42暗 闘
若干、残酷な表現が文中にあります。各自の責任で閲覧してください。
少女は走った。その足の早さは一族でも1.2を競うものだったが、兄のところまで行く前に、赤々と燃える炎を見た。
「……!あいつらだ…」それは、山火事のように木々の間を進んでくる。葉月の方向から来るということは、間違い無く堤を取り戻しに来たものであると考えていいだろう。少女は、きびすを返すと岩をけって、兄の元へ急いだ。
地の者たちが住処としているのはこの地にいくつかあるが、伏の者が言うにはここ数日の住処としているのが今目指している岩山の山頂であった。
トヨは輿の中では一番小さい簡易的なものに乗って、険しい山道にいた。
「姫様、もうすぐです。」オミヤが言う。
「先程の笛。こちらに気付いたものだと?」トヨは笛の音が聞こえた時点で伏を数名別ルートへ進めさせた。輿のすぐ隣にいるオミヤは頷いて、
「おそらく。それよりもこの炎、何故点されたのです?闇に乗ぜば我らが有利であったでしょうに。」
「それほど彼等は甘く無い。それに、わたくしの統治する間、一度として伏が勝ったことはない。これに対する礼儀のようなものです。」トヨは自らの中に流れる血に苦笑した。それは今か今かとたぎっている。これからはじまる惨劇に期待を馳せながら。戒めを解き放った自分はなんとも浅ましい獣のようであると思い、赤々と照らす松明に目をやる。松明を点したのは、宣誓布告の為。これから侵略する強者が弱者に対するはなむけでもあった。それだけの礼はあの男にしたかった。
何年も自分を苦しめたあの、大きな男に。
「しかし、姫様この手勢では…」オミヤが言い淀む。トヨがつれてきたのは、伏10名と、オミヤと数人の輿を担ぐ共だけだ。あまりにも心もとない。
「………私は、彼等を征するために来たのです。」トヨはそれだけを言った。実際、どれほどの兵がいようと、ここは地の者の土地。彼等の方が有利になるのは見えている。それならば、はじめから自分が出て行けば良い。トヨは闇に目ををこらす。
「……オミヤ、来ますよ。」
空気をきる音。
「ぐあっ!!!」一人の伏が喉元を押さえて倒れこんだ。
それを見た全員が松明を土に押し当て足で素早く消した。
「!矢だ、木々の間を狙え!」オミヤはそういうと、闇夜に慣れ親しんだ目をこらし、矢を射る。遠くで、悲鳴があがる。そこからは闇から生まれる凶器との戦いだった。
「姫様!」矢には毒がしこんである可能性が高い。オミヤは輿からトヨを下ろすと、従者たちを盾に自ら剣を抜き、向かってくる矢を落とした。もともと、闇に乗じて為仕とめるのは伏以上に得意ではあったが、これではキリがない。
「どきなさい。」トヨはそういうと、自ら最前線に出た。
「姫様っ。」
神域。
地の者が一呼吸する一瞬、矢を構えた一瞬、
トヨを中心に熱量をもった空間が生まれた。
「……ぎゃぁあああああ…」遠くに聞こえる断末魔の声。それが一人だけではないことは続けて聞こえる声が告げた。
それと共に、何か肉を裂くような音が聞こえる。それが一度きりでなく、何度も何度も悲鳴と共に、弓の弦が切れる音、何かにぶつかって破裂した音、そうまるで肉が潰れたような音、ひしゃげた声、ここは川もないのに大量の水の音、それらがひっきりなしに聞こえてくる。
ようやく静かになると、あれほどあった敵の攻撃もぴたりと止んでいた。
「…姫様……」オミヤは手が震えているのを止めることが出来なかった。かの姫は使ったのだ、その神にも近しいという力を。今まで誰一人として、神儀以外で見たことのない、おおよそ戦とは無縁であったその力を。雲が切れると、僅かな光がもれた。木々の下にいてはそれも頼り無いものであったが、何より、伏もそこにいる従者もそしてオミヤも、彼等の敵がどうなったか、想像することは容易だった。
「……先を急ぎましょう。堤様が心配です。ヒコ、お前は堤様を。その他の者はわたくしと。」トヨは淡々と言うと、足早に山をのぼりはじめた。
ヒコと呼ばれた伏は、トヨより先を駈けて行った。オミヤは、しばらくぼうっとしていたが、トヨが振り返り、オミヤを見た。
「…オミヤ、わたくしが怖い?」その顔には愉悦さえ刻まれているのではないか。この暗い闇の中でいつも美しく心優しい姫の顔しか見たことのない彼には、今の彼女がどんな顔をしているかは想像できなかった。
「…いいえ。いいえ!姫様。」オミヤは震える声を叱咤して、姫の隣へ走った。彼は生まれてはじめて心の底からの恐怖におびえていたが、それでも彼が戻る道は無かった。たとえ、どのような道であっても彼はかの姫についていくと、そう誓ったのだから。
木々の間を流れる鼻をつく、血の臭い。剣や弓であればこれほどまでには臭わない。むせ返るようなこれは、大量の血を流さなければそうならないものだ。足下の木がぬるぬると滑る。それが泥なのか、そうでないか今は考えるべきではなかった。オミヤはこの闇に潜む獣よりも何よりも、目の前の存在が怖かった。しかしそれと同時にまるで魅入られたように興奮していた。心臓が激しく脈を打っている。ひどく、凶悪な気分で自らの敵を求めていた。