彷徨える湖のほとりで
一
欣怡の話に興味を持った李広利であったが、その内容は彼を落胆させた。
「将軍さまたちを襲った蝗の群れ……あの群れは中原で発生したもので、内地ではすでに飢饉の兆候が見え始めているとのことです。敦煌での食糧の備蓄は主に軍事屯田によるものなのですが、実を言うと……それだけではこの地に住む人たちにも充分に行き渡るかどうか、という量なのです。そのわけは……税が軽いからです。駐屯軍の方々は生産された穀物を一生懸命備蓄に回してくれますが、それ以外の一般の住民にはその義務がありません。これまではその不足分を内地から補充してもらっていたのですが、どうも今年はそれが叶わないようなのです」
「つまり……?」
「将軍さまの輜重に回せる食糧は……ごく少量か、もしかしたら全くないかもしれません」
「……そうか。あなたや太守に責任があるわけではないから、気になさらぬように……」
李広利はそう伝えたが、その姿や口調は欣怡の目に力なく映った。
「どうなさるおつもりなのです」
「足りない分は現地で調達するしかない。だがこればかりは、うまく物事が運ぶことを期待するしかないだろう。しかしたかが蝗がこれほど人の運命を左右するとは。内地では相当の被害が出た、ということですか」
欣怡は頷き、李広利の表情を伺った。しかし彼女の目に映るものは、運に見放された憔悴した男、それ以外の何物でもなかった。
「将軍さま、状況が安定するまでこちらにおとどまりになってはいかがでしょうか。陛下から大宛攻略の期限を定められているわけではないのでしょう?」
「それは確かにそうだが、そういうわけにはいかぬ。我々がここにとどまっていれば、あなた方敦煌の住民にかかる負担が増すばかりだ。ただでさえ食糧難の兆候があるというのに」
「でも将軍さまは、ここが好きだと仰っていたではありませんか」
「……お気持ちはありがたいが、ここは私個人の感情を優先させる場面ではないだろう。予定通り、明日には征旅に発つしかない。そうしないと軍は弛緩するだろうし、私自身も皇帝から叱責されてしまう」
李広利は力なくそう答えた。しかし彼の言葉は、征旅を強行する理由としては弱い。
「無理をしてまで大宛国を討つ理由があるのでしょうか。大宛に個人的な恨みがあるわけでもないでしょう?」
問われた李広利は、数刻考えたのち、次のように返答した。
「……いや、理由はある。私の妹は皇帝陛下の寵姫で、兄も陛下に近侍しているのだ。二人とも多大な恩寵を賜って幸福な立場だと思われるだろうが……私から言わせれば体のいい人質のようなものだ。つまり、この私が充分な働きをしなければ彼らに害が及ぶ。下手をすれば殺されるだろう。だから私は無理をしてでも征旅に発たねばならぬのだ」
このままいけば、その結果が失敗に終わるであろうことは目に見えている。にもかかわらず彼は活路を見出さなければならなかった。欣怡は李広利を見つめ、諦めたような口調で彼を慰めるしかなかった。
「将軍さまのような方に敦煌にとどまっていただければ、私も人生を楽しく暮らせそうだと思ったのですが……ご家族のお命には替えられませんね。申し訳ありません。お困りになるようなことばかり申し上げてしまって。そんなつもりはなかったのですが……」
「いや、本当にお気持ちはありがたい。このたびの征旅の成否にかかわらず、いずれ私はこの敦煌に戻ることになるでしょう。その際は、再び優しく出迎えてもらいたいと思っています。これは本心です」
欣怡はそのときひとすじ涙を流して見せた。
李広利にはそれが砂漠に湧く泉のしずくのように、とりわけ貴重なものに見えたという。
*
翌日、李広利は将軍として指令を発し、軍はいよいよ西域に向けて進むこととなった。郡城の前には全軍が整列し、出立の合図を待っている。
太守の尹慈は李広利に向けて、餞別と謝罪の言葉を同時に発した。
「将軍の軍事の成功をお祈りしています。ですが、このたび供給できる軍糧はひとりにつき食塩が一斤(およそ226グラム)、穀物が二鈞(およそ13.5キログラム)しかございません。通常支給できる半分ほどの分量ですが、何卒ご容赦ください」
規定であれば、兵士にはひとりにつき毎月四鈞の穀物と、三斤の食塩が支給されることになっている。料理人が毎日厳格に決められた分量の食事を作っていくことになっているが、そこから算定すると、半月ほどで支給された食糧が底をつくことになる。我が軍は、先日の蝗害の際に輜重車を襲われて軍糧の大半を失っており、ひと月以内に軍糧を手に入れなければ飢餓状態に陥る。
このことを考えれば、軍は道を急ぐ必要があるが、そのために敵のいない地ばかりを選んで進むわけにもいかず、どこかで敵城を陥落させて食糧を奪わなければならなかった。まさに正義感ばかりでは味方を殺すことにもつながりかねない状況である。
李広利は苦渋の選択を強いられることになった。
「塩沢を通過して姑師国を目指して進軍しよう。かの国は一度漢に敗れている。ここにいる王恢どののご活躍で、現在ではかの地の匈奴の影響力も低減している。うまく漢軍の威を見せつけることができれば、食糧も供出してくれるであろう」
太守尹慈は申し訳なさそうに応じた。
「敦煌での不足分を姑師国が補ってくれれば、私も救われたように思います。将軍、どうかお体に気をつけて」
その傍らにいた娘の欣怡は、旅立とうとする李広利を呼び止め、両の耳飾りを外したかと思うと、それを彼に手渡した。
「将軍さま、どうかこれをこの私だと思って携えてください。私は、将軍さまのお帰りを心待ちにしております」
李広利は欣怡の言葉に頷き、踵を返した。
「出発するぞ!」
号令に導かれ、二万の兵は敦煌をあとにした。それを見送った尹慈は娘に向かい、
「欣怡。おまえがあの方と結ばれれば、私はこの地を抜け出して長安で暮らせるかもしれないな。この岩山しかない土地ともおさらばできる日も来るかもしれない」
などと言った。
欣怡は父の気持ちがよくわかる娘であったが、こればかりは彼女にもわからぬことであった。
二
足下ほどの丈しかない灌木と砂地に馬も足をとられ、難儀な行軍であった。輜重車の車輪は砂に埋まり、歩兵たちが後方からそれを押す場面が幾度となく繰り返された。
日中の容赦ない暑気。上空からの日差しと砂地からの反射熱が、兵たちの体力を着実に奪っていく。
「水を飲み尽くしてはならぬ」
兵たちは背中に水袋を背負っているが、紛れもなくそれは生命のもとである。しかしその重量のため、逆に命をすり減らしていることも事実であった。軽くするためには、その中身を飲むしかない。しかし飲み尽くせば確実にその者は早死にするのである。
李哆は歩き疲れて座り込もうとする兵を激しく叱責した。
「隊商でも平気で歩く道だ。軍隊に属する者として、そんなことでどうする!」
だが言われた者は、その叱責に対して口答えした。
「飲まず食わずでは、戦う前に死んでしまう。だいいち俺は、この前も処罰と称して飯を抜かれたのだ!」
李哆はその兵士に間髪を入れず、衝撃で首の骨が折れるほどの平手打ちを食らわせた。地面に突っ伏した形になった兵を、軍靴で踏み潰しながら彼は言う。
「貴様などの根性なしの役立たずに、戦いがどうのとか言えた義理か! ふざけるな」
軍はその一件で歩みを止めてしまった。そこで様子をうかがいに来た軍正の趙始成が間に入り、李哆を抑えた。
「まあ、待て。そこの者、以前に食事を抜かれたと言ったが、処罰に不満なのか」
趙始成の口調は落ち着いたものであり、兵士は救われたような気がしたことだろう。彼は地面に座り直し、弁明した。
「私は以前、行軍中に小用を足したことを咎められ、二日二晩食事を抜かれました。用を足すことがそれほど悪いことなのか、お聞かせ願いたい。いや、済んだことはいい。それよりもその処罰のおかげで、未だ体調が優れず砂漠の行軍には耐えられない」
趙始成はそれを聞き、ふうむ、と呟くと、未だ激発しそうな勢いの李哆を押しとどめながら、
「将軍。この者の処置、軍正たるこの私にお任せ願えましょうか」
と、落ち着き払った態度で述べたので、李広利はそれを聞き、「よかろう」と返事をした。彼のみならず、この場にいる誰もが穏便な処置を趙始成がするものと思った。
「では、処置を下そう。この者に死刑を施す。罪状は行軍態度の不誠実によるものだ。この者は過去に行軍中に小用を足したことを自ら認めながら、その事実に反省する態度を見せない。またこのたびは全員が休まず行軍している中で、ただひとり任務を放棄し、のみならず上官に対して口汚い言葉遣いで不満を表した。よって、全軍に与える影響を鑑みれば、死罪は免れない」
李広利は思わず身を乗り出したが、私はそれを制した。一度軍正に任せた以上、それを覆すことは司令部の混乱と見なされかねない。私は小声でそれを李広利に訴えたが、そうしている最中に始成は兵士を斬ってしまった。
「李哆どの。兵に処罰を与える際は、感情にまかせず冷静に、かつ断固たる決断をするべきだ。また迅速に処置を下して、行軍の遅れを最小限に抑える必要もある」
趙始成は李哆をそのように諭したが、李哆は納得がいかぬ様子であった。
*
「私はあの場では何も言いませんでしたが、軍正の今回の処置は、やり過ぎだと思います。これから先、暑さにやられて何人倒れるかわからぬというのに……」
李哆は休息を取った際に李広利を相手に気持ちをぶつけた。それを相手にする李広利も思うところがあったようだ。
「軍正は、あのあと私にこう言ったよ。『先のことを考えて、役に立たなそうな人物は処断してしまった方がよい。そうすれば一人分の食料が浮くことになる』と。正論のような気がしないでもないが……」
「軍正の言うとおりにしていると、我々は大宛に着く前に滅亡してしまいます。いや、その前に兵は恐怖し、逃亡を始めるでしょう。どちらにしろ、軍は体を為さなくなります」
李哆の言に李広利は頷き、
「そのことは私も軍正に言ってみたが、彼が言うには、『砂漠で逃亡を謀っても死が待っているだけだ、兵はそれほど馬鹿ではない』とのことだ。私が思うに、彼はこの機会を待っていたのではないだろうか。軍が砂漠に突入した時点で、規律を正そうと……」
と、述べた。感情的な李哆はこれに食らいつく。
「では将軍は、今回の軍正の処置に賛成なのですか」
李広利は、直情的な李哆の質問に明らかにたじろいだ様子だった。しかしその中でも彼は懸命に答えを探り、会話の中でそれをつかもうとしていた。
「いや、私の気持ちはどちらかというと君のそれに近い。軍に規律と厳しさは当然必要だが、兵には愛情を持って接しないと、いざというとき裏切られる。軍正には軽々しく死罪を与えるなと言っておこう。その代わりに軍規を明文化し、違反したものに対する刑罰を細かく規定せよと命じよう」
ただ、問題はそれを趙始成が聞き入れるかどうかである。そもそも砂漠の行軍中に、そのような細かいことを考えること自体が難しく、夜間にしてもくつろげる環境ではない。各自が屋外の砂の上で野宿を余儀なくされるからだ。
そのような状況の中で軍法を明文化せよと言われても無理なことは目に見えており、これはいらつく李哆を落ち着かせるための方便に過ぎないと私には思われた。そのため私は李広利に一つの提言をしてみたのである。
「将軍、ここはやはり趙始成に任せるのが妥当かと存じます。そのうえで彼に通達するのです。軍正の処断の影響によって兵の逃亡が相次ぎ、その動きが止まらぬようであれば軍正自身を斬る、と」
「よい案です。ぜひ実行を、将軍」
李哆は即座に賛同した。李広利も基本的には賛同してくれたらしく、大きく頷きながら持論を述べた。
「かわりの人物がいないので、仮に次に同じようなことが起きたとしても即座に軍正を斬るわけにはいかないが……有効な方法だとは思う。私なりの言葉で彼に伝えよう」
三
数日行軍する中、兵がひとりふたりといなくなった。夜間に逃亡したのである。砂漠のただ中、行く当てもないはずなのにどこへ向かうつもりなのか、李広利は気を揉んでいらいらとした態度を見せた。非常に珍しいことである。
「水袋さえ抱えていれば、どうにか生き残れると思ってのことか。それとも引き返して敦煌に戻ろうとしているのか」
李広利は考え、誰を相手にするでもなくそのようなことを口にしたが、現実的には逃亡者が敦煌に舞い戻ることなどあり得ない。砂漠から敦煌に入るには玉門関を通過せねばならないからだ。逃亡兵が無事に関所を通過し得るはずがない。
「あるいは我々より先に姑師国にたどり着こうとしているのか。そのようなことができるはずもない。彼らを待つのは死の運命だけだ。なんと哀れな……」
彼は逃亡兵のことを「哀れ」と評した。兵にそのような選択をさせてしまった自分を責めているかのようである。
「軍正をここに呼べ。今こそ彼に伝えるときだ」
やがて現れた軍正の趙始成は、いつもと変わらぬ落ち着き払った様子の振る舞いを見せた。
「兵が逃亡したようですな。自らの置かれた立場と状況を冷静に判断できぬ者にありがちな行動です。将軍、動揺されてはなりませぬぞ。ああいった者たちが何人いても、軍には足枷となるばかりです」
李広利は、趙始成のその言葉にかぶせるように言い放った。
「いや、私はいま、大いに動揺している。軍正はあのような者たちは放っておけという旨の話をするが、軍正の目には我が軍の中にどれほどの精鋭がいると映っているのか。仮に精鋭と呼ぶべき兵がいたとしても、それが二、三十名ほどの数では軍隊としては機能しない。精鋭は、育て上げなければならないのだ。切り捨ててはならぬ」
「は……」
趙始成は常にない李広利の厳しさの込められた口調と表情に絶句した。
「このままいけば、兵の流出は際限なく続く恐れがある。そこで、軍正にはそれを抑えることを命じる。先日の軍正の処断は兵を恐怖に陥れ、冷静な判断力を失わせた。もちろん、あの場で処置を軍正に任せた私にも責任はある。よって、私も食事を一日抜こう。軍正にもそうせよとは言わぬが、事態が解決しなければ断罪せねばならない。首を切られる覚悟で臨んでほしい」
「……わかりました」
李広利は自らも一日食事を抜く、と宣言した。たかが一日と思われるかもしれないが、内地でならともかく、砂漠地帯に入ってからの食事抜きは相当体に応えるはずで、これは彼が自らの責任を認めた、ということになる。指揮官がそのような処置を自らに課したことを目の当たりにすることで、部下は考え方を改めるかもしれない、と思ったのであろう。
砂漠は進めば進むほど灼熱の度を増し、倒れる兵が続出した。そのまま絶命する者も数名出てくる中、軍はようやく塩沢にたどり着いた。
*
砂漠の中に突如として現れるこの巨大な湖を、我々は塩沢と呼ぶ。なぜ塩沢と呼ぶかというと、この湖はかなりの量の塩質を帯びていて、旅人の喉の渇きを潤す存在ではないからである。よって、漢人が「塩沢」という言葉を口にする際には、その無意義さを揶揄するような響きが込められることが多い。
しかし水の景色は確かに旅人の心を癒やす。飲用には不向きだが、火照る体の温度を下げるには有効なうえ、水が蒸発することで周囲の気温が下がっているようにも感じられる。
「塩沢には、砂漠を横断する川の水が常に流れ込み、水量は年間を通して一定に保たれています。夏は大きく蒸発しますが、川を伝って流れ込む雪解け水がその分を補います」
私はそのように説明したが、李広利はそれに対して、
「しかし、湖畔に都市が見受けられない。塩質を含んでいるといっても有益な活用法はあるだろうに」
と、率直な感想を口にした。叙情的な話題を好む彼にしては、珍しいことである。だが、私は彼の疑問に対する回答をすでに用意していた。
「砂漠は一面の平地であるので、川は常にその流れの方向を変えるのです。そのため川の末端に位置する塩沢は、毎年微妙にその位置を変えています。湖畔に都市を造成すると、場合によっては都市そのものが水没する可能性があるのです」
李広利はそれを聞き、驚いたようだった。
「では湖も川も一定した場所にはない、ということか。常に移動しながらも存在し続けるとは、まさに大自然の神秘と言うべきだ。ところで、現地の言葉でこの湖はなんと呼ばれているのか」
「羅布泊(ロプノール)です。流れ込む川は塔里木河(タリム川)の分流で、こちらは真水です。よって、都市はその川の畔にあります。この先を西に進めば楼蘭国の伊循城があります」
李広利はそれを聞き、考え込む様子を見せた。
「……攻め落とすか。行程はどのくらいか」
「約一日と半分といったところですが……姑師国から天山の南麓を通って大宛に向かうとすれば、ここから北上しなければなりませんが、伊循はほぼ逆方向です」
「だが、急ぎ食糧を確保せねばならない。あと二週間ほどで我々の輜重はからになってしまう。軍事的には、陥落させられるような相手だと思うか」
楼蘭国自体は、恐れるべき相手ではない。一昔前と比べて匈奴の影響力は失われているうえに、彼ら自身の戦闘力も決して高くはない。以前この私が趙破奴とともに楼蘭を攻めた際は、その王を虜にした。それ以来楼蘭は王子の一人を漢に人質として差し出し、表向きは恭順の姿勢を示している。
「ですが、楼蘭は匈奴にも人質を差し出しております。漢と匈奴との間で両面外交を強いられている国ですから、抵抗される可能性も否定できません」
「攻めよう。まだ兵の体力があるうちに食糧を確保しておかないと、状況はどんどん悪くなる。相手が城門を開いて我々を歓迎してくれればそれでよし、そうならなければ城壁を乗り越えて攻め込むまでだ。今後の漢の西域運営を考えれば、このあたりに拠点を確保しておくのが賢明だろう」
そして李広利は、斥候として先発隊を数名組織し、伊循城の様子を探らせた。そして自らは情報収集と称し、私に楼蘭の国情を語らせたのである。
「楼蘭の都城は扞泥城といって、伊循城よりさらに西にあります。長安からはおよそ六千百里の距離にあり、西域諸国のなかでは一番近いところにあります。国内には驢馬が多く、駱駝もよく見られます。前にご説明したとおり、土壌に塩分が多く、食糧の生産には向かない土地柄ですので、その多くを他国からの交易に頼っています」
「交易と言うからには楼蘭から出荷される商品もあるのだろう。楼蘭人は驢馬や駱駝を商品として売りに出しているのか」
「それもあるかもしれませんが、楼蘭から産出される商品と言えば、なんといっても玉(ぎょく)でしょう。原石、加工品ともに漢に多く出回っております」
「ということは、伊循城が我々に恭順の意を示す可能性は高い。しかし食糧の在庫は少ないかもしれないな。だが、我が軍には一刻の猶予もない」
その上で、我々は進軍を開始した。塩沢の縁に沿って西へと歩を進め、流れ込む川にたどり着いた。ようやくたどり着いた真水の基。川の両岸には緑の樹木群の生き生きとした姿があった。死の世界から一転して、生命力のほとばしる環境に足を踏み入れた我が軍であったが、数刻後には戦闘がはじまるという緊張感から、その恩恵を肌で感じた者は少なかった。
戻ってきた斥候から報告を受けた李広利は、正面から堂々と進軍する策を選んだ。軍威を見せつけて、あわよくば降伏を誘おうとする狙いである。
「伊循城は街全体が城郭で覆われていて、外城は土と石で作られています。門は衛兵が守るだけで扉はありません。城壁の高さも梯子をかければ容易に乗り越えられるものです。弓兵が数名居りますが、彼らを遠くから射れば、次の要員は存在しないものと思われます。攻め入るにはたやすい城です」
斥候はそのように報告した。しかし李広利は安易に攻撃を仕掛けず、じりじりと前進を続け、軍が門前に至ると大声でその要求を言い放った。
「我は漢の皇帝陛下より大宛攻略の勅命を受けた弐師将軍李広利である。楼蘭は漢と同盟し、その王子は漢のもとにある。協力関係を損ないたくなければ、速やかに城門を開け、我らに軍糧を供給せよ。従わなければ強制的に入城する!」
しかし暫くの間、応答はなかった。城壁の上の弓兵たちは矢をつがえて構えたままで、号令があればいつでも射かける用意ができていた。しかし、その号令が発せられる様子も見えず、我々は待たされる形となった。
「言葉が通じていないのだろうか。通訳がいないのか」
さすがにいらついた様子の李広利は傍らにいる私にそう問いかけた。
「伊循城は漠南路を通る使節団が必ず立ち寄るところです。私が以前この地を攻略した頃は居りませんでしたが、そのときとは状況がすでに違いますので……必ず居るはずです。言葉は通じているはずです」
「ではなぜ彼らは返答を寄越さない。少し、催促してみるか」
四
「そろそろ返答をいただきたい。あと数刻待っても返答がない場合には、我々は城門を強行突破する。繰り返し言う。食糧を供給せよ」
だが、やはりいつまで経っても返答はなかった。
「もはや待てません」
李哆はすでに兵に突入の用意をさせている。あとは李広利の決断を待つだけであった。
「うむ。何のつもりか知らぬが、こうなっては突入するしかあるまい。外城を抜き、まっすぐ内城の奥まで侵入するまでだ。城主を捕らえ、食料庫へ案内させよ。では行くぞ」
彼は腰の剣を抜き、高々とそれを掲げた。そしてそれを振り下ろしたとき、兵たちの突入は開始された。
衛兵は二、三の矢を放っただけで逃亡を始めた。城壁の上の弓兵は遠弓で射られ、十名ほどが命を落とした。防御力は弱く、漢兵たちは勢いを失うことなく城門から内部へと流れ込んだ。
「止まるな」
馬上の李広利は中軍の位置にあり、全体を見通す位置に自らを配している。そのとき彼が感じた伊循城内の印象は、城内にも抵抗勢力は少なく、また一般人の姿もなかった、ということであった。
李哆が軍の先頭に立っている。彼は他のものには目もくれずに城門からまっすぐ伸びる道を突き進んでいた。
しかし、それに立ちはだかろうとした子供がいるのが目に映った。
「小僧、どけ!」
李哆は自身の馬が彼を轢き殺す前に、身を躍らせるように素早く彼を拾い上げた。襟首をつかみ、持ち上げながら馬上に引き寄せる。子供は何やらわめき散らしていたが、もともと言葉もわからないので、李哆は構わず城内を突進していった。
やがて軍は内城の城壁までたどり着いた。その中には伊循城そのものが存在するばかりである。
内城の門の前には、男が一人立ち尽くしていた。その男が何か言いたそうな素振りを見せたので、試みに李広利は軍を止めた。
「伊循城の訳長、于屡雁(ウルガン)です」
訳長とは通訳を司る官名である。その男は初老といえる年頃に見受けられ、赤茶色に若干の白髪が混ざった髪の毛が、いかにも異国の男として印象に残る姿であった。
「まずは、失礼ながらその男の子をお放しください」
李哆は未だ彼の襟首をつかんだままであり、その間も彼は叫び続けている。それをうるさがっていた李哆は、訳長の求めに応じて素直に彼を引き渡した。
中軍にいた李広利はこのとき先頭の李哆に並び立ち、訳長に向けて問いかけた。
「漢の弐師将軍である李広利だ。その子は、いったい何を叫んでいるのか」
訳長は、やや話しづらそうな調子で説明を始めた。わめく子供の口を手で抑えながら、頭を撫でて落ち着かせる様子は、自らの気持ちを落ち着かせるような素振りであった。
「失礼ながら、この子の話した言葉の通りにご説明いたします。この道は、楼蘭王のみが通るべき道だ、異国の野蛮人が通ってもよい道ではない、この子はこう申しておりますが……まだ分別のない子供の言うことですので、お許しください」
李哆はその言葉を聞き、怒りを態度に表したが、李広利はそれを遮った。
「于屡雁とやら。その子供の言うことは事実なのか。ここが、王のみが通れる道だということは?」
「それは確かにその通りでございます。私どもの王は一年に二度ほど、この伊循城を訪れて城内を巡察して回られます。住民の暮らしに不自由が生じていないかを観察され、城主に直接ご指導なさるのです」
再び怒りをあらわにした李哆が猛然と言い放った。
「おまえたちの王がどれほどのものだというのか。我々は漢の皇帝の勅命を受けているのだぞ。その我々を侮辱するとは、皇帝に対して侮辱するのと同じだ。我々の皇帝と、おまえたちの王を同列に置くとは何事か」
于屡雁はその言葉に対して反抗しなかった。彼は素直に頭を下げ、詫びて見せたのだった。
「分別のない子供の言うことです。どうかご容赦いただきたく存じます。彼は子供ゆえ、漢の偉大さを知らないのです」
李広利は、それに対して答えて言う。
「子供のいうことを問題にしても仕方なかろう。ここが楼蘭王の専用道だったということは我々も知らぬことだった。しかし……その道を我々が土足で踏みにじったことにも理由はある。君たちは、我々の呼びかけを再三にわたり無視した。よって我々は突入するしか仕方がなかったわけだが、そこで……君たちが我々を無視した理由を聞かせてもらおうか」
于屡雁はそれに対して頷くと、我々を内城へ導き入れた。城主に会わせて、直接その弁明を聞いてもらいたい、というのである。
内城の門にも扉はない。砂と土と石を混ぜ合わせて固めた城壁に、ぽっかりと開けられた穴が内城への入り口だ。木の扉を作るには木材が足りず、掘を作るには水が足りない。よって、必要最低限の防備しか伊循城には存在しなかった。
城は我々の感覚からすると、非常に簡素なものであった。城壁と同じように土を固めて作られたものであり、風によって巻き上げられる砂がそれに付着して、全体的に砂漠色をしている。彩色は施されず、実用的な砦とまるで見分けがつかなかった。
「ひどく殺風景な城ですな」
趙始成は辺りを見回しながら、李広利を相手にそう呟いた。
「王城ではない、ということもあるのだろう。しかしもう少し華美であってもおかしくはないし、西域の中でも漢に最も近い城だということを考えれば、もっと軍事的に増強がなされていても不思議ではないが……」
城の内部には李広利と私の二人だけで入った。軍正の趙始成に兵の管理を任せ、于屡雁に導かれるまま、内部へと足を踏み入れる。しかし、于屡雁は先刻の子供を連れたままであった。
「訳長どの。その子供も入城するのか」
問いかけた李広利に対し、于屡雁は答えて言った。
「この子は、これでも王孫でございまして……この伊循に暮らす一般人の心の拠り所で、王の名代でもあります。できればそれなりのご対応をお願いします」
控えめな于屡雁の物言いであったが、我々はその意図を察した。私と李広利はその場で跪き、王族であるその子供に向かって拝礼して、先刻の無礼を詫びた。
「いえ、そこまでなさる必要はございません。この子は、まだまだ大人の言っていることがわからぬ年頃で、我々が教育を任されているのです。王からも厳しくしつけよ、と厳命されております。あまり甘やかさないでいただきたい。……しかしお気持ちには感謝いたします」
楼蘭の国民性は、何事も飾らず、等身大で居続けることらしい、と私は内心で結論づけた。飾らぬ城、飾らぬ王族……城の内装も石壁がむき出しのままであり、非常に質素であった。
しかし床には異国情緒あふれる絨毯が敷き詰められている。赤を基調とした生地に色とりどりの刺繍が施されたそれは、土足で踏みしめることに抵抗を覚えるほど、美しいものであった。
「烏弋山離国の商人が、楼蘭の玉と引き換えに置いていったものです。我々の土地は物産が少なく……数少ない特産品を高値で売って、より価値のあるものを手に入れるしかありません。あなたがたの目にはおそらく、この城がひどく貧相なものに映るでしょう。しかし我々は、あなた方の言葉で言うところの……名より実を求めます。楼蘭の人民はあなた方が考える以上に豊かな生活を送っています。ですが、政治的には苦境に立たされています。その事情を城主が説明してくれるでしょう」
そのように言いつつ、于屡雁は我々を引き連れ、城の奥へと歩を進める。やがて、建物の中央部分にあると思われる大部屋にたどり着くと、そこに城主と見える人物が座っていた。
その男は、于屡雁や王の孫が着ているような生成りの麻か木綿のような服ではなく、薄くて表面が滑らかそうな青い服を着ていた。
「将軍……あの男は絹服を着ています。自分が高位の人物であることを見せつけているのでしょうか」
私は李広利に耳うちするように問いかけた。すると彼は、特にそのことを気にしていなかったようで、
「城主の単なる制服であろう。あの絹が漢から持ち込まれたことは明らかだが、我々がそれを贅沢だと非難することはできないだろう。自分たちが売り込んでいるのだから……」
と、評した。
城主の男は、我々の姿を認めると、立ち上がって挨拶の言葉を発した。
「伊循城城主、筆禍津(ヒッカツ)です。お目にかかれてうれしく思います」
五
筆禍津は比較的大柄な男で、赤茶色の髪の毛と同じ色の髭を生やしていた。城主としては貫禄十分といった印象だが、残念ながら彼の言葉は通訳が必要で、実際に城主として威厳があるのかどうかを的確に把握することは難しかった。
「城主どの、早速ではあるが我々の要件を伝えたいのだが」
李広利は、言葉の通じない相手に時候の挨拶など不要と思ったのか、早々に話を切り出した。于屡雁はそれを筆禍津に伝える。
「要件はわかっています。あなた方が軍糧の供給を求めてこの地にやってきたことは、充分にわかっています」
それが筆禍津の答えであり、彼はそれを極めて温和な表情で伝えたのだった。李広利はそれに不信感を抱いたようであった。
「わかっているとおっしゃるが、ではなぜあなた方は我々の要求を無視したのか。あなた方が返答を寄越さないことによって、我々は戦闘行為に入らざるを得なくなり、その結果数名の兵を殺してしまった。これは、あなた方の望んだ結果なのでしょうか」
筆禍津は通訳を介して李広利の質問を受け、やや思い悩んだような表情を浮かべた。しかし、それが本当に悩んでいる表情なのかどうかは確信が持てない。我々とは、顔の作りが異なっているからだ。
「望んだ結果といえば、その通りです。しかしそうではなかったとも言えます。我々としても自国の兵が命を落とす事態はなるべく避けたい。ですが、今回はこのような対応を取らざるを得なかった。その結果は、我々が思い描いたものと相違ありませんでした」
筆禍津の言葉は、我々にとって非常にわかりづらいものであった。このとき李広利と私は、于屡雁が筆禍津の言葉をうまく訳していないと考えた。
「すまぬが、もっとわかりやすく訳してくれないか」
「いえ、これが城主さまのお言葉通りに訳したものです。つまり、城主さまはこうなることをわかっていて、あえてあなた方の要求を無視した、ということです。兵が数名殺されることは予測していた、と」
于屡雁の説明は理解できたが、我々の疑問は解けないままであった。いったいなぜ、筆禍津はそのような判断を下したのか。
「軍糧は差し上げましょう。我々はあなた方の入城を許したわけですから」
突如筆禍津はそのように思いがけない結論を下した。私と李広利はともにわけがわからず、首をかしげるだけであった。
「城主どの、私にはあなたの考えがよくわからぬ。そのようにいともたやすく軍糧を差し出してくれるのであれば、最初からその考えを我々に示してくれればよかったではないか」
李広利の問いに筆禍津はようやくその判断の理由を示し始めた。
「いや、そうはいかぬ。我々楼蘭国は、いまやあなた方の属国のような立場にある。しかし、同時に我々は匈奴の属国でもあるのです。我々は王子のひとりを漢に人質として差し出しています。そしてもう一人の王子を匈奴にも差し出しているのです。そこに居る子供は匈奴に預けられている王子の息子なのです」
「だから……どうだというのだ」
「つまり、我々はあなた方に無条件で降伏するわけにはいかぬのです。匈奴はそれを許しません。匈奴を満足させるには、漢と雄々しく戦わなければならない。しかし、漢はそれを許さないでしょう」
「……………」
「我々のような小国は、強国の狭間で常に綱渡りをしているようなものです。たとえて言うなら、砂漠をたったひとりで流離う旅人のようなものだ。暑さのあまり歩を止めたいが、止めれば熱にやられる。だが歩を進めれば体力を失い、倒れるだけ……そのような存在なのです。我々の軍力では、漢とまともに戦って勝てるわけがありません。しかし匈奴を怒らせないためには、戦うしかなかった。他にどうせよというのです」
筆禍津はそう訴えながら、自らを落ち着かせるように席に座った。李広利は決まりが悪そうにうつむき、やがて思い直したように語を継いだ。
「仮にあなた方が無条件に降伏したとしたら、匈奴は具体的にどのような行動を起こすのですか。そもそも城主どのは漢由来の絹服を着ていらっしゃるし、楼蘭国が漢とすでに交流があること自体、彼らはすでに承知しているはずでしょう」
「確かに。あなた方が言う河西回廊の地から匈奴勢力が一掃されてから、彼らの我々に対する影響力は、弱まりつつあります。匈奴も以前ほど強権的な行動は慎んでいるようですが、基本的に彼らは残忍です。王が漢に人質として王子を差し出した際、彼らは王城を急襲し、多くの娘を奪っていきました。そこで王は、やむなく匈奴にも人質を差し出すことに決めたのです」
「では、今回も漢に降伏したら、匈奴は王城を襲っただろうというのか。もし我々が匈奴の立場であったとしたら、決してそのようなことはしないぞ。今後は積極的に漢に味方してほしい」
李広利には後ろめたさがあるのか、根拠のない話をし出した。私は彼の袖を引っ張り、情に流されがちな彼の注意を引いた。
それに対し筆禍津は答えたが、その口調は言葉がわからないのにも関わらず、皮肉めいたものだと察せられるものであった。
「我々と漢が匈奴の脅威を気にせずに協力関係を築くには、方法は一つしかありません。漢がこの地に軍を駐屯させればよいのです。あなた方は大宛遠征など中止して、この地にとどまればいいでしょう。……果たしてそれができましょうか」
李広利は言葉を失った。しかし体裁を取り繕っても始まらない。彼は正直に自分の意見を述べた。
「そのようなことは、私には判断する権限がない。仮にあったとしても皇帝より命ぜられた大宛の攻略を果たすためには、この地に兵力を割く余裕はない。また、現時点では長安に使者を送って楼蘭を支援する軍隊を呼び寄せることも難しい。私にはそのような時間の余裕はないからだ」
筆禍津はふう、とため息をついたようであった。その態度には話にならないとでも言いたそうな態度が満ちあふれていた。李広利は恥ずかしかったのであろう、それを直視できなかったようである。彼は視線を床に向けた。
「将軍、あなたが我々楼蘭を気遣って話をしてくれていることはわかります。しかし理想的な話をする割には、実際にあなたができることは何もない。我々にとっては、漢も匈奴と同じです。どちらも我々を搾取しようとする迫害を目的とした国家であり、どちらも存在しなければ、我々は何の問題もなく平和に暮らせるのです。私が着ているこの絹の衣服……過去に訪れた漢の使節団から、法外な高値で買わされたものです。楼蘭の宝である大量の玉を、彼らはわずかな絹と引き換えに持ち帰りました。大宛に育つ汗血馬にしても、あなた方は同じような方法で手に入れようとしたのでしょう。違いますか」
その問いに答えた李広利の声は、消え入りそうなものであった。
「それは……私にはわからない」
「そうでしょうな。数々の無礼な発言をお詫び申し上げます。軍糧はご希望の通り供給いたしますので、どうかもうお引き取りください……于屡雁、お見送りを」
李広利と私は、退出せざるを得なかった。軍糧の確保という目的は果たせたものの、自尊心は大きく損なわれ、我々にとっては悔いの残る会見であった。
六
「私は、将軍が我らの城主をお斬りになるかと思いました。おそらく城主の発言もその覚悟があってのものだったと思います。しかし、あなたは斬らなかった。なぜです?」
于屡雁は李広利と私を引き連れながら、城中でそのような話をした。その左手には、王の孫の手が繋がれている。
城内には光が差し込んでいる箇所が数か所あるが、全体的には薄暗い。日の光を取り入れすぎることで、城内の温度が上昇することを抑えるためであろう。その薄暗い光景が、いかにも他言無用の話をする環境に適しているように思えた。
「斬ったところで……私の軍は完全に独立した部隊であって、後続の部隊が存在するわけではない。今回私が命ぜられた任務はあくまで大宛の攻略であって、西域全体を鎮撫するためのものではないのだ。城主を斬って、我々が楼蘭を立ち去れば……その後の混乱に乗じて匈奴はこの地を支配しようとするだろう。都合の悪い事実を指摘されたからといって、安易にそれを成敗できるほど漢のこの地に対する影響力は強くない」
李広利は答えたが、それは後からつけた理由のように思えた。斬ってしまいたい、という感情が芽生えたことは確かだろうが、おそらく彼は本能でそれを避けたに違いない。
「冷静で、慎重な判断をするお方だ。ただ、今後は思い切った判断をした方がよいと提言します。……この先あなた方は北上し、砂漠の北縁をたどって姑師国へ向かうのでしょう。楼蘭はこれでも以前より匈奴の影響力が低下していますが、あちらでは匈奴はまだまだ有力な存在です。おそらくあなた方が訪れる城の多くは、開門さえもしないでしょう」
これから先は、敵が多くなるということであった。我々は前途の多難さを憂慮したが、現時点でできることは何もない。当たって砕けるだけという、無茶な計画を実行するしかないというのが、我々に課された使命であった。
「しかし、戦というものは大概そういうものであろう。この上は伊循城城主から供給を受けた糧食を大事に扱い、なおかつ旅程を重視し、一日でも早く大宛にたどり着くことだ。計画が成就すれば、西域に対する匈奴の脅威も限りなく低減される。そう信じるしかない」
李広利は自分に言い聞かせるように、そう告げた。城外へ出た我々は本隊と合流し、食糧の供給を受ける準備を急いだが、私も李広利も心のどこかにしこりを残したままの作業となったことは否めない。我知らず癒やしを求めた私は、于屡雁が連れている子供に話しかけた。
「王孫どのは、楼蘭の将来をどうお考えですか」
するとその子供は于屡雁の通訳を介して、こう答えた。
「匈奴に使いしている父上が、匈奴軍を引き連れて帰還されることを心待ちにしている」
私は、目眩がして危うく倒れそうになった。
「まことに、このお方のご意見か」
「子供の言うことです。あまり気になさらなくてもよろしいかと。この子が我々の手を離れて自活できるようになれば、世界を見る目も変わってきましょう」
于屡雁をはじめ楼蘭人は、この子供を優しく扱ってはいる。が、王族に対する敬意を払っているかといわれれば、そうは見えない。あくまで子供は子供として、他と変わらない態度で臨んでいるようだった。
李広利は、打ちひしがれる私に変わって、于屡雁へ質問した。
「訳長どのの意見が聞きたい。あなたは、楼蘭の将来をどう考えるか」
于屡雁は答えた。
「私個人の考えを申せば、放っておいてもらいたい、というのが正直なところです。もちろん、時折商売人がこの国を通り、珍しいものや便利なものを売りに来ることは歓迎します。ですが、そのために支配されることはご免被りたいものです」
「…………」
「私は、個人としてのあなた方の行く末を心より心配しています。どうか道中無事であってほしい、と思います。ですがあなた方が作戦に成功し、大宛国が滅びることを期待しているわけではありません」
「では、論点を簡潔にして……あえてもう一度聞こう。匈奴の支配と、漢の支配……この二つより選択するしかないとすれば、あなたはどちらを選ぶか」
「楼蘭人はもともと遊牧民族で、生活風習の多くは匈奴のそれに準じています。よって、匈奴を選択するのは自然な流れでしょう。漢がそれに取って代わるとすれば、いままでよりよほど我々が満足するような何かをもたらさねばなりません。よって、現時点では漢を選ぶことは難しいと考えます」
李広利はふうむ、と鼻を鳴らすように息を漏らし、残念な思いを表した。
「いや、忌憚なき意見が聞けてありがたく思う。我々も努力して、いつかはこの地によきものをもたらしたいと思う」
そう言い残し、彼は出立の準備に取りかかった。やがて見送りに立った于屡雁と王の孫に向けて手を振った彼は、自軍に号令を発した。
「姑師へ向けて出発するぞ!」
そして軍隊は歩みを再開した。それを見送った于屡雁は恭しく頭を下げたが、一緒に居た王の孫は手を振るどころか、にこりともしなかった。
結局我々は、歓迎されていなかったということだ。
塩沢・ロプノールは学術的には鹹湖(かんこ・塩湖)に区分される。淡水が流入するが出口となる川が存在せず、蒸発を繰り返す過程で塩分濃度が高まり、本文中のような性質になったと考えられている。四世紀ごろには一度干上がったが、二十世紀初頭に復活した記録が残されていて、位置を変えるのみならず、長い歴史の中で存在自体も変化させてきた神秘の湖であると言えよう。
なお、現在は完全に干上がっている。
楼蘭国はこのロプノールの恩恵を受けたオアシス国家であり、漢の時代のみならず南北朝時代まで存在が確認されている。上記ロプノール湖の消失が四世紀頃にあったことで、それと同時に独立王国としての姿を消した。なお、本文中の時代のあと、楼蘭は漢の完全な支配下に入り「鄯善国」の中の一行政区分とされている。
1970年代後半の調査で発見された女性のミイラが「楼蘭の美女」として有名である。




