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常盤城の炎


 欣怡、私の旅は始まったばかりだというのに、いまは挫折感でいっぱいだ。できることなら君の姿を一目だけでも拝みたいと思う。楼蘭の人々は、異様なほど現実的なものの見方をし、我々を見る目はすこぶる冷ややかだった。彼らはまるで世の中に理想というものは存在しないかのように振る舞い、自分たちの未来についてわずかな幻想も抱いていない。それは厳しい砂漠の環境によるものか、それとも漢と匈奴に挟まれた地理的状況によるものか……おそらくその双方なのだろう。

 兵たちはつねに飢餓の危機を意識し、実際にその危機に瀕している。もし体力を失って倒れる者があれば、我々はそれを置き去りにして先を急ぐしかない。その軍のありようを快く思わない兵たちの中には、逃亡する者もいる。砂漠の中を逃亡しても死が待っているだけだというのに……私には彼らを統御する術がない。

 やはり、君のいうとおり敦煌にとどまっていればよかったのかもしれない。


 李広利は夜間に露営している中、松明の明かりの下でそのような文をしたためていた。しかし、こんなものを書いても相手に届けることもできなければ、仮にできたとしても伝えるべき内容のものではない。結局彼は松明の火で文を燃やしてしまった。

「何をなさっておいでですか」

 私は李広利に声をかけたが、彼の様子は神妙なものであった。

「いや、現在の自分の心境を欣怡を相手と仮想して吐露してみたのだが……とても人に見せられるような内容ではなかったものだから、燃やしてしまったのだ」

「ほう、欣怡……。敦煌の太守尹慈の娘でしたな。あの娘のことを将軍はお気に召したのですか」

 李広利の神妙さは、私の軽口な質問に対して、少しも損なわれることがなかった。むしろ彼は真剣にこのことを考えたようで、彼自身の気持ちが未だ整理されていないことを自覚したような述懐を始めた。

「よくわからない。ただ兄や妹などより、いまではあの娘に会いたいという思いがあるのは確かなのだ。それが王恢どのが言うような……お気に召したとか、愛したとかという表現が適当なのかどうかはわからぬ。とにかくあの娘と会って屈託のない話がしたいと思うのだが……、これは私自身の逃避なのだろうか」

 誰しも過酷な現実から目を背けるために、大なり小なり気を紛らわせる方法があるはずで、李広利の行動もそれと何ら変わりはない。しかし彼はそれを自らの逃避だと表現したのであった。

「何ら問題ないと思いますが、将軍ご自身が逃避かもしれないと意識する心は大事だと思われます。その意識がないと逃避したこと自体がわからなくなり、現実と夢想の区別がつかなくなります。お気をつけくださいますように」

「心がけよう。ところで、伊循城では具体的にどれほどの軍糧が手に入ったのか、把握しているだろうか」

 私は、これに対する返答をどういう表情で彼に伝えるか迷った。というのも、伊循で得られた軍糧は、敦煌で供給された量とさほど変わらず、備蓄は一人あたり一ヶ月分となっただけであったからだ。

「状況はあまり変わらず、兵たちには節制を強いる必要があります。潤沢な量とは言えません」

 李広利は、苦笑したようであった。そして言うことには、

「恥を忍んで伊循城主にお願いして手に入れた食料が、わずか半月分とはな。漢の誇りも地に墜ちたものだ。しかし愚痴を言っても始まらない。一ヶ月分の食料があるということは、次の攻城戦を一ヶ月先に延ばせるということだ。食料があるうちに先を急がねばならないな」

 つまり彼は無駄な戦いを避け、迷わず先に進もうと言っているのである。

「士気が低下する恐れがありませんか。私は、勝てる戦いであれば、たとえ小さな戦いでもする価値があると思います」

 常に主戦意識の高い李哆は、戦のない軍隊は弛緩するだけだという持論を持っている。どんなに小さな勝利でも、それを得ると得ないとでは士気に格段の差が生じる、というのだ。

「しかし、小さな勝利に驕るという可能性もある。姑師国の小城主が我々の行く手を軍事的に阻むというのであれば話は別だが、籠城しているのであれば見過ごして通過すべきだ」

 姑師国の先には、尉犂国、焉耆国、危須国などが存在し、その先には渠犂国、亀茲国がある。特に尉犂国、焉耆国、危須国の間の土地には匈奴の僮僕都尉が未だ置かれているのだ。

「でしたら、その僮僕都尉とやらを討てば……」

「いまの我々の相手は匈奴ではない。この段階で都尉を討っても我々が消耗するだけで。一利も得られぬ。我々は匈奴から恨まれ、攻撃されるだろう。その一方で都尉は討たれても補充されるだけなのだ」

 李哆の楽観的な意見を李広利はそのように一蹴した。しかし李哆はまだ納得しない様子である。

「姑師国の連中が籠城しながらも我々を挑発してきたら……それでも攻めないのですか」

「どうせ彼らの言葉はわからぬ。相手にするな」

「しかし戦果こそが重要ではないですか。我々が一戦もせず、途中の小城を無視して先に進んだとあれば、結局西域諸国は漢に靡かないでしょう。靡かなければ、彼らはいつまでも籠城し、我々に城門を開放することをしません」

 我々に必要なものは一勝することであって、百戦することではない。その大きな一勝を李広利は大宛との戦いに賭けているのだが、李哆はより早い段階でこれを求めているのだった。

「節制する毎日が嫌になったか。そこまで言うのであれば、姑師国のなかの一城を試しに攻めてみてもよかろう。もちろん手抜きはせず、本気で陥落させるつもりで行う」

 李広利は何を思ったか、前言を翻した。李哆は喜んで立ち去ったが、私は心配でならなかった。

「いったいどうして方針を転換したのです」

 李広利は仕方がない、とでも言いたそうな仕草を見せて答えた。

「李哆をはじめとする将兵と私との間に、一つ共通する意識を持っておきたいと思ったまでさ」

「では、戦えば勝てるという自信を兵につけさせようと……? 決して戦いが恐ろしくて攻城戦を避けて通っているわけではないという将軍の意識を兵たちに根付かせようということですか」

 李広利は首を振り、否定の意思を示した。

「そう運べば最良だが、おそらく現在の我が軍では姑師国の小城さえも抜けまい。ひと月分の食料しか持たない我々は長期間の攻城戦に耐えられない。いっぽう相手は、その短期間の攻撃さえしのげれば我々が立ち去ってくれることを知っているだろうから……籠城の度合いが堅くなることは必至だ」

 つまり李広利は、あえて勝てない戦いに臨むというのである。勝ち気に逸る将兵たちに現実を見つめさせ、自分たちの実力を知らしめる……それこそが彼の言う「共通する意識を持つ」ということなのだ。

「李哆にも言ったが、我々に必要なことは百戦して百勝することではなく、大宛との一戦に勝利することだ。そのためには無駄を省かねばならぬ。本当に我々に必要な戦いは、ひと月後……烏塁国や亀茲国の輪台城、このあたりで一戦交えるべきなのだが……これも兵たちと意識を共有するためには有益なのかもしれない、と思ったのだ」

 こうして我々は、姑師国でも攻城戦に臨むことになった。



「塩沢から北上して姑師国に入るには、避けて通れない難所があります。おそらく、体力に劣る兵の数名は、ここで脱落するでしょう。しかし行かねばなりません」

 私は、あえてそれ以上このことについて言及せず、行軍を急がせた。あらかじめ詳細を知ってしまうと、覚悟のない兵の多くは逃亡してしまうだろうからだ。非情なようだが、ここは口を噤まねばならない。


 我々は来た道を引き返し、塩沢の東岸までたどり着いたところで進路を北に転じた。ほどなく目に映る砂漠の色が変化し、それまでの黄褐色が次第に白濁し、ついには白一色の風景が一面に広がった。

 遠目に見ると、それは砂漠に雪が積もったかのような景色であったが、実際に足を踏み入れてみると地面は象牙色で、見た目と同様非常に固い。歩きにくい砂地を行くより行軍の困難度は低減されそうであった。

 しかし、白く固い地面が日光を反射することによって発する熱は相当なものである。風が強いが、それも熱を冷ます効果はなく、熱された空気をただ運ぶだけのものであった。

「これが、白龍堆(はくりゅうたい)です」

 風による侵食で表面を削られた大地は、奇岩の連続という様相を呈している。石灰が主成分の白い岩石が、ちょうど馬の背中のような形に削られ、それが無数にごろごろと大地に散乱している印象だ。それを乗り越えたり、あるいはその間を縫って通ることを余儀なくされた我が軍の疲労の度は、限界を超えた。

「ただただ人を苦しめ、一本の草も生えなければ、一滴の水も湧かない不毛なことこの上ない土地だ。こんな場所が、なんのためにあるのか」

 李広利もさすがに音を上げた。その声も奇岩の間を吹き抜ける熱風の轟音によってかき消されつつある。

「楼蘭国の一部には、この石灰岩を建築材として利用している地域もあるとか。そう考えれば、全く無益な場所とは言えますまい。砂漠の外縁に都市が造成されたように、人は貪欲に何でも活用するものです」

「王恢どのの言うことはもっともだが、いま現在の我々が置かれた状況の改善のためには何の説得力もない。慰めにもなっていないぞ」

 降り注ぐ日光と白い地面からの照り返しによって、誰もが思考を乱され、意識が朦朧としている。砂地を行くより結局困難な行軍であったが、この地帯を通らなければ、軍は大きく遠回りをすることになる。旅程を短縮させるには致し方ない判断であった。

「白龍とは、よく言ったものだ。……この奇岩の一つ一つが、夜には人を襲うような気がしてならない。しかし夕暮れを待てば、少しは気温も下がるだろう。それまで休息を取ることを命じる。各自安全な場所を確保したうえで休憩せよ。食事も取らせよう」

 時刻は正午を回ったばかりで、まだ一層暑気は厳しくなる。しかし休んでばかりいては旅程は苦しくなるばかりであり、無駄に時を費やせば、それだけ軍糧は減る一方であった。

 馬にも飼料を与えなければならない。それと休息もだ。我々は奇岩によって生じる影にわずかな涼を取ろうとした。しかしそこも熱風が吹き付け、疲労はいっこうに癒えることがなかった。

「苦しい行軍が続くな……。出発早々に蝗に襲われて食糧を失い、その補給に一苦労して……砂漠に足を取られながら進み、そのうえ今度は白龍堆だ。大宛にたどり着くまでに、あとどれほどの試練が待っているのか」

 李広利はこれまでの行程を顧みて、やや愚痴っぽく呟いた。私にもその気持ちは充分わかる。

「博望侯張騫はこれに倍する試練を経験しました。彼のように十年も匈奴に抑留されないだけましだと考えるべきです」

 私は励ましたつもりだったが、彼は苦笑いを浮かべた。

「確かにそうかもしれぬが、私は張騫のように探検に行くのではない。戦争をしに行くのだ。彼は大宛にたどり着けばそれでよかったかもしれないが、私はたどり着いた上で戦争に勝たねばならない。その前の段階でこれほど軍が消耗してしまっては、先が思いやられるというものだ」

「しかし、今回ばかりは兵が逃亡することはないでしょう。この白龍堆の中での単独行動は無理ですので、統率力を強化するよい機会です。休息を終えたら一気に通過することをおすすめします。私の経験上、あと半日もあれば出口に到達します」

 李広利は休息を終えた兵たちに号令を発し、進発を命じた。あと半日の辛抱だ、と疲れた兵を激励し、時には自ら輜重車を押した。

 降り注ぐ日の光と照り返す熱はさらに強まり、体力を失い、倒れ込む兵が数名生じた。介抱しながら進めば、軍は体力と時間を損失する。李広利は、判断を下さなければならなかった。

「やむを得ぬ。倒れた者は置いていく。体力が戻り次第伊循城に赴き、保護を要請するがよい」

 やがて日は傾きはじめ、白い岩肌が夕日に照らされ黄金色に輝き始めた。この頃になるとようやく一行にも風景を楽しむ余裕が生まれ始めた。熱が弱まり始めたのである。そして軍は白龍堆を脱出し、小高い丘からそれを見下ろす位置に到達した。

「地獄のようなところであったが、こうしてみると絶景だな。石灰質の岩が日の光を反射し、金色に輝いている……。人を寄せ付けない土地だからこそ、かえって魅惑的に映るのかもしれぬ」

 物好きな探検家であれば、好んでこのような地を訪れようとするであろう。しかし我々にとって白龍堆とは、李広利が言うように地獄のような地であった。苦心してこの地を通過した我々は、旅程を二日分ほど短縮できた一方で、約五十名ほどの脱落者を生み出したのである。

 白龍堆を抜けた我々の次なる目的地は、常盤城(じょうばんじょう)である。



 常盤城は孔雀河(くじゃくがわ)の北岸にあり、孔雀河は羅布泊(塩沢)(ロプノール)に注いでいる。白龍堆を抜けた我々にとっても、この川は命の源のように思われる存在であった。

 しかし城そのものは、ほんの小城である。城内にはそれなりの街があり、人々は不自由なく暮らしているらしいが、人口自体は五千に満たない程度であった。

「多くの者を養えない土地らしいが……」

 李広利はその小さな城を手前にし、その情勢を分析しようと試みた。傍らにいた私は、知っている限りの情報を彼に与えた。

「常盤城は姑師国に属しておりますが、その北は山々に遮られておりまして、他の城との交流があまり盛んではありません。山の向こうには吐魯番(トルファン)と呼ばれる姑師国の中心地域がありますが、彼らは吐魯番よりも西の尉梨国や危須国、あるいは焉耆国との交流を盛んにしているようです。山に面しているため農地が確保できず、穀物をこれらの国々からの供給に依存しています」

「ということは、食糧の備蓄は少なそうだ。それでも攻める価値があるかどうかだが……李哆、どう思うか。やはり攻めるか?」

 問われた李哆は即座に答えた。

「兵たちの士気向上のために、陥落させるべきです。ここを落城させれば、つながりがあるという尉梨国や危須国の攻略にも役に立ちましょう」

 確かに李哆の言うとおりではあるが、いずれにしても落城させることができたら、の話である。李広利としては常盤城の戦略的意義よりも、攻城戦における具体的な作戦を聞きたいところであった。私は以前にこの地を訪れたことがあるので、彼の意をくんだ意見を述べた。

「常盤城の住民五千名のうち、兵は千名だと言われています。城の形態は外城と内城の二重になっており、内城は完全な円形です」

「うむ。外城はどうなっている」

「外城は城壁が前面に張り巡らされておりますが、後方は山の斜面をその代わりとしています。壁はありません。しかし、軍を城の後方に回し、山から攻め降りる戦法はあまりお勧めできません」

「なぜだ」

「敵に対してあまりにも姿を露出してしまう形になるからです。攻め降りる最中に下から格好の弓の餌食となってしまいます」

「狙い撃ちされやすいということか。……さて、李哆はどう攻める」

 李哆は遙か前方にある常盤城を指さしながら、力強く言い放った。

「たかが千名の兵が守るだけの小城です。正面から突破あるのみ!」

 李広利はその意見を取り入れ、正面から進軍を始めた。しかし、彼は密かに二割の兵を分けて北上させ、城の後背を襲う態勢を取らせた。正面から攻撃をかけ、敵がそれを防御している間に山から攻め落とそうという作戦である。狙い撃ちはされやすいが、それも敵兵を二分すれば突破できるという判断であった。



 かくて我々は正面から進軍し、そのうえで降伏を勧告したが、返答は弓矢の応射であった。先の伊循城のときとは違い、常盤城ではかなり積極的な反応があったことになる。李広利は全軍に前進を命じ、弓兵に援護を命じつつ、攻城兵を展開させた。

 城壁は日干し煉瓦を積み重ねた構造で、高さは低いところでも十尺程度はある。それをよじ登って内部へ侵入しようとするのだが、李広利の軍のように遙か遠方までの距離の遠征を義務づけられた軍にとって、攻城兵器を持参することは不可能に近かった。

 城壁に立てかける梯子や、城門を突き破るための丸太を抱えながら、砂漠の中を行軍することは困難である。かといって現地で調達するにも、砂漠の中には樹木が育たないので、それも不可能であった。

 そこで兵たちは剣や槍を城壁に突き立てて、それを手がかりにしてよじ登るのである。弓兵がそれを援護してはいるものの、城の守備兵たちは効果的にそれを撃退しつつあった。

「城壁の上から、火の粉が降り注いでいます……枯れ草を燃やしたものを城壁を登る兵めがけて投げつけてきているようです。原始的な戦法ではありますが……」

「弓兵に城壁の上の守備兵を狙い撃ちさせろ」

 しかし狙われていると悟った城壁の守備兵たちは、手に持っていた枯れ草をばらまき、それに火をつけ始めた。火は次々と延焼し、城壁の上部は一様に火炎に包まれたのである。

「あの火の勢いでは城壁を登り切ったとしても、乗り越えることは不可能だ」

 李広利は正面を突破することは難しいと判断し、山側に回った兵たちに合図を出すよう指示した。一本の火矢が天高く放たれたのが合図である。

 兵たちが騎馬で山の斜面を一気に攻め下ろす姿が見えた。山陰に潜んでいた彼らが突如その姿を現し、逆さ落としに城を襲う姿は壮観であり、その勢いから作戦は成功するかのように思われた。

 しかし……目に飛び込んできたのは、一斉に騎馬隊が転倒する光景であった。ものの見事に、一頭も残さず……あっという間の出来事に私も李広利も愕然とした。


「……何が起きたのだ」

 李広利はそう呟いたが、私にも正確なところはわからなかった。ただ、山の斜面に馬が転倒するような仕掛けが施されていたことだけはわかる。目に見えぬよう、大きな網でも広げてあったのか……。

 いずれにせよ、すでに形勢は甚だ不利であった。山の斜面で転倒した兵たちは、城からの攻撃を受けて次々と城内に引きずり込まれている。かくて、彼らは虜囚の辱めを受けることが避けられない事態となった。


「城の後背に回した兵数は、全軍の二割に及びます。少し早い判断かもしれませぬが、ここは撤退した方がよいかと思われます」

「うむ。まさしくその通りだ。王恢どの、李哆を呼び戻してここに連れてきてくれ。私自ら撤退を指示したい」

「承知いたしました」

 私は攻城の指揮を執る最中の李哆を呼び止め、李広利のもとへ連れ出した。



「王恢どの、私は罰せられるのだろうか」

 李哆は不安げな表情を私に見せた。常に強気な発言をする彼としては珍しいことである。

「そのようなこともあるかもしれないが、受け入れるしかなかろう。現状では戦線を維持することすら難しい」

 山側から回り込んだ部隊は全滅の憂き目に遭い、正面からの攻撃も撃退されつつある。それがすべて李哆の好戦的な言動からもたらされた結果であることは、彼自身にも自覚があるようであった。

「こんな小城一つ落とせないとは……情けない」

 悔しさに李哆は唇をかんだ。私は彼の肩を叩き、励ますしかなかった。


 やがて李広利の前に立った李哆は、弁明を始めた。

「城壁をよじ登って攻撃しようとしましたが、敵は効果的な防御法を持っており、まったく攻略の糸口さえつかめぬまま、無駄に戦力を失い続けました。すべて私の不徳のいたすところです」

 それを受けた李広利は、彼を励ますような口ぶりで答えた。

「敵は籠城に慣れているようだ。おそらく、これまでの歴史の中で数多く匈奴に城を襲われた経験があるのだろう。山の斜面に罠のような仕掛けまでしてあるとは、私も予測していなかった。しかし考えてみれば、このような小城が今日まで存続してきた理由というものが、必ずあるものなのだ。……この上は潔く退却しようと思うが、異存はなかろうな」

「軍全体の士気の向上のため、と思ったのですが、結果的に何も得ることがありませんでした。むしろ兵を失い、旅程も無駄にしました。どうか私を罰してください」

 李哆は地に頭をつけ、許しを請うた。しかし李広利はそれに取り合わない。

「その話はあとにせよ。いまはまず早く兵をまとめ上げ、撤退することに尽力するのだ」

 李哆は飛び起きるようにして前線へ戻っていった。


「徒労に終わったか……しかし王恢どの」

 戦いに敗れた形となった李広利は、その事実を自嘲的に受け入れていたかのようであった。彼はあらかじめこの結果を予測していたのだ。

「李哆のような若い、血気盛んな者に対しては、今回はよい薬になったのではないかと思う。もちろん、私も戦う以上は勝つつもりでいた。しかし万全を期して後背を襲った兵が全滅したとあっては、なすすべもない。この作戦自体は私自身が考えたものであるので、李哆ばかりが責められるべきではないだろう」

「彼を不問に付す、ということですか」

「もとより処罰しようとは思っていない。私は、このたびの戦いで勝てば自信になるし、負ければよい薬になると思っていた。曲がりなりにも望んだ結果は出たわけだから、彼をどうこうしようとは思っていない」

「ですが、常盤城が漢を撃退した、という事実が西域の諸城に伝われば、今後どの城も開門しますまい。我々が訪れる先々で城門は固く閉ざされ、食糧は手に入りづらくなりましょう。今後どうなさるおつもりですか」

 李広利は考え込んだ。今回の件は李哆にはよい薬にはなったかもしれないが、軍は威厳を失ったのである。

「この私が霍去病や趙破奴であったなら、この状況を打破できただろうに。ここが最終の目的地であれば総力を挙げて攻撃することもできるが、大宛まで行かねばならないとなると、それもできぬ。もはや、我々の運命を知るものは天のみといったところだろう」

 この李広利の一言が、このたびの作戦の困難さを如実に示していた。かつての英雄たちは多大な戦果を漢にもたらしたが、李広利ほどの遠大な距離を走破したことはなかった。

 しかも李広利が率いていた兵は、食わせるのに苦労するほどの大軍ではあったが、大宛に至る途中に存在する小国のすべてがひれ伏すほどのものではなかった。さらに言うと、我々は完全に独立した部隊であり、漢本国との連携は絶たれている。いったいこれでどうせよというのか。


 兵をまとめた李広利は火炎に照らされる常盤城をあとにした。兵の二割から三割を失い、その姿はすごすごと逃げ出す負け犬のようであった。


 常盤城の住民たちは、きっと笑い転げていることだろう。



 その後、我々は姑師国を通過し、尉犁国、危須国をも通過した。それまでの行程で二十日を要し、食糧の補給を検討しなければならない時期となった。

「常盤城で三割近くの兵を失ったことは痛手ですが、災いが転じて食糧の備蓄に思いのほか余裕ができました。残りの兵数を考えると、あと一月分は持ちそうです」

 軍正の趙始成が報告した。いかにも彼が喜んで寄越しそうな報告である。李広利は、その報告に嫌みが含まれていることを敏感に察知した。

「何が言いたいのだ。まさか、さらに兵を減らすべきだと言うのではなかろうな」

「いえ、実は食糧の余裕があるうちに、我が軍は方針を転換する努力をするべきだと申し上げたかったのです。つまり、軍威をちらつかせて諸国に恐怖心を抱かせることが不可能になった以上、好感を持って迎えられる以外にないと思ったまでです」

 小国は大国に恐怖すれば、それにすり寄ろうとする行動を取るが、取るに足りない相手だと思えば対抗しようとする。漢は常盤城の攻略戦に失敗したことで、西域諸国を恐怖で支配することが極めて難しくなった。趙始成は、この状況を打破するためには、好かれるような相手を選んで行動を起こすべきだと言っているのである。しかし李広利にはそれがどのような行動なのか、具体的にはわからなかった。

「軍正は簡単に申すが……いったい何をすれば我々が受け入れられるというのか。匈奴を完全にやっつけて、滅亡させるか? それとも砂漠の緑化でもするか? いずれにしても我々にできることではない」

「私にも現時点ではわかりかねます。ですから、食糧の備蓄に余裕があるうちにそのことを考えてみた方がよい、と提言させてもらっているのです」

 そういうことであれば、常盤城の内部をじっくり観察する時間が欲しかった。彼らが何を信じ、何を求めて生きているのか……それを確かめることなく攻め落とそうとしたことは、実に性急な判断だったと思う。しかし内部を調査したからといって、彼らが何を求めているかなどという抽象的な問題に対する回答は得られなかったかもしれないのだ。

「姑師国は匈奴の影響力が強い地域でありましたが、住民たちはその事実をどの程度受け入れていたのでしょうか」

「そのようなことは、もはや確かめる術もない。しかし答えはわかっている。住民というものは、だいたいにおいて変化を嫌うものだ。伊循城においても、訳長は漢より匈奴を選んだではないか。風習や生活様式が匈奴の方が近いから、と言ってな」

「つまり……?」

「匈奴の側に理由がない限り、姑師国の住民はその支配体制を覆そうと思わないだろう」

 李広利は、当初から西域に漢の支配力を浸透させるためには、大宛に打ち勝つことが最短の道だと考え、それを実行しようとしてきた。その軍威のみが西域全体を従わせる結果となると考え、それ以前の行動は極力慎もうと細心の注意を払っていた。

 しかしそれを妨げたのは李哆の言動であり、趙始成の行動であった。士気の向上を建前に勝ち気に逸って主戦論を戦わす李哆と、軍規の粛正を理由に、戦う前から兵の離心を引き起こした趙始成。彼らを前にした李広利は無理をして常勝将軍のような振る舞いを見せなければならなかった。その意識が強い李広利は、このたびの趙始成の意見に賛同するところはあったものの、反発したくなったのであろう。ことさら否定的な発言が続くのも致し方ないところであった。

「姑師国をはじめとする西域諸国の住民たちに漢が受け入れられるような結果を出さないと、この先状況は厳しくなる一方でしょう。つきましては、私に考えがございます」

 趙始成は、やや気遣いを見せた口ぶりで李広利に提案した。

 かつて彼の提言が受け入れられなかったことは、お互いの記憶に新しい。李広利にとっては単なる苦い記憶に過ぎないかもしれないが、趙始成にとっては名誉回復がかかっている。ここで有意義な提言をできるかどうかは、彼にとって重大な局面であった。

「これまで大砂漠の北の縁、天山の南麓をたどって行軍してきましたが、この先危須国を抜けると焉耆国や渠犁国、烏塁国、亀茲国、胡墨国、温宿国、尉頭国……さらには莎車国、疏勒国と抜けなければなりません。現状を考えれば、これはかなり難しいことだと存じます」

「だが……軍正の言うところによれば、我々が彼らの喜ぶことを為せばなんとかなるのであろう。前置きはよいから早く結論を述べて欲しい」

 趙始成としては出鼻をくじかれる形となったが、彼の言いたいことには順番がある。今回は、丁寧に李広利に説明するつもりのようであった。

「西域諸国の悩みの種は……この地に漢と匈奴が並び立っていることです。二つの大国の勢力争いによって、小国が割を食っているというのが正直なところでしょう。彼らにしてみれば、我々漢の軍隊が現れても、匈奴の手前では歓迎もできません。しかし軍事力には差がありますから、表だって対抗もしにくい。せいぜい籠城するのが関の山で、野戦に持ち込むことはないでしょう。つまり、我々の存在自体が彼らにとって迷惑なものになっていて、非常に扱いにくいのです。我々は砂漠から退去すべきでしょう」

「砂漠から退去……? 撤退して敦煌に戻るのか」

「いえ、そうではありません。ここから天山を越えて北の草原へ足を踏み入れるのです。目指すべきは烏孫国です。かの国と我が漢は姻戚の間柄であり、外交関係も良好な状態にあります。よって我々の行軍を彼らが止めることはないでしょう。また、支配領域も広大です。砂漠のように小国が乱立しているわけではないので、城の攻略にいちいち頭を悩ます必要もなくなりましょう」

「ふむ……。大宛にたどり着くまでには遠回りとなるが、確かに烏孫の領域を通過した方が行軍は安全だろう。ここは軍正の案を採用し、我々は天山を越えることとする。王恢どのには道程の確認をお願いしよう」


 かくして我々は、眼前に広がる天山山脈を踏破することとなった。


 姑師国は前章の楼蘭国がのちに鄯善国に編入されたように、のちに分割されて車師前国・車師後国・山国その他に行政区分を新たにされている。本文中の常盤城はその中の山国にあり、1995年に長身男性のミイラが発見されたことで有名である。円形状の城が特徴で、のちの時代には東西交流の中心地であったと見られている。

 なお本文中の行軍における難所である白龍堆はアルカリ性石灰質の風食地で、面積は約2600平方キロに及ぶ。年間降水量は10〜30ミリほどに過ぎず、現在でも歩行での踏破は難しいとされる難所である。 

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