婚約数と結婚数
澄み渡る青空の下、優人とユリナ姫はアルスタリア王国の街を歩いていた。石畳の道が続き、両側には歴史を感じる木造の建物が立ち並んでいる。市場では商人たちの活気ある声が響き、焼きたてのパンや新鮮な果物の香りが漂っていた。
優人はそっとユリナ姫の手を握った。ほんの少し戸惑ったように彼女が指をぴくりと動かすのを感じたが、やがてぎこちなくも優しく握り返してくる。その感触に、優人の胸が少し高鳴った。
「こうして二人で街を歩くのは初めてですね」
ユリナ姫がそう言いながら、少し恥ずかしそうに横目で優人を見る。
「そうですね。授業や城の中では一緒にいることが多いですけど、外でこうしてゆっくり過ごすのは新鮮です」
いつもより近い距離にお互いを意識しながら、二人は市場を回り始めた。
市場には色とりどりの商品が並び、多くの人で賑わっていた。パン屋の前を通れば焼き立ての香ばしい匂いが漂い、革細工の店では職人が見事な手さばきで財布やベルトを仕上げている。
「優人様、ちょっとこちらに来てください」
ユリナ姫に手を引かれるまま、優人は鍛冶屋の露店の前に立った。そこには精巧な細工が施された金属製の装飾品や実用品が並んでいる。
「このあたりのもの、きっと優人さんに似合うと思います」
ユリナ姫が指差したのは、シンプルながら洗練されたデザインの腕輪だった。銀と黒鉄を組み合わせたデザインで、武骨ながら上品さもある。
「私に、ですか?」
「ええ。何か優人様に贈りたくて……。前に髪飾りをもらってから考えてたんです。優人様には華美なものよりも、こういうシンプルなデザインのほうが似合いそうだと思いました」
ユリナ姫の少し恥ずかしそうな表情に、優人は驚きつつも心が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます。じゃあ、これを大事に使わせてもらいます」
ユリナ姫は少し嬉しそうに微笑みながら店主に支払いを済ませた。優人はさっそく腕にはめてみる。手に馴染む重みが心地よい。
「確かに、しっくりきますね」
「ふふっ、やっぱり似合います」
ユリナ姫の満足げな笑顔を見て、優人は自然と口元が緩んだ。
市場を散策した後、二人は街の片隅にある小さな食堂に入った。こぢんまりとした店内には、木製のテーブルと椅子が並び、壁には手書きのメニューが貼られている。ほのかにスパイスの香りが漂い、料理の期待を高める。
「このお店、雰囲気がいいですね」
「ここのシチューが美味しいと聞いたことがあります」
店員が勧めるままに、二人は名物のシチューとパンを注文した。ほどなくして運ばれてきたシチューは、陶器の器にたっぷりと盛られている。湯気が立ちのぼり、じっくり煮込まれた具材の香りが鼻をくすぐる。
「いい匂いですね……」
「ですね。では、いただきます」
スプーンですくい、口に運ぶ。柔らかく煮込まれた肉がほろほろと崩れ、濃厚なスープの旨味が広がる。
「これは美味しいですね」
「ええ、とても……! 優人様は、元の世界ではこういう料理はよく召し上がったんですか?」
「シチューは日本にもありますが、味付けが少し違いますね。こっちのほうが香辛料が効いていて、パンにもよく合います」
ユリナ姫は興味深そうに頷きながら、パンをちぎってシチューにつけた。
「確かに……このパンと合わせると、また違った美味しさですね」
二人はゆったりとした時間を楽しみながら、時折笑顔を交わし、他愛のない会話を続けた。食事を終えるころには、店の温かい雰囲気も相まって、いつも以上にリラックスした気持ちになっていた。
「お腹も満たされたし、そろそろ次へ向かいましょうか」
「はい」
食堂を出た二人は、並んで歩きながら穏やかな午後の空気を楽しんだ。
食後、二人は街外れにある小高い丘へと向かった。草原が広がるその丘の上からは、街並みと遠くの山々が一望できた。そよ風が心地よく、太陽の光が穏やかに降り注いでいる。
優人とユリナ姫は丘の上に立ち、静かに風景を眺めていた。眼下には中世ヨーロッパ風の街並みが広がり、遠くには雄大な山々が連なっている。夕陽が地平線に沈みかけ、空には柔らかなオレンジと紫のグラデーションが広がっていた。
心地よい風が吹き抜け、ユリナ姫の金の髪がそよぐ。いつもなら穏やかで楽しい空気が流れるはずのこの場所に、今日はどこか緊張感が漂っていた。優人は静かに口を開いた。
「……ユリナ姫。少し、話があるんです」
ユリナ姫はその言葉に微かに目を伏せ、そしてそっと口を開く。
「リベリオ帝国に行くのですね」
優人は驚いて彼女を見つめた。彼女はどこか寂しげな表情を浮かべながら、それでも静かに微笑んでいた。
「……分かっていたんですね」
「ええ。優人様の雰囲気から、何となく。でも……本当は、聞きたくなかったです」
ユリナ姫の声はかすかに震えていた。
優人は小さく息をつき、ゆっくりと彼女に向き直る。
「リベリオ帝国の数学研究所に行く理由はいくつかあります。まず、私が断ったとしても、エレノア王女に目をつけられていることに変わりはないのならば、こちらから飛び込んで情報を探ったほうがいいと考えました」
ユリナ姫は黙って優人を見つめ、彼の言葉を受け止めていた。
「それに、リベリオ帝国の数学研究所では数学システムについての研究も進んでいるようです。私だけが言葉を翻訳されているこの状況についても、何かわかるかもしれない。もしかすると……白石先生の現状をよくすることができるかもしれません」
そう言った瞬間、ユリナ姫の表情がほんの少し曇る。
「……そうですね。それに数学研究所なら、優人様たちが元の世界に戻る方法がわかるかもしれません」
ユリナ姫の声には、どこか寂しさが滲んでいた。
「でも……私はアルスタリア王国の唯一の姫です。どれだけ優人さんのそばにいたくても、国を離れるわけにはいきません」
ユリナ姫は両手をぎゅっと握りしめた。
優人はそんな彼女の姿を見つめ、静かに口を開く。
「ユリナ。私はリベリオ帝国に行きますが、必ず帰ってきます。そのとき私が帰る場所は、あなたの隣がいいです。」
ユリナ姫は驚いたように優人を見つめる。
夕陽に照らされた優人の真剣な眼差しが、ユリナ姫の胸に深く響いた。彼女の目がわずかに潤み、そして小さく微笑む。
「……待っています。ずっと」
優人は頷き、ユリナ姫の手をそっと握りしめた。優人は静かに息を吸い込み、そっとポケットに手を入れた。そこには数日前に特注で作ってもらった指輪が収められている。シンプルながらも最高級の結婚指輪。ユリナ姫にふさわしいものを、と職人に頼み込んで作ってもらったものだった。
ユリナ姫は優人の様子に気づき、不思議そうに首を傾げる。
「ユリナ……」
優人は彼女の手を優しく取る。細く、白く、柔らかな指先。握るだけで温もりが伝わるその手を、そっと包み込むようにしながら、静かに言葉を紡ぐ。
「私は必ず戻ってきます。どんなに遠くへ行ったとしても……」
そう言いながら、ゆっくりと指輪を取り出し、ユリナ姫の前に差し出した。
優人がそっと取り出した指輪は、一見するとシンプルなデザインだった。しかし、細部に目を向けると、そこには職人のこだわりが詰め込まれていた。
指輪の素材は、最高級の希少な金属。プラチナのような滑らかで光沢のある白銀の輝きは、ユリナ姫の透き通るような白い肌によく映える。装飾を控えた洗練されたデザインは、華美ではなく、気品と格式を兼ね備えていた。
中央には細く美しい曲線の彫刻が施されている。それは、風にそよぐ草花を思わせる繊細な模様で、優雅な雰囲気を醸し出している。柔らかくも気高いユリナ姫の雰囲気にふさわしい意匠だった。
さらに、リングの内側には優人が特別に彫らせた文字が刻まれていた。
それは、彼の決意と誓いを込めた言葉。たとえ遠く離れようとも、彼女に対する想いは変わらないという意思を示していた。
ダイヤや宝石をあえて使わず、純粋な輝きを持つこの指輪は、ただの飾りではなく、優人の誠実な想いそのものだった。華やかさよりも、確かな価値を持つもの――それこそが、ユリナ姫にふさわしいと優人は考えた。
「……とても、きれいです」
陽の光を受けて、指輪の輝きが柔らかく反射する。
「優人様……」
彼女は目に涙を浮かべながら、指輪を大切そうに握りしめた。その表情には迷いはない。ただ純粋な愛情と、優人への信頼が宿っていた。
「私は……本当に、あなたのことを……」
言葉を紡ぐよりも先に、ユリナ姫はそっと優人の胸に飛び込んだ。
「ありがとう……」
優人もそっと腕を回し、彼女の背を抱きしめる。
「私の気持ちは、ずっと変わらない。だから、待っていてほしい」
「ええ……待っています。ずっと」
二人はゆっくりと身を離し、ユリナ姫は涙を拭いながら微笑んだ。優人は優しく笑い、彼女の左手を取り、ゆっくりと指輪を薬指にはめる。
ぴったりと馴染んだ指輪は、まるで初めからそこにあるべきものだったかのように、ユリナ姫の指に収まった。
「似合ってる」
「……うれしいです。とても」
空の下にたった二人だけがいるような感覚になる。
優しい風が吹き抜ける丘の上で、ユリナ姫はそっと優人を見つめた。指にはめられた指輪を何度も撫でるように触れながら、彼女の瞳にはどこか迷いが浮かんでいる。
「私は今本当に幸せです。ですが、優人様は……元の世界に戻らなくて後悔しないのですか?」
彼の手をそっと握りながら、小さな声で問いかけた。
彼女の声には、不安と寂しさが混じっていた。彼が元の世界に帰るのが当然のことだと思っていたのに、そうしないと言う彼の決意に、どう向き合えばいいのかわからないのだ。
優人はそんな彼女の手を優しく包み込むと、静かに微笑んだ。
「……もちろん、私にも元の世界に親や兄弟がいます。ですが……」
そう言って、彼はユリナ姫の瞳をまっすぐに見つめた。
「ここにも、同じくらい大切な人ができました。だから、私はそう決めたんです」
ユリナ姫の瞳が揺れる。優人の言葉の意味を、心がしっかりと受け止めようとするように。
「でも……もし、帰る方法が見つかったら……?」
彼女の声は少し震えていた。優人が帰れる方法を見つけたら、いずれ彼は自分の世界へ戻ってしまうのではないか。その可能性が消えない限り、完全に安心することはできない。
しかし、優人は微笑んだまま首を横に振った。
「もし元の世界に帰る方法があったとしたら……私はユリナ姫を連れていく方法を考えることにしますよ」
「……え?」
ユリナ姫は驚いたように目を瞬かせた。
「私だけ帰るなんてことはしない。ユリナ姫が一緒に行けるなら、それを考えます。それができず、私や白石先生しか帰れないようなら……白石先生にいろんな人への手紙でも預けることにしますよ。それで充分です」
ユリナ姫はしばらく言葉を失ったまま、優人の顔を見つめていた。
優人の選んだ道は、どんな世界にいても、どこにいたとしても、変わらずにユリナ姫を大切に思う道だった。
ゆっくりと、ユリナ姫の目元に涙が浮かぶ。
「……優人様」
優人は黙って彼女の手をぎゅっと握りしめた。
夕陽がゆっくりと地平線へと沈んでいく中、二人の影は寄り添うように重なっていた。
デートを終え、夜の街を並んで歩く二人の足取りはどこか名残惜しげだった。昼間の喧騒が消えた街並みは、石畳に月明かりが落ちる静寂の世界へと変わっていた。
先ほどまでの会話を経て、ユリナ姫の表情にはどこか安心したような穏やかさが戻っていた。彼女は指輪をそっと撫でながら、ふと思いついたように優人を見上げた。
「ねえ、優人様。友愛数や婚約数があるのなら……結婚数っていう数はないのですか?」
その問いに、優人は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐにくすりと微笑んだ。
「結婚数、か……確かに、そういう名前があってもおかしくないですね」
「やっぱりないのですか?」
ユリナ姫が少し残念そうに問いかける。数学の世界でも「結婚」にまつわる概念があれば素敵なのに、という思いが感じられた。
優人は顎に手を当てて少し考え込みながら、ゆっくりと説明を始めた。
「私の世界の、昔の考え方では、偶数は女性、奇数は男性を表していたっていう説があるんです。そして、その考えをもとに、友愛数は偶数同士か奇数同士のペアしかないので『友との親愛』という意味を持たせて『友愛数』と呼ぶようになった。逆に、婚約数は偶数と奇数のペアしかないので『男女の婚約』という意味を持たせて『婚約数』と呼ぶようになった……という話があるんです」
ユリナ姫は興味深そうに頷きながら、優人の言葉をじっと聞いている。
「偶数が女性、奇数が男性……数字の中にもそんな考えがあったなんて、なんだか面白いですね」
「まあ、あくまで昔の考え方の一つですね」
優人はそう付け加えながら、少し思案するように空を仰いだ。
「もし偶数と奇数の友愛数のペアが見つかったら、それを『結婚数』って呼ぶとする考え方もあります」
「えっ、本当ですか?」
ユリナ姫の瞳がぱっと輝く。
「ええ。偶数と奇数の友愛数があれば、それこそまさに『結婚』を象徴する数になるかもしれない」
「そうなったら素敵ですね……」
ユリナ姫は嬉しそうに微笑んだ。
夕陽がゆっくりと沈み、空が優しい橙色に染まる中、二人の心は確かに結びついていた。




