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老執事とエレノア邸

 リベリオ帝国の街並みを進みながら、エレノアは優人と麻美に邸宅について説明していた。


「私は普段王城にある部屋で生活しているけど、客人などが来るときは別邸に泊まることにしているわ。だから、王城や研究所ほど頻繁に使う場所ではないの。」


 彼女はそう言いながら、ゆったりとした足取りで石畳の道を歩く。


「つまり、私たちのためにわざわざ滞在するってことですか?」


 麻美が尋ねたことを優人がエレノアに伝えると、エレノアは微笑を浮かべて頷いた。


「ええ。あなたたちが滞在する間、できるだけ快適に過ごせるようにね。別邸は広いけれど、普段は静かすぎるくらいだから、こうして人がいるのはむしろ新鮮でいいわ。」


「そう言ってもらえると、ありがたいですね。」


 優人はそう返しながら、帝国の街並みを眺めた。

 城下の活気ある通りを抜け、貴族街へと入ると、そこには格式のある屋敷が立ち並んでいた。その中でも一際端正な佇まいを見せる屋敷が、エレノアの別邸だった。

 邸宅の門を抜け、石畳の道を進んで玄関に至ると、すでに使用人たちが勢揃いして待っていた。屋敷の従者たちは整然と並び、エレノアが玄関へ足を踏み入れると、全員が深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ、お嬢様。」


 先頭に立つ一人の男性が、穏やかで落ち着いた声でそう言った。

 エレノアはその人物を見て、軽く微笑みながら応じた。


「ご苦労さま、ヴィクトール。」


 そう呼ばれた執事長は、白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけ、端正な顔立ちをしたナイスミドルな男性だった。

 彼の名はヴィクトール・カインツ。

 長い年月をかけて培われた落ち着きと威厳を持ち、どこか厳格な雰囲気を纏いながらも、その目はどこまでも穏やかで知的な光を宿している。背筋は伸び、無駄のない動作の一つひとつから、一流の執事としての経験と能力が感じられた。

 年齢は五十代後半ほどだろうか。だが、その立ち居振る舞いには衰えを感じさせるものはなく、むしろ熟練の余裕と気品を備えていた。黒の燕尾服に身を包み、白手袋をはめた手は少しの乱れもない。


「客人の方々のご案内もすでに準備を整えております。」


 ヴィクトールは流れるような所作で手を胸の前で組み、恭しく一礼した。その動きはまさに無駄がなく、美しい。


「ありがとう。彼らは優人と麻美。しばらくの間、ここで過ごしてもらうわ。」


「承知いたしました。優人様、麻美様。ようこそ、お嬢様の邸宅へ。」


 ヴィクトールは優人たちに向き直り、静かに微笑んだ。その振る舞いは温かく、だが礼儀正しさを決して崩さない、完璧な執事のそれだった。


「お二人がお過ごしになりやすいよう、私どもが最善を尽くします。」


 その言葉に、優人も麻美も自然と安心感を覚えた。


「ありがとうございます。お世話になります。」


 優人がそう答えると、ヴィクトールは満足げに頷き、使用人たちに合図を送った。すると、メイドたちが軽やかな動作で扉を開き、エレノアの別邸へと招き入れた。

 ヴィクトールに案内されながら、優人と麻美はエレノアの別邸の長い廊下を歩いた。廊下は滑らかな大理石の床が広がり、壁には豪奢な装飾が施された燭台が等間隔に並んでいる。天井は高く、繊細な装飾が施されたシャンデリアが輝きを放ち、柔らかな光が空間を満たしていた。


「こちらが優人様のお部屋でございます。」


 ヴィクトールが扉を開くと、優人は思わず息をのんだ。部屋に入った瞬間、まず目に飛び込んできたのは、中央に置かれた大きなベッドだった。シンプルとはいえその存在感は圧倒的で、深みのある木材で作られた頑丈なフレームには、繊細な彫刻が施されていた。ベッドの上にはふかふかの羽毛布団が整えられ、シーツには上質な絹が使われている。その肌触りの良さは、一目見ただけでわかるほどだった。


「……すごいな。」


 思わず呟きながら、優人は部屋の奥へと足を踏み入れた。

 ベッドの向かい側には暖炉があり、すでに小さな炎が灯されていた。その上には美しい額縁に収められた絵画が飾られており、室内の荘厳な雰囲気を一層引き立てている。

 壁には精巧な木彫りの装飾が施され、所々に金細工が散りばめられていた。さらに、部屋の隅には高級感あふれるマホガニー材の机と椅子が配置されており、書き物をするのに十分な空間が確保されている。机の上にはすでにインク壺と羽ペンが用意されており、まるで優人がこの部屋を使うことを見越して準備されていたかのようだった。


「こちらの書棚には、リベリオ帝国の歴史や文化に関する書籍が揃えてございます。また、数学関連の書物も一部ございますので、ご滞在中にお役立てください。」


 ヴィクトールが優雅に手を広げながら説明する。確かに、部屋の一角には重厚な本棚があり、美しく装丁された書籍がずらりと並んでいた。

 窓の方へと歩み寄ると、大きなアーチ状の窓からは邸宅の広大な庭園が一望できた。手入れの行き届いた芝生と色とりどりの花々が咲き誇り、中央には噴水が静かに水を湛えている。昼間になれば、ここから差し込む陽光が部屋を明るく照らすことだろう。


「これは……本当に滞在中泊まっていいんですか?」


 優人は半ば冗談のつもりで呟いたが、ヴィクトールは微笑を崩さずに答えた。


「ええ、もちろんでございます。エレノア様が心を込めてご用意されたお部屋ですので、どうぞご遠慮なくお使いくださいませ。」


 優人は改めて部屋を見渡し、しみじみとした表情で頷いた。


「……すごいな。本当に、これまで泊まったどの部屋よりも豪華ですね。」


「それは何よりでございます。」


 ヴィクトールが穏やかに微笑みながら、優人の前に静かに立ち、深みのある声で語り始めた。


「それでは、館での過ごし方について、いくつかお伝えしておきます。」


 彼の声には穏やかさと厳格さが同居しており、自然と優人の背筋が伸びる。


「まず、この邸宅はお嬢様の別邸として管理されており、使用人たちはすべてエレノア様の信頼を得ております。どうか遠慮なくお申し付けください。皆、お二人が快適にお過ごしいただけるよう尽力いたします。」


 ヴィクトールは手を軽く広げながら、優人の目を見据えた。


「また、館の中は自由にお歩きいただいて構いません。ただし、東棟の書庫と地下の貯蔵庫には貴重な資料や品々がございますので、そちらには立ち入らぬようお願い申し上げます。」


 貴族の屋敷だけあって、立ち入り制限のある区域があるのは当然のことだろう。優人は頷きながら、しっかりと覚えておく。


「食事は基本的に指定の時間に食堂でお出ししますが、必要であればお部屋にも運ばせていただきます。朝食は午前七時、昼食は正午、夕食は午後七時でございます。もし特別なご要望がございましたら、事前にお知らせください。」


 言葉を区切りながら、ヴィクトールは落ち着いた仕草で優人の方へ視線を向ける。


「なお、部屋に備え付けられているベルを鳴らせば、すぐに使用人が参ります。何かご用がございましたら、遠慮なくお呼びください。」


 優人は部屋の一角にある小さなベルに目をやった。見るからに上質な金細工が施され、紐を引けば澄んだ音が響きそうだ。


「了解です。」


「ありがとうございます。それから、先ほどお伝えした内容を麻美様にもお伝えいただけますか?」


「わかりました、あとで話しておきます。」


 ヴィクトールは満足げに頷き、静かに一歩下がると、柔らかな笑みを浮かべた。


「お嬢様はしばらくしてからお二人を呼びに参ります。それまで、どうぞゆっくりとお休みくださいませ。」


 優人は「ありがとう」と礼を言い、ヴィクトールは優雅に一礼して部屋を後にした。

 扉が静かに閉じられると、優人はふぅっと息をついた。


「……絢爛豪華とはこのことですね。」


 そう呟きながら、改めて豪華な部屋を見渡す。ふかふかのベッドや広々とした書斎、優雅な調度品の数々。すべてが、自分には少し場違いなくらい洗練されている。

 だが、そんな環境も悪くない。

 優人は部屋の椅子に腰を下ろし、一息ついた。


「……さて、白石先生にも伝えに行きますか。」


 少し休んだ後、彼は立ち上がり、隣の部屋へと向かうのだった。優人がノックをして扉を開けると、麻美が部屋の中をあちこち歩き回りながら、楽しそうに調度品を眺めていた。


「あ、優人先生! ちょっと見てください、この部屋!」


 麻美は笑顔を輝かせながら、ふかふかのカーペットを踏みしめたり、壁に掛けられた絵画を覗き込んだりしている。


「まるで映画とかで見るヨーロッパの貴族の部屋みたいですよ!ベッドもフカフカだし、机も豪華だし、なんかここにいるだけで貴族になった気分です!」


 優人は苦笑しながら部屋を見渡した。やはり、自分の部屋と少し内装が違うようだ。ベッドは淡いピンクがかった天蓋付きで、繊細なレースが施されたカーテンがかかっている。柔らかなクッションが幾つも置かれ、優美な雰囲気を醸し出していた。

 窓際には、エレガントな刺繍が施されたカーテンが揺れ、風が吹き込めば軽やかに揺れ動くことだろう。机や椅子も優雅な曲線が施され、まるで貴婦人の書斎のようだった。


「確かにすごい部屋ですよね。私も自分の部屋に入った時、ちょっとびっくりしましたよ。」


「でしょでしょ?」


 麻美は満足げに頷きながら、ベッドに腰掛けた。その仕草さえも、この部屋にいると貴族の娘のように見えなくもない。


「そうそう、ひとつ伝えておくことがあるんです。」


 優人は部屋の隅にあるベルを指さした。


「このベルを鳴らせば、すぐに使用人が来てくれるらしいです。何か必要なことがあったら遠慮なく使っていいとのことです。」


「へぇ~、そうなんだ。」


 麻美は興味深げにベルを手に取り、紐の部分を軽く引っ張る仕草をした。だが、すぐにふっと肩をすくめる。


「でもさ、私、言葉が通じないから結局優人先生がいないと会話できないんですよね。そう考えると、あんまり使う機会はなさそうかも。」


「まあ……確かにそうですね。」


 優人は頭を掻きながら苦笑した。すると、麻美はふと何かを思い出したように、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「それはそうと、エレノア姫って……すごく綺麗ですよね?」


「え?」


「あんな綺麗な人が目の前にいたら、ちょっとドキッとしたりしません?」


 麻美はニヤニヤしながら、優人の顔を覗き込んでくる。


「まあ……確かに綺麗ですね。」


「まあ、いくら綺麗だからって、ユリナ姫が悲しむから浮気しちゃダメですよ?」


 麻美はいたずらっぽくウインクしながら、優人の肩を軽く小突く。


「しないって。」


 優人は呆れたようにため息をつきながら、きっぱりと答えた。

 優人は肩をすくめながら、改めて部屋を見回した。ここでの生活はしばらく続くことになるだろう。その間、麻美ともども、うまくやっていくしかない。


「とりあえず、しばらくはここに慣れることが先決ですね。」


「そうね。でも、なんかすごく楽しみかもです!」


 麻美は嬉しそうに笑い、優人もつられて小さく微笑んだ。


 優人と麻美がしばらく会話を続けていると、部屋の扉をノックする音が響いた。


「優人先生、誰か来たみたい。」


 麻美がちらりと扉の方を見ながら言う。優人は立ち上がり、軽く息を整えてから返事をした。


「どうぞ。」


 促すと、扉が静かに開かれ、そこに立っていたのはエレノア姫だった。

 しかし、彼女は数学研究所で見た服とは違う装いをしていた。研究所では実用性を重視したシンプルな服装だったが、今の彼女はもう少し気楽な、それでいて上品な雰囲気を纏っていた。

 エレノアが着ていたのは、深い紺色のワンピース。軽やかな生地が身体のラインに沿いながらも、裾に向かってふんわりと広がるデザインで、動くたびに優雅に揺れる。胸元には小さなリボンがあしらわれており、シンプルながらも可憐な印象を与えていた。袖は七分丈で、程よくフィットしているため、腕の動きも妨げない。襟元には白いレースが施され、それが上品さを一層引き立てている。

 彼女の髪は、研究所でのシンプルなまとめ髪とは異なり、ゆるやかに巻かれた髪が肩に落ちるスタイルだった。髪の一部をサイドで軽く留めており、そこには小さな青い宝石がついた髪飾りが添えられていた。そのさりげない装飾が、彼女の落ち着いた雰囲気にささやかな華やかさを加えている。

 優人は思わず目を瞬かせた。


「……雰囲気が違って見えますね。」


 彼の感想に、エレノアは微笑んだ。


「研究所では動きやすい服装をしているけれど、さすがに客人を迎えるのにあれでは少し味気ないかと思ってね。」


「似合ってますね。」


 優人が率直な感想を述べると、エレノアはすぐに上品な笑みを浮かべた。


「ありがとう、優人。」


 その言葉に、麻美が口元に手を当てながら楽しげに微笑む。

 エレノア姫は、微笑をたたえながら優人たちを見つめた。


「そろそろ夕食の時間よ。準備が整ったから、食堂へ案内するわ。」


 彼女の言葉に、優人と麻美は顔を見合わせる。


「もうそんな時間ですか。なんだか色々あって、あっという間でしたね。」


「なんだかんだで、お昼ご飯を食べてから結構時間が経ってるし、お腹もすいてきました。」


 麻美が頬に手を当てながら笑うと、エレノアは優雅に踵を返し、二人を先導するように扉の外へと歩き出した。

 廊下を進むと、昼間に見た屋敷の静けさとは違い、どこからか美味しそうな香りが漂ってきた。スパイスの効いた芳ばしい香りと、焼きたてのパンの香ばしさ、ほんのりと甘い香りも混ざり合い、食欲を刺激する。

 ほどなくして、重厚な木製の扉の前にたどり着く。エレノアが扉を開くと、そこには豪奢な食堂が広がっていた。

 食堂の中央には、大理石の長いテーブルが堂々と置かれており、繊細な彫刻が施された椅子が整然と並べられている。テーブルの上には、白いテーブルクロスがかけられ、金の縁取りがされた陶器の皿と銀のカトラリーが美しく配置されていた。温かな光を灯すシャンデリアが天井から吊るされ、揺れる炎が柔らかい影を壁に映している。

 しかし、何よりも目を引いたのは、ずらりと並んだ食事だった。


「これは、すごいな。」


 思わず優人が声を漏らす。

 アルスタリア王国での食事も十分に豪華だったが、リベリオ帝国の食卓はそれとはまた異なる雰囲気を持っていた。

 テーブルの中央には、大皿に盛られたロースト肉が堂々と置かれていた。表面はパリッと焼き上げられ、ナイフが入るたびにジューシーな肉汁があふれ出す。その周囲には、香草とスパイスで味付けされた焼き野菜が彩りを添えていた。

 その横には、黄金色に輝くパイ包みの料理が置かれ、ナイフを入れると中から濃厚なクリームソースと柔らかく煮込まれた鶏肉が顔を出す。さらに、香ばしく焼かれたパンが数種類、籠の中に盛られ、バターやジャムが添えられていた。

 スープは、透き通る琥珀色のコンソメスープと、ポタージュのようなとろみのあるスープの二種類が用意されている。コンソメスープには小さく刻まれた香味野菜が浮かび、もう一方のスープは甘みのあるかぼちゃを使ったもののようだった。

 サイドには、チーズやドライフルーツが盛られた木製のプレートが置かれ、ワインの瓶が数本、上品に並べられている。

 デザートらしきものもすでに用意されており、ふわりと膨らんだ焼き菓子の上に、シロップ漬けの果物が添えられていた。


「アルスタリア王国での食事も豪華だったけど、こっちはまた違った雰囲気だね。」


 麻美が感嘆の声を上げる。


「リベリオ帝国では肉料理が多く、味付けにはスパイスをよく使うの。アルスタリアの料理は素材の味を生かすことを重視していたけれど、こちらはより濃厚で香り高い料理が多いわ。」


 エレノアが説明する横で、優人は目の前の料理を改めて見つめる。


「確かに、香りが全然違いますね。文化の違いはこういうところにも出ますね。」


「そうでしょう? さあ、席について。冷めないうちに召し上がって。」


 エレノアの促しに、優人と麻美は感謝を述べながら席についた。

 見た目も香りも素晴らしい料理を前に、二人の期待は自然と高まっていくのだった。

 食事が終わると、エレノア姫は食後のワインを楽しみながら、ふと興味深そうな表情を浮かべた。


「ところで……優人、麻美、あなたたちは一体どこの出身なの?」


 その問いに、優人と麻美は顔を見合わせた。まるで待ち構えていたかのようなエレノアの鋭い視線が、二人の答えをじっと待っている。


「そうですね……」


 優人が言葉を選ぼうとすると、エレノアは少し身を乗り出し、さらに問いを重ねた。


「特に麻美。リベリオ帝国だけでなく、この大陸のどの国でも、基本的に言語は統一されているはずなのに、あなたの言葉が通じないということは……よほど遠くの国から来たのかしら?」


 エレノアの紫紺の瞳が、知的な輝きを帯びて優人を見つめる。


「そして、それを理解できる優人も……一体何者なの?」


 彼女の言葉は穏やかでありながらも核心を突いていた。

 優人は一瞬、どう答えるべきかと考えたが、すぐに誤魔化せる相手ではないことはわかっていた。もともとこの世界の言葉を一切知らなかった麻美が、優人を介して意思疎通をしていること。そして、その優人はなぜか最初からこの世界の言葉を難なく理解していたこと――エレノアのような聡明な人物が疑問に思うのも当然だった。


「私たちは……まあ、かなり遠い場所から来ました。」


「そうね……普通の方法では来られないくらいには、遠い場所ね。」


 麻美も少し苦笑しながらつぶやいた。


「私たちは、もともとこの世界の人間ではありません。」


 その言葉に、エレノアの表情がわずかに動いた。


「どういうことかしら?」


 エレノアが穏やかに問いかけるのを確認してから、優人はゆっくりと語り始めた。


「私と白石先生は、こことは違う世界から来ました。もともと私たちは数学や歴史を教える教師という仕事をしていました。普通に働いて、普通に暮らしていました――ある日、突然この世界に飛ばされるまでは。」


 エレノアは静かに頷く。


「突然?」


「ええ。特に前触れもなく、急に周囲が輝いて……次に気がついたら、私はこの世界にいました。」


 その時のことを思い出し、優人は少し苦笑した。


「私が転移した先はアルスタリア王国でした。正確に言えば、近くの平原だったんですが……。そして、いきなり数学勝負に巻き込まれる羽目になりました。」


 エレノアは驚きこそしなかったが、微かに興味を強めたようだ。


「それはまた……随分と突然な話ね。」


「そうですね。しかし、私にとっては選択肢はありませんでした。右も左もわからない土地ですから。だからそのまま数学勝負を受けることになりました。相手はカルヴェリアという聞いたこともない国名でした。勝負は……まあ、結果的には私の勝ちでした。」


「それで王宮に?」


「そうです。数学の力を買われて、ユリナ姫の数学の教師として王宮に住むことになりました。」


 エレノアは静かに耳を傾けながら、ワイングラスを指でなぞっている。


「……でも、麻美とはそこで出会ったわけではないのよね?」


「ええ、白石先生は私とは違う場所に飛ばされていました。ノルディア連合のジーランド国というところに転移してました。」


「そうなの?」


 エレノアの視線が麻美へと移る。麻美は軽く頷いた。


「白石先生は色々な国を巡って数学勝負をして……最終的にアルスタリア王国との数学勝負で、ようやく私と再会できたというわけです。」


 エレノアはワイングラスを置き、しばらく思案するように沈黙した。そして、静かに言葉を紡ぐ。


「……そういう経緯があったのね。まるでおとぎ話のような話だわ。」


「まあ、そう感じますよね。」


 優人が肩をすくめると、麻美が軽く笑った。


「でも、まだ終わってないよね。今こうしてリベリオ帝国に来て、また新しい場所でやっていくことになったんだから。」


「そうですね。」


 エレノアは再び二人を見つめ、微笑を浮かべる。


「異世界から来た二人の教師……ふふっ、ますます興味が湧いてきたわ。」


 その言葉を聞いて、優人と麻美は苦笑しながらも、これからのリベリオ帝国での生活がさらに予測不能なものになりそうだと感じるのだった。

 エレノア姫は興味深げにワイングラスを指で軽くなぞりながら、優人に視線を向けた。


「異世界か……。あなたたちがいた世界は、こちらとはずいぶん違うのかしら?」


 優人は少し考え込むように眉を寄せ、それからゆっくりと口を開いた。


「ええ……建物や文化の雰囲気は似ている部分もあるけど、一番の違いは技術でしょうね。特に科学技術が発展しているんです。」


「科学技術?」


 エレノア姫は初めて聞く言葉に興味を示しながら、身を乗り出した。


「例えば……こちらの世界では馬車や馬を移動手段に使いますよね?私たちの世界では、『車』という機械を使って移動します。馬の代わりに燃料を使って動く乗り物です。」


「馬なしで動く乗り物……? それは、どういう仕組みなの?」


「エンジンっていう機械が動力を生み出して、車輪を回すんです。詳しく話すと長くなりますが、私たちの世界は機械というものがたくさん動いているって感じですね。」


 エレノア姫は興味深そうに頷いた。


「面白いわね。じゃあ、通信手段はどうなの? こちらでは手紙が主だけど、あなたたちの世界では?」


「『電話』や『インターネット』という技術があります。電話は遠くにいる相手と声だけで会話ができる装置ですし、インターネットを使えば、文字や映像を瞬時に送ることもできます。」


「声だけで? ……まるで魔法のようね。」


 エレノア姫は少し目を細め、驚きながらも楽しげに微笑んだ。


「そんな世界で、あなたは数学や歴史を教えていたのね。数学はともかく、歴史は……違う世界ならば、私たちのものとはまったく異なる歴史でしょう?」


「ええ。私たちの世界には、ここには存在しない国がたくさんあって、戦争や革命があって、文化が変わり続けてきました。まあ、その話は白石先生の方が詳しいですね。」


「……話を聞いているだけで、もっと知りたくなるわ。」


 エレノア姫は満足そうに微笑みながら、ワイングラスを静かに置いた。そして、ふと視線を戻した優人が、今度は問いを投げかける。


「そういえば、私たちをここに呼んだ理由を改めて聞いておきたいんですが。」


「手紙にも書いた通りよ。」


 エレノア姫はさらりと言った。


「数学勝負で連戦連勝している有望な人材に声をかけただけ。あなたも白石先生も、数学の分野で優れた能力を持っていると聞いていたから、興味を持ったの。」


「つまり、私たちは自由に研究をしていいということですか?」


「ええ。研究に満足したら、元の街や国に帰りたいという人もいるわ。そういう場合は普通に帰ってもらっているわよ。ただ、この環境で数学の研究を続けたいということで、国に帰らず研究所に残っている人間も大勢いるけどね。」


 エレノア姫はさらりと説明したが、その言葉には自信と誇りが滲んでいた。リベリオ帝国の数学研究所が、それだけ魅力的な環境を提供しているという自負があるのだろう。


「明日、研究所を案内するから、それぞれの研究を見てから決めるといいわ。あなたたちがどの分野に興味を持つのかも気になるしね。」


「そうさせてもらいます。」


 優人がそう返すと、エレノア姫は満足げに微笑み、立ち上がった。


「さて、そろそろお開きにしましょうか。今日は長旅の疲れもあるでしょうし、ゆっくり休んでね。」


 こうして、夕食の場は解散となり、優人と麻美はそれぞれの部屋へと戻っていった。





 エレノア姫は自室に戻ると、静かに扉を閉めた。室内は、壁にかけられた装飾品や本棚に並ぶ数学書が淡いランプの光に照らされ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 彼女は窓辺へと歩み寄り、夜の帳が下りた庭を見つめながら、ゆっくりと息をついた。


「……異世界、か。」


 口に出してみると、その響きはあまりにも現実離れしている。けれど、優人と麻美の話を聞いて、疑う余地はなかった。異世界から来た者が数学に秀で、そしてこの世界で数学勝負に巻き込まれながらも勝ち上がってきた。まるで運命が導いたかのような巡り合わせだ。

 エレノアはそっと窓枠に手を添えながら、今日の優人の様子を思い返した。

 彼の実力は未知数。しかし、数学勝負で勝ち続けてきたのは事実。そして、異世界の知識を持つという点も、これまでの研究者とは異なる特異性がある。だが、それ以上に重要なのは――


「……研究所の環境を見れば、自然とこの国に留まりたいと思うはず。」


 彼女は小さく微笑んだ。

 これまでリベリオ帝国の数学研究所に招かれた者たちも、最初は自分の国への愛着があり、自国のためにこの研究所に足を踏み入れていた。しかし、最先端の数学の研究、充実した設備、優秀な研究者たちとの交流――それらを目の当たりにすることで、彼らは次第にこの場所に魅了され、自ら残ることを望むようになった。

 優人もきっと同じだ。

 数学の探究心を持つ者であれば、リベリオ帝国の数学研究所がどれほど価値のある環境かを理解し、ここで研究を続けたいと思うに違いない。そして、そうなれば、彼が生み出す研究成果は、やがてこの国の発展にも寄与するだろう。


「自ら望んで研究を続けるのであれば、私は止めはしない。」


 彼女の声は穏やかだったが、その眼差しには確かな意志が宿っていた。

 これまでもそうしてきた。自らこの場に残りたいと願う者には、存分に研究を行わせ、その成果をリベリオ帝国のために役立ててもらった。彼らが生み出した理論や定理は、帝国の数学の発展を大いに押し上げ、さらなる優秀な人材を惹きつけることにもつながっている。


「明日の案内が楽しみね。」


 エレノア姫は微笑みながら、窓を閉めた。

 優人が研究所の何を見て、何を感じるのか。どの分野に興味を持ち、どんな反応を示すのか。

 そして、彼は――この国に残ると言うだろうか?

 考えながら、エレノア姫は静かにベッドへと向かった。

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