49神 憑
最悪だ。
小雨が降り出したのは仕方ないとして、うっすらと前方に立ちこめる霧は、山も川も、空さえ飲み込んで、何もかも隠してしまう。月はその姿を霧に隠され、柔らかい光さえこの壁の前に届かない。
まるでこの世界に堕ちてきた時のように、すべてが白く染まってゆく。
赤土が水を含んで馬の足場が悪くなっている。上月は重くなった服から伝わる冷たさが体温を奪っていくのを堪え、馬の肌を叩いて手綱を持ち直した。
「…この先の岩の向こうがシナです…上月様…」アキジの声もどこか遠くに聞こえる。すぐ前を行くのにその足下さえ時に見えなくなる。下手に動かない方がいいのはわかっているが、止まるわけにはいかなかった。
「では…わたくしが…後ろに…」フジエが上月の馬の後ろへまわる。上月は無意識に胸元を押さえた。そこにはトヨから持たされた鏡があった。直径が30センチ程ある鏡は厚い布に被われていたが、かなりの重量で、実用的でないことから、これが神儀用のものであることがわかる。
これが何の役に立つかはわからなかったが、必要になる時が来るのだろう。
「上月様…!」空気を切る音がして、白い空間から布があらわれる。それを掴むと、随分長いものであることがわかった。即座に理解して、残りを後ろのフジエに向かって同じように投げる。確かに捕まえた手ごたえを感じると、それを腕にひとくくりした。
「…火を使うわけには参りませんから…」アキジの声がする。この先は細い崖だという。そこを渡るために今はこれが命綱というわけだ。乗馬でのこの状況は危険ではあったが、他に手はなかった。
「では行きます…!」そうアキジが言うと、ひづめの音がして、右手がぐいとひっぱられる。それに続いて馬を走らせる。フジエもそれに続く。できるだけ頭を低くして、馬にしがみつく。白い空間はどこまでも続いて、谷がどこにあるかさえもわからない。
ひゅん。
空気を切った音と共に右頬をかすめたものがある。上月は竹を麻糸で巻いた盾のようになった被いを頭から背中にかけてかぶっていた。そこへ、たん、と音がして矢が刺さる。軽い衝撃と竹に刺さる音に神経が張り詰める。聞こえるのは自分の呼吸と、矢が空間を飛ぶ音。そして…
キン、キン、と矢を__おそらくアキジとフジエが剣でさばいているのだろう、音がする。腰に下げた剣に手をやる。手綱から手が離れそうになる。剣を鞘から抜いて、ようやく構える。
「抜けます…!」アキジの声。時間にしたらものの10秒も無いだろう。しかし、ただそれだけなのに剣を持った手は凍えたように固まっていたし、唇はなめてもなめても暖かくならなかった。
ようやく速度がおちてきたところで、白い中からアキジがあらわれた。外套とした布がいくらか破れてはいたが、無事だった。そして、それに促されるようにフジエもあらわれた。こちらも無事だった。
「御無事ですか。このまま、カムイの森を越えたところに大渓があります。そこから船で南下すれば都の南東に出て、玉華門から宮殿に入ります。」そういって、馬の手綱をはずす。
「ここまで、御苦労だったな…」上月もそれにならって、馬を放す。
「…アキジ…」フジエが心配そうに馬を見る。
「…大丈夫、私達よりよっぽど賢いわ。」アキジはそう言って、馬をたたいて追いやった。
「カムイの山は旅人に方向を失わさせるというわ…気をつけて…霧は大分薄れてきたけれど、ここには獣も獣の神もいると言われている…」上月は先程腕にまいた布を頼りに、歩く。月の光りさえ無い__いや届かない深い森は、人の深層にある恐怖を呼び起こす。
「ね、ねえ。アキジ、何か話してよ。」フジエが言う。
「できるだけ声はたてない方がいいのよ。もちろん足音もね。……狼の餌になりたくなければ……!」アキジが止まる。
上月もあたりに神経を集中させる。
何かが見ている。
また霧が邪魔をして何も見えない。見えたとしても深すぎる森には月光は届かない。肉眼で確認できるものなど無かった。
小さな呼吸を感じる。それも複数だ。
それがこちらを取り囲んで、伺っている…そう、獲物を狙う獣が今か今かと気配を潜めているように…。
何分、いや何秒だろうか、そうしているうちにフジエが小枝を踏んだ。
乾いた音が響く。
ざあ、と空気が動いた。
「ッキャア!!!」フジエの声と剣の音、それから布がひっぱられて上月が地面に転がる。傾斜がたいしたことがなかったのがせめてもの救いだ。
「っ…だから…言わんこっちゃない…」アキジが布を切ったおかげで上月はまた地面に放り出される。
「……っあ!!」熱を感じた時には出血していた。
右股に食い込むそれは獣の足。
とっさに胸に抱いていた布を持ち上げる。布を切り裂く音がする。左足で獣の腹を蹴りあげ、鏡を盾に、剣で薙ぎ払う。肉に食い込む感触があった、二尾は感じたが、それだけではない。
「アキジィ…!!」フジエの声。立つ間もなく空気の動きを感じ、そのまま谷にむかって転がる。
「…のお!」アキジが閃光弾に火をつける。獣の鳴き声とその姿が知れる。フジエにたかる獣に荷を投げ付けて、上月の元へ来る。
アキジはその間にまた火をつけ、今度は癇癪玉を投げつける。
「アキジ、火だ!」上月の声。アキジが火をつけると、獣は一瞬躊躇する。
「そんな…」
獣は…狼は、ざっと40以上、回りをすべて囲まれ、どこにも逃げられないことがわかる。
ぽう。
ポウ。
明るく、光るもの。
光を反射して、この闇に輝くもの。
「そうか、鏡…!」懐に巻いていた布と布の隙間から鏡が見え、それが光を反射させていた。上月は自分を呼ぶ波動を感じた。それはよく見知ったもの。胸元から直径20センチほどの鏡を取り出す。それはトヨが彼に持たせたものだった。
松明の明かりがうつっている。
一つが二つに、二つが三つに。
五つが六つに。
鏡の中にペンタグラムが浮かび上がる。
上月は鏡の中の自分を見つめた。
よく知った顔、これは自分であって、自分でない。自分ではない_______
「神憑___彼方。」
鏡の中の自分が笑う。艶やかに。
それは上月であって、上月でない。
異変を感じたのは獣だった。 一頭が遠ぼえを始めたのを境に、すべての獣たちが空に向かって吠えはじめる。
「どういうこと…!?」アキジが回りを見回す。 そして、暫くして獣は一頭、また一頭と深い森へ消えてゆく。 そして、獣が去った後、ずしん、ずしんという地響きが近付いてくる。
ずしん、ずしん。 ずしん、ずしん。 それは地面を震わせ、アキジたちの足下を揺るがす。転ばないようにバランスをとって、地響きのする方へ目をこらす。
「ここから移動した方がいいわ…。」アキジは妙な寒気を感じて、フジエを見た。フジエもまた同じだった。認めたくなかったが、これはまぎれもない恐怖だ。歯をくいしばり、手足に力を入れる。そう、恐ろしいのに、一刻もここから離れなくてはならないのに、動けない。むしろ、今から自分を確実に凌駕するだろうモノを見てみたいという、愚かな好奇心が足を地に縫い付けていた。それとも、自分は気がふれてしまったのだろうか。アキジは、そんな自分を叱咤し鏡をのぞいたまま自分の足下に座ってしまっている上月を見た。この男は先程から一言も話さないし、動かない。どうも様子がおかしい。アキジが気力をふりしぼって上月に声をかけようとしたところで、その地響きが止んだ。
松明は小さく輝き続ける。
ひゅ、
「ーーーーーー!!!」音もなく、突然の風にアキジとフジエは倒される。松明も一瞬にかき消され、竜巻きでも来たような有り様。 そしてまた、ずしん、ずしんというまるで足音のような地響きが遠ざかってゆく。
ずしん、ずしん、、 ずしん、ずしん………
「……な、なんだったの、今のは………。」ようやくアキジが起き上がると、あれほど濃かった霧は一片たりともなくなり、わずかばかりの月光が、木々の枝を抜けて夜の森を照らしていた。 どうやら、自分が上月が座っているところから大分飛ばされてしまったことはわかる。 のろのろと、松明を拾って火をつけるとフジエが左の方に転がっているのもわかる。 では今のはいったい何だ? 悶々とするアキジの視界で、上月がぐらりとその身体を傾けた。
「上月様っ!」アキジは驚いて上月のもとへ走る。 上月はこの頼り無い光の中でもそれとわかるくらいに、青ざめた顔をしていた。そしてその身体はぶるぶると震えている。身体を丸めている彼に触ろうとすると、
「触るな!」これまで聞いたこともないような強い拒絶の言葉で返される。荷物を拾ってきたフジエもその様子に困惑する。 いくらかして、ようやくその震えがおさまり、上月が深い息をついた。顔は汗でびっしょりになっていて、その髪がはりついている。ゆっくりきつく閉じていた瞳をあけると、身体を起こし、
「……すまなかった……。もう大丈夫だ。」アキジとフジエを見る。
「……どこかお怪我でもなさいましたの…?」フジエは遠慮がちに聞く。今の彼は大丈夫だと言ったわりには、やはりひどく憔悴しきっている。
「いや、大丈夫だ。急ごう。これもいつまで晴れているかわからない。」上月は、鏡を包んでいた布で出血した部分を止血し、ゆっくり立ち上がった。傷の傷みに顔をしかめたが、アキジの方を向き松明をとる。
「こっちだ。」今度はしっかりとした様子で歩きはじめる。
「か…。」何か言おうとしたフジエをアキジがとめる。フジエはアキジを見て頷き、上月に続いて歩き出した。そして、アキジもそれに続いた。