44悲 傷
ばたばたと走る音が聞こえる。いや、この足音はとても小さなものだったから、足音というのかよくわからない。ただ、それが誰であるかは想像できた。
「ここを出る!」少女は息を切らせて洞くつに入って来た。
「どうしたんだい?何か…」私は少女がいるらしき方へ立ち上がったが、言葉を続けるより先に少女に手を取られた。
「…おいっ、何があったんだ…?」この様子では私が殺されるということではなさそうだ。しかし、少女は懸命に闇を走る。私は時々つまずきそうになりながら、それについていく。しばらくすると、明かりが見えた。
「あの女が来た。」少女は短く言って、崖の下を見下ろした。出てきたところは急な斜面の上だった。闇に慣れた目には月明かりも明るく感じた。それでも私には森にしか見えないそれらに、少女の言葉からどうやらトヨが来ているらしいということはわかった。
「どこへ行くんだい?」
「東に我らの住処がある、そこならば伏にも見つからない。お前はそこへいく。」
「君はどうするんだい。僕は殺されないのかい?」
「兄様が残っている、私も戦う。私は兄様の妹だ。石を継ぐべき者は、退かない。お前は地に留まるもよし、そこからどこへ行くも自由だ。だが、今は東へ行け。」
「危険だ。君こそ東へ行けと兄さんに言われなかったのか?それに、トヨが来ているのなら、 僕を返した方が君たちには良いはずだろ?」そう言いながら、手を引かれて走る。鋪装などされていない足下が辛く、膝が笑いそうになる。
「でも、あの女は私達を殺す。お前を返しても、殺す。」彼女は兄から聞いた話を覚えていた。その女がどれほど強いかということも。だから、この目の前の男でさえ返したところで五体満足で生きるという保証がない。いつだったか、一度一族につかまった伏は森の入り口で無惨な姿をさらしていた。屍体はただの肉塊であったという。そんな殺し方をするのはあの女しかいない。石の秘密を守るためだろう、この男がそうなるのは見たくなかった。
「でも、俺は石が必要だ。なら、トヨの元へ行かなくてはいけない。」私は立ち止まると、少女を見た。いくら少女の力が強いといっても、こちらも男であるからこれ以上引っ張られるのはごめんだった。
「石は我らの物だ。これ以上、我らから何を奪う…?」少女は私をじっと見つめた。
「…………君は俺を殺さない…?」話してしまおうか、石がどこにもないことを。そうすれば、彼等が戦う理由は無くなる…少なくとも、表面上の理由が無くなる。
少女は小さくだがしっかりと頷いた。
「じゃあ、僕と一緒に行こう。君がここへ留まっても殺されるのを待つだけだ。」
「我らは伏などに負けはしない…!」少女は鋭く言う。けれどもその語尾は力がなかった。彼等が恐れているのは何なのだろう?
「……いたずらに人を殺めるのはだめだ。僕と一緒に行こう。そうすればトヨもわかってくれる…!」そう言って少女の肩を持つ。しかし、少女はひどく怯えた目を向けた。…何が怖いのか…私が何を言ったのか…
「……トヨが怖いのか………?」信じられないというように言うと、少女はきっと顔を上げ、
「お前は知らぬのだ…!あの女は私の父を殺したのだ、そしてあの石を奪った…!どうして、許せるだろう。どうして怖がるなと……!」少女は吐き捨てるように言った。その目には涙が浮かんでいた。
「まさか…そんな……でも、石が奪われたのはずっと前なんだろ?その頃トヨは生まれてまもない…トヨが殺したんじゃ……」私はこの少女の兄が言ったことを思い出していた。15年前に奪われた石、トヨの年ではまだ生まれてすぐのことだったろう。
「違う、違う…!お前は知らぬ…あの女はその時から、あの姿のまま、老いることがなかった…私は見ていないが、幼い兄の背につけた傷…あれはあの女がつけたものだ。あれは、我らと同じモノではないのだ…!」
少女は恐怖に目を見開いた。
「まさか…!」彼等の話を鵜呑みにするつもりはなかったが、トヨのあの力はまさに人を超えるものではなかったか。
「お前をさらった口実に、あの女は我らを滅ぼすつもりなのだ。お前をつれてきたのは私。だから、私はここに残らなくてはいけない。」少女は私の腕をつかむと、肩からはずし、深く息を吸った。
「…でも、やっぱり……僕と行こう!」私は顔をあげた。それが事実なら、いや、事実でなくてもトヨに確かめなくてはいけない。どんなに危険であっても、私が石に近付けるのは彼女しかいないのだ。そして、上月もそこにいるだろう。
「……お前が行くというのなら、私は行こう。せめてあの女からお前を守れるように。」少女は力無く言うと、指を森に向け、
「この下にあの女に続く道がある。急ごう…兄様に近付けてはいけない…。」背をむけて歩き出した。私は言い様も無い不安を感じながら、それに続いた。