王子の気持ちと階乗
数学で「!」を初めて見たときはまさにびっくりする気持ちでした。記号の意味を知らない人が問題を解くのはほぼ不可能だと思います。
食堂の静けさの中、空中に浮かぶディスプレイに映し出された「6!」という問題を見て、ユリナ姫が優人に問いかけた。
「優人様、この『6!』というのは、一体何を意味するのですか?」
その言葉に続けて、フィーナが首をかしげながら言う。
「数字と記号にしか見えないけど、どういう意味なの?」
アルベルト王子も興味を示し、じっと優人の説明を待っている。
優人は一同の視線を受けながら、穏やかに答えた。
「この問題のカギは『!』という記号にあります。この記号は数学で『階乗』と呼ばれるものを表しているんです。」
「階乗?」
ユリナ姫が疑問の声を上げた。
優人は頷き、手元の紙にペンを走らせながら説明を続ける。
「階乗というのは、1からその数字までの全ての自然数を掛け合わせたものを指します。つまり、『6!』は次のように計算する。」
優人は紙に計算式を書き、全員に見えるように掲げた。
「6!=6 × 5 × 4 × 3 × 2 × 1」
「これを計算すると……」
優人はひとつひとつ順を追って計算していく。
「6 × 5 = 30」
「30 × 4 = 120」
「120 × 3 = 360」
「360 × 2 = 720」
「よって、6!の答えは『720』になるんです。」
説明を終えた優人は、微笑みながら紙をテーブルに置いた。一同はそれを見つめ、驚きと感心の表情を浮かべる。
フィーナが先に口を開いた。
「そういうことだったんだ!そうやって計算するのね!」
ユリナ姫は感心した様子で小さく息を吐き、
「階乗なんて初めて聞きました。でも、計算の仕方が分かると面白いですね。」
と微笑む。アーシュも瞳を輝かせながら納得したように頷いた。
しかし、最も衝撃を受けているのはアルベルト王子だった。しばらく沈黙した後、彼は真剣な表情で口を開いた。
「……ということは、このジーランドの代表は、こういった特殊な数学の知識を駆使して、全ての国に勝利してきたということか。優人殿、この問題の意味を知っているあなたがいなければ、私たちも同じように手も足も出なかったでしょう。」
優人は軽く首を振り、
「この問題は階乗の意味を知っているかどうかだけです。知っていたから答えられるというだけですよ」
と答えた。食堂のディスプレイに映し出された「6!」を見つめながら、優人は続けて口を開いた。
「この『!』の意味さえ分かれば、この世界の人でも、時間をかけて計算すれば必ず答えは出せるはずです。問題は、この記号がこの世界では全く理解されていないのに、その女性はこの問題を出題できたことです。」
その言葉にユリナ姫が首をかしげながら問いかけた。
「優人様、それでは、その異国の言葉を話す女性は、この記号の意味を自分で見つけ出したということですか?」
優人は腕を組み、少し考え込むようにして答える。
「可能性は二つあります。一つは、その女性がこの記号の意味をゼロから自力で見つけ出したということ。もう一つは……その女性が、私と同郷である可能性です。」
「同郷……」
ユリナ姫が呟いた後、目を見開いて続けた。
「それは、優人様と一緒にこちらの世界に飛ばされてきたという女性のことですか?」
優人は少しだけ迷うような表情を浮かべ、
「わかりません。ただ、そうである可能性も否定できません。だからこそ、その人物を実際に見て確かめたいところです。」
と言った。その言葉に、アルベルト王子が眉をひそめ、冷静に反論した。
「しかし、優人殿。それは簡単なことではありません。」
優人がその理由を問うと、アルベルト王子は指を立てて言った。
「理由は二つあります。まず一つ目。優人殿は現在、アルスタリア王国の人間として見なされています。もしジーランドの代表と数学勝負になった場合、それは大国同士の争いを引き起こしかねません。」
アルベルト王子は続けてもう一本指を立て、
「そして二つ目。仮にこっそりと見に行くとしても、ジーランドの代表であるその謎の女性は、次々と他国に数学勝負を仕掛けています。彼女が次にどこに現れるのか、まったく予想がつかないのです。そのような状況で、あてもなく優人殿を連れ回すことはできません。」
優人はその理由を聞き、しばらく考え込んだ。確かに性急な考えだと優人は反省した。そのとき、アルスタリア王が静かに問いかけた。
「アルベルトよ、ジーランドは次にどのように動くと考えている?」
アルベルト王子は少し考えを巡らせた後、答えた。
「今回ノルディア連合がジーランドに敗北したことで、連合に属していた多くの国は、ジーランドの目論見が完全に明らかになるまでは、そのままジーランドに従う可能性が高いでしょう。しかし、一部の国々は、ジーランドに従うことを良しとしないはずです。そのような国を併合するため、ジーランドは次にその国々に対して動くのではないかと考えられます。」
王の顔には厳しい表情が浮かんでいた。
「では、その国々が全て併合されてしまう前に、我々はどうするべきか?」
アルベルト王子は深い決意を込めて答えた。
「その前に、こちらからジーランドに再び数学勝負を挑み、ノルディア連合の国々を取り戻すべきです。そしてそのためには、優人殿の助力をお願いしたいのです。」
その言葉に、一同の視線が優人に向けられる。アルベルト王子は優人の目を見つめながら言った。
「アルスタリア王とユリナ姫から、優人殿が類いまれなる数学の知識を持っていると伺っています。私に、その知識をお教えいただきたい。そして、ジーランドに勝てる力を身につけさせてほしいのです。」
優人は少し考えた後、静かに頷いた。
「分かりました。できる限りお手伝いしましょう。」
その言葉を聞いたアルベルト王子は、晴れやかな笑顔を浮かべ、優人に手を差し出した。
「感謝いたします、優人殿。」
優人はその手をしっかりと握り返した。その握手には、互いの決意と信頼が込められているようだった。一同の中には、緊張感の中に少し希望が見え始めていた。
食堂での話が一区切りついたころ、アルベルト王子が優人に近づき、小声で尋ねた。
「優人殿、この後、少しお話しする時間をいただけないでしょうか?」
その真剣な表情を見た優人は、「ええ、大丈夫です」と快く了承した。
その様子を見ていたフィーナとアーシュは、
「私たちは昨日と同じように中庭を散歩してきます」
と言い、楽しげに連れ立って部屋を出ていく。ユリナ姫は微笑みながら二人に声をかけた。
「それでは、優人様とアルベルト王子とのお話が終わったら、みんなでお茶会をしませんか?フィーナやアーシュにも後で声をかけておきますので。」
優人もアルベルト王子も同意し、ユリナ姫は明るい表情で部屋を出ていった。
アルベルト王子は改めて優人に向き直り、
「では、優人殿の部屋で話をしてもよろしいですか?」
と尋ねた。優人は了承し、アルベルト王子を自分の部屋へと案内することにした。
優人の部屋に到着し、互いに椅子に腰掛けると、アルベルト王子が改まった様子で口を開いた。
「優人殿、一つ確認したいことがあります。ユリナの婚約者であるというのは、本当ですか?」
その直球の質問に、優人は少し驚きながらも答えた。
「ええ、一応そういうことになっています」
しかし、その曖昧な表現に、アルベルト王子の顔色が変わった。
「一応、とはどういう意味ですか?」
アルベルト王子は身を乗り出し、真剣な表情で問い詰めた。
「もしかして、真剣に考えていないのですか?」
優人は「えっと……」と答えに詰まる。しかし、アルベルト王子は構わず話を続けた。
「優人殿、聞いてください。私は幼いころ、このアルスタリア王城で二年間を過ごしたことがあります。それは、ノルディア連合国で奇病が流行った際、次期王位継承者である私がその病に感染しないようにという父の判断で、アルスタリア王と旧知の仲であった縁から、この城に預けられたのです。」
その言葉に、優人は静かに耳を傾けた。アルベルト王子は目を伏せ、一瞬だけ懐かしむような表情を浮かべた後、続けた。
「当時のことを思えば、父やアルスタリア王の間には、北のノルディアと西のアルスタリアの結びつきを強めようという政治的な意図があったのでしょう。しかし、そんなことは私には関係ありませんでした。私はただ、この城で過ごす中で……ユリナの愛らしさに心を惹かれていたのです。」
その告白めいた言葉に、優人は少し驚いたように目を見開く。アルベルト王子は優人の沈黙を見つめながら、一呼吸置いて、静かに微笑んだ。
アルベルト王子の視線は、どこか遠く、懐かしい記憶を思い出しているように柔らかい光を宿していた。そしてその想いを語り始めた。
「ユリナは……あの美しい金色の髪と澄んだ青い瞳が、とても印象的です。彼女の髪はいつも陽の光を浴びて輝いていて、その柔らかそうな髪が風になびくたびに、自然と目が釘付けになってしまうのです。そして、その瞳……まるで広い空をそのまま閉じ込めたかのような、透明感のある青。彼女と話していると、その瞳がまっすぐ自分を見つめてくれるので、どんな言葉も嘘をつけなくなります。」
優人はその言葉に納得するように小さくうなずいた。確かにユリナ姫の外見は、目を引くものがある。しかし、アルベルト王子の語りはまだ終わらない。
「ですが、外見だけではありません。ユリナの一番素晴らしいところは、その内面です。彼女は幼いころから、誰に対しても優しく、分け隔てがありませんでした。使用人に対しても、衛兵に対しても、そして私のような外部から来た者に対しても、同じように明るく接してくれたのです。私が言葉に詰まったときや、ノルディアの習慣がわからず困ったときには、彼女が真っ先に気づいて助けてくれました。『困ったことがあったら、なんでも聞いてくださいね』と、幼いながらも毅然と言ってくれたあの笑顔……今でも忘れられません。」
アルベルト王子は少し息をつき、椅子の背にもたれながら目を細めた。
アルベルト王子の声は徐々に熱を帯び、言葉に込められる感情がますます強くなっていく。
「彼女は、人を元気づける力を持っています。悲しいときも、苦しいときも、彼女がそばにいて笑顔を見せてくれるだけで、心が軽くなる。彼女が持つその不思議な力が、私には何よりも大きな魅力です。」
アルベルト王子はそこで一度話を切り、優人をまっすぐ見つめた。
「だからこそ、私はユリナの幸せを何よりも願っています。」
アルベルト王子の表情は自信に満ちていたが、その奥には複雑な感情が渦巻いているようだった。優人の部屋に静寂が訪れる中、王子は目を伏せながら遠い過去を振り返るように語り始めた。
「ノルディアに戻った後も、私はユリナのために努力を続けました。どんな数学勝負にも負けないように、数学の勉強に力を注ぎました。それだけではなく、将来国を統治するために必要な農業や経済、帝王学にも真剣に取り組みました。体を鍛えるため、そして自分を守る力をつけるために剣術にも励みました。」
王子の語る声には、自らの努力に対する誇りと、ユリナ姫への純粋な想いが込められていた。
「ユリナが数学の未解決問題ばかりに時間を費やしているせいで、王国の重鎮から軽んじられている、という手紙がアルスタリア王から父に届いたとき……正直、いてもたってもいられませんでした。すぐにでも駆けつけたかった。しかし、そのときの私には、ノルディアでの務めがありました。けれど、すべての努力は彼女のためだったのです。」
そこまで語ると、アルベルト王子はふっと微笑んだ。その表情には懐かしさが滲んでいた。しかし、その笑顔は一瞬で消え去り、険しい表情へと変わった。
「……それなのに、突然現れた、どこの馬の骨ともわからない異世界の人間がユリナと婚約しただなんて……。優人殿、あなたは僕の気持ちがわかりますか?」
アルベルト王子の瞳が鋭く優人を射抜いた。その視線に優人が言葉を探していると、王子は畳みかけるように続けた。
「しかも、話を聞けば相手は30歳を超えたさえないおっさんだとか! 納得できるはずがないでしょう? 私はまだ19歳で年齢的にも16歳のユリナ姫と釣り合いが取れるし、それに……容姿だって優人殿よりはるかに優れていると自信があります。」
王子は自信満々の表情で自身の言葉を補強するように胸を張ったが、再び熱を帯びた口調で話を続けた。
「それに、数学の授業とやらでユリナ姫に数学を教えているだなんて信じられません! ユリナがそんな苦労をする必要はない。数学は我々が努力すればいい話でしょう。それをさせているなんて、あなたは本当にユリナ姫にふさわしい婚約者なのですか?」
王子の強い口調に、優人は一瞬言葉を詰まらせた。しかし、しばらくして口を開き、静かに答えた。
「……正直なところ、自分でもユリナにふさわしいとは思っていません。年齢のことや、異世界から来た身であること、そしてユリナの想いにどれだけ応えられているか……考えれば考えるほど、私自身疑問を抱きます。ただ、数学の授業に関して言えば、あれはユリナ自身が望んで受けているものです。私はその手伝いをしたいと思っているのです。」
その言葉に、アルベルト王子は少しだけ眉をひそめたが、すぐに鼻で笑うように息を吐いた。
「それも、あなたが数学に関してすべて担当すればいい話でしょう。あなたならこの世界の問題はほとんど解けるのではないですか? 中途半端な気持ちで関わるから、ユリナが自分で数学を勉強しなければならないんです。私なら、彼女にそんな苦労をさせることはありません。」
王子は自信満々にそう言い切ると、優人をじっと見つめた。優人はしばらく考え込み答えた。
「……私は、ユリナが幸せになるのであれば、あなたと婚約することも構わないと思っています。この世界に来て普通に生きられているのは、ユリナのおかげですから。彼女がそれを望み、本当に幸せになれるのであれば、それでいいのです。」
その言葉を聞いたアルベルト王子は、しばらく黙って優人を見つめていたが、やがて表情を引き締め、静かにうなずいた。
「そうですか……。ですが、協力を頼むつもりはありません。私は私自身の力で、ユリナを勝ち取ります。それが王族として、そして彼女を愛する者としての筋でしょう。」
王子は立ち上がり、優人に真剣な目で語りかけた。
「ただ一つだけお願いします。あなたとユリナの婚約を解消させるのは一朝一夕でできるものではないでしょう。しかし、その間私がユリナやアルスタリア王に対して自分をアピールすることを、邪魔しないでいただきたい。それだけです。」
優人は軽くうなずき、「邪魔をするつもりはありません」と簡潔に答えた。それを聞いたアルベルト王子は満足そうに微笑み、再び優人に握手を求めた。その手には、ユリナ姫への深い愛情と決意が確かに宿っていた。
アルベルト王子が部屋を出て行った後、優人は深いため息をつき、静まり返った部屋の中に一人取り残された。王子との話の余韻が胸の中に重くのしかかり、彼の心は落ち着かなかった。
ふと、優人の視線は机の引き出しに向かった。そこには、ユリナ姫に渡すつもりで用意していた髪飾りが収められている。金と銀の細工が繊細に施され、小さな宝石が光を受けて輝くそれは、姫のためだけに選んだものだった。ユリナ姫の笑顔が浮かび、彼女の金色の髪にこの髪飾りがどれほど似合うだろうかと思い描いた。
しかし、すぐにアルベルト王子の言葉が脳裏に蘇る。
「ユリナを愛している。私は自分の力で彼女を勝ち取る。」
王子の情熱と決意を目の当たりにし、優人の胸中にまた別の感情が芽生える。自分は果たして本当にユリナ姫の隣にふさわしい存在なのだろうか。異世界から来た年齢も上の自分が、王子のように姫を支えられるのだろうか――そんな疑念が次々と湧き上がってきた。
優人は机の引き出しに手を伸ばしかけたが、その手を途中で止めた。髪飾りを取り出して渡すべきか、それともしまったままにしておくべきか。その判断さえ、自分にはできない。
優人は引き出しを見つめたまましばらく動けなかった。もやもやとした気持ちが消えないまま、彼はふと疲れを感じ、立ち上がってベッドに向かった。横になると、これまでの出来事が頭の中で渦巻く。アルベルト王子の情熱、ユリナ姫の笑顔、そして自分の不安定な立場。それらが重なり合い、優人の心を締め付ける。
目を閉じても、答えは見つからない。優人は複雑な思いを抱えたまま、やがて意識を手放し、深い眠りの中へと沈んでいった。
あんまりシリアス展開を引っ張るつもりはありません。




