ノルディアの王子と不審な女性
フィーナとの授業を終えた優人は、静かな部屋に戻った。ユリナ姫が不在だったため、異世界についての講義も今日はなかった。椅子に腰掛けると、優人は次に姫とフィーナに教える数学の内容を考え始めた。石取りゲームのような遊びの要素がある問題か、それとももっと高度な抽象的な話題か──しばらく悩みながらも、自分が用意する授業が二人にどんな影響を与えるのかを想像すると自然と微笑みがこぼれた。
少し頭を休めようと立ち上がった優人は、窓際に歩み寄り、外の景色を眺めた。王城の窓から見下ろす街並みは、どこか絵画のようだった。瓦屋根が連なり、石畳の道には市場で買い物をする人々や荷馬車が行き交っている。その活気に満ちた光景には、現代日本で見慣れた風景とは違った独特の温かみがあった。高層ビルもアスファルトの道路もないこの世界は、まるで時の流れがゆっくりと感じられる。だが、異世界の優雅さだけではない。市場の喧騒や、遠くの道を行く兵士たちの姿を見ると、この世界に生きる人々の現実と努力も垣間見える気がした。
「昼食ができたよ!」
元気な声に振り返ると、フィーナが部屋のドアを開けて顔を覗かせていた。
「今日はフィーナが呼びに来たんですか?珍しいですね。」
優人は軽く冗談を交えながら言った。
「うん、ユリナ姫がね、『今日の昼食はフィーナとアーシュも一緒に来て』って言ってたの。だから、私が優人を呼びに来たの。」
フィーナは笑顔で答えた。
「アーシュはもう先に行ってるよ。」
「そうでしたか。それじゃあ、行きましょうか。」
優人は立ち上がり、フィーナと一緒に食堂へ向かった。
食堂に着くと、そこにはいつもと少し違う光景が広がっていた。王様とユリナ姫、そしてアーシュに加え、見慣れない一人の人物が席に着いていた。その人物は、短く整えられた金髪が光を受けて輝いているように見えた。整った容姿に緑色の目が印象的で、鋭いが穏やかさも感じさせる視線を持っていた。体格も引き締まっており、座っているにもかかわらず、身長はおそらく180センチを超えるだろうと思われる。彼が着ている服は派手ではないものの、生地や縫製が上質であることが一目でわかり、その姿から中世の王子さまといった雰囲気が漂っていた。
優人とフィーナが席に着くと、ユリナ姫が穏やかな笑みを浮かべながら話し始めた。
「優人様、こちらはノルディア連合国のアルベルト王子です。幼いころ、この城に滞在していたこともあるんですよ。」
王子は優人に向かって丁寧に一礼をすると、爽やかな笑顔を見せながら自己紹介をした。
「ノルディア連合国のアルベルト・ノルディアです。優人様は優秀な数学者であり、この国を救った英雄なのだとユリナ姫から聞きました。お会いできて光栄です。よろしくお願いします。」
その言葉に、優人は少し驚きつつも微笑みを返した。アルベルト王子の礼儀正しい態度と爽やかな印象に、誠実さを感じる一方で、ほんのわずかに自分に向けられた敵意のようなものを感じ取った。しかし、そのことに深入りすることなく、優人も礼儀正しく自己紹介を返した。
続いて、フィーナとアーシュも簡単に自己紹介を済ませた。
昼食が終わり、温かな香りの漂うお茶がテーブルに運ばれるころ、王が静かに口を開いた。
「さて、アルベルト王子がなぜこの国に来られたのか、その経緯を話していただきましょう。」
その言葉にアルベルト王子は一礼し、語り始めた。
「ノルディア連合国は、小国が集まり、一つの国を形成している国家です。長い間、ノルディアがそのまとめ役となり、特に大きな反乱や争いもなく統治を続けてきました。しかし、約1か月ほど前、連合国の一つであるジーランドという国が突如として周囲の国々に“数学勝負”を仕掛け、次々と併合していったのです。」
その言葉に、優人やユリナ姫をはじめ、全員が驚きを隠せない様子で耳を傾けた。
「ジーランドは、領土拡大の手段として数学勝負を用い、たった1か月で連合国のほとんどを支配下に置きました。そしてつい先日、ついに私たちノルディアにも勝負を仕掛けてきたのです。」
アルベルト王子は一瞬、悔しさを滲ませるように視線を伏せた後、再び毅然とした表情で続けた。
「残念ながら、我々ノルディアも敗北しました。」
アルベルト王子は、一度目を伏せ、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた後、静かに言葉を紡いだ。
「ふがいない話ですが、ノルディアがジーランドに敗北した直後、父であるノルディア王から命を受けました。この状況を詳しくアルスタリア王国に伝え、助力を乞うようにと。」
彼はわずかに拳を握りしめ、悔しさを押し殺すように言葉を続けた。
「私は国を守るために何もできず、ただ敗北を伝える役割を担うことになりました。」
その声には悔恨と責任感が入り混じっており、彼が抱える重圧が痛いほど伝わってきた。
優人はその表情から、アルベルト王子が自国を失った悲しみと、王家としての責務を果たそうとする覚悟を必死に抱いていることを感じ取った。
食堂の空気は一瞬張り詰めたが、アルベルト王子の毅然とした態度は、その場の人々に強い印象を与えていた。
食堂に重苦しい空気が漂う中、優人が静かに口を開いた。
「しかし、そんな短期間で領土を急拡大していく目的は一体何なのでしょう?ジーランドという国が目指しているものは?」
アルベルト王子は少し考えるように間を取り、首を横に振った。
「残念ながら、その目的は私にもわかりません。ジーランドは領土を拡大する一方で、統治については特に何も要求せず、今まで通りに治めるようにと言うだけです。」
ユリナ姫が疑問の表情を浮かべながら尋ねた。
「では、金銭や資源などを求められることはないのですか?」
王子は再び首を振り、
「一切ありません。ただ、彼らが言うのは、『ジーランドが北の連合国のトップになればよい』ということだけです。」
続けてアルベルト王子は、ノルディア連合国の内情について語り始めた。
「確かに、ノルディアは連合国の中で最も発展していると言えます。しかし、それは大国に対抗するためにまとまりを保ってきただけであり、王家の力が特別に強いわけではありません。ジーランドがこれほど性急に領土を広げる理由や、それによるメリットは、正直私には理解できません。」
彼の説明に、優人は深い思案にふけった。ジーランドの行動はあまりに異様で、単なる拡張主義や覇権主義とは違う目的が隠されているのではないかと感じた。
優人は静かに問いかけた。
「ジーランドの数学勝負では、どのような人物が代表として出てきたのですか?」
アルベルト王子は少し考えた後、言葉を選びながら答え始めた。
「ジーランドの代表は、たった一人だけでした。その人物は……黒髪に黒い瞳を持ち、髪は短めでウェーブが少しかかっています。顔立ちは端正というよりも、どちらかと言えば可愛らしい印象の女性でした。中性的な雰囲気もありましたね。」
王子の説明を聞きながら、優人はイメージを頭の中に描いていた。その特徴は、自分の記憶にある誰かと微妙に重なる部分があり、考えを巡らせるきっかけとなった。
「服装はどうでした?」と優人がさらに尋ねる。
「特に目立つものではありませんでした。ノルディア連合国の一般的な庶民が着るような、質素な服装でしたね。とても、国を代表する人物だとは思えないくらいの。」
「異国の代表者が庶民の服装……」
優人は目を細めた。アルベルト王子は話を続ける。
「そして、もっと奇妙だったのは、その人物が使っていた言語です。彼女は、聞いたことのない異国の言葉を話していました。我々ノルディア連合国の人間はもちろん、ジーランドの人間でさえ、その言葉の意味をあまり理解していない様子でした。」
その言葉に、優人は一瞬だけ眉をひそめた。同じ国の人間でさえ理解できない言語を話している――それは尋常ではない状況だった。
「ジーランドの人間もその人物の言葉を理解していなかった……それは、確かですか?」
「はい。あの場にいたジーランド側の者たちは、彼女の話す言葉に耳を傾けているようでしたが、表情から察するに内容はあまり伝わっていないようでした。にもかかわらず、彼女はその場の中心として振る舞い、勝負を制していったのです。」
優人はその答えを聞きながら、考えを深めた。同じ国の人々が言葉を理解していないという事実は異様であり、その背後には何らかの事情があるに違いないと感じたが、これ以上その言語の問題を追求しても今は分かることがないだろうと判断した。
「なるほど、興味深い話です。」
優人は穏やかな声でそう言い、話を切り上げた。その視線の奥には、何かを探るような光が宿っていた。
アルベルト王子が表情を引き締めながら出題された問題について話し始めた。
「ジーランドの代表は、どの国との数学勝負でも必ず相手国が出題する問題を最初に解きます。そして、彼女自身が出題する問題は……他の国の人間にも話を聞いたところ、いつも同じ問題だったようです。」
その言葉に食堂の空気が一瞬静まり返る。優人は興味深げに眉を上げ、
「それは興味深いですね。その『同じ問題』とはどのようなものだったのですか?」
と促す。
「それが……見たこともないような問題だったのです。数字と記号が一つずつだけ記されていて、何をどうすればいいのか、全く見当もつきませんでした。」
アルベルト王子は、懐から一枚の紙を取り出すと、「これがその問題です」と言い、食卓の中央に置いた。アルスタリア王が紙を覗き込み、
「これは……何だ?」
と困惑した表情を見せた。ユリナ姫は紙をじっと見つめながら、
「記号と数字が一つずつしかない……どう解釈すればいいのか……」
と首を傾げる。フィーナとアーシュも紙を覗き込み、互いに顔を見合わせ、
「全然分からない」
と声を揃えた。
「私も同じ気持ちでした」
とアルベルト王子は続ける。
「この問題を出されても、何をしていいのか全く分かりません。情報が少なすぎるのです。」
その中で優人だけは、目の前の紙を見つめ、衝撃を受けたように表情を硬直させていた。目は大きく見開かれ、何か重大な事実に気付いたかのように唇を引き結んでいる。その様子に、周囲の人々は不安そうに彼を見つめた。
ユリナ姫が優人に声をかける。
「優人様、大丈夫ですか?どうしたのです?」
その言葉に続けるように、アルベルト王子が少し皮肉げな笑みを浮かべながら言った。
「さすが筆頭数学者殿でも、この問題は難しすぎて言葉を失ってしまわれたのでしょうか?」
フィーナも心配そうに優人を見つめ、
「そうなの?この問題、優人でも分からないの?」
と尋ねた。
しかし、優人は彼らの言葉に答えず、紙をじっと見つめたままだった。頭の中では、いくつもの思考が錯綜していた。この問題を出せるということは、あの人物しか考えられない――彼はそう直感していた。王子から聞いた容姿の特徴は一致している。しかし、異国の言葉を話している点や、強硬な態度で多くの国を併合している点は、彼の知るその人物の性格とは相容れない。
「もし本当に……いや、しかし……」
優人は心の中で葛藤を続けた。周囲の声は遠くに感じられ、優人の思考は渦を巻いていた。
「優人様、本当に大丈夫ですか?」
ユリナ姫の声が優人の思考を現実に引き戻した。優人は目を閉じ、一度深呼吸してから答えた。
「問題そのものは解けました。しかし、今考えているのはこの問題を出した人物についてです。」
その言葉を聞いたアーシュは目を輝かせ、
「優人さん、もう解けたんですか!?すごいですね。」
と素直な感嘆の声を上げる。しかし、アルベルト王子は信じられない様子で、鋭い視線を優人に向けた。
「……本当にわかったのですか、筆頭数学者殿。」
その言葉に食堂内の空気が一瞬張り詰めた。フィーナやアーシュも、どう反応していいのか分からず、言葉を失う。
しかし、優人は王子の言葉に取り合う様子もなく、静かに立ち上がると、数学システムを起動した。その様子にユリナ姫が不思議そうに眉をひそめる。
「何を……?」とアルベルト王子が呟く中、優人は紙に記された問題を数学システムに入力。そして、問題の解答入力画面に、指を迷いなく動かし答えを入力した。数秒後、数学システムが問題を受理し、空中に透明なディスプレイが浮かび上がった。
「これは……」
食堂内にいる全員の視線がディスプレイに釘付けになった。そこには、先ほどアルベルト王子が見せた問題がそのまま表示されていた。
「問題が表示されている……つまり、正しい答えを入力したということ……」とユリナ姫が小さく呟く。
アルスタリア王は驚きのあまり椅子をきしませて立ち上がり、
「優人殿、これは一体どういうことだ?」
と声を上げる。一方で、アルベルト王子は言葉を失い、目の前のディスプレイを見つめていた。
「……信じられない。あの問題が解けるなんて……」
ディスプレイにはこう表示されていた。
「6!」




