一話
新鮮だな、と思った。
ボタンを左手で触っている。
僕の持っている服は全てメンズ服で、ボタンが右側についている。
右利きなので左利きの人がどうしているかは分からないが、着る時はいつも右手でボタンを留めている。左手は添えるだけ。
だから左手でじっくりとボタンを触ることは稀だ。
大きさは僕の手のひらと同じくらい。触った感じはひんやりとしている。プラスチック製らしく、軽くて、ツルツルとしている。
(こんな大きなボタン。うちにあったっけ?)
左目を覆うようについたボタンを触りながら、僕は寝起きの頭で部屋にかけてある服や置物などを思い出していた。
ハンガー、タンス、置物、壁に掛けた装飾。しかし、こんなに大きな服飾がついたものを部屋に入れた記憶もないし、僕の趣味的にフィンランドの童話に出てくるようなファンシーな服を選ぶ訳がない。(大きなボタンがついた服、に対する勝手な偏見)
仰向けになったまま、僕はまだ朝日が差し込んだばかりの薄暗い部屋で自分の左目に乗っかったこのボタンが何かを悶々と考えていた。
しかしもっと妙なことに気づいた。
ボタンが左目から離れる気配が一向にない。
はじめ、僕は自室のどこかにこの大きなボタンがあって、それが何かの拍子で右目に落ちてきたのだと思っていた。だからボタンが左目を覆っていることよりもこのボタンが何のボタンで、どんな経緯でこの部屋にあるかを謎とし、それについて悠長に仰向けのまま思考を巡らせていた。
だがボタンが除去できないとなると、話は変わる。
今自分の身に起こっているのは身体的な異常だ。
真っ先に頭を過ぎったのは、昔見たエイリアン映画の寄生虫に顔を覆われた人物のシーンだった。
そいつ(寄生虫)はしっかりと脚を食い込ませて寄生した人物の顔を覆い、息をさせる余裕もなくピッタリと密着していた。
それが今、真っ暗で何も見えない左目に走馬灯のごとく映っている。
とりあえず僕は持ち上げる程度の力で左目からボタンを取り除こうとした。
しかし、結果は失敗。
続けて少し強く引っ張ってみたが、すぐに断念した。
痛いのだ。
眼球が取り除かれて、目の奥から伸びた無数の筋繊維がボタンを縫い付けているのかと思うくらい、繊維状に分割されたような痛みが頭の奥めがけて走った。
なんだこれ
さっきまで霞がかかったような思考回路は、いつのまにか曇りを拭いたレンズのようにくっきりとしていた。
片側の景色だけが徐々に鮮明になっていく。
言いようもない恐怖に駆られた僕は、左目を抑えたまま慌てて洗面台に駆け込んだ。もうこのボタンが何のボタンかなんてどうでも良い。
少し間を置いてオレンジ色の明かりがパチリと音を立てて点く。
水垢で少し白みがかかった鏡を見て、僕はゆっくりと左手を離した。
最初に目に入ったのは色が抜けたような緑。次いで、4つの穴を行き来するように何重にも捲かれた赤い色の繊維。
想像通りだった。
いや、こんなの世界中の誰だって想像しない。
鏡に映っていたのは、ピッタリと左目にボタンを縫い付けられた寝起き姿の僕だった。