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レオポルド・リベリオとエレノア・リベリオ

 優人と麻美はヴィクトールのから聞いた通り、数学研究所へと向かった。夕刻の研究所は静寂に包まれ、規則的なペンの走る音や紙をめくる音だけが響いている。ほとんどの研究員は自分の作業に没頭し、周囲に関心を払うことなく数式と向き合っていた。


「エレノア姫は所長室にいるはずだよね?」


 麻美が小声で確認すると、優人が頷く。二人は研究所の奥へと進み、所長室の前で足を止めた。重厚な木製の扉の前で軽く息を整え、優人がノックをする。

 コン、コン。

 しばらくの沈黙の後、中からは落ち着いた声が返ってきた。


「入りなさい。」


 優人と麻美は扉をそっと押し開け、所長室へと足を踏み入れた。

 部屋の中央には大きな机があり、その向こう側でエレノア姫がペンを走らせていた。彼女は顔を上げることなく、白い紙の上にびっしりと数式を書き込んでいる。机の上だけでなく、周囲の棚や床にも何枚もの紙が積み重ねられており、どれもが複雑な数式で埋め尽くされていた。優雅な振る舞いを崩さない彼女だが、その真剣な眼差しと集中力は、まさに数学者そのものだった。

 優人と麻美は顔を見合わせ、そっと部屋の奥へ進む。エレノアはようやく筆を止め、二人に視線を向けた。


「どうしたの?」


「いや、ちょっと気になって……どうしてそんなに研究に没頭できるんですか?」


 優人が素直な疑問を投げかけると、エレノアは少し考える素振りを見せた後、淡々と答えた。


「この国は『実力の国』だからよ。研鑽を怠れば、すぐに後進の者に抜かれてしまうわ。」


 彼女の声には、当然のことを語るような確信があった。


「それに、私は人に厳しくする以上、それ以上の努力をするのが当然だと思っているの。」


 静かながらも強い意志のこもった言葉だった。

 優人と麻美は、その言葉に深く感心した。エレノア姫の厳しさは、単なる高慢さではなく、自らが誰よりも努力を重ねているからこそ成り立っているものだったのだ。彼女が数学にかける情熱と責任感の強さを、改めて思い知らされた瞬間だった。

 優人は机の上に置かれた紙の一枚を手に取り、さらさらとペンを走らせた。エレノアが興味深げに視線を向ける中、彼は大きく「!」の記号を書き、その横にいくつかの数式を並べる。


「この記号、『!』についてなんですが……いくつかの例を見て、規則を見つけることができたんです。」


 エレノアは腕を組みながら、優人の書く数式をじっと見つめる。


「へえ、どういう規則?」


「この世界の数学では、総当たりの計算がよく行われている印象があります。例えば、答えをひたすら求めることには長けているけど、そこに規則性を見つけて一般化する、つまり『類推する』という考え方があまり重視されていないように思います。」


 優人は紙の上に「1! = 1」「2! = 2」「3! = 6」「4! = 24」「5! = 120」といった数式を書き連ねる。その上で、これらの数字がどのような規則で増えているのかをエレノアに説明する。


「見ての通り、各数はその前の数に掛け算されているんです。例えば、4! は 4 × 3! になっていて、5!は5×4!になって……このパターンがどこまでも続いていきます。」


 エレノアは目を細め、すぐに理解したようだった。


「なるほど……このように規則を見出し、それを体系的に説明する方法は、確かにあまり重視されてこなかったわね。」


「そうですね。総当たりで片っ端から計算するのも手段としてはありですが、こうやってパターンを見つければ、計算を簡略化できる場合が多いです。」


 エレノアはしばし考え込んだ後、ふっと微笑を浮かべ、優人をじっと見つめた。


「やはり、あなたはただの『少し数学ができる人物』ではないのね。」


 優人は一瞬、警戒するように身をこわばらせた。


「……どういう意味ですか?」


 エレノアは机に肘をつきながら、興味深そうに言葉を続ける。


「さっきの話を聞いていて確信したわ。あなたは単に数学を知っているだけじゃない。知識の使い方や、それをどう一般化するかという思考の部分で、私たちとは根本的に違う視点を持っている。」


 彼女の目は、鋭くもどこか楽しげな色を帯びている。


「ほかにも、私たちがまだ知らない概念をいくつも知っているんじゃなくて?」


 優人は一瞬だけ言葉に詰まる。しかし、ここで余計なことを話せば、ますます怪しまれるかもしれない。


「そんなことはないですよ。ただ、こういう考え方に慣れているだけです。」


 そう言って、優人は微笑を返した。エレノアは彼の表情をじっと観察していたが、やがて肩をすくめた。


「……まあ、いいでしょう。」


 彼女の表情からは、完全に納得したとは思えないものの、それ以上問い詰めることはしなかった。

 こうして、優人による「!」の説明は終わりを迎えたが、エレノアの中で彼への興味がさらに深まったことは間違いなかった。



 優人と麻美が所長室を去った後、エレノアは手元の紙を眺めながら小さく息をついた。思考を整理するように、指先で机の表面を軽く叩く。そして、すぐさま近くに控えていた研究員を呼び出した。


「計算研究部門の者たちを集めなさい。重要なことを伝えるわ。」


 研究員が頷き、すぐに動き出す。しばらくして、所長室の隣にある会議室に部門の研究者たちが集まった。彼らの顔には期待と緊張が入り混じった表情が浮かんでいる。エレノアは彼らを見渡し、静かに口を開いた。


「先ほど、『!』という記号の意味が解明された。」


 その言葉に、部屋の空気が一変する。研究者たちはざわめき、互いに顔を見合わせた。長らく解読できずにいた記号の意味が、ようやく明らかになったのだ。

 エレノアは黒板に「9!」と「10!」の計算を示しながら、優人が説明した「階乗」の概念と、類推によって規則性を見つけるという考え方を説明した。


「我々はこれまで総当たりの計算に頼ることが多かった。しかし、この記号のように、規則を見つけ出し、そこから答えを導き出すという手法は、数学の新たな可能性を切り開くものよ。」


 研究者たちはその言葉に感嘆の声を上げ、すぐに手元の資料に計算を記し始めた。誰もが新たな知識に興奮していたが、同時にエレノアは心の中で優人の存在の大きさを改めて実感していた。


(やはり、彼はただの研究員ではないわね……)


 そう考えながらも、それを表に出すことはせず、彼女は王城へと向かった。


 ◆◇◆


 王城の玉座の間に入ると、リベリオ王が厳かな表情で彼女を迎えた。


「エレノアか。何か報告があるのだな?」


「はい、父上。つい先ほど、『!』の記号の意味が解明されました。」


 王の表情が少しだけ動く。関心を抱いた証拠だった。


「ほう、それで?」


「『階乗』という概念です。9!と10!の計算も可能になりました。」


 エレノアは手元の書簡を差し出し、王の側近がそれを受け取る。王は書簡をちらりと確認し、満足そうに頷いた。


「よくやった、エレノア。これでまた我が国の数学の力が一歩進んだというわけか。」


「はい。しかし、まだまだ理解すべきことは数多くあります。より深い概念の解明が、今後の数学発展の鍵となるでしょう。」


 王は玉座に背を預け、考え込むように顎に手を当てた。


「どの国にも数学勝負で負けぬよう、さらに新しい理解を増やしていけ。リベリオ帝国が最も数学に秀でた国であり続けるためにな。」


 その言葉を受け、エレノアは真っ直ぐに王を見据えた。


「承知いたしました、父上。我が帝国の数学の優位性を確固たるものとするために、さらに研鑽を積み、研究を進めてまいります。」


 王は満足そうに頷き、エレノアは一礼すると踵を返した。


 王城を後にしながら、彼女は心の中で静かに決意を固めていた。


(もっと知識を増やし、我が国を最強の数学国家にする……。そして、そのためにも、優人の知識を引き出していく必要があるわね。)


 エレノアの目が鋭く光る。彼女の興味は、数学だけでなく、優人そのものにも向けられつつあった。


 王との謁見を終えたエレノアは、別邸へと戻るために王城の長い廊下を歩いていた。磨き上げられた大理石の床は、彼女の歩みに合わせてかすかに反射し、天井の豪華なシャンデリアの光が静かに揺れている。壁にかかる巨大なタペストリーには、リベリオ帝国の栄光の歴史が描かれている。だが、それは剣や槍による戦の記録ではない。各国との数学勝負を制し、帝国が築いた勝利の数々が誇らしげに記されていた。 その時、廊下の向こうからゆったりとした足取りで近づいてくる影があった。


「また数学の功績を上げたのか?」


 冷ややかな声とともに、銀髪の男が姿を現す。紫の瞳に浮かぶのは嘲るような色。彼こそ、エレノアの兄であり、リベリオ帝国の第一王子──レオポルド・リベリオである。


 エレノアは足を止め、王子の問いかけに微笑を浮かべながら答えた。


「耳が早いですね、兄上。」


「父上にまた自分の功績を見せびらかしに行ったのか?」


 レオポルドは薄く笑いながら言った。口調は穏やかだが、その言葉の奥には皮肉がにじんでいる。

 エレノアは特に気にした様子もなく、静かに答えた。


「数学勝負で勝つためにも、新しく分かったことを共有するのは重要なことです。兄上もご存じでしょう? 数学の知識は、ただ蓄えるだけでは意味がありません。共有し、発展させ、実戦で生かすことで初めて価値を持つのです。」


「ふん、相変わらず理屈っぽいな。」


 レオポルドは肩をすくめた。


「ただ、今回の功績は私だけのものではありません。アルスタリア王国から来た優人という研究者が主に考えたことです。」


「……ほう。」


 レオポルドの紫の瞳がわずかに細められる。

 エレノアは軽く頷き、言葉を続けた。


「この前のノルディアを騒がせていたジーランド国との数学勝負でも、彼は勝利を収めていたようです。うかうかしていると、私でも足元をすくわれそうですね。」


 それを聞いた瞬間、レオポルドの眉がわずかに動いた。


(エレノアが、そこまで評価するとは……)


 彼女の口から「足元をすくわれそう」などという言葉が出るのは、今までにないことだった。幼い頃から数学の才能を発揮し、どんな難題にも堂々と向き合ってきたエレノアが、ここまで警戒するほどの相手とは──。


「そんなに数学の知識があるのか、その優人という男は?」


 レオポルドは探るように尋ねた。

 エレノアは一瞬だけ考え込むような素振りを見せ、それから静かに微笑んだ。


「想像以上です。」


 その一言に、レオポルドの目がわずかに光る。

 エレノアは彼の表情の変化を見逃さなかった。何かを思いついたかのようなその顔。


「そうか……」


 短く呟き、王子は何かを考え込むように廊下の向こうへと歩き去っていった。

 エレノアは、レオポルドが廊下の向こうへと消えていく背中をじっと見つめていた。その姿が完全に見えなくなった瞬間、彼女は小さく息を吐く。


(これで、兄上が優人にちょっかいをかけるのは確実ね。)


 彼女の紫紺の瞳には、嘲るような光が宿っていた。


(本当に扱いやすい無能な兄上だわ。)


 そう内心で侮蔑しながら、エレノアは優人について改めて考えを巡らせる。

 彼はこの国の数学研究所でも手こずっていた「!」の記号について、まるで当然のことのようにその意味を説明した。それはただの偶然ではなく、彼が明らかに以前から知っていた可能性を示唆している。もしそうならば、他にもまだ数多くの数学的知識を秘めていることだろう。


(それにしても、あの知識の開示の仕方……。)


 優人は、まるでそれが特別な価値を持たないかのように簡単に「!」の記号の意味を教えた。そして、その発見の手柄を自分に譲ることさえ厭わなかった。普通なら、学者にとって発見者の名誉は何よりも大切なはず。それをあっさりと手放すということは、彼は学問の成果を私利私欲のためではなく、純粋に知識として扱っているということだ。


(名誉にも、金銭にも興味がない。彼が求めているのは、ただ数学そのもの……。)


 これまでの交流を通じて、優人が極めて誠実な人間であることもわかってきた。彼はユリナ姫という妻を持ち、彼女に対して一切の裏切りを見せる様子もない。ならば、色仕掛けのような手段は効果がない。それどころか、逆効果になりかねないだろう。


(ならば、北風ではなく太陽として接するのが得策ね。)


 無理に引き込もうとするのではなく、善意を示し、信頼を積み重ねることで、自然とこちらに情報を提供してもらう。そうすることで、優人と麻美は警戒を解き、より多くの知識をこちらにもたらすことになる。そして、その過程で汚れ役を担うのは──レオポルド。


(きっと兄上は、自分の対抗手段として優人を陣営に引き込もうとするでしょうね。遠からず、数学勝負を挑むはず。)


 レオポルドは自分を優秀だと思っている。だからこそ、優人を自らの手で直接屈服させることで、自らの価値を証明しようとするだろう。彼の性格を考えれば、策略を巡らせて誰かに戦わせるよりも、まずは自ら勝負を挑むはずだ。


(兄上は王族としてきちんと数学の教育を受けている。研究所の所長の座は私が勝ちとったけど、それでも優れた頭脳は持っているはず。おそらく、私や王にも報告していない隠し球の問題をいくつか持っているでしょうね。)


 その勝負の結果次第で、エレノアの取るべき行動も変わってくる。


(もし優人が兄上に負けるようなら……それまでの人物ということ。そんな程度なら、私の脅威にはならない。)

 しかし、もし優人が勝つようなら──


(その時は、敵対するのではなく味方につけるべきね。)


 彼を味方につけることで、リベリオ帝国の数学の発展は飛躍的に加速するだろう。エレノアはふっと微笑み、ゆっくりと歩き出す。


(さあ、どう動くのかしら、優人……そして兄上。)


 王城の長い廊下を進みながら、彼女の頭の中にはすでに次の手が描かれ始めていた。


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