息を飲む。

「そ、そんなに……?」

「ええ」

 優人は静かに頷く。

「もし巨大な素数を自在に生成でき、分布や性質を完全に把握できるようになれば、我々がいた現代の暗号は根本から見直しを迫られるでしょう。通信、金融、国家機密――すべてに影響が及びます」

 麻美が顔を引きつらせる。

「それって……文明レベルの大事件じゃないですか」

「まさにその通りです」

 優人は再び映像の研究者へ視線を向けた。

「さらに第三に、計算理論やアルゴリズムの進化にも直結します。

 素数分布の完全な理解は、数値計算、最適化、乱数生成、さらには物理シミュレーションにまで影響を及ぼす可能性がある。言い換えれば――」

 そこで優人は小さく息を吐いた。

「“計算そのものの効率”が、根本から変わり得る」

 麻美の瞳が大きく揺れる。

「それが……技術革新に繋がる、ということですか?」

 優人はゆっくりと頷いた。

「可能性としては、十分にあり得ます。

 もし素数の一般項が、単なる理論的成果ではなく、実用的かつ高速に計算可能な形で発見された場合――」

 彼の声は、驚きと畏怖が混ざった静かな響きを帯びていた。

「高度な暗号の解読、超効率的な計算、巨大データの最適処理。

 それらが一気に加速し、人工知能や科学技術の発展速度が臨界点を超える。

 結果として、技術革新が現実のものになる、という仮説は十分に成立します」

 静寂。

 誰もすぐには言葉を発せなかった。

 塔の作業室。

 未完成の機械と散乱する工具。

 そして、西暦七〇二七年の技術者が残した記録。

 そのすべてが、一本の線で繋がっていく。

 麻美が、かすれた声で言った。

「……じゃあ、その人たちの時代って……」

「少なくとも、我々の時代とは比較にならないほど数学と科学が進んだ世界でしょう」

 優人は静かに答える。

「“素数の一般項が解明された後”という表現を、当然の前提として使っている時点で」

 そして、ほんのわずかに苦笑した。

「正直に言ってしまえば――」

 優人は天井の光を見上げる。

「驚きと同時に、恐ろしいとも感じています」

「恐ろしい……?」

「ええ」

 彼の声は穏やかだったが、その奥には深い緊張が潜んでいた。

「人類が何百年も解けなかった根源的問題が“すでに解決済み”の時代。

 それはつまり、私たちの常識が通用しない科学体系の上に、この塔も、この装置も成り立っているということですから」

 映像の研究者はなおも語り続けている。

 だが今、優人の胸に去来しているのは別の感情だった。

 数学者としての純粋な興奮。

 そして、それを上回る、未知の未来に対する静かな畏怖。

「……素数の一般項が解明された世界、か」

 その呟きは、誰に向けたものでもなかった。

 だがその瞳の奥には、確かに知的探究者としての光が宿っていた。


ようやく衝撃から戻ってきた優人に、工学研究者の話が聞こえるようになった。タイムトラベル理論の続きを話しているようだった。

「イメージで説明しよう」

 彼は指を立てる。

「現在のタイムトラベル理論では、“過去へ行くことはできるが、未来へ行くことはできない”」

 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。

「正確に言えば、過去へ移動するために必要なエネルギーは比較的少ない。

 だが、未来へ移動するためには、桁違いのエネルギーが必要になる」

 彼の表情が、少しだけ真剣になる。

「例えば――

 十秒先の未来に行くためだけでも、何百年もエネルギーを蓄積し続ける必要があることが、理論上証明されている」

「……え」

 麻美の声が小さく漏れた。

 研究者は続ける。

「子供向けのタイムトラベル理論の教本には、こう書かれている。

 “時の流れとは、一段一段の段差が百メートル以上ある階段を上っているようなものだ”」

 彼は手振りで階段を示す仕草をした。

「百メートルの段差を上るには、相応の装備が必要だ。

 だが、落ちるだけならどうだ? パラシュートのような簡単な仕組みでも十分に可能だろう」

 優人の瞳がわずかに細くなる。

「つまり、過去へ行くという行為は“落ちる”に近い。

 未来へ行くという行為は、“途方もない高さの階段を上る”に等しい」

 映像の研究者は、静かに言葉を区切った。

「ただし――」

 その目に、微かな光が宿る。

「一度、未来移動に必要なエネルギーを蓄積してしまえば話は別だ。

 エレベーターの設置には、かなりの時間がかかるが、作ってしまえば5階に行くのも10階に行くのも大差はないだろう。エネルギーさえあれば一気にかなり先の未来まで移動することが理論上可能になる」

 彼は淡々と続けた。

「もっとも、そのエネルギーを蓄積するには、およそ三千年の時間が必要だという計算結果も出ているがね」

 ユリナが思わず息を呑む。

 三千年。

 あまりにも現実離れした時間だった。

 研究者はゆっくりとこちらを見据えた。

「我々は、科学技術の利便性も、危険性も、そして戦争の悲惨さも身をもって痛感した人間だ」

 その声には、重みがあった。

「だからこそ、判断を科学技術による戦争を知らない未来の人間ではなく、“過去の人間”に委ねることにした」

 優人の胸の奥が、静かにざわめく。

「条件は単純だ。

 ある程度科学技術が発展し、なおかつ戦争という愚行を経験している年代。

 その条件に合致するのは――二〇〇〇年代に生きる人間」

 麻美の肩がびくりと震えた。

「その条件に最も適合した人物。

 それが、君ということになる」

 映像の研究者は、ほんのわずかに頭を下げた。

「改めて伝えておこう。

 我々が生きている時代は、西暦七〇二七年だ」

 静寂。

 機械の駆動音だけが、やけに大きく響く。

「そして、未来への長距離移動に必要なエネルギーが完全に蓄積されるのは、早くても西暦一〇〇〇〇年を超えた頃になるだろう」

 彼は疲れたように息を吐いた。

「……君は約8000年先の未来へきていることになる。このような未来へ、何の準備もなく君を呼び出してしまったことについては、申し訳なく思っている」

 その言葉は、機械越しの記録であるにもかかわらず、不思議なほど人間味を帯びていた。

映像の中の工学研究者は、一度言葉を区切り、卓上に置かれた小型の装置を指先で軽く撫でた。

 それは何の変哲もない金属片のように見えたが、その仕草には、どこか慎重さと――躊躇いが混じっているように見えた。

「……ここまで、少々重い話が続いたな」

 彼は小さく苦笑し、肩の力を抜くように息を吐いた。

「だからこそ、実務的な話もしておこう。

 君が今いるその施設――大賢者の塔についてだ」

 優人は無意識に背筋を伸ばした。

 ユリナも、麻美も、言葉を挟まずに映像へと視線を向けている。

 研究者は、まるで目の前に誰かが座っているかのように、穏やかな口調で続けた。

「この塔の内部では、科学技術は正常に機能する」

 その一言に、優人の胸がわずかに高鳴る。

 情報構築担当者の言葉通りなら、世界そのものが科学を拒絶しているはずだ。

 だが――この塔だけは例外。

「世界全域には、我々が意図的に通信阻害の仕組みを展開している。

 あらゆる高度な装置が作動しないよう調整されているが、この塔だけはその影響を受けない」

 研究者の声は淡々としている。

 しかしその裏には、あらかじめ周到に準備された避難拠点としての意味が滲んでいた。

「ここは、いわば“安全圏”だ。

 記録装置、研究設備、製造機構、そして時間干渉装置も含め、主要な技術はすべて使用可能な状態に保たれている」

 麻美が小さく息を呑む。

「……じゃあ、ここなら……」

 その呟きを遮るかのように、研究者は続けた。

 ほんのわずかに、表情を引き締めて。

「そして――最も重要な点を伝えておく」

 静寂が落ちた。

 研究者はゆっくりと言葉を選びながら口を開く。

「この塔には、タイムマシンを一基だけ残してある」

 その瞬間、ユリナの心臓が強く脈打った。

 空気が張り詰める。

「長距離時間遡行に対応した、小型の安定機。

 出力は制限してあるが、過去への帰還には十分な性能を持っている」

 優人の脳裏に、工学研究者が語っていた理論――

 未来へ進むには膨大なエネルギーが必要で、過去へは比較的少ないエネルギーで到達できるという話がよみがえる。

「つまり」

 研究者は、静かに結論を口にした。

「君は、それを使って元の時代へ帰ることができる」

 部屋の空気が、凍りついたかのように静まる。

 麻美が思わず優人の方を見た。

 エレノア姫も、わずかに目を見開いている。

 研究者はその反応を予測していたかのように、柔らかな声で続けた。

「主任研究者は、おそらく君に決断を委ねると言っていたはずだ。

 この世界を見て、科学技術を解放するかどうか判断してほしい、と」

 優人の胸に、あの言葉が蘇る。

 ――この世界の未来を頼む。

 研究者は、ゆっくりと首を横に振った。

「だが、それは“義務”ではない」

 その言い方は、驚くほど人間的だった。

「何もせず、元の時代に帰ることもまた、君の自由だ」

 静かで、しかしはっきりとした声。

「突然、数千年先の未来に呼び出されたのだ。

 状況を理解し、責任ある判断を下せと言われても、受け入れ難いのは当然だろう」

 その言葉には、責める色は一切なかった。

 むしろ、深い配慮と現実的な優しさが滲んでいる。

「塔のタイムマシンは、帰還用の座標補正機能を備えている。

 大きな時間誤差なく、君がいた時代圏へと戻れるよう設計してある」

 ユリナの指先が、わずかに震えた。

 帰れてしまう。

 元の時代に。

 日常に。

 私が知らない世界に。

「この塔に留まり、世界を調査するのも自由。

 科学技術の再解放を試みるのも自由。

 そして――何も選ばず、帰還するのもまた、正しい選択の一つだ」

 研究者は静かに微笑んだ。

「我々は未来の人間だが、君の人生まで拘束する権利はない」

 その一言は、重く、そしてどこまでも誠実だった。

「だからこそ、選んでほしい。

 “強制”ではなく、“意志”で」

 光の輪郭がわずかに揺らぐ。

「帰るのなら、塔の深層区画にある時間遡行装置を使用するといい。

 起動にはいくつかの認証が必要だが、記録に従えば問題なく扱えるはずだ」

 最後に、工学研究者は真っ直ぐ前を見据えた。

 まるで、まだ見ぬ来訪者の覚悟を見通すかのように。

「この未来に関わるか。

 それとも、何も知らなかった時間へ戻るか。

 その選択すら、君に委ねるために――我々は一基だけ、タイムマシンを残した」

 そして、ほんのわずかに、優しげに目を細める。

「どうか、後悔のない選択をしてほしい」

 その声は、技術者の論理ではなく、

 一人の人間としての願いに満ちていた。


 工学研究者の映像が消えたあとも、部屋の空気はしばらく揺れているように感じられた。

 ――元の時代に帰ることもできる。

 その言葉は、静かな湖面に投げ込まれた石のように、波紋となって心に広がっていく。

 塔の窓の外には、黄昏が広がっていた。

 赤紫に染まった雲の切れ間から、衰退した大地が影のように見える。

 優人はしばらく黙って、その景色を見つめていた。

 背後で、小さく衣擦れの音がする。

「……優人様」

 振り向くと、ユリナが立っていた。

 蒼い瞳が、どこか揺れている。

 王族としての凛とした姿勢は保っているが、その指先はわずかに震えていた。

「……帰られるのですか」

 その声は、かすれていた。

 優人は一瞬だけ目を細める。

 彼女の問いの奥にある感情を、痛いほど理解していたからだ。

「タイムマシンがあるのなら……」

 ユリナは続ける。

「元の時代に戻ることができるのなら……優人様は、いずれ――」

 言葉が途切れる。

 それ以上を口にすることが、怖いのだ。

 優人は、ゆっくりと彼女に歩み寄った。

 窓から差し込む光が、二人の間に長い影を落とす。

「ユリナ」

 柔らかな声で名を呼ぶ。

 彼女は顔を上げた。

 その瞬間、優人は穏やかに微笑んだ。

「帰りませんよ」

 あまりにも自然な口調だった。

「……え?」

「私は、過去には帰りません」

 はっきりと、迷いなく言い切る。

 ユリナの瞳が大きく揺れた。

「どうして……?」

 その問いは、確認のためではない。

 信じたいけれど、信じきれない心の声だった。

 優人は少しだけ照れたように視線を逸らし、そして再び彼女をまっすぐ見つめる。

「この時代に、大切な人ができましたから」

 静かな言葉。

 けれど、その一言には揺るぎない重みがあった。

 ユリナの呼吸が止まる。

 夕陽が彼女の頬を朱に染める。

「……それは……」

 声が震える。

「本当に、それでよいのですか?

 元の時代には、ご家族や、友人や……あなたの人生があったはずです」

 王女としてではなく、一人の女性としての問い。

 優人は、ほんの一瞬だけ遠い記憶を思い出す。

 何気ない日常、見慣れた街並み、当たり前だった時間。

 だが、それ以上に鮮明なのは――

「……ユリナ」

 優人は優しく問いかける。

「あなたは、私に帰ってほしいのですか?」

 その問いに、ユリナは息を呑んだ。

「そんなこと……!」

 即座に否定する。

「そんなことは、ありません……!」

 声が少しだけ強くなる。

「私は……私は、優人様に――」

 言葉が詰まる。

 けれど、瞳はもう逃げていなかった。

 優人は、静かに微笑む。

「なら、それでいいですよね」

 穏やかな声音。

「私は、ここにいます」

 そう言って、そっとユリナの手を取った。

 冷えた指先が、ゆっくりと温まっていく。

「過去は、確かに大切です。

 でも、人は“今”を生きるものです」

 優人の声は、どこまでも柔らかい。

「私の“今”は、ここにあります」

 その言葉に、ユリナの瞳から一粒の涙がこぼれた。

「……優人様」

 小さな声で名を呼ぶ。

 その響きには、不安ではなく、確かな信頼が宿っていた。

 二人の間に流れる空気は、静かで、温かく、揺るぎない。

 塔の外では、荒れた風が大地を吹き抜けている。

 だが、この場所だけは穏やかだった。

 やがて、優人はふと振り返る。

 少し離れた場所で、腕を組みながら気まずそうに視線を逸らしている麻美がいた。

「……何ですか。リア充の優人先生」

 気づかれていたと悟り、そっぽを向く。

 優人は苦笑する。

「タイムマシンのことですが」

「うん」

「使うかどうかは、白石先生だけでいいと思っています」

 その言葉に、麻美が目を瞬く。

「……え?」

「私は残ると決めました。

 でも、あなたは違う」

 優人の声音は真剣だった。

「元の時代に戻りたいなら、遠慮する必要はありません」

 麻美はしばらく黙り込む。

 そして、ぽつりと呟いた。

「……ばか」

「はい?」

「そんな簡単に決められるわけないでしょ」

 けれどその声は、どこか安堵を含んでいた。

 優人は小さく笑う。

「時間はあります。

 ゆっくり考えればいい」

 塔の最上階に、夜がゆっくりと降りてくる。

 過去へ帰る道は、確かに存在する。

 だがそれ以上に強いものが、今ここにある。

 選択ではなく、絆。

 義務ではなく、想い。

 優人はそっとユリナの手を握り直した。

 その温もりが、未来へと続く確かな答えのように感じられた。


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