二話
正当な理由で眼帯をつけることができたのは、唯一良かった点と言っていいかもしれない。もっとも、それが何らかの益になったかと言えばそうではないが。ただ、密かに抱いていた眼帯に対する厨二病的憧れがこんな形で成就するなんて思いもしなかった。
靴の踵を踏みながら玄関の扉を開ける。
とりあえず包帯を四角に切り、左目のボタンを隠すようにテープで布を貼った僕は、半自動操縦のような状態で学校に向かった。
勿論、普段なら学校を休んでいた。
しかし、今日に限ってその選択肢は僕に悪手と判断された。
中間テスト当日だからだ。
追試ほど面倒なものはない。
僕の高校ではテストを受けなかった、または受けることができなかった場合、追試験というものが課される。この追試験の問題が本試験に比べて何故か非常に難しいのだ。
一応人並みに勉学には励んでいるから赤点を取ることは流石にないが、平行に維持していた成績を追試験のせいで下降させたくはない。
症状は幸いにも左目が見えないだけ。テストは受けられる。
しかし思っていた以上に、精神的ストレスは僕にのしかかっていたようだった。
「で、どしたの。それ」
緑色のスカートがくるくると回る。
後ろに手を組み、大きな瞳をこちらに向けて来日有鼓は不思議そうに尋ねた。
彼女は今日も薄いピンクのリップを塗っていた。校則違反ギリギリを攻めた淡いリップはその唇に潤いをもたらし、あどけない少女の顔を更に明るいものにしている。
まめな性格で、本日も彼女は自作の弁当を持ってきていた。毎朝台所に立ち、母親の分まで昼食を用意するのは中々できることではない。
辛辣なセリフが玉に瑕だが、何故か彼女とは波長が合う部分も多く、昼休みの時間は色々な事情から世間話をしながら屋上で一緒に昼食を取るのが常となっていた。
「突然包帯なんかつけて。何か漫画でも読み始めたの?」
包帯に触れようとする彼女の手を、僕はそれとなく自然に避けた。
「ただのものもらい。酷かったから隠しただけ」
「ものもらい? 潰してあげよっか」
尚も手を伸ばそうとする彼女に、僕はできうる限り必死の形相で抵抗した。
「やめろやめろ。悪化したらどうするんだ」
「ぷっ、何その顔。ヒラメみたい」
ヒラメ……
それはのぺっとした顔と言いたいのだろうか。常に上だけ見ているけど口がおちょぼ口だからだらしなく見えると言いたいのだろうか。
おまけに罵倒に疑問を残すのは聞き手に対して不親切ではないだろうか。いや罵倒の時点で不親切ではあるが。
しかし思考はそこで止めた。
腹がへった。
バスケットボールの音が反響する屋上で、僕は菓子パンの袋を破り、来日は風呂敷の包みを解いた。
「数学、何かミスでもした?」
開口一番、いや開口してハンバーグを食し喉を通して一番に来日はそう言った。
相変わらずの観察眼。ばれていたらしい。
「大問を一つ落とした。回収されているときにミスに気付いたからどうすることもできなかった」
再びハンバーグを食し、ごくりと来日が飲み込む。そして俯いたと思うと、眉間にシワを寄せ、醜い形相でこちらを向いた。
「……コンタクトでも落としたのか?」
「アッチの真似だよ。数学終わったとき、アッチこんな顔してたよ」
ぷっ、と面白そうに吹き出し、来日が再びハンバーグに箸をつける。
遺憾の意を示したい。
このハンバーグ女。左目がボタンになっている僕より世界が見えていないのではないだろうか。そんなに不細工な顔を僕はしていない。
ちなみにアッチというのは僕の呼び名だ。愛知弦。「あいち」から、アッチ。
クラスメイトは来日のことをコッチと呼んでいるが、僕は彼女のことをコッチとは呼んでいない。それは単純にコッチというのが代名詞で使う「こっち」の意味に引っ張られるからだ。コッチ、という言葉を人に向けて使うことに僕は日本語上での気持ち悪さを覚える。まあ、来日がアッチと呼んでいるのはさておきで。
ばあん。
パンにかじろうとした瞬間、顔に衝撃が走った。一瞬、視界がホワイトアウトする。
熱を帯びた痛みが左半分を覆い、波のような揺れが脳を襲う。
「やべっ。すみません!」
こちらに駆け寄る足音とともに、焦った男子生徒の声が聞こえる。
ぱん、ぱん、ぱんと乾いた音を立てて、右目の端にバスケットボールが映った。
そうか、これが左目に当たったのか。
今の僕の視界を通した情報は右目だけに依存している。狭まった視界に慣れていなかったのもあり、左からの危険に全く反応することができなかった。
もっとも、見えていたとしても僕の運動神経を鑑みると避けられたかは疑問であるが。
視点が歪み、身体が軸を抜かれたかのように姿勢が崩れる。景色がゆっくりと移動を始め、僕は来日の方へ倒れ込んだ。
「! 大丈夫?!」
慌てた様子の来日の顔が右目に映り、まもなく黒い色によって視界が絞られていく。
撫でるような感触が左目を過ぎり、最後に布が外れたような感覚で僕の意識はそこで一端途切れた。
不可抗力であることを前提として言わせてもらうが、眠ってしまったのはバスケットボールが当たっただけだからではない。
彼女の何かが思った以上に柔らかかったからだ。
普段は絶対に考えないことがこれもバスケットボールのせいにしようと思う。