生贄の人魚
逃げた。逃げて逃げて、逃げ続けた。遠くから声がする。体力は限界。僕はその場に倒れ込んだ。
「おい、いたぞっ! 捕まえろ!」
背後から声が聞こえる。売られてしまう、その恐怖が僕を支配した。
でも、その感情は妙に心地よかった。視点が合わなくなる。
そして、ゆっくり、ゆっくり、意識が落ちていった。次の主人が良い人であることを祈りながら。
意識が戻ってきたのは、クラッシック調のメロディーが聞こえてきた時だった。
微かに香るコーヒーの匂い。身体を包むようなふかふかな毛布。
長い間ロクな生活をしていなかったせいか、天国にでもいるんじゃないかと勘違いしてしまう程の
安心感が僕を包み込んだ。
キィィィ、と音が聞こえた。慌てて振り向くと、扉が開いていて、今までで一度も見たことがないくらい
綺麗な人がそこに立っていた。
「目覚めたようだね。気分はどうだい、少年」
少しハスキーだけど透明感のある声で、その人は訪ねてきた。
天使、いや女神のようなその姿に思わず見惚れる。
「ついておいで。晩御飯が出来たところさ。一緒に食べようじゃぁないか」
そう言ってその人は部屋から出ていった。僕はその人を追いかけるようにして、部屋を飛び出した。
下半身には、あるはずのない脚がついている。普通に歩ける、という現状に口角が上がった。
目の前にある木製の扉。僅かな希望を胸に僕はドアノブを捻った。