ラブラドール
無機質な白い部屋に暑苦しい顔の男がふたり、大袈裟な机に向かい合っているその光景は、新聞の社会面からは読み取れない、人生の戯画そのものであった。この部屋唯一の扉には、開くと中の様子を覗ける窓がある。おい、入ってこいよ。ギャラリーは多い方がいいのだ。
「言いたくないことは言わなくていいからね」
つまらなそうにパソコンを叩く私服の男。こちら側には画面が見えないが、どうせそこには彼が用意した「シナリオ」が入っている。
「すべてお話します。真っ白な気持ちで聴いてください」
「うん、もちろん聞くよ。これから作るのは供述調書だからね」
「聞くのではない、聴くのです」
私服の男は奇妙なものを見る目で私の喉仏のあたりを凝視した。刑事は例外なく目つきが鋭いという話が出回っているが、男の目は鋭いというよりも、単に視力の悪い阿呆のようであった。阿呆の多くは目がいいのだが、この男は例外なのだろう。
「私は、幼少の頃から、生命というものが不思議でなりませんでした」
男がキーボードを叩きはじめた。人差し指で一生懸命に啄んでいる。エンターキーを押すのにも人差し指を使っている。よく警察学校を卒業できたものだ。きょうび小学生でもエンターキーは薬指で押せる。それが最低限のリテラシーであろう。私は萎んだ気持ちを丁寧に愛撫した。一瞬の沈黙ののち、屹立。私はまた口を開く。
「死ぬと、その本人は、感情の一切を失います。悲しみ、憎しみ、喜び、怒り、感謝、愛情、苦しみ。幸福。不幸。死んでしまったときのことを考えると恐ろしくなるでしょう。その恐ろしさですら、生命あっての感覚です。言い換えるなら、生きるとは感じることなのです」
「その通りだ」
「本当に思っていますか? それはまあいいでしょう。ですが、あまり途中で合いの手を入れないでくださいね。これは私の独白なのですから」
私は苛立ちを隠さずに言った。縄のついたベストを着用して、その縄を椅子に固定されているため、殴りかかることはできない。しかし内心では、鼻っ柱を拳で叩き壊し、噴き出た鼻血を目玉に直接擦りつけ、苦痛に歪む口角を爪で切り広げた。刑事は変わり果てた。可哀想に。さすがにやりすぎたかもしれない。生きているあいだは様々な感情を抱くのだ。殺してやったほうがこいつのためだ。殺そう。椅子に固定されていなければ。
「では、感じていない人間は、生きているといえるのでしょうか。私はそれを疑問に思いました。いえ、頭の片隅にその思いがちょこんと座っていたのでしょう。普段は気にもかけないその子が、ふとした拍子に前に出てくることがあります。私が吉田由香里さんを殺してしまったのは、ちょうどそんなときでした。
由香里は、最初は優しい女性でした。私に優しくしてくれるだけで貴重な存在です。そのくらい自覚しています。道を歩いているだけで石を投げられ、電車に乗るだけで蹴り飛ばされるような私です。いえ、誇張ですよ。そんな鬱陶しい顔をしないでください。
由香里の優しさがまやかしであることに気づいたのは、蝉の大合唱が頭蓋をつんざく、暑い盛りのことでした。由香里は、いえ、あのどグサレ肉便器は、あろうことか私の当時のルームメイトにも股を開いていたのです。ルームメイトの名前は田中靖といいます。靖国神社の靖です。私が殺してその靖国神社に祀っておきました。あとで黙祷しに行ってあげてください。
由香里は、そういうことを平気でする女だったのです。私は先ほども言いましたように、人間のレゾンデートルは感情を抱くことだと思っています。その観点でいうと、彼女は欠落していると言わざるを得ません。感情がないからあのような非道をするのです。そう思ったとたん、私の手は彼女の腹を突き破り、腹の中をすべて掻き出し、私の歯は顔や首を食いちぎっていました。しぼんでゆく身体を眺めていると、不思議に心が落ち着きました。小さい頃に、あの、プチプチっていうんですか、あれを潰していたときの快感がありました。こうして由香里は死にました。
いえ、もともと死んでいる者の、形状を変えたに過ぎません。これのどこがいけないのでしょう? 罪とは、人間の権益を脅かす行為のことであり、罰とは、実際に権益を脅かした人間に与えられるべきです。そうでしょう?」
「俺は裁判官じゃないからな」
「そんなことはわかっていますよ。あなた、国語1だったでしょう。いや、あなたの年代なら丙か。甲乙丙の丙。体型が丙っていう漢字に似ていますよ。ミスター丙。丙。丙。丙!」
窓から色黒の男の顔が覗いた。丙と同じ目をしている。もしかしたらこの「阿呆の眼」は、警察学校で備えつけてくれるのだろうか。そう考えると警察学校とは工場みたいなものだ。
工場といえば、子どもの頃に住んでいた部落の薬品工場を思い出す。石鹸のような香りがいつなんどきも漂ってきて、それがひとつの生命のようであった。身体を洗うのは人間だけだ。身体を洗うのは、不潔を忌み嫌う感情があるからだ。
部落では曖昧な日本語を学んだ。ラ行がダ行に聞こえるのが特徴だ。ダーメン。ディコーダー。ドゥー大柴。デモン。ドーソン。ドーソンのカダアゲクンに、デモンをかけて食うとうまい。
部落の大人たちはみな得体の知れない反骨心と、偽物じみた諦念をもっていた。私はそれが嫌いであった。憎んですらいた。差別をされた者が、その差別によって醜くなっていく様子は、とても見られたものじゃなかった。とはいえ、そんなことを一瞬でも口にすれば首を出刃包丁で貫かれるので、私はいつも黙っていた。どうしても喋りたくなったときは口を縫った。針を唇に刺すと、激痛とともに異様な幸福感が襲ってきた。私はここに至って、ようやく自我の輪郭を見た。
工場の外の壁には無数のパイプがまとわりつき、体内の筋肉を這い回る血管を思わせる。私はその外壁を、よじ登りながら探索した。この旅が終わる頃には、一回り成長しているものだと信じて。
「私は、どのくらいの罪に問われるのですか」
「だから、俺は――」
「裁判官じゃないのはわかっています。わかった上で尋ねているのです。あなたは私に、言いたくないことは言わなくていいと、そう宣告しました。黙秘は私に認められた権利です。刑事さん、あなたには黙秘が認められていません」
「そうだな、まあ、こういうケースは不起訴で終わることも多いとは思うよ」
「刑事さん! 適当な発言をしないでください!」
私は怒りで髪の毛が逆巻いた。こんな刑事とはまともな話ができない。
「チェンジでお願いします。おい、そこの色黒! おまえこっちに座れ、このおっさんじゃ話が進まない。国語が丙なんだぞ、丙」
私は扉の向こうに声をかけた。色黒がちらちらとこちらを窺っている。中に入ろうか迷っている表情だ。こいつは一人では何も決められないのか。ユニクロに母親と一緒に来るタイプだ。ネイビーのチノパンくらい一人で買え、阿呆が。
「あの人は、警部なんだ。お手を煩わせては――」
「丙は黙っていなさい、口臭で部屋が澱む」
「しかし――」
ダッシュの多い奴だ。私は辛抱ならなくなって机を蹴り飛ばした。甲高い音が響き渡る。その音に反応して扉が開け放たれた。そこから色黒警部が、焦げたポップコーンのように飛び込んできた。
「神妙にしなさい! 罪を重ねることになるぞ」
色黒は、顔に似合わないソプラノだった。
「罪などいくら重ねたっていい、罪を重ねずに生き延びられると思うな、この若造が」
少し低い声で言うと、色黒は使い終わった炭のごとく意気消沈した。それを見た丙が鼻水を出しながら哄笑する。つられて私も嗤った。なぜか色黒も肩を震わせた。
笑い疲れたあとの気だるさが三人を包んだ。取調室には、相変わらず無機質な空気が層になって沈殿していたが、そこに少しだけ色を塗るような気だるさであった。私は一切がどうでもよくなった。
「由香里の弔いをしたいのですが。燃やされてゆくところを見て、安らかに眠れるように祈りたいのです」
殊勝な顔でそう言った。刑務所にぶちこまれることに異論はないが、葬儀にも立ち会えないのは収まりが悪い。死後の世界など少しも信じていないが、死者の怨恨への恐怖は、理屈ではないのだ。
「田中靖さんが燃やされるかどうかは、まだわからないと思いますよ」
深刻そうな表情の丙が、いつの間にか覚えた敬語で言った。
「ラテックスゴムは、燃やすと有害な煙が出ますからね」
色黒も沈痛な面持ちで呟いた。今日出会ったばかりの二人にこうして想ってもらえるなら、由香里も悪い気はしないだろう。
死後の世界が存在するとしたら、それは、これからも生きてゆく人間の記憶の中にあるのだ。
私はいずれ由香里のことを思い出さない日を経験するだろう。時間は残酷だ。いとも簡単に記憶を薄めていく。しかし、そうして生きていかなければならない。生きているだけで我々は、悲しみ、憎しみ、喜び、怒り、感謝し、愛情をもって、苦しむのだ。幸福も不幸も蓄積され、いずれは忘却の彼方へと消える。
ならば、私は抗おう。あの胸の感触を忘れないために。あの尻の柔らかさを。櫛で梳かした人工的な髪を。自由に色を変えられる目を。決して開くことのない口を。
かつてないほどに屹立した私のペニスは、爆発せんばかりに天を摩して、ネイビーのチノパンを押し上げていた。