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数学に対する想い

 アルベルト王子に数学を教えるようになってから、1週間が過ぎた。その日もいつものように王子への数学の授業を終えた優人は、大きく息を吐きながら部屋の机に向かっていた。すると、ふわりとした足音とともに、扉が軽くノックされる。

「お邪魔しまーす。」

 フィーナが笑顔で部屋に入ってきた。いつものメイド服姿で、片手には蒸気の立ち上るティーポットとカップが乗ったトレイを持っている。

「お疲れさま。はい、ちょっと休憩。」

 トレイを机に置き、自分も椅子に座りながら、彼女は優人をちらりと見上げた。

「それで、アルベルト王子との数学の調子はどうなの?」

 優人はカップに注がれた紅茶を一口飲み、少し考えてから答えた。

「まあ、さすがに昔から勉強していただけあって、優秀ではありますね。」

 フィーナはその言葉を聞いて、すぐに眉を上げた。

「優秀『では』? その言い方、何か引っかかるわね。どういうこと?」

 優人は苦笑しながら肩をすくめた。

「アルベルト王子は、答えを出すことを重視しがちですね。解ければそれでいい、という感じですね。」

 フィーナは頭をかしげた。

「でも、答えを知ろうとするのっていいことなんじゃないの?」

「もちろん、それ自体は悪いことじゃないですよ。」

 優人は真剣な表情で続けた。

「ただ、彼は解法を覚えて問題を解くことが目的になっていて、なぜその方法で解けるのか、どうしてその公式が成り立つのか、そういう部分にはあまり興味がないみたいなんですよ。」

 フィーナは「なるほど」と小さく頷いた後、目を輝かせながら言った。

「私はそういうの、つい考えちゃうけどな。『何でそうなるんだろう』ってね。」

 優人はその言葉に微笑みながら答える。

「ユリナもフィーナもそういうタイプですね。でも、アルベルト王子のやり方が悪いわけではないんですよ。実際、私の世界ではテストという知識を測る仕組みがあって、それで点を取るには解き方を覚えるのが手っ取り早いんです。問題を解くための解法や応用の仕方を暗記して、それで解ければテストの成績は良くなる。」

 優人は少し遠くを見るような目をしながら続けた。

「でも、私はそれだけじゃ寂しいと思うんですよ。解けるのはいいけど、その背景や理屈を知ることで、数学の面白さが見えてくると思うんです。」

 フィーナは感心したように頷きながらも、急に思い出したような口調で言った。

「なるほど、アルベルト王子とはそんな感じなのね。まあ、それはどうでもいいんだけど――」

「えっ?」

 優人は驚いた表情を浮かべた。

「いや、フィーナが聞くから答えたんですが、どうでもいいって――」

 言い終わる前に、フィーナは軽く手を上げて優人の言葉を遮った。

「それより、姫様とはどうなってるの?」

 優人は一瞬言葉に詰まり、「どうなってるって?」と聞き返した。

 フィーナは少し眉を寄せ、真剣な表情になった。

「この1週間、優人との数学の授業がないから、ユリナ姫ったらすごく寂しそうなのよ。いつも浮かない顔してるし、ため息をついてることが多いの。ちゃんと気づいてる?」

 その言葉に優人は一瞬目を伏せ、黙り込んだ。そして、静かに紅茶を一口飲み、息を吐きながら言った。

「……アルベルト王子の問題が片付いたら、また元のように数学の授業を再開するつもりだよ。ユリナにもちゃんと話すつもりだ。」

 フィーナはじっと優人の顔を見つめ、少しだけほっとしたような笑みを浮かべた。

「ならいいんだけど。姫にとって、優人との時間は特別なんだからね。」

 その言葉に優人は胸が少し締め付けられるような感覚を覚えながらも、何も言わずに再び紅茶を飲み干した。

「あと、アルベルト王子は、ユリナ姫のためを思って『数学なんかしなくていい』って言ってるのかもしれないけど、それ、逆効果になってるよ。」

 フィーナは真剣な表情で言った。

「逆効果?」

 優人はカップを置き、フィーナを見た。

「そう。姫さまは、優人と一緒にいられる時間だから、数学の授業が楽しいのもあるけど……それだけじゃないんだから。」

「ユリナ姫ったら、優人がいないときでも数学の問題を考えてるとき、すごく楽しそうなんだよ。なんかこう、真剣だけど嬉しそうな顔してるの。」

 フィーナはそう言うと、少し微笑みながら続けた。

「前にも言ったけど、姫さまって数学が好きなんだと思う。だから、授業も楽しんでるし、自分で問題を解けたときの顔なんて、すごく自信満々で可愛いくらいなんだから。」

 その言葉を聞いて、優人はふと記憶の中に浮かぶユリナ姫の姿を思い出した。

 授業中、優人の説明を一生懸命に聞きながら頷いていた表情。

 そして、自分で考えた問題の答えが合っていたとき、目を輝かせながらノートを差し出し、「見てください!合ってますよね?」と自信満々に言ってきたあの様子。

「……確かに、そうですね。」

 優人はしみじみと同意した。

 フィーナは満足そうに頷いたが、次の瞬間、少し鋭い視線を優人に向けた。

「それにしても、アルベルト王子がユリナ姫に好意を持ってるのは、さすがの優人でもわかってるんでしょ?」

 突然の問いに、優人は思わず少しだけ肩をすくめた。

「アルベルト王子がユリナに好意を持っているって、どうしてそう思うんですか?」

「だって、アルベルト王子ったら、ユリナ姫にだけ特別優しいし、あの人の目、完全に『好きな人を見る目』なんだもん。」

 フィーナはあっさりと言い切った。

「フィーナは、まだ子どもなのにそんなことがわかるんですね。」

 優人が少し茶化すように言うと、フィーナはぷっと頬を膨らませた。

「子ども扱いしないでよ!」

 フィーナは怒ったように言いながらも、すぐに話を戻した。

「で、どうなの?」

 優人はため息をつきつつ、

「もちろんわかっていますよ。というか、気づくもなにも……王子と出会ったその日に、本人に宣言されましたからね。」

「えっ、本当に?」

 フィーナの目が丸くなった。フィーナは腕を組み、やや呆れた様子で優人を見つめた。

「それなのに、そんなに悠長にしていていいの?」

「悠長ですか?」

 優人は眉を上げて聞き返した。

「そうよ!」

 フィーナは即答し、さらに鋭い口調で続けた。

「アルベルト王子は、隙さえあればユリナ姫と話す時間を取って、どんどん好感度を稼いでるのに、優人は自分から何かユリナ姫にしたの?」

「耳が痛い話ですね……」

 優人はため息混じりにそう答えたが、表情にはどこか反省と迷いが浮かんでいた。そして少し間を置いてから続けた。

「ユリナ姫にとっても、年齢が近くて、色々と努力できる一生懸命な青年であるアルベルト王子の方が、似合っているんじゃないかって思うんですよね。」

 その言葉を聞いた瞬間、フィーナの目つきが一気に鋭くなった。

「ちょっと待って、それって……まさかそのこと、ユリナ姫には言ってないでしょうね?」

「さすがに婚約者にそんなことを言う無神経さは持ち合わせていませんよ。」

 優人は苦笑しながら答えた。

 しかし、フィーナは納得しない。

「直接は言わないようにしてるってことは、そういうふうに思ってるってことでしょ?年齢とか能力とか、そんなのどうでもいいのよ。大事なのは、優人自身がユリナ姫をどう思ってるか、そこでしょ!」

 その直球の言葉に、優人は一瞬返す言葉を失った。自分がこの手の話を他人に真剣に問い詰められる日が来るとは思いもしなかった。

「なんというか、異世界転生の男主人公が女性関係で言われそうなテンプレートを、自分が言われる日が来るとは思いませんでしたよ……」

 と、どこか自嘲気味に呟いた。

「なにそれ?」

 フィーナが首を傾げながら聞き返したが、優人はその返答には構わず、少し目を伏せて自分の胸の内を静かに探った。

 ユリナ姫との時間を思い返すたび、彼女の笑顔、真剣な表情、そして時折見せる無邪気な仕草が、心の中で大きく膨らんでいくのを感じる。数学の授業の間、一生懸命に問題を解き、自信満々に答えを示してくれる彼女の姿。何か困ったことがあれば、自分を頼ってくれる信頼のまなざし。

 ユリナ姫は、ただの王族としてではなく、一人の人間として自分の中で特別な存在になっていた。


 時刻は夕餉の時間となった。長いテーブルには、アルスタリア王、ユリナ姫、アルベルト王子、優人、フィーナ、アーシュが揃い、食事を終えた頃、アルスタリア王が口を開いた。

「さて、数学勝負に向けての準備はどうだ?」

 王の落ち着いた声が響く。アルベルト王子はナプキンで口元を拭きながら答えた。

「順調ともいえるし、まだまだ足りないともいえます。優人殿のおかげで、いろいろな問題の解き方や、相手も解けなさそうな問題を覚えることができました。しかし、優人殿の世界で考えれば、13歳の子どもが学ぶ範囲にも達していないとのことで、どこで区切るかを考える必要があると感じています。」

「確かに、内容は膨大です。」

 優人も頷く。

「現在は計算でどうにかできる問題を厳選していますが、それでもやることは多いですね。」

 そのやり取りを聞いていたアーシュが興味を示した。

「例えば、どんな問題を勉強しているんですか?」

 アルベルト王子は少し得意げに答えた。

「今日は円について教えてもらいました。円の周りの長さは直径×円周率で、円の面積は半径×半径×円周率で求められるというもので、優人殿にいろいろな予想問題を出してもらい、それを解く練習をしていました。」

 すると、ユリナ姫が疑問を口にした。

「直径や円周率とは何なのですか?」

 アルベルト王子は少し困った顔をして答える。

「直径というのは、円の長い部分の線の長さで、円周率というのは『パイ』という記号のことだったかな。」

「『パイ』って何なの?」

 フィーナがさらに問いかける。アルベルト王子はさらに困ったように眉を下げ、紙に「π」と記号を書いて見せた。

「これが『パイ』の記号だ。」

 ユリナ姫はその記号を見つめながら驚いたように言った。

「この記号、数学システムの答えを入力する画面で見たことがあります。これが『パイ』と読むのですね。この『π』というのは、どういう意味なのですか?」

 アルベルト王子は少し焦ったように目を泳がせた。

「聞いた気もするが……よく覚えていない。でも、今はこの記号を使って問題を解けるようになることが大事だ。」

 その言葉に、ユリナ姫の顔が少し曇った。

「やはり私もいろいろと知りたいので、明日から優人様の授業に出てもいいですか?」

 優人が肯定の言葉を口にしようとした瞬間、アルベルト王子がその言葉を遮った。

「ユリナ、そんなことをしなくていいよ。わざわざ難しい問題を苦労して解かなくても、僕たちが解き方を覚えて問題を解けばいい。そちらのほうが答えを出す時間も短くて効率がいい。」


 ユリナ姫の顔が曇り、揺れる瞳がどこか寂しげな光を帯びた。アルベルト王子の言葉が胸の奥深くに突き刺さる。彼女は、自分が何度も試行錯誤しながら問題を解こうとした時間が「効率が悪い」「無駄」と言われたように感じ、深い失望を感じていた。

 ユリナ姫は震える声でアルベルト王子に問いかける。

「問題を解こうとして解けなかった時間は、本当に……無駄なのでしょうか?」

 その言葉には、期待と不安が入り混じっていた。もしかしたらアルベルト王子がすぐに「そんなことはない」と否定してくれるかもしれない、そう期待していたのだ。しかし、アルベルト王子の答えは冷静すぎるほど冷静だった。

「無駄というわけではないけれど……効率が悪いとは思う。解き方を知っている人に聞いたほうが早いし、その時間をもっと有意義に使えるだろう?」

 その瞬間、ユリナ姫の胸に広がったのは、言葉にできないほどの悲しみと虚しさだった。「有意義……」と小さく呟くと、目を伏せ、細い肩がわずかに震えた。


「……そう、ですか。」

 ユリナ姫の声は震えていたが、必死に平静を保とうとしているのがわかった。だが、その目元に滲んだ涙は、彼女の深い悲しみを隠しきれていなかった。

 彼女は静かに立ち上がると、深く頭を下げた。

「申し訳ありません、少し席を外させていただきます。」

 その一言を残して、ユリナ姫は歩き出した。その背中には、どこか孤独な影が宿っている。ドアの前に立ち、ふと振り返ると、彼女の顔には薄く涙が浮かんでいた。

「アルベルト王子……あなたは、きっと私よりずっと正しいのでしょうね。」

 彼女はそう呟いた。

「でも、私は……どうしてもその正しさが、悲しく感じてしまいます。」

 言葉を紡ぐたび、涙が頬を伝って落ちる。ユリナ姫はそれ以上何も言わず、軽く礼をして部屋を退出した。

 ドアが閉まる音が静かに響いた瞬間、大広間に残された人々の心にも重たい空気が広がった。ユリナ姫の悲しみが、胸に突き刺さるかのようだった。優人は彼女の消えたドアをじっと見つめ、胸が締め付けられるような感情に苛まれていた。

 アルベルト王子は視線を落とし、少し戸惑いを見せていた。

「……僕は、何か間違ったことを言ったのだろうか。」

 彼のその問いかけは、誰に向けたものなのか、自分自身にもわかっていないようだった。

 優人は少し沈黙を保った後、アルベルト王子に向き直り言った。

「ユリナは、解けなかったとしても、それを解くために考えた時間にも意味があると感じているんです。」

「でも、簡単に解けたほうが良いだろう?」

 アルベルト王子は納得がいかない様子だった。

「それは考え方の相違ですね。問題を解くだけであれば王子のやり方でも構いません。しかし、ユリナは『なぜ解けるのか』を考えることが好きなんです。それが楽しいからこそ、彼女にとってはその時間も大切なんですよ。」

 優人は少し間を置いて、さらに言葉を重ねた。

「私の世界では、いまだに解けていない問題に挑み続けている数学者がいます。どのように解けばいいのか、答えがどんなものなのか分からない中で、ひたすら考え続けている。その過程そのものが彼らの喜びであり、知りたいという強い欲求に基づいているんです。ユリナも同じです。彼女のその時間を『無駄』だなんて言わないであげてください。」

 その静かな優人の言葉に、大広間にはしばしの静寂が訪れた。アルベルト王子は何かを考えるように視線を落とし、アーシュやフィーナも口を閉ざして場の空気を見守っていた。


 優人は深く息を吸い込んだ。胸の奥で渦巻く迷いと覚悟、その全てを押し込めるように一歩前に進む。ここ最近、アルベルト王子やフィーナに色々と言われ、考え続けた日々が脳裏をよぎる。

 自分とアルベルト王子、どちらがユリナにふさわしいのか――そればかりを考えていた。

 アルベルト王子は幼いころからユリナのために努力を惜しまず、彼女を守るために研鑽を積んできた立派な人間だ。それに比べて、自分はどうだろうか。突如として異世界にやってきた身で、王国のことも、この世界のこともほとんど知らない。ただ数学を教えるという役目だけで彼女と近づき、彼女の心に触れることができたに過ぎない。

「……もし、ユリナの幸せを思うなら、私は身を引くべきなのかもしれない。」

 そんな考えが何度も頭を過った。しかし、そのたびに胸が締め付けられるような痛みが湧き上がった。

 ――いや、違う。

 優人は拳を握りしめ、静かに顔を上げた。心は決まった。彼の目には、迷いのない光が宿っていた。

「アルベルト王子。」

 優人はアルベルト王子に向かって強い声で呼びかけた。アルベルト王子が軽く驚いたように顔を上げると、優人はまっすぐ彼を見つめた。

「この前、邪魔をしないと言いましたが……その約束は反故にさせてください。」

 一瞬、静寂が訪れた。フィーナが目を見開き、アーシュも口を開きかけて止まる。

「……どういう意味だ、優人殿?」

 アルベルト王子が冷静な口調で問いかける。優人は少し目を伏せ、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。

「様々な点で、王子のほうが私より優れていると思っています。努力も覚悟も、私なんかとは比べ物にならないほどのものを積み重ねてこられた。そのことは心から尊敬しています。」

 一呼吸置いて、優人は顔を上げた。その目には、強い意志が込められていた。

「それでも……ユリナにとっての数学の意味を一番理解しているのは私だと思っています。数学に対する彼女の想い、その全てを私が一番受け止められると信じています。」

 アルベルト王子は目を細め、無言のまま優人の言葉を待っていた。

「ユリナを幸せにしたいという気持ちは、王子にも負けていない……そう信じています。」

 優人の声は揺るがなかった。その場に漂う空気がピンと張り詰める。

 優人は深々と頭を下げ、まっすぐ立ち上がると、背筋を伸ばしたままドアのほうへ向かう。

「私はユリナを追います。」

 アルベルト王子は何かを言いかけたが、言葉にはしなかった。ただ優人の背中を見つめ、静かに彼を見送った。

数学の内容をたくさん書きたいと思っているのに、数学じゃない部分が多くなってくる不思議です。次回は姫との関係についてだけではなく、円周率についても詳しく書きたいです。

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