姫との婚約
ここから2章の始まりです。2章のテーマは連立方程式です。
アルスタリア王国とカルヴェリア王国との数学勝負から1か月が過ぎ、平穏な日々が戻りつつあった。アルスタリアは勝利を収めたことで、隣国の侵略の危機を乗り越えただけでなく、優人というこの世界においては破格の数学の知識を持つ人物を得ることとなった。
その日、優人はユリナ姫の専用の勉強部屋にいた。木のぬくもりが感じられる書斎で、窓からは王城の庭園が見渡せる。机の上には数式が書かれた紙やインク瓶が置かれ、ユリナ姫がペンを握っている。姫は真剣な表情で紙に向かっていたが、その筆先は少しずつ迷い始めている。
「ここは、こう考えると分かりやすいですよ。」
優人は優しく微笑みながら、姫が解いていた問題の解説を始めた。
「三角形の面積を求める問題ですね。この底辺が6、そして高さが4ですから、面積は底辺×高さ÷2で計算できます。」
ユリナ姫は顔を上げ、優人の説明に頷いた。
「ああ、なるほど! 簡単な公式だったのに、また忘れてしまいました……。」
彼女は自嘲気味に笑い、赤くなった頬を隠すように顔を俯かせた。その仕草は、無邪気な子どものようでありながら、どこか女性らしい柔らかさも漂わせている。
「そう落ち込まないでください。色々な公式を短期間で覚えてもらっていますからね。最初は誰でもつまずくものですよ。」
優人は静かに励ましながら、彼女のノートにさらりと計算を書き込んだ。
「優人様って、本当に優しいんですね……。」
ユリナ姫は、筆を持つ優人の手を見つめ、ふっと微笑んだ。そして彼女は意を決したように、口を開いた。
「優人様、私はあなたが好きです。」
突然の言葉に、優人の手が止まった。彼は一瞬だけ彼女を見つめたが、すぐに困ったような表情を浮かべた。
「ユリナ姫……以前も申し上げたとおり、私はただの異世界から来た人間です。それに、あなたと私では15歳も年の差があります。あなたにふさわしい相手だとは思えません。」
ユリナ姫はその言葉に少しだけ眉をひそめたが、すぐにまっすぐな瞳で優人を見つめ返した。
「そんなことは関係ありません。私は、私の気持ちに正直でいたいんです。」
彼女の瞳は涙ぐみながらも、真剣さを失っていない。
「それに……」彼女は少しいたずらめいた声で続けた。「お父様も、あなたを私の婚約者にするとおっしゃっていましたよね?」
その言葉に、優人の脳裏に1か月前の出来事が鮮やかに蘇った。
カルヴァリアとの数学勝負が終わり、アルスタリアが勝利を収めたその日の夜、優人は王から謁見の間に呼び出された。煌びやかなシャンデリアが輝き、重厚なカーテンに囲まれたその部屋には、アルスタリア王とユリナ姫が待っていた。
緊張しながら謁見の間に入った優人は、二人の前で丁寧に膝をつき、礼を取った。
「松永優人です。このたびはお呼びいただき、光栄です。」
彼はそのまま顔を上げず、謙虚な態度で言葉を続けた。「私などをお呼び立てする理由は、何かございますでしょうか?」
王は深い声で答えた。
「優人殿、この度の数学勝負において、汝が果たした功績は計り知れぬ。我が国が滅亡の危機を乗り越えられたのは、汝のおかげだ。改めて感謝を述べる。」
「そのようなお言葉、もったいなく存じます……。」
優人は謙遜しながらも、少し緊張した様子で王の次の言葉を待った。
王は椅子から立ち上がり、力強い声で続けた。
「感謝の証として、汝に褒賞を授ける。何なりと望みを申してみよ。」
褒賞という言葉に優人は一瞬戸惑った。異世界から突然召喚され、目の前の課題を必死に解決してきただけの自分が、褒賞を受け取るなどということに気後れしていた。
「望み……と申しますと、大したことではないのですが……」
優人は少し考えた後、控えめに答えた。
「衣食住が保障されるだけでも、私には十分です。突然この世界に呼ばれた身として、それさえあれば幸いです。」
その答えに、王は眉を上げ、少し驚いた表情を見せたが、すぐに厳かに頷いた。
「ふむ……謙虚な望みだ。しかし、それだけでは足らぬ。国家の存亡を救った功績に対し、それでは余が納得せぬ。」
そう言いながら、王は手を軽く振り、側近に命じた。
「松永優人殿には、以下の褒賞を与える。」
側近が巻物を広げ、王の声に合わせて内容を読み上げた。
「一つ、王城に優人殿専用の部屋を与える。」
「二つ、アルスタリア国の筆頭数学者の地位を用意する。」
「三つ、金貨百枚を贈呈する。」
その豪勢な褒賞に、優人は思わず目を見開いた。
「そ、そんなにいただいていいのですか? ただ流れに巻き込まれていただけの私に……。」
優人の言葉に、王は笑みを浮かべながら首を横に振った。
「ただの勝利ではない。汝は国家の滅亡を防ぎ、多くの民の命を救ったのだ。それだけではない。汝の存在は、この国に新たな希望をもたらした。」
王がさらに口を開いた。
「だが、それだけでは終わらぬ。汝にはもう一つ褒賞を用意している。」
優人はさらに驚き、身を乗り出した。
「もう一つ……ですか?」
「そうだ。」王の声が重々しく響いた。「我が娘、ユリナとの婚約だ。」
その瞬間、優人は耳を疑った。謁見の間の空気が一瞬静まり返る。
「こ、婚約ですか?」
優人は狼狽し、思わず立ち上がりそうになったが、何とかその場で踏みとどまった。
「待ってください、王よ。それはあまりにも突然すぎます。それに、私は……年齢差もありますし、ユリナ姫の気持ちもあるでしょう。」
王は厳しい目で優人を見据えた。
「その心配は無用だ。ユリナ本人が望んでいるのだからな。」
その言葉に、優人はユリナ姫の方を見た。彼女は少し頬を赤らめながらも、真剣な表情で優人を見つめ返していた。
「私も父にお願いしました。優人様と婚約させてほしい、と。」
ユリナ姫の声は柔らかく、それでいて決意がこもっていた。
「どうして私なんですか?まだ数日しか経っていませんし、会話をしたのもわずかですよ。」
優人は困惑しながら尋ねた。
ユリナ姫は一瞬だけ視線を伏せたが、すぐに顔を上げて言った。
「優人様は、私が未解決問題に取り組んでいたことを認めてくれました。意味のないことをしていると馬鹿にされていた私の行動を『数学者としては合格だ』と言ってくれました。それがどれだけ嬉しかったか……私にとって、優人様は初めて私を認めてくれた方です。」
その言葉を聞いて、優人は一瞬息を飲んだ。
「……ユリナ姫……。」
ユリナ姫はさらに続けた。
「私は、父がどうこうと言う以前に、優人様に好意を持っています。それが嘘ではないこと、どうか信じてください。」
優人はしばらく黙ったまま考え込んだ。王と姫の視線が自分に注がれているのを感じながらも、答えを出すには時間が必要だった。
「ユリナ姫のお気持ちは、確かに受け取りました。しかし、私にはまだ答えを出す自信がありません……。」
「ふむ、無理強いはせぬ。」
王は優人の答えに頷き、少し微笑んだ。
「ただ、汝が我が娘と向き合い、その気持ちを尊重してくれるのであれば、それで十分だ。」
優人は深く礼をして答えた。
「ありがとうございます。私なりに考えてみます。」
謁見の間を出るとき、ユリナ姫はそっと優人に近づき、囁いた。
「優人様、少しずつでいいので……私のこと、知っていってくださいね。」
その笑顔に、優人は胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じたのだった。
1か月前の婚約騒動をそこまで思い出したところで優人は思わずため息をついた。ユリナ姫はそれに気づき、不満そうに顔を上げる。
「優人様、どうしてため息なんてつくのですか?」
「いえ、別に大したことでは……。」
優人がはぐらかそうとすると、姫は頬を膨らませ、少し拗ねたような声で言った。
「もしかして……私の婚約者になるのが、そんなにいやなのですか?」
その言葉に、優人は慌てて首を振った。
「いや、そんなことはありませんよ。姫はとても可愛らしいし、数学にもひたむきで、その姿勢は尊敬しています。」
「……!」
ユリナ姫の目がぱっと輝き、頬が薄紅色に染まった。
「本当にそう思ってくださっているんですね!」
彼女はうれしそうに微笑み、優人の方へ少し身を乗り出した。
優人は苦笑しながらも、少しだけ視線を外した。
「ただ……やっぱり私は、姫と比べると年齢が離れすぎているし、何というか……教え子と同じくらいの年齢の方に好意を抱かれるのは、少し複雑な気分なんです。」
その言葉に、ユリナ姫は一瞬しゅんとしたように見えたが、すぐに前向きな表情に戻った。
「でも、少しでも好感を持ってくださっているなら、それだけで十分です!」
優人が再び数学の解説を始めると、ユリナ姫は真剣な表情で耳を傾け、紙に書かれた問題に取り組んでいた。しかし、次第にペンを持つ手が止まり、彼女は机に突っ伏した。
「難しいです……優人様、こんな問題、本当に解けるんですか?」
「休憩しますか?」
優人が笑いながら提案すると、ユリナ姫はうなずきながら顔を上げた。
「はい、少し休みたいです。でも……優人様、こんなに難しい数学が、本当に異世界ではみんなが習う内容なんですか?」
「ええ、これは私の世界では普通に小学校で学ぶ範囲ですね。」
その答えに、ユリナ姫は目を丸くした後、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ねえ、優人様。この内容を誰にも教えずに、優人様だけが知っていたら、この世界ではきっと誰にも負けない数学者になれますよね。そうしようとは思わなかったんですか?」
優人は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。
「確かに、この知識を独り占めすれば、数学勝負で勝つことはできるかもしれません。でも、数学というのは、一人だけが知っていてもあまり意味がないんです。」
「どうしてですか?」
「数学は、長い年月をかけて、多くの人が考え、伝えてきたからこそ発展してきたものです。一人で抱え込むより、みんなで共有し、それを基に新しいことを考える方がずっと有意義です。」
優人はそう言いながら、少し懐かしそうな表情を浮かべた。
「それに、数学を教えることが、私の世界での仕事でした。教えていると不思議と落ち着くんです。特に、今みたいに教え子が優秀だと、なおさら楽しいですよ。」
その言葉を聞いて、ユリナ姫は再び顔を赤らめた。
「……私のことを優秀だなんて……ありがとうございます。でも、褒めすぎです、優人様。」
彼女はうつむきながらも、どこか嬉しそうに笑った。
休憩中、ユリナ姫と優人は小さなティーテーブルを挟んで座っていた。ユリナ姫が用意したお茶とお茶菓子がテーブルに並び、部屋の中には甘い香りが漂っている。姫はカップを手に取りながら、優人に視線を向けた。
「優人様、少しお聞きしたいことがあるのですが……」
「はい、何でしょうか?」
「この本の中で、優人様がいくつか解いていない問題がありますよね。それはどうしてですか?」
そう言いながら、彼女は自分の前に置いてある厚い数学の本を指差した。その本は、ユリナ姫が数学勝負の前日に優人に渡したこの世界の未解決問題が集められている本だった。
優人は少し考え込みながら答えた。
「そうですね。単純な話ですが、それらの問題は私には難しくて解けないんです。」
「えっ!優人様にも解けない問題があるんですか!?」
ユリナ姫は本当に驚愕している様子だった。
「もちろん。私にも解けない問題なんて星の数以上にたくさんありますよ。そしてそれは、さっき話した『知識を独り占めしない』ことにも繋がっています。」
「……どういうことですか?」
ユリナ姫は首をかしげた。その言葉の意味がすぐには理解できなかったようだ。
「この世界に私が異世界から転移してきたように、他にも異世界から転移してきた、もしくはこれから転移してくる人がいる可能性は十分にあると思います。そして、その人たちが私より数学ができる可能性もあるわけです。そのとき、数学の知識を多くの人に広めておけば、この世界の中で、さらに数学ができる人が誕生してる可能性もあります。」
ユリナ姫は驚愕の表情を浮かべた。
「そんな……優人様以上に数学ができる人なんて、本当にいるんですか?」
優人は少し苦笑しながら、ティーカップを置いた。
「ええ、私の元の世界には、私よりずっと数学ができる人がたくさんいますよ。数学の研究者たちは、より高度な数学の問題や私の世界で未解決問題と呼ばれる難問を何年も、場合によっては何百年もかけて研究しているんです。」
「未解決問題……」
ユリナ姫はその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「はい。その中には、私が知っている範囲では到底解けない問題も多くあります。でも、解ける人がいないわけではなく、研究を重ねて少しずつ解明されているんです。」
「優人様でも解けない問題……そんなものがあるなんて……!」
姫は目を丸くして信じられない様子だった。その純粋な驚きに、優人は微笑を浮かべた。
「姫、少しその本を貸していただけますか?」
ユリナ姫は頷きながら本を差し出した。優人は本をパラパラとめくり、あるページを開いて指差した。そこには優人が解いていない問題が1問あった。
「これが、その未解決問題だったものの一つです。私の世界では『フェルマーの最終定理』と呼ばれるものです。」
「フェルマーの最終定理……?」
ユリナ姫は興味津々な表情で、指差された問題に目を向けた。
「どういう問題なのですか?」
優人は本の内容を確認しながら、ゆっくりと説明を始めた。
「これは、17世紀にフランスの数学者ピエール・ド・フェルマーが提唱したものです。彼はこう書き残しました。『3以上の自然数 n において、式 x^n+y^n=z^nを満たす自然数 x,y,zの解は存在しない』と。」
ユリナ姫は眉を寄せながら考え込むようにした。
優人はユリナ姫に向かい合い、テーブルの上に置かれた紙とペンを手に取った。彼は少し微笑みながら、簡単な例から説明を始めた。
「姫、まずはこの問題の背景を簡単にお話ししますね。たとえば、『2乗した数』同士を足すと、『2乗した数』になる例があるんです。たとえば……」
優人は紙に数式を書き始めた。
3^2+4^2=5^2
9+16=25
「この式を見てください。3を2乗すると9、4を2乗すると16。そしてそれを足すと25になりますね。」
「……確かに、5を2乗したら25ですものね!」
ユリナ姫は驚いた表情を浮かべながら頷いた。
「こういう関係は『ピタゴラス数』と言われています。つまり、2乗の場合にはこうした解が存在するんです。」
彼はさらに紙に数式を書き加えた。
x^n+y^n=z^n
「しかし、フェルマーの最終定理が言っているのは、このnが『3以上』のときには、こうした解が存在しないということなんです。たとえば……」
優人は続けて、3乗の場合の例を示しながら説明した。
「たとえば、x^3+y^3=z^3 という形で成り立つ自然数x,y,zの組は存在しない、というのがこの定理の内容です。3のときだけ証明すればよいのではなく、『3以上のすべての数』で証明しなければなりません。これを証明するのはとても難しい問題だったんです。」
ユリナ姫は熱心に頷きながら聞いていたが、優人がふと表情を曇らせて言葉を続けた。
「ただし、この問題はもう未解決問題ではありません。私の元の世界では、『未解決問題だった』んです。」
「だった?」
姫は首をかしげた。
「ええ。現代では、1994年にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズという方が、この定理を証明しました。その証明が完成したことで、数学界では大きなニュースになったんです。」
「すごい……!その方は本当に偉大な方なのですね!」
ユリナ姫は目を輝かせながら感嘆の声を上げた。
しかし、優人は苦笑を浮かべながら、少し言いにくそうに続けた。
「しかし、正直に言うと、私はその証明を理解することができませんでした。」
「え……?」
「ワイルズが書いた論文を一度見たことがあるんですが、その内容があまりにも高度で、到底私には理解できるレベルではなかったんです。数学を教えていたとはいえ、私はただの教師ですからね。」
彼は少し照れ臭そうに肩をすくめた。その言葉に、ユリナ姫は驚きながらも優しい目で彼を見つめた。
「もし、ワイルズのようなレベルの人がこの世界に転移してきたら、きっと私なんてあっさり負けてしまうでしょうね。」
優人がそう言うと、ユリナ姫は真剣な顔でテーブルに身を乗り出した。その瞳には、強い決意が宿っていた。
「優人様、たとえどんなにすごい方がいらっしゃるとしても、私にとって、そしてこの国にとって、最も大切な人は優人様です。」
「……姫?」
「だって、優人様は私の努力を認めてくださって、そして私たちの国を救ってくださったんです。それは、どんなに数学ができる人が現れても変わらない事実です。」
彼女のまっすぐな言葉に、優人はしばらく黙り込んだ。彼女の想いの強さに、どう返せばいいのか分からなかったのだ。
「……ありがとうございます、姫。」
ようやく絞り出したその言葉に、ユリナ姫は柔らかく微笑んだ。その笑顔に、優人の胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。
ユリナ姫は深く息をつき、再び紙とペンに向き直った。
「それでは、続きを教えてください。私も、もっと数学を学んで、いつか未解決問題に挑戦できるようになりたいです。」
彼女の意欲的な言葉に、優人も気を取り直して微笑んだ。
「ええ、もちろんです。それでは、次の問題に行きましょう。」
そして二人は再び数学の世界に戻り、心地よい静寂の中で、学びの時間が続いていった。
彼らはまた数学の世界へと戻っていった。