【短編版】社畜系悪役令嬢はしんどい王太子妃教育からトンズラを決め込んだ。
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この非常事態に至って、私はどうしたらいいのか解らなかった。助けてくれる人も、同情してくれる人も、周りに誰一人として存在しない。
「シュゼット・フォルタン侯爵令嬢! そなたとの婚約を破棄する!」
つまるところ婚約者であるバスチアン王太子殿下から、彼の誕生会で婚約破棄されるというこの状況は、私にとって耐え難いものだったのだ。
「婚約破棄、ですか……?」
絞り出した声は掠れていて、動揺を隠しきれない自分が歯痒い。
私は特別な才能がある訳でもないし、取り立てて美人という訳でもない。それなのにこの王城で大臣職に就く父からの命令で、幼い頃から王太子の婚約者としての教育を受けてきた。
『逃げるな! お前は将来王太子妃、ひいてはこの国の王妃になるのだぞ!』
自分の不出来さが情けなくて泣いていると、父はいつもそう言って私を叱った。
魔法はなかなか上手くならなかったし、勉強もいくら時間を割いても足りなくて、いつだって寝不足でフラフラしていて。
最近は身支度に時間を割くことすらできず、友人との交流も絶えて久しい。霞む頭で終わりのない王太子妃教育のことばかり考えては暗い気分になるし。
パッとしない私のことをバスチアン殿下がよく思っていないことは明白で、この数年は話しかけると無視される有様だ。
いや、キツい。キツすぎる。
バスチアン殿下のことは好きでもなんでもないから、色恋方面のダメージはゼロだったけど、最初の頃はせめて仲良くなりたいくらいのことは思っていたのだ。
そもそも将来王妃になること事態がキツいのに、結婚相手の王子様に無視されるって、絶望の未来にも程がある。人間関係難しい。逃げ出したかった、ずっと。
「お前はこのカロルに嫌がらせをしていたそうだな」
私を睨み据えるバスチアン殿下の隣には、綺麗で可憐な男爵令嬢のカロル様。突然の事態に驚くことしかできない招待客たちの騒めきが、煌びやかな王城のホールを満たしていく。
この所二人が懇意にしているのは知っていたけれど、まさかこんなところで婚約破棄を持ち出されるとは思わなかった。
「持ち物に刃物を仕込んだり、嫌な噂を流したり……僕の見ていないところで、ご苦労なことだ」
バスチアン殿下の極寒の眼差しに、私は一瞬だけ怯んだ。
ああ、どうしてこんな誤解が生まれたんだろう。針の筵って、こういうことを言うのね。
けれど冤罪をかけられて簡単に認めるわけにはいかない。やっていないことはやっていないと、一言告げるだけでいい。
「わ、私は、そのようなことはしません」
「ほう。あくまでも認めぬと申すのか」
「はい。してもいないことを、認めることは、できません……」
大人しく平凡な侯爵令嬢が震えながらも口答えをしたことは、殿下や招待客の目にどう映ったのだろうか。
一つ間違いがないことと言えば、やはりバスチアン殿下の逆鱗に触れたらしいということ。彼は一気に眉を吊り上げると、私を指差して高らかに告げた。
「ええい、往生際の悪い! そなたは金輪際王城への出入りを禁ずる! 即刻出て行くが良い!」
*
「いやだから、キツいってばあああああ!!!」
王城を摘み出されて少し歩いたところで、私は飲み込んでいた叫びを解放した。
大声を上げたものの、この夜の最中に貴族のタウンハウス街を通りがかる者はいない。幸いにも誰にも聞かれることはなく、静まり返った街には私の荒い息遣いが反響している。
無理、もう、無理だ。私はよく頑張った。ものすごく胃が痛い思いをして王太子妃教育に耐えてきたけれど、今日の出来事で完全に容量をオーバーした。
自身の責任を果たすならば、この婚約破棄について両親と話し合ったり、国王陛下とも会談の場所を持ったりと、やることは山のように立ちはだかっている。
けれどもう無理なのだ。もう頑張れない。今すぐこの街を離れないとたぶん死ぬ……!
そんな確信ばかりが脳内を占拠しており、私はとにかく自身の直感に従うことにした。
まずは城下の質屋に向かう。身につけていた宝石を全て売り払い、手に入れたお金で町娘としての服を購入した私は、店の鏡に映った自分を見て小さく頷いた。
ありふれた栗色の髪に、くすんだ緑色の瞳。顔立ちは十人並みで、街のお嬢さんたちの間で流行っているというワンピースを着てしまえば、どこからどう見ても一般庶民にしか見えない。
これなら問題ないだろうという確信のもと、次に乗合馬車の切符を買って飛び乗った。
そして馬車に揺られること一晩。明け方になって見知らぬ港町にたどり着いた私は、海が一望できる崖の上に立っていた。
別にここから飛び込もうとか、そんなことを考えていた訳ではない。私はただ、できる限り遠くに逃げたかったのだ。
「綺麗……」
意志とは関わりなくこぼれ落ちた呟きは、涙に滲んでいた。
海というものを初めて見た。水平線から登る朝日がキラキラと水面に反射し、薄紅色の輝きを投影している。こんなに広くて、まっすぐで、暖かい色を見たことがない。
いく筋もの雫が頬を伝って、せっかくの景色がぼやけていく。私は乱暴に目元を拭って、もう一度前を向いた。
小さな頃から勉強詰めで、両親も私を厳しく育てること以外考えていなかった。誰かと温かい思い出を作ったこともない。能力も見た目も平凡な、ちっぽけな私。
けれどこれ程に綺麗な景色が見られるなら——ここまで来た甲斐も、あったのかもしれない。
「おい、そこのあんた! 早まったら駄目だ!!!」
突如として背後から呼び止められたのは、海を見て満足した私がひとまずこの場を離れようかと考え始めた時のことだった。
「え?……きゃあっ!」
何が何だかわからないうちに背後から腕を掴まれて、思い切り引っ張られる。
体が大きく傾いで、堪えきれずにお尻から転んでしまった。けれど少しも痛みを感じることはなく、状況を理解できない私はのろのろと身体を起こす。
すると至近距離に歳上と思しき男性の顔があって、私は思わず目を丸くした。
どうやらこの男性に腕を引っ張られて、一緒に背後へと倒れ込んでしまったらしい。怪我はないかと尋ねようとしたのだけど、男性はそんなことに構っていられる余裕のない様子で、私の両肩を掴んできた。
「あんたまだ若いだろ! こんなところから飛び降りる気なのか⁉︎」
「……え?」
「何があったのかなんて知らねえけど! でも、自ら死を選ぶなんて、そんなの絶対に駄目だろ⁉︎」
男性の青い瞳は必死の思いにきらめいていた。王城でもそうは見かけない程に整った顔立ちに、輝く銀の短髪がよく似合う、生命力に溢れた人。
ああ、そうか。私、この方に勘違いをさせてしまったのね。
「申し訳ありません……私、とくに死のうとしていた訳ではないんです」
おずおずと切り出すと、男性ははたと我に返ったような顔をした。
「違うのか? あんなに意味深な雰囲気で、崖っぷちに立ってたのに……?」
「はい、ただ海に見惚れていただけなのです。誤解させるようなことをしてしまい、申し訳ありませんでした」
本当に申し訳ないわ。見知らぬ方をこんな危ない目に合わせて……!
私はどう謝るべきかと必死で考えていたのだが、男性は怒ることもなく、安堵の溜息をついたようだった。
「何だ、良かった……俺の早とちりか」
男性は気の抜けた笑みを浮かべて私の肩から手を離した。迷惑をかけたのに文句を言われないだなんて、私にとっては初めての経験だった。
「地面に引き倒すだなんて、本当に悪いことしたな。お嬢さん、怪我はないかい?」
「えっ⁉︎ い、いいえ! 貴方が受け止めて下さったので、怪我はありません!」
「本当か? ならいいんだけど」
男性はなおも心配そうにしていたが、立ち上がって手を差し伸べてくれた。
「俺はサディアス。お嬢さんの名は?」
綺麗なのにどこか粗野で、そして朗らかな人だ。打ちのめされてここへと辿り着いた自分が、馬鹿馬鹿しくなるくらい。
私は圧倒されてしまったのと、自身の名を明かしていいのか迷ったのとで、ほんの少しの間口をつぐんだ。不自然な間に気付いたサディアス様が首を傾げた時、恐れていた事態が起こった。
「いたぞ! こっちだ!」
海と反対側はなだらかな丘陵地帯になっており、舗装された道に三頭の馬が現れていた。馬上から私を指差すのは三人の男たちだ。
個人的に親しくしていた訳ではないので名前は知らないが、この制服は明らかに近衛騎士のもの。私は一気に血の気が引く感覚を覚えて、上げかけていた手を胸の前でぎゅっと握り込んだ。
そんな、嘘。わざわざ近衛騎士を動員してまで私を探し出そうとするなんて……!
「シュゼット様! お探しいたしましたぞ!」
馬を降りて駆け寄ってくる騎士たちは皆必死の形相をしている。私はもう逃げられないことを悟ったのだが、生憎と体は覚悟もなく震えていた。
嫌だ、帰りたくない。もう……もう、あんなところには戻りたくないのに。
「シュゼット様、この度はお辛い思いをされましたな。けれどもう大丈夫です。ご両親が今度こそ貴方を守ると仰せですゆえ」
今更優しい言葉をかけてきたって、彼らの中には同情心なんて存在しないだろう。
私の周りに寄ってくるのは、将来の王妃に取り入りたいという下心を持つ者だけ。両親だって外聞が悪いから私を探している。きっとただそれだけのことだ。
「さあ、我々と共に帰りましょう。陛下もお待ちです」
先頭に立った男がゆっくりと手を伸ばしてくる。私は最後に決意を固めるため、ぎゅっと目を瞑ったのだけれど。
「おっと、よせよ。嫌がるレディに触れようとするなんて、近衛騎士様のすることとは思えないね」
再び目を開けた時、不敵な笑みを浮かべたサディアス様が騎士の腕を鷲掴みにしていたので、私は目を白黒させた。
どうして。見ず知らずの私のことを、庇って下さったの……?
「何だ貴様は。平民風情が、我々の仕事に口を挟む気か」
「平民ですいませんね。けど、あいにく今は俺がお嬢さんと話していたんだ。割り込んできたあんたらの方が、よっぽど礼儀がなっていないと思うけどな」
サディアス様の返答は痛いところを突くものだったらしい。騎士たちは一斉にいきりたつと、腰に差していた剣を抜き放った。
「何だと⁉︎」
「貴様、無礼であるぞ!」
「我らが誇り高き近衛騎士と知っての振る舞い、見過ごすわけにはゆかぬ!」
いけない。サディアス様は丸腰なのに、もしも斬りつけられたりしたら……!
恐ろしい想像に突き動かされて、私は俄に立ち上がった。
「サディアス様、彼らを怒らせてはなりません! 私なら、大丈夫ですからっ……!」
「本当に?」
サディアス様の腕を引いて何とか下がらせようとした私は、海のような瞳に見つめられて息を呑んだ。
「お嬢さんはここで泣いていたんだろ」
大きな手が伸びてきて、私の目元をそっと拭った。あまりにも優しく、壊れ物にでも触れるかのように繊細な手付きだった。
「これからどうしたい?」
「どうしたい、とは」
「あいつらと戻りたいのか、逃げたいのか。お嬢さんの意志が知りたい」
——戻るか、逃げるか。
そんな、そんなの。
答えなんて、最初から決まってる……!
「逃げたいですっ!!!」
「了解。任せときな」
その瞬間、近衛騎士たちの足元に魔法陣が展開した。
強大な力をこれでもかと見せつけるような、美しくも眩しい魔法陣だった。私はあまりのことに声の出し方も忘れて、驚愕の表情を浮かべる騎士達と、右手を前へと翳したサディアス様に視線を往復させた。
「悪いな、騎士様たち。俺は困っている女の子を捨て置けないたちでね」
サディアス様は悠々と喋る。近衛騎士たちはどうやら足が動かないらしく、「くそっ!」「何だこれは!」「貴様ぁ!」などと、各々呪いの言葉を吐いている。
こんなことがあるのだろうか。近衛騎士は剣術と魔法、両方とも高い実力を持つはずなのに。
「——全てのものよ、眠れ」
魔導師が呪文を諳んじる声は、かけられた対象ではない私にも不思議な反響を纏って聞こえた。
魔法を正面から浴びた近衛騎士たちにはひとたまりもなかったらしい。三人ともが倒れ伏したのを見下ろしたサディアス様は、右手の一振りで魔法陣を消し去ってしまった。
「さてと、ついでに記憶でも消しておくかな。一時間くらいでいいか」
そして騎士たちの一人一人、こめかみに人差し指を当てて何事かの呪文を唱えていく。作業はあっという間に終わり、サディアス様は呆然とする私を振り返って目を合わせた。
「ありがとう、ございました。貴方は、一体……?」
「俺はウェリス帝国の第三魔導師団長サディアス・ライト。寄せ集め集団の、しがない雇われリーダーさ」
サディアス様は裏表のない笑みを浮かべている。差し出された手を反射的に握り返すと、爽やかな風が駆け抜けて草花を揺らしていった。
「私はシュゼット・フォルタンと申します。つい昨日まで、このフメル王国の王太子殿下の婚約者でした」
「ははっ、なるほどそりゃあ大物だ。通りで育ちが良さそうだと思ったよ」
快活に笑う彼の顔は、既に太陽が登りきって青く染まった海を背景に、私にはとても色鮮やかに見えた。
「あんたは海に見惚れていたと言った。俺に付いてくればもっと色んな景色が見れるけど、どうだい?」
知らない人に付いて行ってはいけないことくらい、小さな子でも知っているだろう。
どうかしていることは承知の上で、私は不思議な予感を抱いていた。
この人に付いて行けば、きっと楽しいんじゃないかって。
「行きます。付いて行きます!」
勢い込んで身を乗り出した私に、サディアス様はにやりと笑った。
「いいね。そうこなくっちゃ」
その時、遠くから蹄の音が聞こえてきた。振り返れば何等かの馬が駆けていて、新たな追手が来たことは明らかだった。
「行くぞ、シュゼット! あいつら全員倒して、あんたをウェリスに連れていく!」
「はい! よろしくお願いします、サディアス様!」
手を引かれた私は走り出す。海の音は既に聞こえず、目の前には草原が開けている。
何が起きているのか正直いまだによくわからないけれど、きっと前をゆく背中を見て走ればいい。
そう、これこそが大魔導師サディアス・ライトと、文字通り崖っぷち令嬢である私の出会いだった。
***
「バスチアン、お前は本当に愚かなことをしてくれたぞ……!」
執務机についた父上が頭を抱えて呻く。
国王としていつも毅然としていた父上の見たことのない仕草に、僕は呆気なく動揺した。
「しかし、父上。シュゼットはカロルに嫌がらせを」
「馬鹿者! フォルタン侯爵の前で何を申すか!」
僕の斜め後ろに立つのは、鎮痛な面持ちをしたフォルタン侯爵だ。あまり話したことがないにせよ、彼は冷徹で有能な外務大臣と聞いていたのに、随分とイメージと違う表情をしている。
「申し訳ない、侯爵。この事態は全て私の責任だ」
「いいえ、陛下のせいではありません。シュゼットは婚約破棄をされるという極限状態にあって、父親を頼ろうとしなかった。全ては私が娘からの信頼を得られなかったせいです」
二人の纏う空気は地の底に潜り込むように重々しい。
何故だ? 僕はあのパッとしないのに嫌がらせをすることだけは一人前の、愚かな女を追い出しただけだというのに。
「王太子殿下に嫁ぐ娘のためと思い厳しく育ててきました。シュゼットは望んでなどいなかったのに……その事実に今まで気がついていなかったのです」
「侯爵、自分を責めても仕方がない。私が愚息を躾けられなかったのがいけなかった。もっときちんと見ておくべきだったのだ。シュゼット嬢のことは私が責任を持って探し出すゆえ、どうか信じてほしい」
父上は小さく溜息をつくと、正面から僕を見つめ返してきた。本題が始まることを悟った僕は背筋を伸ばす。
「バスチアン、よく聞きなさい。カロル嬢を取り調べした結果、シュゼット嬢が行ったという嫌がらせは全て虚偽だということを自白した。お前の気を引きたかったのだそうだ」
……は?
「あのような小娘に騙されるような愚か者だったとはな。シュゼット嬢は今時珍しいほど真面目に堅実に、王太子妃となるべく努力していたというのに。きっと彼女ほど勤勉な令嬢には、今後二度と出会えまいよ」
……はあ⁉︎
なんだって。カロルが嘘をついてた? シュゼットは、何もしていなかったのか……?
「そんな、父上! 納得がいきません、カロルと話をさせて下さい!」
「黙れ! お前は処分が決まるまでの間、自室で謹慎とする。此度のことを深く反省せよ!」
父上の一喝を皮切りに、部屋の隅で控えていた近衛騎士が動き出す。僕はあっという間に両脇を抱えられてしまい、慌てて全身をばたつかせたが、鍛え上げた騎士たちに敵うものではなかった。
「父上、お待ちください! 僕は悪くない! もしそれが本当だったとして、悪いのはカロルでしょう⁉︎ 僕はっ……!」
抗議を続ける間にも部屋の外に引き摺り出されてしまう。扉が閉まる寸前、父上が呆れきったように頭を抱えたのが見えた。
***
サディアス様は宣言通り追手を全員倒し、ご丁寧に彼らの記憶まで消し去ってくれた。増援がないことを確信した私たちは、今ようやくウェリス行きの客船に乗り込んだところだ。
「はいよ。出奔記念のビアな」
出港してすぐに訪れたのは客船内の食堂の、開放感溢れるテラス席だった。
サディアス様によって差し出されたのは、しゅわしゅわと泡の弾ける黄金色の飲み物。おそらくはお酒と思われるが、今はまだ午前中の時間帯だ。
「……あの、サディアス様。朝からお酒だなんて、良いんでしょうか」
「おいおい、真面目だねえ。良いことがあったら酒を飲むのは大人の常識だろ?」
そういうものだろうか。私は十八歳で、成人してからは二年ほど経つけれど、催し以外で飲んだことは一度もない。
とはいってもこの二年良いことなんて一つも無かったから、無理もないのかもしれないけど。
「ああでも、警戒してるってんなら良いことだよ。シュゼットは若い女の子なんだから、見ず知らずの男の酒なんて本来飲まないほうがいい」
すみません、その警戒は全くしておりませんでした。
ぎくりと肩を強ばらせたら、サディアス様は苦笑気味に肩をすくめた。
「危なっかしいな。ま、大丈夫だよ。俺は善人なんでね」
「自分のことを善人と言う人には気をつけろと、本に書いてあった気がします」
「はは! そうそう、その調子だ。で、飲むのかよ、それ」
快活に笑ったサディアス様が私のジョッキを指差した。「飲まないなら俺がもらうよ」と彼は言うが、私自身が美味しそうなこのお酒に惹かれてることも確かだった。
「いいえ。ありがたく、いただきます」
私が観念したことを受けて、にっと笑ったサディアス様がジョッキを掲げ持つ。乾杯、との掛け声と同時にお互いのジョッキをぶつけた私は、意を決して謎のお酒に口をつけた。
「……う」
「あはははは! 正直で良いねえ!」
ビアの苦さに負けた私が思わず渋面を作ると、間髪入れずに爆笑するサディアス様。どうやらこの反応を予見していたらしい。
「ビアってのは味わうものじゃないんだ。つまみを食って、一息に飲む。無理はせずにな」
おつまみを食べて、一息に飲む。ううん、難しいなあ……。
「ほら、これとか定番だぞ。バーチ鳥の唐揚げだ」
「わかりました。いただきます」
初めて目にする唐揚げという料理は、こんがりとした色をしてみるからに美味しそうだった。私は初見の食べ物に対する躊躇いを捨てると、フォークで突き刺して口へと運んだ。
その瞬間、私はカッと目を見開いた。
美味しい……! なんて美味しいのかしら!
揚げたてのアツアツで、じゅわっとジューシーで、それでいてシンプルな味付けがされている。いくらでも食べてしまいそうだ。
「はい、そこでビアを飲んでみな」
「は、はい」
私は言われるままにジョッキを傾ける。味わずに一息で、ごくりと喉を鳴らして——。
「これは……!」
ああ、わかったかもしれない。
喉を通り抜ける泡の刺激と、髪を揺らす海風。天はどこまでも高く広がり、カモメが腹を見せて旋回する。
これは解放の味なのだ。一仕事終えた時、良い事があった時。きっとお酒というのは何倍も美味しくなる。
「美味いか?」
「はい。初めての味ですが、新鮮で美味しいです」
白い手摺りの向こうでは、港に向かって漁船が戻ってくるのが見える。海は青く晴れ晴れとしていて、店の活気と相まって全てが輝いている。
「そうか。なかなかいける口だな」
嬉しそうに言ったサディアス様の笑顔は、精悍でありながらも華やかだった。
銀色の髪と海の色をした瞳、更には高い身長に端整なお顔立ち。身に纏う雰囲気はどこか野生味があって、上品な貴族男性とは違った魅力を放っている。
先ほどから女性客からの熱烈な視線を浴びるサディアス様だが、本人はどこ吹く風の様子だ。
確かサディアス様はウェリス帝国の第三魔導師団の団長を務めているのだったか。そんなにも偉くて、更には見目麗しい彼が、一体どうして我が国の港町に?
「サディアス様はいかなるご用事でこちらにいらしたのですか?」
「ああ、ただの休暇。今日帰る予定だったんで、最後に散歩をしていたらシュゼットを見つけたんだ」
まさか休暇中だったとは。せっかくゆっくりしに来ていたのに、巻き込んで悪いことをしてしまった。
しかも私みたいな訳あり女を助けたことで、今後さらなる迷惑をかけることになるかもしれない。サディアス様は詳しい事情を聞いてこないけれど、本当にこれで良かったのだろうか。
「サディアス様、申し訳ありませ——」
「謝るのは無し。俺は好きであんたを助けたんだから」
苦笑気味の声に遮られて、私は下げかけていた顔を上げた。
「言っただろ、困っている女の子を捨て置けないたちだって。俺は俺の信念に基づいて行動しただけなんで、謝られても困るんだ」
サディアス様は片肘を付いてビールジョッキを傾けている。お行儀の悪い格好なのに、彼がすると一枚の絵みたいに見える。
「では、せめてお礼を。何か私にできることはありませんか」
「ありがとな。気持ちだけで十分だ」
……困った。サディアス様は笑顔で全てを躱し切る不思議な力を持っているようだ。まあ無能で無力な私なんて、彼の力になれないのも当然なのだけど。
返事に窮して口をつぐむと、少しの時間を置いてサディアス様が小さく吹き出した。
「ああ、わかったわかった。ではこんなものは如何ですか、お姫様?」
パチン、不意に指を鳴らしたサディアス様によって、テーブルの中央に小さな魔法陣が出現する。
小さくとも輝きを放つそれに目を奪われていると、想像もしないことが起こった。なんと魔法陣の中央から、白い花弁の花が一輪、音もなく出現したのだ。
サディアス様はその花を手に取ると、恭しい仕草で差し出してきた。
「さあどうぞ。報酬は貴女の笑顔で十分です」
一際強い風が吹いた。頭上ではカモメが羽ばたいて、高らかな鳴き声を奏でている。
普通の女の子なら勘違いしたであろうシュチュエーションだが、王太子妃教育によってめった打ちにされた私は自惚れたりはしなかった。
サディアス様は所謂伊達男というやつで、その立ち居振る舞い全てがスマートで格好いい。けれど何よりも私が嬉しかったのは、あえて冗談めかして笑ったであろう彼の気遣いだった。
「ふふ。本当に、楽しい人ですね」
笑ったのは何ヶ月ぶりのことだったのか。ここ数年でも一番楽しい気分になれたのは、全部が全部サディアス様のお陰なのだ。
私はそっと白い花を受け取った。男性から花を貰うだなんて、きっと後にも先にもこれきりだろう。
「わかりました。私、貴方の御恩に報いるためにも、もっと気楽に楽しく生きます。だってせっかくあの暮らしから逃げ出せたんですもの」
ね、サディアス様。
私はそう言って締めくくり、彼に笑いかけた。しかし中々返事は返ってこず、見れば目の前の端整なお顔が何故か赤くなっている。
「……びっくりした。笑うだけでこんなに可愛いとはね」
「あの、サディアス様? どうかなさいましたか?」
「いいや。喜んでもらえて何よりだ」
返事が返ってきたことに安堵した私は、もう一度ビアに口をつけた。やっぱり少し苦いけれど、これから自由に働いて飲んで食べるようになれば、きっと感じ方も変わるだろう。
旅はまだ、始まったばかりだ。
〈完〉
お読みいただきありがとうございました!
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10月9日/沢山の応援をありがとうございました!
お陰様で連載版初めました。是非是非お付き合いくださいませ…!
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