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勝負の終わりと新たな目標

 数学勝負から一週間が経過した。

 レオポルド王子は、以前のような傲慢さが嘘のようにおとなしくなっていた。

 むしろ、優人が頼んだことには、文句を言うことなくすぐに対応してくれるようになっていた。

 ミレイもまた、あの勝負以来、優人に対して明確な尊敬の念を抱いているようで、数学システム部門で顔を合わせるときには、どこか恐縮した様子を見せることが増えた。

 これまでは優人に対しても対等な口調だった彼女が、どことなく敬意を込めた態度を取るようになったのは、数学勝負の衝撃がそれほど大きかったということだろう。

 ——そして、エレノア姫もまた変わった。

 彼女は以前にも増して、優人に対してリベリオ帝国に残るように強くアプローチをかけるようになっていた。

 今日も夕食の席で、優人に対して好条件を提示しながら、帝国への定住を持ちかけている。

「優人殿、数学研究所の正式な研究員として籍を置いてくれれば、研究資金も潤沢に提供できる。もちろん、滞在にかかる費用はこちらがすべて負担する。それに——」

 エレノア姫は、持ち前の理論的な交渉力を駆使して、優人がここに留まることの利点を次々と列挙していく。

 このやり取りはもう何度目になるだろうか。

 麻美は、またか……といった様子で、何となく二人を眺めていた。

 いつものように優人がやんわりと断るのだろう——

 そう思っていたその時だった。

「——最初の疑問は、あの性格のレオポルド王子が、私のことをどこで知ったのかということでした」

 優人は静かに、しかしどこか真剣な声で口を開いた。

 その声の響きに、エレノア姫の表情がわずかに変わる。

「……優人?」

 エレノア姫は困惑した様子で彼を見た。

 しかし、優人は構わずに続ける。

「身分の低い者のことなど、全く気にも留めないレオポルド王子が、私のことを知るには、同等の身分の者から聞くしかないと思いました」

「数学研究所で有名になったからでは?」

 エレノア姫が問い返す。

 しかし優人はすぐに首を横に振る。

「数学システムの新しい機能については、ミレイさんの功績として報告してもらいましたし、『9!』についてもエレノア姫から研究所に伝えてもらいました」

「私が積極的に関わったことを知っているのは……エレノア姫か、ミレイさんくらいしかいないんです」

 その言葉に、エレノア姫の瞳がわずかに揺れた。

「それでは、ミレイが伝えた可能性もあるのでは?」

 エレノア姫は冷静さを保ちながら返す。

「……いいえ」

 優人は静かに首を振った。

「さっきも言ったとおり、あのレオポルド王子が、零細部門であった数学システム部門の一研究員の話を聞くとは思えません」

「ですが、根拠はそれだけではありません」

「……」

 エレノア姫は、ほんの少し眉を寄せた。

「では、その根拠は?」

「単純な話です」

 優人は、いつもの落ち着いた声で答える。

「王子に直接聞きました」

 ——その瞬間、エレノア姫の目がわずかに丸くなった。

「ずいぶん兄と仲良くなったのね」

 半ば冗談めかした口調だったが、その目には探るような光が宿っている。

「仲良くというか……」

 優人は肩をすくめながら、どこか面倒くさそうに続ける。

「……恐れられているというか、一刻も早く離れたいというか。だから、聞かれたことにはすぐに答えているような印象ですね」

「……ふふっ」

 エレノア姫は、くすっと小さく笑った。

 その微笑みには、どこか呆れと納得が混ざっているようだった。

 彼女は軽く息をつき、目を細める。

「……それで? 私が優人殿のことを話してしまった、その軽率さは認めるわ」

 はっきりとした口調でそう言った後、エレノア姫は優人をまっすぐ見つめる。

「でも、急にこんな話を持ち出すということは……私に何かしてほしいことでもあるのかしら?」

 彼女の瞳には、好奇心と探るような光が浮かんでいる。

 しかし、それを真正面から受け止めながら、優人は淡々と口を開いた。

「——話が早くて助かります」

 静かな言葉とともに、優人はゆっくりと微笑んだ。

 この会話の本題は、ここからだった。

 優人は静かに口を開いた。

「——大賢者の塔を調べられるように、サウザリア王国に働きかけてください」

 その言葉に、エレノア姫の表情がわずかに変わる。

 だが、それは驚きではなく、違和感を抱いたときのものだった。

「……話が急すぎるわね」

 エレノア姫は鋭い視線を優人に向けながら言う。

「サウザリア王国にとって、大賢者の塔は国の威信をかけて解こうとしているもの。そこに外部の人間が関与することは、彼らの誇りを傷つける可能性が高い」

 彼女の言葉は的を射ていた。

 いくらリベリオ帝国が大国とはいえ、「ただ調査をお願いするだけ」で許可が下りるとは考えにくい。

 それは、リベリオ帝国の皇女として外交の最前線に立ってきたエレノア姫だからこそ、すぐに理解できたことだった。

「……」

 優人はしばらく黙ったまま、考えを巡らせるように指を軽く組む。

 そして、意を決したようにゆっくりと口を開いた。

「もし——サウザリア王国に大きな貸しを作れるとしたら、交渉は可能ですか?」

 エレノア姫は瞬きを一つすると、すぐに冷静な声で答える。

「内容によるわね」

 その言葉を聞いた瞬間、優人は何も言わずに手元の数学システムを起動した。

 まるで、すでに次の手を考えていたかのような、迷いのない動作だった。

 彼の指が素早くディスプレイを操作し、問題を入力する。

 すべての入力を終えると、空中に半透明のディスプレイが出現した。

 エレノア姫の視線が、そこに映し出された文字を捉える。

 ——瞬間、彼女の表情が凍りついた。

「……っ!」

 エレノア姫の瞳が、大きく見開かれる。

 彼女の隣にいた麻美も、その様子に気づいて不思議そうに画面を覗き込む。

「エレノアさん? 何かまずいことでも——」

 だが、麻美が言葉を続ける前に、エレノア姫が静かに呟いた。

「……まさか……」

 そこに映し出されていたのは——

「面積が2である正方形の1辺の長さはいくつか」

 それは、大賢者の塔の第2問として表示されているという未解決問題だった。

「……なぜ、これを……」

 エレノア姫の声は、驚愕と戸惑いが入り混じっていた。

 ——この問題は、サウザリア王国でもリベリオ帝国でも解かれていない。

 その問題が、いま優人の目の前のディスプレイに映し出されている。

 ——映し出されているということは。

 優人はその問題の答えまで入力し終えていたのだ。

「……優人殿、あなた……一体……?」

 エレノア姫の声が、わずかに震えていた。

 もし、この問題をリベリオ帝国が先んじて解いたとなれば、リベリオ帝国の数学的地位は盤石なものとなる。

 サウザリア王国にとっては屈辱であり、リベリオ帝国にとっては誇り。

 この問題が解かれたと知れれば、数学研究所の評価は天を突き破るように跳ね上がり、リベリオ帝国の数学者たちは未来永劫、この功績を語り継ぐことができる。

 エレノア姫は、そんな未来を一瞬で思い描いた。

 だが——優人の次の言葉が、それを覆す。

「——この功績をサウザリアのものにする代わりに、大賢者の塔を調査できるよう交渉してほしい」

 エレノア姫は驚愕に目を見開いた。

「……何を言っているの?」

 優人の声は、いつものように淡々としていた。

「リベリオ帝国がこの問題を解いたと公表すれば、数学研究所の権威はさらに強固なものになります。解いた人間も後世に名を残すほどの功績でしょう」

 それを聞いて、エレノア姫の胸に戸惑いが生まれる。

「……それなら、なぜ?この功績をサウザリア王国に譲るような真似を!?」

「興味がないんです、そんなことに」

 優人は静かに答えた。

 そして、エレノア姫を真っ直ぐに見つめる。

「……そうはいっても、エレノア姫からしたら簡単に許可できることではないということも理解しています。」

 エレノア姫は眉をひそめた。

「当たり前ね。このことを世界に知らしめれば、あなたの言ったとおり、リベリオ帝国の地位は盤石となる。大賢者の塔の問題解決については口を出せるようになるわ」

「この問題が解けたという栄光をサウザリアに譲るだけでは、エレノア姫にメリットがない。それでは協力してもらえるはずがない」

「……それで?」

「1つ、メリットを提示します」

 エレノア姫は腕を組み、彼の言葉を待った。

 優人は、静かに、しかし確かな言葉で続けた。

「サウザリアとの交渉を進めている間、私が持っている数学の知識を可能な限りエレノア姫に教えます」

 その瞬間、エレノア姫の表情が変わった。

「……私に、知識を?」

「はい」

「……それが大賢者の塔の問題を解けたことに匹敵すると?」

 優人は微かに微笑みながら答えた。

「エレノア姫が持っていた未解決問題集なんですが、ユリナも持っていたんですよ。それで、こちらの世界に来た時に見せてもらったことがあり、全部解いたんですよ」

 エレノア姫は、目を丸くして優人を見つめる。

「……全部?」

「はい、全部」

 優人はエレノア姫の言葉を繰り返すように返答した。

 次の瞬間、彼女は放心し、もうどうしようもないといったように笑った。

「本当に規格外ね、あなたは」

 それは、交渉成立の合図だった。

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