50海 峡
暗い船庫はぎしぎしと波に揺られる音だけたてて、宝も穀物も静かにあった。
「姫様…堤様を一体どうするおつもりですか…?」オミヤが静かに聞く。
「……………聞こえる?オミヤ、お前には…」
「……?はじまったようですね…ミズナイとの戦いが…この船が乗っ取られないと良いのですが…」そういって、オミヤは甲板に続く扉を見上げる。いくつかの扉を隔てても外の男達の声が微かに聞こえる。それは戦の時にあげる雄叫び。
「……下です。……いいえ、この船を囲む水の内…。ほら、聞こえませんか。海の神の血が通う音を。」トヨはうっとりとその目を細めて虚空を見る。
「この水桶には魔が棲むといいます。何がいるかはわかりません。それがまして神などとどうしてわかりましょうか。」オミヤには何も感じられなかった。ただ、姫がそう言うのならば、この船の下にはあるいは海神がいるのかもしれない。人というものを飲み込んで余りあるこの広大な世界は、オミヤにとって未知数であり、それだけに不安も抱えていた。彼は生まれてこの方、葉月の土地から離れたことがないのである。
「神が恐ろしいですか?」トヨは微笑して聞く。
「姫様は別です。姫様が神だとしても、私には姫様にしか見えません。」オミヤははっきりと言った。それだけは偽りのない彼の気持ちだった。
トヨはゆっくりオミヤを見ると、笑った。
「堤様を見てきてくれますか?わたくしは大丈夫。あの方にはまだやっていただくことがあるのです。」オミヤはそれに従い、揺れる船庫の中を移動した。
そしてその後ろ姿を見ていたトヨは誰に告げることなく呟いた。
「切り札は最後まで残しておくべきものです…それが例え部下であっても、手の内は見せない……それがそなたたちの言う「悪人」というものでしょう?オミヤ。」
甲板を何度目かの潮がさらった後、唆字は唾をはき捨てた。
「シイナァ!戻ったかぁ!!」ミズナイの船3隻のうち、2隻には宝とよべる宝が無かった。どうやら護衛船ばかりを選んで残したらしい。そして最後の1隻が唆字の船に近付くと、男達はまたそれに向かおうとしたが、船首に立っているのが仲間のシイナという少年だった為、船を横付けにし迎えたのである。
「頭ぁ!大変です。」シイナの部下のナガが小太りの身体を揺らし走ってくる。
「どうした。」唆字は短く答える。
「宝があったこたぁあったんですが…。ほとんどこがコレでさあ、どうします?」そういってナガが取り出したのは100円玉くらいの大きさの銅貨と銀貨だった。唆字は顔をしかめると、
「おい、シイナ、それにナガ、お前達はそいつを船ごと持って、慶都の阿子のとこへ行け。こっちから話はつけとく。そしたら、そいつを全部…」
「全部?」
「さばいて、食うもんと、水に換えな。残りは瑠璃にでも玻璃にでも換えて来い。いいな!そしたら、阿子のとこの小せぇのにコマっていうやつがいる。そいつの倉に入れておけ。お前達はそこで待ってろ。いいな!」
「へいっ。」ナガは走ってミズナイの船にかえってゆく。
「一銭たりとも持ち帰るんじゃねーぞ!?」唆字は怒鳴る。
「…何故です…?銅貨も銀貨も使えるでしょう?…そこから素性がわかるはずもない。」船庫から出てきたオミヤは不思議そうに言う。唆字は煩いように後ろを振り返ると、小馬鹿にしたような笑みで、
「田舎モンはしらねぇかもしれねぇな。都はな、今大荒れさ。銀貨だ銅貨だと朝廷ははやしたてちゃあいるが、実際のところ、役にゃたっちゃいねぇんだ。何せ唆字は頼まれれば私鋳銭も作る。そうするとどうなる?莫大な銅が流れ、市場が下がる。銭の価値なんざ、あわ、ひえにも劣る勢いだ。どうせそのうちまた新しい形の銭を朝廷が用意する…そして唆字はまたそれを作る。この繰り返しだ。キリが無い。だから今どき銭なんぞ信じているのはよっぽどの田舎モンか、おめでたい奴しかおらんのさ。」
「葉月でも銅貨の流通はとりやめました。」風にあおられる髪をトヨが押さえながら言う。
「次に襲われた時にぁ、素っ裸にでもなるんだな。銅は寺には売れるが…唆字が銅を使った方が高くなる。だがそれは一時だ。」唆字はそういうとまた船首へ向かった。
オミヤは羞恥と怒りで握りしめていたこぶしが震えるのがわかった。平和な葉月においては、すべてを文部官に任せていたので、最近の都の動向は情報が行き届いていなかったのだ。
「気にすることはありません。通貨が使えなくなるのは一時のこと。それに、位がある者にとっては都合が良く出来ているものです。あの者たちはそれで位を得ようとしないだけのこと。」トヨが言う。その瞳は輝く海面に向けられていた。
「姫様…。しかし、では何故朝廷は銅貨など…」
「膿は全部出してしまわなくては…。オミヤ…ごらんなさい。なんて綺麗なんでしょう…!」トヨはうっとり海を見ながら風にふかれる。
「……はい。」オミヤもそれを眺める。そうすると不思議と心が落ち着いた。
「生きているものを殺す……膿を一掃しなければ……。」トヨはそう囁くように呟いた。
「え?…姫様…?」
「……ここは風が強いようです。下へいきます。」トヨはそう言って船庫へ向かった。
と、その時だ。
突然、雷に打たれたみたいにトヨの身体が固まった。そして、次の瞬間、船首へ走っていく。
唆字が気付いて顔をあげる。
「どうした。」
「あと1日早く着くには、どうしたら良いですか?」トヨらしからぬ態度に唆字は少し目を見張って、
「1日たあ無理な相談だな。風が変われば別だが、風の種類にもよるがな。今は東からの風だがこの先の見えるだろう五つ岩のあたりから、海流が変わる。そうすると今度は南風を捕まえなくちゃいけねぇ。あんた、巫女か。……いや、いい。巫女でも首長でもなんでもな。風を喚んでくれればな。実を言うと、唆字も急がねばならん。ミズネイは陸にもいる。風さえありゃ、1日でもそれ以上でも着けるだろうよ。」こちらが盗んだ銅貨を換えようとするところにも、潜んでいるかもしれない。
「では、南風なら良いのですね。」
「……構わんが…。間違っても嵐など喚んでくれるな。海神相手は部が悪い。」
「……ええ、わたくしもここで海神を相手にするわけにはいきません…それに…」トヨは続けようとした言葉を飲み込んだ。
(海神も、今はそれどころではないでしょうから。)
「唆字はどうすればいい?」
「全員が飛ばされないように腰に縄でもつけておいてください。」そういって、甲板に行こうとするトヨに唆字は少し苦笑いし、
「ちったぁ、落ち着いたらどうだい、神ぞ仏ぞと言われた葉月の巫女が。」そう呟いた。
トヨは振り返った。この男はどこまで知っているのだろうか。そんな考えが一瞬よぎったが、ふと、表情を緩めて、
「葉月を焼いたのはわたくしです。」それだけ言った。あの、美しい森を。姉様と慈しんだあの森を指先さえ触れずに焼いた。そして何も感じなかった。…だからこそ自分はこの世界に在るべきではなかった。
トヨは哀しみとも諦めともわからない瞳で唆字を一瞥して甲板へ足を進めた。
「…………」唆字はそれをしばらく見つめていたが、やがて男達に指示を出しはじめた。
トヨはあせっていた。
あせりが自分を動かしていることにも気付かないくらいに。
陸に感じた異界の「モノ」の気配。一瞬だったが、何者かが召還した「モノ」。それはひどく落ち着かない気分にさせた。そしてそれが誰によるものかも検討がついていた。
(上月様………。)
あの男には得体の知れない何かがあった。はじめからそれを承知の上で利用しようとした。だからこそ、鏡も剣も彼に託した。
しかし、彼がおそらく喚んだであろう「モノ」は、人でも神でもない。あれは間違い無く自分と同じ、どこにも行けないモノたちの、成れの果て。
これから彼女がすることに、彼は必要だったのだが、それより先に堤を都へ運ばなければならない。下手をすると上月に止められる恐れがある。
(恐れ…?わたくしが…?)そこでトヨは少し冷静になった。
五つの岩が近付いてくる。トヨは空を眺めた。海鳴りが遠くに聞こえる。それは、都の彼方にある神の山がこれから起こる惨事にシグナルを出しているのか…。その先の海の神が、「アレ」を止めようとしているのか…。
どちらにせよ後には退けない。退くつもりもない。
葉月の神木の気配を感じ取る。
目をつむれば目の前にその大木がある。
ざわわ、ざわわ。
葉脈に流れる命、大地から吸い上げる命が、キラキラと輝いている。
トヨは両腕を高く上げた。
波音が消え、葉音だけが世界をうめ尽くす。
葉がざわめき、その枝を、その葉をトヨに向かって突き出してくる………!!!
剛。
「風だーーーーーーっ」ひとりの組員が柱にひしとつかまりながら叫ぶ。
帆が大きく開かれる。
オミヤが甲板を転がる。それを唆字がつかまえ、縄にくくりつける。
「ありがてぇこった。」唆字は突如吹きだした風に目を細めながらトヨを見る。
「姫様っ…」オミヤは唆字のつかまっている柱につかまりながら、トヨを見る。
その姫は、まさに神や仏やと歌われた、葉月の巫女。
誰よりも強く恐ろしい、至上の存在。
しばらくすると、帆だけに風があたるようになる。考えられないことだった。
「たいしたもんだ。」唆字はそう言うと、つかまっていた柱から離れ、船員に指示を出し、トヨのところへ行く。オミヤもはっとしてそれに続く。
「これから都までこん唆字があんたを守ろう。最も、そんなもんは要らんかもしれんが…」
「あなたは……怖くないのですか…?」トヨはまた何の感情もこもっていない声で訪ねた。
「そら恐ろしいさね。だが俺にとって恐ろしいのはこのでかい水桶だけだ。言ったろう?唆字は運び屋だと。運ぶ以外は預かり知らんことさ。」
「…そう。人には関わりの無いこと…」トヨはそう言うと帆を見上げ、
「この風が止まぬ限り、船は走り続ける。私達は都へ行く。…オミヤ、休みます。」トヨはそういって、船庫に降りていった。オミヤは慌ててそれに続いたが、ふと唆字を振り返って言った。
「……羨ましいことだ。」それが何に対してであるかは言った本人にもわかっていないようだった。
唆字はそんなオミヤの後ろ姿を優しい目で送った。まるで、この海の神のように。