43咎 人
前回に引き続き、ここから数ページは戦いのシーンがあります。各自の責任で閲覧してください。
あの女が来る……!男は立ち上がって、岩影から眼下を見た。
「……魔物だ。」男に名は無かった。そもそも、名をつけるという行為がこの一族には無かったのだ。そして、あの女は来た。15年前、自らのこの背に負った傷は、憎んでも憎みきれないあの女がつけたものだった。
男はその巨体を揺らすと、回りを見渡し、男を囲む男達を見た。
そこへ少女が駈けてくる。
「…兄様っ。…あれはっ。」男は少女に目をやり、愛おしそうに目を細めて言った。
「ああ。お前達は裏から東の関へ行け。あの場は伏にもわかるまい。」
「いやだっ。私は兄様と残る!それに…あいつっ…あいつ、どうするんだっ!?」少女の顔に不安が走る。
「……あれは役に立つまい。」
「…じゃぁ……殺すのか……?」その声がいつもと違うか細い声になっていることを少女は気付いているだろうか。
「お前の好きにすればいい。だが、東の関へ行け。連れて行くのもかまわん。」この台詞には男達からの反論もあったが、今はそんなことに費やしている時間はなかった。
「ほんとかっ。ありがとう兄様っ。」少女はぱっと微笑むと、きびすを返して走って行く。おそらく、あの捕らえた若者のところへ行くのだろう。
あの若者がトヨの客人であろうとなかろうとそんなことはどうでもよかった。トヨが乗り込んできたとあれば、人質などいても無駄なことだった。かの女は人質をこちらが殺す前に一族全員を殺すだろう。
15年前、心に刻まれた恐怖は忘れたくても忘れられないものとなった。あの女は我らを今度こそ全て叩くつもりでいるのだ。根絶やしにするつもりなのだ。
「しかし、兄者我らも残ります。兄者と共に戦います。」若い男が言う。三番目の男の子供だ。
「いや、残るのは私だけでいい。あの女が来たとなれば、戦うことすら無意味だ。」男はそう言って、がんとして残ることを言い放ちこの場にいる三人に目をむけた。
「あれは、何でしょう。我らはもう石を持っておらぬのに…」その中でも年老いた男が言う。この男も15年前自らの族長を殺し、目の前の息子さえも傷つけた女を覚えていた。その時の女はまるで手負いの獣のようで、とても姫などと呼べるものではなかった。
どこか傷を負っていたのか、その玉のような肌には血痕があったし、絹のような黒髪は呼吸さえしているように空に舞った。その時は見たことも無いような異国の服を着、その顔にはおおよそ余裕というものがなかった。人の、顔ではなかった。
目はぎらぎらと光り、唇は返り血で赤く染まり、それすらその女を飾る宝石のように煌めいて、黄泉の神といわれたならば納得しただろう。身体はまだあどけない幼児であるのに艶かしく、手には神々しい刀を一ふり。それも女の為に作られたかのように小さいそれは、幾度血を浴びでも油によごれることもなかった。そしてもう一つの手には我らが族長の首を切り落とし手にしたあの、『石』が_________。
「……むごい事を……」男は思い出して涙した。それより何よりこれは彼しか知らぬことであったが、その時の族長は死しても彼の腰の猛りがおさまることはなく、それは天高くそびえ起っていた。
「あの時、殺されても良いと、思いました…」あの女にその時魂をとられたのだろう、その時の彼は今か今かと殺される期待に胸を弾ませて待っていたのだ。屍と化した族長のように、己のものが歓喜し露さえこぼして血が通うのを感じた。恐怖でふん尿を漏らしてしまった方がどれくらいか良かったか。その時の自分を思い起こしては彼は恥じていた。
「あれは、我らとは違うものよ。」男は涙する老人を一瞥して、また眼下を見る。自分がここにいることで仲間が逃げるだけの時間は稼げた。しかし、その仲間が無事に逃げられるかはまだわからない。
「行く。聞き岩から三名、右の囲いから四名…あの女に伏が2名、ほかに3名。」男は目をこらして言う。
「では、我が聞き岩へ参ろう。」それまで黙っていた男が立ち上がる。伏は確かに強かったが、彼等の脅威ではなかった。
「わたしが右へ。爺はのろしを上げてくれ。それで皆が気付くだろう。」森に潜む仲間は今か今かと伏たちを待ち伏せていた。一族の中でもよりすぐりの男たちだ伏などにやられはしない。若者もそういって立ち去った。のこされた老人は、言われた通り__すでにのろしをあげる準備はしてあったので、それに火をつけた。香りと、色で種類がわけられてあり、それは一族にしかわからない暗号だった。
「赤子を連れてはちと辛いでしょうが、それほど彼奴らも深追いはすまいて…」老人はまた、身体をおり男の足下へ控えた。
「なぁ、爺。アレは何を鳴いているのだと思う…?」男は、遠くに鳴く名も無き鳥の声を聞きながらそれがかの女の泣き声のように思った。