46屠 所
男の目に写ったのは、自分を見る冷たい瞳。無邪気な純白の衣と、漆黒の髪__そしてこの世の何よりも勝る美しい微笑み。血のような唇と、氷のような瞳。男は倒れる寸前、年の離れた妹を想った。
名も無い男が名も無い塊となる。
とびこんできた、炎の海。
私達が降りて来た道は、岩ばかりで、こちらへ燃え移ることはなかったが、そのあまりの壮絶さに足はまるで棒のように動かなかった。
「……トヨ………」私は、その炎の中に一人、立ち尽くす影を見た。
まわりに焼けこげた人間だったものが転がっている。その中に知った顔を見つけた時、自然と彼に駆け寄っていた。
「オミヤさん…!」彼はどうにかこの炎に巻き込まれなかったらしい。しかし煙で喉をやられてひゅー、ひゅーと苦しそうに喘いでいる。
「………!」オミヤは目を見張った。半分失いかけていた意識が戻ってきたのである。
私は彼を起こすと、少女が駆けて行った方を見た。
そこには、あの大男が倒れていた。私はあわてて彼に近付こうとするが、いつのまにかトヨが目の前にいた。
「堤様……お探ししましたわ…」その口調はいつもと変わらず、心配そうだった。
「……彼……殺したのかい…?」私は自分が彼女を責めれる立場でないことを知っていた、だが、言わずにはおれなかった。大男に寄り添う少女の為に。
「………」トヨは何も言わなかった。
「……あの子は、殺さないで欲しい。」私が、底知れぬ瞳にむかってそう言うのと同時に、少女の叫び声が聞こえた。
「その男に手を出すな!」少女は毅然と、剣を構えていた。
「やめるんだ!君…!」私は少女に向かって言う。そしてはっとなって、立ち上がる。
「父を殺し、兄を殺し……一族を貶めた女…!!その男は殺させない…!」少女は剣を構える。
「トヨ…、やめてくれ。彼女には何も…」私はとっさにトヨの前に立つ。ぞくぞくと肌が焼け付くような気分になる。
「……わたくしを弑そうとする者を…?」トヨはゆっくりと話す。
私は底しれない不安を感じて、少女に向かって力の限り叫んだ。
「僕はいい、君はお兄さんの跡を継いで、皆と一緒に行け!この人を殺すなんてこと考えちゃ駄目だ!」
少女は動かなかった。
「お願いだ…、生きてくれ……!」それでもまだ、少女は動かない。いや、動けないのだ。私が動けないように、彼女も動けないのだ。
「……堤様は殺しません…」トヨは少女に向かって言った。トヨはここでぐずぐずしているわけにはいかなかった。時間が無いのだ、自分には。娘はどうでもよかったが、堤に不信感を抱かせてはならなかった。今はまだ葉月のトヨである必要があった。
「…………行けぇっ……!!」私は、何がそれほど恐ろしいのかその時はわからなかった。ただ、ぞくぞくするような寒気が襲ってきたのは確かだ。少女はその声に弾かれたように剣を落とすと、一度私を見て、それから二度と振り返らずに駆けていった。
私はひとまずほっとして、振り返った。
「上月は無事かい?」何故か彼の安否が気になった。そもそも、ここにいると思っていた彼の姿がない。
トヨはにっこり笑ってから、
「ええ。堤様を待っています。」そう答えた。そしてチラリとオミヤを見てから、また私を見た。
喉が引きつる。
声が出ない。
体温が奪われていく。
鋼鉄のまなざし。
人の中に入り込んで、ズタズタに傷つける、そういうまなざし。
「今は、まだ、殺しませんわ。」その台詞が私が覚えているトヨの最後の台詞だった。
そこから私は深い眠りにつくことになる。
「姫、様…」オミヤは倒れた堤を見て自分の主人がそうしたのだとわかった。
「…オミヤ、お前はわたくしを裏切らないわね……?」トヨは振り向いて小さく言う。
「決して。この命、姫様のものでございます…。」オミヤはまだ心の底で恐怖する自分を怒り、封じ込め、心酔する目の前の主人の為に、膝をつく。
「では、堤様を運んでちょうだい。川に船を用意してあるわ。」トヨは来た道へ引き返す。
「……姫様、どちらへ……?」オミヤは慌てて倒れた堤を背負い、その後に続く。
「都へ。」トヨはそれだけ言うと、焼けこげた伏の屍体を邪魔そうによけながら、歩きはじめた。
そして、その姿は燃え盛る森の中に消えていった。
山に静寂と闇が訪れたのは、これから一昼夜後であった。突如出現した炎に、潜んでいた地の者と、伏のものが巻き込まれ、山火事は葉月の手前で止まった。焼き尽くされた木々と、無惨な動物達の屍骸を見た葉月の民は嘆き、悲しんだ。しかし彼等はあきらめず、新しい命を育てようと森の復興に励んだという。
一旦終了です。ようやく次から展開がー。