01
真っ黒で巨大な手が、どこまでも追ってくる。走るたびに揺れる眼鏡が鬱陶しい。それでも僕は走らなければならなかった。さもなくば、間違いなく殺される。
もう一区画先のシェルターの方がトイレが綺麗だとか、僕がいた場所と怪獣の出没現場は距離があるからとか、そんな考えだけで近い方のシェルターに行かなかったのがバカだった。いや、ここがトップ魔法少女 シャイニーステラの管轄エリアだからと、落としたストラップを拾いに少し戻ったのが間違いだった。違う、それよりももっと前だ。友達が放課後に駅前のコーヒーショップに行こうと誘ったのを、金欠だからと嘘をついて帰ってきたのがいけなかったのかもしれない。
しかしどんなに後悔したってもう遅い。真っ黒な怪獣の体が僕に迫る。
グオオ!!
怪獣の声に鼓膜が揺れた。ドシンと足を鳴らすたびに体が揺れる。
僕を追う怪獣は4階建てのアパートくらいの身長があった。間違いなく大型サイズに認定されるだろう。このサイズは基本、危険区域にしか出現しないのだが、数年に一度、稀にこうして現れる。そんな数年に一度の災害に自分が巻き込まれることになろうとは……ただの怪獣警報だと舐めていた自分を呪いたかった。
自分の体に絡まった電線を、蜘蛛の巣を払うように怪獣が振り払った。ガァンと音がして引っ張られた電柱が僕のすぐ近くに落ちてくる。砂埃が舞う中を、手で頭を覆って走り抜けた。
足が重い。走らなければならないのに、もう走れそうにない。電柱の瓦礫に躓いた足がもつれた。ついた膝や手に痛みが走るが、それらも恐怖がかき消していく。
「っくそぉ…!」
死を覚悟しながら、恐怖で瞼を強く閉じた。
ガァァン!!
「大丈夫?」
恐ろしいほどの大きな音の後、僕の目にはワインレッドが飛び込んできた。風が砂埃を運んで、大丈夫と声をかけた人の姿が鮮明になる。
ワインレッドのミニドレス、それから灰色のロングヘア。この辺りで知らない人はいない。
「シャイニーステラ…?」
僕は彼女の名前を呼んだ。
彼女はそう話す僕の無事を確認したようで、ニコリと微笑むと跳びたってしまう。到底人とは思えない跳躍力で去っていく彼女の背を、僕は見えなくなるまで追っていた。
⁂
──本日午後十五時頃、西地区に大型ジソンシン一体が出現しました。このジソンシンは駆けつけたクイーンこと、魔法少女『シャイニーステラ』によって倒され、付近の建物など一部に被害が出たものの、人命への被害はゼロと……
机に置かれた小さなタブレットの中で、テレビアナウンサーが原稿を読み上げていた。画面が切り替わると、ワインレッドのミニドレスに灰色のロングヘアを揺らす魔法少女がステッキを振っている。見つめるアタシの口からは、つい、ため息がこぼれ落ちた。その拍子に、今は黒に戻ったセミロングの髪がサラリと肩からこぼれ落ちる。
「今日も大活躍ね、ステラちゃん。あれだけのジソンシンに一人で立ち回って、人的被害がゼロなんて奇跡に近いわ。今月のランキングも間違いなくトップね」
目の前の彼女は、嬉しそうに声を弾ませそう言った。カルテを上を滑るボールペンも軽やかだ。
「だからメイコさん、その『ステラちゃん』って呼び方やめてください」
その軽やかさとは反対に、重たい二つ目のため息がこの小さな室内に吐き出される。病院の診察室のようでありながら、星、花、うさぎ、くま……いたるところがパステルカラーで吐き気がしそう。
「だって『シャイニーステラちゃん』だと長いじゃない。それに私はメイコじゃなくて『レディー•ルーナ』よ」
「はあ…」
ここにいるとため息ばかりをついてしまう。
「メイコさんも恥ずかしくないんですか? いい歳して『レディー•ルーナ』だなんて」
「でもそれがここのルールなんだもの。受け入れるしかないのよ」
吐き捨てるみたいに言ったアタシに、白衣の襟を軽く直してルーナは言った。ルーナが丁寧に整えられたボブヘアを耳にかけると、ルーナの耳で月のピアスが控えめに輝く。年齢はアタシのちょうど倍だと聞いたことがあるけれど、その年齢差を感じないのは、ルーナが大人びた顔でぶうっと口を尖らせて反論するからかもしれない。
「そうですけど…」
もう何度目かわからないため息をついて俯くと、手首に巻かれたブレスレットが目に入る。大きめのビーズが連なったそれは、まるで子どものおもちゃだ。大人っぽい服が好きな私には似合わない。今日だって、せっかく気に入ったネイビーのワンピースを着ているのに。
「ステラはステラでショ。そろそろ諦めなヨ」
俯いていると、ボフンという音と共にデフォルメされた柴犬みたいな何かが飛び出してきた。そいつがやれやれといった顔で言う。見た目は可愛いのに、言動がなんとも太々しい。
「うるっさいなぁ、このWMGOの犬っころが……!」
アタシは顔を上げて、ぷかぷかと浮いたままの犬らしいきものの頬をつまんでやる。それからびよんと思い切り引っ張ってやれば「いはい」と口にして犬みたいな奴はボフンと一度姿を消した。しかしすぐに現れては舌を出すから、もう一度とっ捕まえて首根っこを掴んでやる。
「もう、喧嘩はやめて! 魔法少女はイメージが大事なんだからね! 二人ともそれらしく振る舞ってよ」
口を尖らせるルーナに免じて、アタシはようやく手を離してやった。「ふんっ」とわざとらしくそっぽを向いた犬みたいな奴には、はあとため息を落としてやる。
──『本当にかっこよかったです、それに可愛くて、美しくて……!』
また映像が切り替わったタブレットの画面では、先程助けた高校生らしい男の子が、ひび割れた眼鏡の奥にうっとりとした瞳を覗かせながら話している。アタシはタブレットのボタンを押して画面を消した「あ! まだ見てたのに」と口を尖らせるルーナは無視だ。
「ところで、アタシの数値はどうやってます?」
「あ、そうそう数値の話ね…」
口を尖らせるルーナも、仕事の話を振るとすぐに表情が元に戻った。
「うん、いいわね! 今回も最高レベルのマジカルパワーよ」
それからルーナは笑顔で言った。対するアタシは肩を落として、今日一番かため息を落とした。
⁂
“魔法少女”
それは女の子の秘密。
愛と勇気を胸に、キラキラのドレスを纏って戦う正義のヒーロー。
この世界における魔法少女の歴史は長く、最初の魔法少女が現れてから今年でちょうど百年になる。世界に初めて怪獣《通称 ジソンシン》が現れたとき、魔法少女も現れた。それから魔法少女はジソンシンと共に世界の歴史へ刻まれ続け、今やこの国の五百人に一人は魔法少女という時代になった。その決して少なくない魔法少女たちは今、組織で管理され、みんなで協力して悪と戦っている。
そしてアタシもその一人。今日も明日も、求められれば戦うしかない。
「もー……いつまで続くのよ、この生活……」
ルーナのいる部屋を抜けたアタシは、建物の屋上にやってきた。
World Magical Girl Organization(世界魔法少女機構)、通称WMGOの日本支社の一つであるここは、八階建てでもこの辺りでは一番背が高い。屋上まで来ると、アタシが守らなくちゃならないものがよく見える。
「まあ、ボクとしてはありがたいけどネ」
ふうとため息混ざりに空へ吐き出したアタシの呟きに、ふわふわと周囲を漂うそいつがそう答えるからまたため息が出る。
「アンタは良くてもアタシは最悪なの」
「あのネ、何度も言うけど、ボクは“アンタ“じゃなくて“キラボシ”なノ。キミの完璧なサポーターだヨ」
キラボシは大袈裟にやれやれというポーズを作った。
「どこがよ。こんな嫌味なサポーターはアンタ以外いやしないっての」
「キミだって変わらないネ。こんなに捻くれた魔法少女はなかなかいないヨ。それにそもそもボクを生んだのはキミなんダ。文句ならキミ自身に言うんだネ」
ぷぷぷと笑うキラボシの尻尾を掴んで握りしめてやる。
「うるさいなぁ。だいたいアタシにだって“キミ”じゃなくて“春野こころ”って名前があるの。アンタもいい加減覚えてくれる?」
「わかってるよ。シャイニーステラ」
敢えて最後を強調して言うキラボシに、アタシは尻尾を掴む手に力を加えてやった。するとキラボシは、ボフンとそこから消えてしまう。空になった手は虚しく宙を掴んだ。
「こんの……」
「あ、それから、ハッピィバースデ〜。これからもよろしくネ。十九歳の魔法少女サマ!」
さっきよりも少し左側にもう一度姿を表したキラボシは、揶揄うみたいにアタシに言ってまた姿を消す。
「あぁもう! 一言余計だよ、この犬もどき!」
そのせいで言い返した言葉は空に溶ける。
魔法少女の多くは十二歳から十七歳だ。何かの拍子に魔法少女の力、通称“マジカルパワー”に目覚めたら、その力が無くなるまで戦い続ける。つまり魔法少女は“少女”なのだ。
それなのに
「いつ卒業できるんだろ……」
十一歳最後の日、つまりは十二歳の誕生日の前日に魔法少女になったアタシは、魔法少女のまま十九歳の誕生日を迎えてしまった。多くの魔法少女が十六歳ごろにマジカルパワーのピークを迎え、十八歳あたりで完全に力を無くす中、アタシだけが未だに全盛期の力を維持したままでいる。
魔法少女の力を失うことを人は卒業と呼んだ。アタシは高校を卒業したのに、未だ魔法少女を卒業できていない。いつ卒業できるのか、その言葉を口にした途端、途方もない不安が心を覆った。
「この世に不変的なモノなんて存在しないんだヨ。だから力なんていつか無くなるに決まってる」
すると姿を見せたキラボシが静かに言った。淡々と話してはいるけれど、こいつがアタシを慰めているのは何となくわかる。キラボシはしょっちゅうアタシに嫌味を言うけど、本当にアタシに嫌な思いをさせようとは思ってない。アタシもアタシでキラボシに手をあげるけど、本当に傷つけようなんて思っていない。長年一緒にいたら、嫌でもわかる。
「そうだといいけどね……」
だからアタシは屋上に腰を下ろすと、なんとも言えない笑みを浮かべながらそう言った。そのままごろんと仰向けに寝転ぶと、春の空が爽やかで嫌になる。
「それにサ、そのお陰でお金はすごく貯まったでショ?」
仰向けに寝転ぶアタシの目の前にぷかぷか浮かんだキラボシが言う。逆光で表情は良く見えないけど、声色からムフフって顔をしてるのが何となくわかる。
「それはそうだね。卒業したら、もう働かなくてもいいかも」
ジソンシンを倒すと、そのサイズや強さなど様々な観点から算出された金額を報酬としてもらえる。今はまだ青少年の健全な心身の育成だとかなんだとかで、その全ては受け取れてはいないけど、二十歳になればその全てがアタシの懐にやってくる。働かなくてもいい、とまで言ってしまえばウソになるが、十分な蓄えがあるのは事実であった。
「いつか絶対、この力は無くなっちゃうヨ。だから、稼げるときに稼がなきゃネ」
「ははっ。間違いない」
怪獣と戦うのは怖い。怪我をすれば痛い。だけど、報酬が手に入る。金で買えないものはあるけど、金で買えるものがあるのも事実だ。そんなキラボシとの話だけに意識を向けると、少しは心が軽くなる。
「とりあえずサ、美味しいもの食べに行こうヨ。この間の討伐報酬も入ったデショ?」
「……誰が稼いだお金だと思ってんの?」
「こころデショ。わかってるヨ。だけど、ボクだって仕事したヨ」
戦闘中やふざけている時はアタシを“シャイニーステラ”と呼ぶキラボシも、普段はアタシを“こころ”と呼んだ。名前を呼ばれるなんて本当は当たり前のことだけど、ここWMGO中では貴重な存在だ。ここ最近のアタシは、自分の名前が“こころ”であることを忘れそうになる。そんな時、キラボシが呼ぶアタシの名前が心を揺らした。
「九割以上、アタシが働いたんだけどね」
「今日の朝ね、テレビでやってたんダ。コンビニのスイーツ特集。こころが好きそうなものもあったヨ」
アタシの話は聞いていないらしい。ふざけて言っているのではなく、本気で言ってる。
「プリンとカスタードのやつでサ、きっとこころも気に入ると思うんダ」
「はいはい」
「ちなみにボクはネ、ミルクプリンが美味しそうだなって思ってたヨ」
キラボシの中で、アタシが買ったあげることは確定事項のようである。ふわふわとアタシの周囲を飛びながら、これから食べるものについて考えているらしい。
「わかったよ。さっさと買いに行こう」
こうなれば買ってやる他ない。報酬の全額が貰えなていないとはいえ、同年代が受け取る給与とは比べものにならない額が入ってくるのは間違いないのだ。コンビニスイーツの一つや二つ、問題はない。
「ついでに夜ご飯も買っちゃおっか」
「ウン。ボク、サンドイッチがいいナ」
「はいはい」
屋上を後にする直前、周囲にもう一度目を向けた。市街地から離れたこのエリアは背の低い住宅ばかりが並んでいて、このビルだけがその住宅を見下ろしている。だがその先には聳え立つ真っ赤な電波塔がいて、この町を、ビルを、見下ろしている。
塔を見つめる。春の柔らかい風邪が頬を撫でた。
⁂
屋上からの階段を降りてフロアに戻ると、人の視線が体にまとわりついた。「クイーン」「ステラさま」とアタシを見つけた女の子たちがヒソヒソと話すのを横目に、アタシは廊下を突き進む。この空間はあまり好きになれない。
その時
「…あ、あのっ!」
遠巻きにアタシを見つめ、ヒソヒソと話すだけの人波から突然一人の女の子が目の前に現れた。
「さっきは、ありがとうございました!」
中学生くらいだろうか、彼女は勢いよくそう叫んで、殆ど九十度に体を曲げた。好きなアイドルを前にしたような高揚を隠しきれない表情で、頭突きでもするかの如く頭を振られると、驚きを通り越して少し怖い。
「……あ、えと、なんの……ことかな?」
それにお礼を言われる理由も思い当たらなくて返事ができない。キラボシも隣で頭にクエスチョンマークを浮かべている。
「えと、さっきのジソンシン討伐、私にも要請きてたんですけど、大型サイズの討伐なんて初めてで……私なにも出来なくて隠れちゃったんです」
もじもじとそう話す彼女を見て、ようやく話が飲み込めた。
あのサイズのジソンシンが出没するのは本当に稀である。だからこのくらいの歳の子なら見るのも初めてだったのかもしれないし、足がすくんだのも納得できる。それに本来であれば、付近の魔法少女に一斉に討伐の要請がいき、みんなで戦うのが当たり前だ。それをアタシが一人で倒したから「ありがとうな」のだろう。
「そのことなら気にしないで」
理解したアタシは、そう言って笑って見せた。だって全員で倒せば報酬が貢献度に応じて分配される。しかしそんなアタシの思考に気が付かない彼女は恍惚とした目でアタシを見つめる。
「わ、私もいつか、クイーンみたいに強い魔法少女になります!」
ありがとう、と口にしながら、ならない方が身のためだよ、と心で言った。そのまま笑顔で手を振ると彼女に背を向ける。周囲の人波に加わったらしい彼女がきゃっきゃっと話すのを背中で聞きながら、アタシはその場を後にした。それから「ステラ様は大人気だね」とからかうキラボシに、小さな声で悪態をついた。
だって、アタシみたいな存在になってもいいことなんてあるわけがない。彼女たちはアタシの苦労を知らないのだ。