51翡 翠
夢を見ていた。
いつものように、色彩豊かなクリアな夢ではなく、たまに見るモノクロームにフィルタがかった、なんともいえないモヤが漂っているような___そんな夢だ。
ぞろり。ぞろり。
何か大きなものが動いている。
それは私の中から?それとも、外から?
夢の中でも眠くなるのだろうか、まぶたが重い。
ああ、私はそれを見続けなくてはならないのに、どうしてこのまぶたがおりてくるのか。
どうして……
「…堤………?」呟いた瞬間に辺りの景色が鮮明に色づいてゆく。ここは森を抜けたところだ。
無意識に出た己の呟きに微苦笑しながら、目の前の川を見る。
薄明るい光を反射し、水面が輝いている。それほど深いわけではなさそうだが、幅はかなり広い。豊かな水量が目の前に広がっている。夜が、明けていた。朝靄の残る空気は湿っていて、むせかえるような緑の臭いが鼻をつく。足下は小さな石の集まりで、ここまでの道のりが嘘のように平らだ。静かに水音だけが耳に聞こえる。時折、鳥のさえずりも聞こえる。こんな状況下だというのに、なおこの自然の美しさ荒々しさ禍々しさに魅せられる。 上月たちはカムイの山を越えて、大渓まで来ていた。予定よりかなり強行軍で来てしまった為、各自疲労がひどかった。
「上月様、その頬…!」アキジは上月の頬についている傷に気付いた。それは矢による傷だった。
「毒は大丈夫だよ。」上月はそう返すと、あたりを見回した。
「それより足の方が心配ですわ。念のため薬草を…」フジエが荷物をあさる。
「ここからはこの大渓を下って、都へまいります…。船を頼んだのですが…」アキジはそう言って剣を抜く。
「……妙だな。」上月もそれにならい、腰の剣を抜く。
「ゆっくり手当てもさせていただけませんの…?」フジエもため息をつきながら構えた。
鳥のさえずりが消えたのはいつだったか。
霧がまた出はじめたのはいつだったか。
「……まさか、この霧は…!」アキジが上月の前に出ようとした時、気配が動いた。
ざっと森の中を動くもの。
「おっと、動かないでくれ。そう、物騒なモノもしまってくれ。」若い女の声がする。
「船を頼んだはずです。」アキジは人陰の方に声をかける。
「ああ、頼まれたさ。葉月の姫様から、ね。」そう言って出てきたのはこの場には不似合いなほど美しい女だった。黒く長い髪を後ろで束ねて、白地に緋色で染めた七宝模様の入った着物を着ていた。裾は歩きやすいようにか捲られて、白い肌が見えている。
「では、頼みます。」
「はっ…。そうか、何も知らぬか…。」女はおかしそうに笑って上月を見る。
「我らは男のみを都へつれてゆけば良い。女は好きなようにせよ、と。そう仰せっかっておる。」
「何ですって…!?姫様が…!?」愕然とするアキジを哀れむように見てから、女はまた続ける。
「その、姫様に見捨てられたのだよ、お前たちは。…可哀想だが都へ売られるのだ。」
「そんな…!!」
「どのみちこの霧では逃げられまいよ。おかしなことはせず、大人しくすることだ。」
「この霧はお前が作っているのか。」上月が女に言う。
「…だとしたら?」
「…道案内は一人でいい。そちらの一人にこちらの二人では割にあわん。」
「…ほう、切り捨てるか。」
「わたくしが…。」フジエが震える声で言う。
「バカ言ってんじゃないわよ!」しかしそう叫んだアキジにも他に方法が無いことを知っていた。
まさか、姫が自分を売るなどと考えもしなかったことだ。悲しみより先にくやしさが込み上げてきて、奥歯を噛む。
「勘違いするな。船だけ貸せばいいと言っている。道案内はこれ以上必要ない。」上月が静かに告げる。
「これだから世間知らずの坊やはいけない。この大渓、流れる道を知っているのはこの闌更のみだ。それをズブの素人が渡ろうってのかい?この霧で?」その一言で回りに男達が集まりはじめる。それぞれが手にしているのはとてもお粗末な武器だったが、多勢に無勢である。
「どうあっても、二人を売ると…?」
「くどい!」
二人がにらみ合う。
先に目を伏せたのは上月だった。
「…わかった。だが、二人とも都に無事着くまではこちらのものだ。…俺を無事、都へ届けることが二人を渡す条件だ。」
「………いいだろう。この世界も信用が第一だからな。」
「上月様…」まさかそんなことを言い出すとは思わなかったアキジは衝撃を受けていた。
「行こう。…案内してくれ。」
「ついて来い。」女は短く言うと、さっと上流へ歩きはじめた。
「ま、まってください。上月様の足の手当てだけでもさせてくださいっ。」男達につれられそうになったフジエが声をあげる。
「船上で束縛する意味は無いと思うが…?」上月がそれを見て女に言う。
「好きにしろ。だが…その腰のモノは預かっておく。」女がそう言うと、男が上月と、アキジたちの武器を取り上げた。
「これは、薬壷をあけるためのものです…これで人をどうにかできるとは思ってません…!」フジエは小さじくらいの大きさのナイフを男に取られないようにしっかりと握る。
「自害でもされちゃ売り上げが無くなるからな。」そういって取り上げた男の手のナイフを上月が横から奪う。
「俺が預かっておく。いいだろう?こんなものじゃ人一人刺しても殺せない。」
「…ふん、まぁいいさ。」男は鼻で笑うと歩き出した。
「…上月様…」フジエが不安そうにそれを伺う。
「手当ては船の上でかまわないか…?」
「…はい、それは…。」
「では行こう。」そう言うと、上月は川沿いに歩き出した。