疏勒人の狂気
一
このときの亀茲国は輪台を支配し、比較的強勢を誇っていた。しかしその輪台が武力によって降されたことを知ると、無謀な賭けをせずに我々を受け入れてくれた。軍には食糧が補給され、安全な道の情報が提供される。彼らは河川を横断するための船の手配までしてくれた。
「この先、川を渡る必要があるのか」
李広利は周囲に問いかけたが、誰もそれに対して返答は出来ない。李哆もこれについては明言を避けた。
「私が知る行程には、川を渡るものは含まれておりませんが……現地の者が言うのですから、いわゆる近道などがあるのかもしれません」
季節は夏であり、行軍中も暑さに苛まれる。水も干上がるほどの土地に川が存在すること自体が、信じられることではなかった。しかし夏の盛りでも西域の都市には水が湧き、生活が可能なことは事実なのである。このあたりにその謎を解く鍵が隠されているのかもしれなかった。
しばらく行軍を続けると、突如としてその謎が解けた。しかしそれは新たな謎を呼び起こし、結果的に我々は自然の不可解さを思い知らされるばかりであった。
「水の匂いがする」
乾燥した風が吹きすさぶ中に、ごく僅かな湿り気を感じると、人はそれを「匂い」と解する。その感覚は客観的な説明が不可能なものであり、たとえ理由を問われても、
「だって、匂いが本当にするのだから」
と、しか答えようがない。その感覚が正しいかどうかは、同調する人物が多数いるかどうか、それだけにかかっている。
このとき李広利は、残念ながらその「匂い」を体感することが出来なかったという。部下たちが口々に水の存在を主張する中で、彼はもどかしさを感じながら、視力を頼りにするしかなかった。
「地平線がやや歪んで見えるようだが……なんというか、大地が熱せられて湯気を発しているような……その湯気によって、向こうの砂山が浮かび上がって見える」
李広利の声に一同は視線を地平線に送ったが、誰もそれを口で表現することはなかった。
「私の目も、いよいよおかしくなったのかな?」
自虐的な表現をした李広利であった。だが実のところ、それは全員の意識であった。その光景を見た者は、皆等しく自分の目がおかしくなったのかと疑ったのである。
「確かに……山が空中に浮かんでいるように見えます。おかしな現象だ」
私もこの状況に驚かざるを得なかった。しかも空中に浮かぶ砂山は、まるで絵に描いたように輪郭がぼやけていて、実在しているように見えない。
「奇術を得意とする敵が作り出す技ではなかろうな」
半ば本気で尋ねた李広利であった。
「蛇使いや火吹きなどを得意とする者はおりますが、それらは大道芸に過ぎません。我々を攻撃できるほど強力なものではないはずです」
李哆はそのように説明したが、彼は長い期間をかけて探索をしたにも関わらず、付近を流れているとされる川の存在も知らなかった。そのため、この発言にはあまり説得力がない。
丘就卻はこのとき後方にいた。通訳の仕事は思いのほか忙しく、休めるときが少ない。よって、彼は他者との接触がない行軍の間に限って、休息を許されていた。馬車の台上で眠っていたのである。
その丘就卻が起き上がって事態を確認したところ、謎が解けた。
「あれは、砂漠にしばしば起きる現象ですよ。恐れる必要はありません」
「ほう……どういう現象か説明できるか」
「口で説明することは難しいのですが……地面の熱さと空気の温度の差が大きいときによく見られる現象です。通常であれば砂漠は日の光によって熱せられ、空気よりも熱いのですが、何らかの原因によってその状態にないとき……湯気が沸いたように風景が歪んで見えるのです。ここで大事なことは……大抵その場所には何かがある。通常の砂漠ではない何かがあるということを意味しているのです」
「つまり、あそこに川が」
存在しているというのである。しかし、李哆はそれを否定した。
「私が以前この地を訪れたときには、そのようなものは存在しなかったぞ」
それに対し丘就卻は両手を広げ、抵抗する意思を示さなかった。
「単なる推測です。行ってみればわかることですよ。私が言いたいことは、あの現象自体に危険はない、ということだけです」
そこで軍は前進し、幻覚の源へと向かった。歪んでいた地平線が突如として正常な形に戻ったかと思うと、そこには目を疑う光景が広がっていたのである。
「大河だ……対岸が見えないほどの」
「こんなことが……あるはずがない。これほどの大河を見落とすなどあり得ない」
李哆は目の前の現実が信じられない様子であった。彼が以前この土地を訪れたときは、見渡す限りの砂漠でしかなかったのである。
「急に川が流れることなど、あるのでしょうか」
李哆は聞いたが、李広利にわかるはずもない問題である。
「私に聞かれてもな……丘就卻はわかるか」
問われた丘就卻は記憶を掘り出すようにして、これに答えた。
「私は西域といっても東部の出身ですので、この川をこれまでに見たことはありません。が、話を聞いたことがあるような気がします。確か……遙か南の崑崙山脈の氷雪が、夏になると溶け出して大河をなす、と……しかしこれほどの規模とは思いもよりませんでした」
「川の名は?」
「存じませぬ」
我々は、それが幻覚ではなく紛れもない川であることを確認すると、実際に川に向かった。亀茲国が用意してくれた船の存在を確認しようと、岸まで近づいたのである。
「下流の方に船団らしきものが見えます。あそこに向かいましょう」
しかし六万ほどの軍団を一度に渡すほどの船が存在するのだろうか。最悪でも二回の往復ほどですませたいものだ。李広利は突如現れた川に向けて、毒気を吐いた。
「砂漠にどんな恵みを与えようが、我々にとっては邪魔でしかない川だな。夏になると現れる川か……もう少し待って冬に訪れるべきだった」
しかし李広利は砂漠の冬を実際に体験したことがない。李哆はこの点に注意を促すのであった。
「今は夏ですので酷暑ではありますが、冬になると砂漠は信じられないほどに冷え込みます。防寒の備えが必要です」
「では、やはり天山の北に道をとり、烏孫を通過する方が良かったか……」
一軍の将がぼやきを連発するなど、通常ではあってはならないことだ。しかし相手が自然では、ある程度それも許されるだろう。どれだけ士気を高めたとしても、自然を相手に戦略は立てられない。
しかし丘を越え、川岸へと向かうにつれて周囲の風景が徐々に変化してきた。これにより、我々は自然の巨大な力を痛感したのである。
「砂漠に草が生えている。それも青々とした……樹木まで青いな。これまでは灌木しか見なかったというのに」
「これは胡楊です。多くの西域諸国が城を作るにあたって、これを建築材料としています。広く根を張り、乾燥に強い点が特徴です。幹に穴を開けると水が吹き出しますよ」
砂漠の城市は、必ず水のあるところに存在する。そして水のあるところには、緑があるのだ。我々は、行軍の過酷さに辟易し、これまで誰もそのことに注意を払わなかったのである。目の前の現実ばかりに気をとられ、それが存在する環境や、原因に考えを巡らせることがなかったのであった。
「これらのことも理解していないと、漢が西域を運営することなど不可能であろうな。朝廷は商人ばかりをこの地に送り込むのではなく、学者を派遣するべきだ。そうでないと、いずれ支配の方法に悩むことになる」
胡楊は木材の原料となるばかりではなく、防風の役目も果たす。さらには根張りが良いことで流砂の抑制にも役立つのであった。挿し木が容易に苗木と育つため、水源がある限り、植林が可能である。砂漠の人々は、生きるために知恵を働かせていた。我々は、どこかで彼らのことを自分たちより知恵の面で劣ると考えがちであった。しかし我々の知らないことを、彼らが知っているという事実は、多数あることだろう。
「見てください。船です。筏も多数あるようです」
視界の奥に、亀茲国が用意してくれた船や筏が見えた。しかし、その数は全軍を運ぶにはとても足りない。少なくとも百回の往復を考えなければならなかった。
二
船は一度に乗れる人員が二十名ほどのものに過ぎない。それが三十艘ほどあり、筏もそれと同程度であった。筏には馬や車を乗せられるが、積載できる人員はさらに少なくなる。李広利は、時間をかけて往復することも考えた。が、それは軍の分断を意味した。渡河の最中に敵に襲われれば、おそらく勝ち目はない。
「渡りますか」
私は、李広利が迷っていることを知りつつも、問いかけざるを得なかった。まともな返答が得られないことは予想していたが、それにしても会話の中でこの問題を解決することが出来たら、と望んだのである。
「現地の連中は、なぜ橋を架けないのだ。まったく……」
愚痴をこぼしながら唇を噛みしめる李広利であった。
「とにかくせっかく船を用意してもらったのだから、責任者には会いに行こう。判断は、そいつの話を聞いてからだ。意外に秘策もあるかもしれぬ」
船着き場は、緑の園であった。ここが砂漠の只中であることを忘れるほどの爽やかさである。胡楊の枝の先を眺めていれば、柔らかな木漏れ日を感じることさえ出来た。
「船はすべてこの胡楊から出来ていますが、ところどころに紅柳という木の幹を利用して、装飾を施してあります。紅柳の幹は赤いので、よく女が皮を利用してかごを編むのですが、この船にもその技術が施されているのです」
船頭の男は、自身の船を自慢げに説明した。確かに船は鮮やかに彩色されており、しかもそれはあとから塗られたものではないように見えた。
「しかしこの人数を一度に運ぶには、とても船の大きさと数が足りないな」
李広利はいきなり本題を船頭にぶつけた。しかし船頭はこれに対して別の問題も提示して見せたのである。
「とても一度では無理です。百回以上の往復が必要なのではないでしょうか。しかも対岸に渡るには、丸一日かかります。一回の往復に二日かかるとして、全部が渡りきるまで三月ほどの日数を要します。それでは間に合いません」
「間に合わないだと? 何に間に合わないというのだ」
「ご存じないのですか? この川はあと一月ほどで消滅します」
「……なんだって?」
夏の間だけ流れる大河が、あと一月のうちに消滅する……突如現れ、忽然と消え失せる……そのような話が信じられるだろうか。しかし、夏に現れるということは、確かにいつかは消え失せるということなのだ。だが、目の前の川は依然として大規模なものである。消えるなどとは容易に信じられることではなかった。
「まだ水量は豊富過ぎるほどであるように見えるが、それでもこの川は消えるというのか」
「ええ、嘘のように干上がります。それと同時に川岸の緑は枯れ果て、胡楊の葉も茶色く変わります。我々現地の住民にとっては、これが短い水の季節なのですよ。水があるうちに畑仕事に精を出し、羊や牛に水を飲ませます。そのあとは自分たちも水浴びに……短くも夢のようなひとときなのです」
やはり、川の周辺の緑は、幻想であった。ほんの一瞬のきらめきがあったかと思うと、それはすぐに枯れ果てるのだという。この川は風景を浮かび上がらせるばかりでなく、大地の色をも変える幻覚作用を持っていたのだ。
「君たち現地の民は、この川のことを何と呼んでいるのか」
「和田川です。砂漠の南端に和田という国があり、そこが一番源流に近い都市だとされているからです」
和田と言われても釈然としなかった李広利に対して、李哆が耳打ちをした。
「于闐の隣にある小国です。崑崙の麓にある南道にあります」
「その和田とかいう国に崑崙の雪解け水が湧くということか。雪解け水といっても、最初はただの一滴に違いない。それがここまでの大河になるとは……」
しかし驚異的なことは、その大河が一瞬のうちに干上がるということであった。最後には砂漠の熱が大量の水を打ち負かすというのである。
「まさにせめぎ合いだ。それにしても……毎年夏には川が出来ることがわかっているのに、君たちはこの地に橋を架けない。これはどういうことだ」
問われた船頭の男は、考えを整理するかのように、ゆっくりとこれに答えた。
「なんと言いますか……この川は年ごとに流れが変わるのです。水量も毎年のように違うので、堤防を築いても決壊することが多く……橋を架けてもときには流されてしまうこともあるのです。それに、堤防や橋が決壊したらその邑の住民たちが直さなければなりません。一日以内に直さないと、罰金が科されるのです」
「だから最初から作らないというわけか」
「川を渡ろうとする人を船で運んだ方が、商売として成り立ちますから」
「なるほど。君たちは、亀茲の国王から手当をもらっている、というわけか」
船頭がこれに頷いたので、李広利は内心でほっとした。あとで代金を請求されて面倒なことになるかもしれないと危惧していたのである。
「ですが……すでに代金をいただいているから言うのですが、やはりあなた方はこの川を渡らない方がいいかと思います。無理に渡ろうとしても全軍が対岸に移動するまで三月以上かかりますよ。それだったら川が干上がってから渡っても、かかる日数は変わりません」
これを受けて、李広利は全軍に休息を命じた。木漏れ日の下で野営しようというのである。少数で行動する限り、遊びを目的に川を渡ることも許した。
李広利自身も一日、船で川に繰り出した。
「この川があと一月もすれば消え失せるとは、本当に驚きだ。見れば、魚さえいるではないか。川がなくなったら、こいつらはいったいどうなるのだ」
「さあ……わかりませんな。底の土の中にでも卵を産み付けるのではないのでしょうか。それがどうやって生き延びるかも知りませんが」
「一年のうちにまともに水が得られる期間がわずか三月だけとは、想像以上に過酷な世界だな。君たちは、ここにいて幸せなのか。我々が住む世界は……なんというか、もっと便利なところだ」
「さあ……それもわかりません。なにせ私はこの世界しか知りませんので。ただ、あなたのような異国の人はこのあたりを通り道にしていますから、最近では憧れを抱く若者もこのあたりには多いようです。しかも匈奴がしょっちゅう作物を収奪しますので、不満を抱く者もかなりいます」
「匈奴はいずれ征伐する。もう少しの辛抱だ……。漢は匈奴と比べて食糧の生産も安定した国家だ。その保護の下に入れば、作物を奪われる心配もなくなる」
李広利は常になく自信ありげな主張をした。異国の平民を相手にし、気負いの部分が大きくなったのであろう。
「ですが、匈奴は強い。漢は、あれを破れるのでしょうか」
「いつかは、な……。しかしそのためには大宛の征討が重要だ。西域諸国が一様に靡いてくれないと、匈奴勢力を一掃することは難しい」
李広利は、いつの間にか政治家のような話しぶりを身につけていた。自身に課せられた任務の意義を必死に考え続けてきた結果なのだろう。船の舳先に座る彼の姿には、以前に比べて威厳さえ感じた。
「あれを見ろ。川岸で子供が遊んでいる……。水さえあれば、この地は幸せそうだな。なんとなく、私は何を守るべきなのかがわかりかけてきた」
「どういうことですか?」
船頭には当然の光景だったらしく、李広利は気恥ずかしさを感じたのだろう。
「いや、少し気取ったことを口走ってしまった。まあ、忘れてくれ」
彼は笑いながらそう述べたが、このときの言葉に嘘はなかったであろう。
三
結局我々は川の水が退くまでの間、現地で野営を続けることにした。汗で不快になれば川の水で体を洗い流し、暇になれば鳥を射たりして、思い思いに過ごした。現地の村の住民とも良好な関係を維持し、羊飼いから数匹の羊を分けてもらうなどして、食糧の足しにした。我々が長く西域で過ごした中で、最良の日々であったと言うことが出来よう。
しかし船頭の男は言う。
「川の水が退けば、急激に冬の気配が訪れ、砂漠は冷え込みます」
川の水は砂漠の熱に負けて干上がるのではなかった。源流とする崑崙の氷河が無くなることによって、自ら流れを止めるのである。
「水は僅かながら地中にしみこんで、胡楊の根の養分になるらしいです。よって、井戸を掘れば冬の間も水を確保することが可能です」
「……なぜ、そうしないのだ?」
「過去に幾度かそういった試みがなされたことはあります。ですが、やり過ぎると胡楊が枯死してしまうのです。そうなると、私たちは貴重な木材を失う……井戸は贅沢品として王宮にしか見ることが出来ません」
非常に苦労のうかがえる暮らしぶりである。しかし彼らは、慎ましい生活に徹しさえすれば、そのような環境もさほど苦にならない、という。
「軍隊が来れば、水を提供しないわけにはいきません。これは、匈奴のほかあなた方に対しても同様です。ただ、匈奴は何も我々にもたらしませんから、迷惑なだけの存在です。あなた方はいずれ、絹や穀物を我々に与えてくれるのでしょう? すでに国王は絹服を着ていると聞いています」
西域では商人がすでに行き来し、漢の財物と西域の貴重な品を交換する行為が繰り返されている。李広利のような軍人が、この地域を鎮撫することによって安定をもたらすことになれば、それは一層活発になり、盛況となることだろう。それこそが文化の発展につながるのであった。
「いずれ君たちも文字を読み、それによって知識を深めることになる。迂遠な話かもしれないが、それこそが豊かな暮らしにつながる第一歩に違いない。このまま匈奴の影響下での変わりない生活を君たちが選べば、西域は千年後も今のままだろう。それは、悲しいことではないか?」
変化を求めなければ発展はない、と李広利は言う。それは、慎ましくさえしていれば現状を維持できるというこの地の人々の意識に、やや危うさを感じた彼の気持ちの表れであった。しかし、それを人々の心に求めたことは、李広利が自身の任務に正当性を見出したかったからであろう。つまり、彼のこのときの発言は、自分を満足させるためのものでもあったのだ。
しかし、次に彼が発したひと言は、船頭を始め、周囲の人々の心を大きく揺さぶった。
「砂漠は広がり続け、やがてはいくつもの水源を飲み込むだろう。そのときのために君たちは生き抜く知恵を養っておかねばならない」
つまり、文明を維持する努力をしなければ、西域の大半は滅ぶ、と言っているのである。彼らには自分たちの文化を発展させ、それを拡大させる努力が必要で、それを怠ると匈奴によってでも漢によってでもなく、自然に滅ぼされるというのだ。
数日が過ぎ、数十日が過ぎた。毎日見続けてきたので気付くのが遅れたが、川の水は明らかに当初と比べると減少していた。対岸が見えるようになっていたのである。
「崑崙の氷がすべて溶けたか。ここからその姿を確認できればいいのだが、この塔克拉瑪干砂漠の南縁まで行かないと無理だな。いずれ南道も辿ってみたいと思うが」
李広利は李哆を相手にそう話した。実際に川の水量が減っていることを確認し、陸路が取り得ることに安心したのだろう。彼の口調は、世間話をしているかのようなものであった。
「崑崙の名が出たから思い出したのですが……。以前、この近くを訪れた際に于闐国から来たという人物と話をしました。なぜ南道沿いの国の民が天山の麓にいるのか、当時はそれがわかりませんでしたが、今その謎が解けました。彼は夏の間に船でこの地に至ったのでしょう」
李哆は興味深い事実を思い出したように話し出した。彼も行程が確保されたことに安心している様子であった。
「その男はなにか面白いことでも話したか?」
「そうですねえ……。彼は見たところ五十手前ほどの年齢でしたが、もっと若い頃に崑崙を越えたことがあるのだそうです。特に目的はなく、単なる趣味といったところですが。亀茲国に来たのも異国情緒を肌で感じたかったからだと言っていました」
「ほう……」
天山を越えれば烏孫があり、その北には康居、康居の西には奄蔡と、比較的地理が明らかになっている。しかし崑崙の向こう側はあまり明らかになっていない。この点に関して、李広利は興味を持ったようであった。
「確か、砂漠の西南には罽賓国(カシミール)があったと思うが。大月氏の属国だと記憶している。彼はそのあたりを彷徨ったのだろうか」
「はい。しかし、罽賓に入国せず、その国境に沿って南にさらに下ると、さらに別の国に至るそうです。暑熱の国であるにもかかわらず人口が多いそうで、習俗は我々とも、西域とも大きく異なると……身分や性別を問わず、人々はすべて半裸であるとか」
「半裸だと……その国の貞操観念はどうなっているのだ」
「その男が言うには、男女問わず意識は低いとのことです。そのため人々は安易に交わりを結びますが、望まぬ形で子が生まれることが多く、結果的に遊民が増えることになっているようです。その遊民たちがさらに無造作に交わり、さらに遊民を生む。これがやたらと人口の多い原因のひとつでもあるようです」
「ずいぶんと頽廃した国だ。その国の名は明らかになっているのか」
「ええ。博望侯張騫どのも蜀から大きく南行すればたどり着ける国として言及しています。身毒国(シンドゥー。インド)と呼ばれています」
「身毒……しかし、そんな国情では、国民は等しく貧しいだろう。そのうえ暑熱の国とあっては生きること自体が苦しい。そのような土地に生まれた人々は気の毒だな」
李広利は、人々が裸で暮らす世界というものに頽廃を感じ、それが楽園であるとは捉えなかった。気の毒だと言ったその表情は深刻なものであり、淫靡な想像を押し殺すようなものではなかった。
「于闐の男が言うことには、確かに人々は貧しく、生活は苦しいとのことです。そこで民衆は救い主を待っている、と……。どうもこれが彼らの思想となっているようです。それを聞いて私は、実に自分たちは恵まれていると感じました」
李哆はため息まじりにそう言った。
「なるほど、世界は広い……」
李広利はただ、それだけを述べた。しかし、そこにどのような感情が込められていたかは定かでない。
四
しばらくすると、川の水が跡形もなく消えた。驚くべき自然の姿である。来年にはこれが形を変えて姿を現し、人々はそれを楽しみに待つということに思いをはせれば、実に人類というものははかない存在であると思わざるを得ない。
しかし、そのようなことは任務には関係なかった。陸路が確保されたからには、冬になる前にこの地を立ち去り、大宛への道を急がねばならない。おそらく、冬の葱嶺は踏破が不可能であろう。その前に安全な居留地を確保しなければならなかった。
「疏勒周辺が良いでしょう。莎車国まで行ってしまうと遠回りになってしまいます」
「現地の人の性質は、どうなのだ?」
問われた李哆は、やや口ごもった。あまり話したくない内容なのだろう。
「一般的には……」
「あまり好ましくない性格であるようだな」
「ええ。ひとことで表現すると、乱暴だと。それが一般的な評価です。もともとは土着の農耕民族だったのですが、ここ数十年の間に安息や大夏との交易が活発になったおかげで、商売を生業とする者が急激に増えたようです。その影響で人を詐ることを躊躇わなくなったといいます」
「人は商売をすると、性格が悪くなるというのか。嫌な話だ」
「疏勒は西から葱嶺を越えて来た旅人にとって、西域の玄関口にあたります。ここで必要なものを揃えようとすることは自然な流れでしょう。そこで疏勒の商売人たちは熾烈な競争を繰り広げるわけです。詐りが多くなったというのは、これが原因でしょう」
「ふむ」
「この地の人々は皆、碧眼で身に文身を施しているとも言います。ですが私がここを訪れたときは冬であり、民は皆厚着をしていて文身を確認できませんでした。しかし、あり得ることではあります」
「なぜ、そう思う?」
「さあ、確かなことは言えませんが、隣国の人民と自分たちを区別するために、目印をつけるということもあるのではないでしょうか。まともな文字もない世界です。邑ごとに民の姓名を帳簿に記録するという習慣もないでしょうから」
「彼ら独特の管理の仕方もあるかもしれないぞ」
「そのための文身なのでしょう。たぶんですが」
李広利は考え込みながら、それにあえて短絡的な答えを導き出した。
「その柄の悪い連中が、意味もなく我々を騙したり、脅そうとするなら構わず斬ってしまうのが最善だ。その性格が生来のものであるならば、並大抵の努力では改善しないだろう。よほどの衝撃と、恐怖によって改めさせるしかない」
李哆はこれに対して、もっともだと言いたげに頷いた。しかし懸念を抱いていることは明らかであった。
「お気をつけください。疏勒の民衆は、おそらく西域でもっとも我々の常識が通じない相手です。はっきり申しまして、私はとても彼らを理解することができません」
「どういう点が、だ」
「彼らは、なぜかは知りませんが……生まれたばかりの赤ん坊の頭を押さえつけ、その形を平らにするのです。それにどういう意味があるのかは、まったくわかりません。さらに、驚かないでくださいよ……彼らには手足の指が六本ずつあるのです」
手足の指がそれぞれ六本……一種の奇形である。李広利は、当然のことながらそのような人の姿を見たことがなく、言葉に詰まった。
「……しかし……それでは文身で自国民かどうかを識別しているという君の説は間違いということになる。疏勒人の指がみな六本であるならば、それをもって区別することができるはずだ」
「もちろん疏勒の人にも五本の指の子供が生まれることはあります。しかし、彼らはそれを育てないという説がまことしやかに流布しておりまして……実際のところは、五本指の人民も多数いるようです」
「育てないのに、育っているというのか。それでは五本指の人物は、差別を受けるのであろう。王族の中に五本指の子が生まれたら、どうなるのだ」
「さあ……その存在をひた隠しにして、密かに殺すか、世俗に捨て去るか……よく私もこのことに関してはわかりません」
「興味深い話でもある。王族が実際に六本指であれば、徹底的に支配してやりたい。五本指の我々が彼らを支配するとなれば、疏勒国内の五本指を持つ人々は、喜ぶのではないだろうか」
「確かに。しかし我々の優先すべき課題は大宛の征討です。諸国の内政に口を出して民衆の革命を促したりしている暇はありませんよ」
「わかっている」
李広利は頷きながら思いを巡らせた。確かに、世界は広い……外国には我々の思いもつかないことが常識として存在しており、その思いもつかない常識というものは、往々にして信じられないものなのだ。疏勒の人々は、五本指の我々を見て、醜いと思うのだろうか。身毒の人々は、服を着ている我々を見て、みっともないと思うのだろうか。おそらく思うのだろう。
彼は、世界と関わることを重荷と感じた。彼はもと楽士であったが、今は正真正銘の軍人である。いや、軍人に過ぎない。漢の洗練された文化を世界に広める役目は、別の誰かにやってもらいたかったのである。
五
疏勒の市街は賑わっていた。我々は城門を通過する許可を得て、使節の接待を受けた。その使節が市街を案内しているのである。
路上には多くの露店が並んでいる。時折砂まじりの風が吹くが、夏の終わりの頃とあって、気候は穏やかだ。
「今が、一番いい季節です。冬が明けた頃もいいのですが、そのころは風が強いので今のほうが快適に過ごせます」
我々は、自分たちの感覚で物事を見すぎていた。今は夏の猛暑が過ぎ去ったあとなので、当然初秋だと考えていたのだ。
しかし現地の民衆には、そのような感覚はない。彼らには、春と秋がなかった。おそらく、今の快適な季節は十日も続かないのだろう。西域に冬が訪れるのはもう間もなくであった。
露店の商人、客寄せをする踊り子などの姿を注意深く観察すると、彼らは普通の五本指を持ってることがわかった。
「普通じゃないか」
我々は口々に李哆に対して、話が違うのではないかと疑問をぶつけた。当の李哆も訝しげである。彼は抗弁するように言い放った。
「しかし、男は皆帽子をかぶっており、女は色のついた布を頭から下げています。生まれたときに頭の形を変えるという説は、まだ否定されていません」
李広利はそれに答えて言った。
「使節の彼に聞いてみればいいだろう」
そこで我々は先導する使節の男に問いかけ、手を見せてもらった。
長めの袖に隠されていたその手があらわになったとき、我々は等しくたじろいだ。それは紛れもなく六本指だったのである。
「親指が二つある!」
我々の驚きをよそに、その男は自身の優位性を主張しだした。
「疏勒では、このような指を持つ者しか宮仕えはできません。五本指の者は賤民とみなされ、社会的に優遇されないのです。そのうち淘汰されるでしょう」
李広利は一同を代表して、皆が持つ疑問を言葉にした。
「しかし私は、君のような六本の指を持つ者を初めて目にした。楼蘭でも、大宛でも、漢でも匈奴でも、人は五本の指を持つことが普通だ。それが淘汰されるなど、あり得ることなのか?」
疏勒の男は苦笑したようであった。冷ややかな笑いと言ってもよい。
「あくまでこの疏勒国内での話です。例外はいくつかありますが、六本指を持つ親からは、六本指の子が生まれることが多いのです。我々はこれを疏勒の独自性として尊重することにしたのです。他の国でも六本指が多ければ、それが成り立たなくなるので、他の国々で淘汰されてしまっては、話になりません」
確かに、国の独自性を何らかの形で示したいということは、わかる気がした。だが腑に落ちない面もある。五本指であろうが、六本指であろうが同じ人間であり、人間の機能として、さほどの違いはない。むしろ、六本指を持つことで不都合が生じることの方が多いのではなかろうか。
「漢では、食事のときに箸を使い、文字を書くときには筆を使う。それらはすべて、五本の指で扱えるよう、設計されたものだ。君たちの食事の道具は、主に六本指で扱うために作られているのか」
「食事に道具など必要ありません。我々は、手で食べますから」
案の上の答えであった。もちろん彼らは、文字も持たないだろうから、筆に相当する道具もないだろう。李広利はこれについて質問することをやめた。
「もちろん日常生活は、五本の指で何ら支障はありません。私たちもそのことは理解しています。六本の指は、疏勒人の象徴のようなものですよ」
「例外はいくつかある、と言ったが、王族の中に五本指の子が生まれたときは、どうなるのだ」
「はっきりとは申し上げられません。しかし殺さないということだけは断言します。ただ、育てないだけです」
断言するという割には、曖昧な返答だった。我々は、一様に嫌悪を感じざるを得なかった。
「そのような習俗……長続きはしまい。五本指の子は、いつまでも生まれ続ける。なぜなら、それが普通だからだ。いくら君たちが六本指の子孫を増やそうと努力しても、五本指を持つ人民の数を上回ることはないだろう」
使節の男は気分を害したようであった。しかし我々の武力を前にして、それを言葉にすることはできなかったようである。
李広利は、なだめるように言った。
「我々は君たちの文化に口出しするつもりはない。しかし、文化の発展というものは、身体的な特徴などによるものではないのだ。文字を書き、未来の人民に向けて伝承すること、大きく言えばこれに限る。宮殿に戻ったら王にそう伝えるがいいだろう。あくまで、私の個人としての見解だと注釈をつけた上でな」
使節の男は、承知したと言ったものの、その場に気まずい空気が流れた。彼はその六本の指で顔を擦り、自分たちの優越性を否定されたように小さく舌打ちした。
「どうします?」
李哆は小声で李広利に問いかけた。我々は、この疏勒国内で冬を明かすつもりなのである。宿舎や食事を提供してもらえないようなことになると、非常に困るのだった。
「まあ、困ったら武力に頼るしかなかろう。しかし、それにしても……六万以上の兵と馬を休ませるための施設が、ここにあるようには思えない。ここの人口はどのくらいだ?」
「人口は、確か一万前後です。しかし問題はありません。ここは西域の西側の入り口にあたるので、商人や使節団のための宿舎がそろっています。問題なく、この人数なら収容できるはずです」
「しかし、使者は気分を害してしまったようだ。我々のことをよく取り次いではくれまい。こうなったら、直接王に会うしかないかもしれぬ」
そこで李広利は、使者に向けて王に会いたいと告げた。しかし、その男は急に表情を険しくし、その理由を問い返した。
「私では、不充分ということですか。王さまにお会いになることは、できることならご遠慮願いたいのです」
我々は、皆その言葉に驚いた。というのも、使者の口ぶりに激しい動揺がうかがえたからだった。
「何か、お会いしてはまずい理由でもあるのか。実を言うと、我々はここで冬を越す計画をしているから、ぜひ会ってご許可をいただきたいのだ。無用に諍いを起こすつもりもないので、事前に懇親を深めたいと思うのだが」
「おそらく、いや間違いなく、王さまとあなた方とのお話しは通じ合いません。お会いしても無駄だと思われますが……」
「ならば、貴公が我々の滞在を許可してくれるか。それが可能であればもっとも話が早いのだが」
「いえ……私の一存では決められません」
「では取り次げ。私の身分は将軍に過ぎないが、こと西域諸国との交渉に関しては、皇帝の代弁者としての権限を与えられている。王が会わない、ということは礼を失するに値することなのだ。……言っている意味はわかると思うが」
「……では王宮までご案内いたします。ですが、交渉は高官となさった方がよろしいでしょう。恥を忍んでいいますが、我々の王は、あなたの仰ることが理解できないに違いないのです。あらかじめ、伝えておきます」
使者の男は、李広利のやや脅迫めいた要求に、仕方なく応じた。我々は不思議に思いながら、道を急いだ。
六
王宮は比較的質素であり、屋根や外壁に派手な装飾は見られない。それでも周囲の建物と比べるともっとも大きいものであったが、来襲者からの防御の仕組みも空濠のみであった。
「商業が盛んな割には、あまり金をかけていない造りだな。これで王の威厳が保たれるのか」
疑問を持った李広利であったが、使者の男はこれに対して自信満々な返答を用意していた。
「疏勒は、税が低いのです。王族が贅沢な暮らしをするより、民の幸福を政策として選んでいるのですよ」
「ほう……」
我々は中に進み、城内を注意深く観察した。確かに、宮中の様子は閑散としていており、建物の片隅には雑草まで生い茂っている状態である。それに我々が驚いている間、使節の男は誰かと協議しているようであった。
「奥の間にご案内いたします。王さまがお見えになりますので……全員は入れませんので、兵の皆さまはここで待機していただきます」
そこで李広利は私と李哆、通訳の丘就卻を伴い、奥へと進んだ。兵の監督は趙始成に任せた。
官営の宿泊施設を利用できるかどうかだけが訪問の目的だったが、そこで我々は驚くべき光景を目にすることになる。疏勒王は、非常に奇異な姿であったのだ。
二人の少童が押す車輪突きの椅子にもたれかかりながら、王は姿を現した。
事前に年齢を聞いていたが、先日四十の誕生会を催したばかりだという。しかし背は小さく、冠もかぶっておらず、髭もなく、視線は空を泳いでいた。
「まるで子供ではないか。李哆、聞いていたか」
「いえ……しかし、これで四十歳だと……これはどういうことでしょう」
我々は小声で囁き合い、目の前の奇妙な事実を検証し合った。周囲の高官と思われる人物たちが、それを咎める視線を送り続けた。
王と思われるその男は、何か遠くのものを見ており、我々と目を合わそうとしない。生きていることは確かだが、意識がここにあるのかどうかが定かではなかった。
足をぶらぶらさせている。呆れることには、鼻水を垂らしながら、それを気にする素振りも見せなかった。
「あまり……外見を気になさらない王さまのようだ。しかし、用件は聞いていただかないと」
李広利は立ち上がって本題に入ろうとした。しかし、先刻の使者の男がそれを押しとどめた。
「あなたにはわからないのですか。王さまに、判断力などありはしません。それでもあなたがお会いしたいと仰るので、ここにお連れしたのです」
「では貴公は……君たちの王は、外見の通りだというのか。言っては失礼かもしれぬが、あれでは痴呆だ。人としての機能に、どこか障害があって……王どころか普通の人としても不充分な存在だ。なぜ廃位しないのか?」
使者の男の顔は、不機嫌そうに歪んだ。
「廃位などと……なんと言うことを仰るのですか。見てご覧なさい。王さまは疏勒人として完璧な容姿を備えております!」
言われて注意深く王の姿を観察した李広利は、その常人とは異なる特徴に愕然とした。
「指が七本ある………左右とも」
「足の指も同様です」
使者の口ぶりは、ようやくわかったか、とでも言いたいようなものであった。
「結った髪の毛に隠されているようだが、頭の形もよく見れば特異だ。四角く、頭頂部に丸みがない」
「多くの疏勒人は生まれたときに頭の形を矯正されます。しかし、触ってみないとわからない程度がほとんどで、王さまのように視覚的にそれがわかるほど整えられた頭の形は、他にありません」
李広利は、言葉を失った。疏勒王の痴呆は、生まれた頃の矯正が原因ではないか……おそらくそれに間違いないだろう。しかし救われないことは、周囲の者たちがそれを誇らしげに語ることだった。
「君たちは、疏勒人らしさを強調するために、ひとりの男の人格を失わせた。しかも彼はただの男ではない。この国を統括する王なのだ。それをあのような姿にして……君たちは心に恥じるところがないのか」
「政治などというものは、代わりの者がやればよいのです。しかし、この疏勒国の象徴として、いまの王さまに替わる人物は存在しません。過去においても、未来においてもです」
「……ご本人がそのことを望んでおられるのか。それもあの様子では確かめようがないだろう。君たちは、王が生まれつき七本の指を持っていることに驚喜し、さらに理想的な疏勒人としての姿を与えようと、生後間もない王の頭の形を変えたのだ。それによって、王は正常な日常も過ごせぬような姿となってしまったのだぞ。君たちは自分たちの失敗を王に詫びるべきなのだ。それを適当な理由をつけて正当化しようとしている」
使者の男は憤慨したようであった。周囲の高官たちを見回し、彼らを手で指し示しながら説明する。
「この国の政治は、彼らによる合議で成り立っています。先代の王も、その前の王も傲慢なうえに独断専行ばかりが目立ち、人々は振り回されるばかりでした。私は三代の王の下で今までの人生を送ってきましたが、今が一番平和なのです。王が象徴だけの存在となった、この今が!」
「しかし王というものは、国の礎だ。象徴として大事に扱っていることはわかったが、あの様子では世継ぎができまい。妃になりたがる女性もいないだろう。おそらく子種もないに違いない。どうするつもりなのだ」
使者は答えた。
「直系にこだわらなければ、親族はいくらでもいます。その中から、理想的な容姿を持つ人物を、我々は王に指名するでしょう」
「理想的な容姿か……よくぞ言ったものだ」
李広利は吐き捨てるように言った。象徴とするために王の人格を失わせる疏勒人の手法に、彼は明らかに嫌悪感を抱いていた。
「将軍はそう仰いますが、やはり疏勒は今が一番平和であることを繰り返しお伝えしておきます。お伺いしますが、将軍は『平等』という言葉を知っておりますか?」
李広利はあざ笑うかのようにこれに答えた。
「権利が同じであることを示す言葉だ。漢字で書いてやろうか?」
「それには及びません。しかし本当の意味で、これを実現している国は世にありますでしょうか? 疏勒は王を象徴の存在にすることで、それに近づきつつあるのです。他の国々には、その概念さえもないでしょう。あなた方の漢を含めて」
使者がそう言ったとき、疏勒王が声を発した。言葉にならぬ声であり、奇声と言っても差し支えない。しかしその音は周囲の建具が震えるような重低音であり、彼が抗議の意志を示していたことは明らかであった。
七
王を囲んだ対話は結局最後までかみ合うことなく、我々は滞在を拒否された。計画が頓挫してしまったことに対する後悔は尽きず、我々はお互いに愚痴を言い合うことしかできなかった。
「恐れながら……」
李哆は躊躇う様子を見せながらも、李広利に意見した。自分の立てた計画であったからこそ、あえて言う気になったのだろう。
「将軍がもう少し彼らの文化に理解を示していらっしゃれば、こうはなりませんでしたものを。我々は西域諸国の内政には干渉しない方針でこれまでやってきました。楼蘭でも輪台でもそうだったではないですか」
これを受けた李広利は、驚くことに素直に謝ってみせた。
「すまぬ。我慢ならなかったのだ。私はどうも……人の機能をあとから調整するということに嫌悪を抱く傾向があって……疏勒の文化のみならず、漢の宦官という制度も大嫌いなのだ」
私は、李広利の兄が宦官であったことを思いだした。彼は自分なりに思うところがあったのだろう。
「延年さまのことでございますか」
「うむ……王恢どの、私は未だに納得できないのだ」
しかし、宦官は男根を切って生殖能力を断つのみであり、人格まで失わせるものではない。疏勒王が痴呆となったのは偶然の結果とはいえ、周囲の人物たちがその結果に満足していることは、彼にとって唾棄すべき事実であった。
「王の人格を崩壊させて人々が平等を得るなどという考え方は間違っている。しかもそれが彼らの政治手法だというのであれば、そんなものは排除せねばならない」
李哆はこの意見に疑問を呈した。
「なぜです? さっきも言ったように内政には不干渉のはず。それを……」
「いずれ西域は漢の版図の一部となる。その文化圏にこのような悪習があってはならないだろう」
私は、李広利の言いたいことが理解できた。
「と、いうことは……」
「うむ。王恢どの。疏勒の宮殿は我が軍の威力を用いて焼き払う。そして、計画通り我々はここで冬を越すのだ」
「…………」
唐突な李広利の決断に我々は言葉を失った。ここで疏勒の高官たちを殺し尽くしたとしても、王が人格を取り戻すことはない。それでは、政情不安を引き起こすだけではないのか。
「約半年の間、我々はこの地に滞在することとなる。その間に現在の王を保護し、それと同時に次の王を擁立するのだ。悪習は取り払わなければならぬ」
「しかし……彼らの言う平等という観点から見ると、王政の復活は望むべきものなのでしょうか。次代の王が独尊的ではないという保証はありますまい」
私は、李広利に決断に慎重さを求めたかった。正義感だけで行動を起こすと、現地の住民にとってはいい迷惑となることが多い。やると決めたからには、綿密に大義名分も用意したかった。
「彼らの言う平等など、もともと形になっていないではないか。市街には五本指の人間が多く存在し、六本指の人物だけが支配階級として宮殿で過ごしている。この地に真の平等など、存在しないさ」
李哆もこの意見には納得したようだった。
「それは……その通りですな。では、早速行動に取りかかりましょう」
「よし。私と李哆で王宮を襲撃する。王恢どのと丘就卻は、王族の中から世継ぎの人選を」
「かしこまりました」
翌日の夕刻になると、疏勒城は火の海となった。李広利と李哆は王を保護する傍らで高官たちを殺戮した。表向きには、我々の滞在を許さなかったことへの報復が理由である。しかし実情は、李広利の感情によるところが大きかった。
「従順な者だけを残せ。逆らう奴は、殺してしまっても構わない」
かつては楽士の卵に過ぎなかった李広利の姿は、すでになかった。あるのは断固とした意思を持つ武人の姿だけであり、それが賞賛されるべきなのか、あるいは彼の過去の姿を知る者を落胆させるものなかは、私には判断がつかなかった。
このとき李広利を突き動かしたものは、義憤であった。人格を奪い去られた疏勒王に同情し、それを犠牲として平等を謳う高官たちに我慢できなかったのだろう。手段は残酷であったが、このとき我々は皆、自分たちに正義があると信じて疑わなかった。
「ついでに六本指を持つ者をすべて始末しましょうか」
李哆は本気でこの提案をしたようだった。あるいはそれも正しいことかもしれなかったが、李広利はやはりそこまではするべきでないと判断したようであった。
「優生思想を持つことには虫が好かぬが、六本指を持つ者も、自分でそれを選んだわけではない。彼らにも生きる権利はあるだろう。殺し尽くすには及ばない」
もともと疏勒には漢に対抗しうる兵力はない。彼らはほとんど抵抗できずに、騒乱は一段落することになった。疏勒城は、落ちたのである。しかし不思議なことに落とした側の漢が、王を保護しているのであった。
「王さま、以後は安楽な生活を保障します」
李広利は言い、自ら車付きの椅子を押した。
これに先立ち、私と丘就卻は数名の王族と面談した。彼らの多くは、自ら王となって立つことを拒んだ。その理由は、今上の王が自意識を失っているからこそ現在の体制が成り立っていることを理解していたからである。普通の人間であった彼らは、象徴となることで、自分たちも意識を失うことになるのではないかと将来を恐れた。
「我々が後ろ盾となって疏勒の王室を保護するからには、これまでのような暴挙は許さない。安心なされよ」
そう説得を試みたが、彼らはいずれも首を縦に振らなかった。やむなく私は、幼少の男子を選び、その者を次代の王とすることに決めた。
「安夷摩」
アニモと聞こえたので、それに当て字をして名を記録した。我々はここに滞在する半年の間に、彼を中心とする政治体制を、この疏勒に築かねばならなかった。
六本指(あるいはそれ以上)はいわゆる多指症であり、手の場合は親指、足の場合は小指が分離形成されることが多いとされている。手足の先天異常の例では比較的多いという。疏勒で六本指の人物が尊重されたという事実は史書にも記載があり、「産まれた子が六指に非ぬ場合は育てず」とある。
ホータン川は季節河川の代表的なものであり、夏の間だけタリム盆地を南北に縦断する川として現存する。