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思惑は両者共に


 受降城が築城され、浞野侯趙破奴は春に匈奴を攻めると宣言した。すぐにでも出兵すればよさそうなものであったが、この年の冬はかなり厳しく、北の地は氷に閉ざされているような状況であった。趙破奴がどのように戦略を練っても越冬は難しかっただろう。

 では、なぜ彼はわざわざ春の出兵を宣言して、匈奴に準備期間を与えるような真似をしたのか。その答えはひとつしかない。単于を裏切り、漢に呼応して兵を挙げようとしている左大都尉に時期を知らせるためであった。

 当然匈奴は対抗措置をとるべく兵力の向上を目指していたが、この年の冬の厳しさによって、それが効果をなさなかったという。このため、思いがけないところに影響が出始めた。


「イルシとコウカスコが徴兵された模様です」

 店主が言うには、匈奴は挙国体制を整えており、僮僕都尉配下の多くがこの戦いに徴発されるとのことであった。つまり、西域は「から」になるのだ。


「それはよい兆候だ。それで……イルシとコウカスコはすでに旅立ったのか」

 李広利は喜色を抑えようと努力しているようであった。明らかに僥倖であるはずの事態に素直に喜ぶまいとしている。それが李淑の思惑通りであることを受け入れたくない様子であった。


「いえ、まだ準備している最中ですが、それがどうも……彼らは行きたくないようですねえ。通告が届いてからというもの、明らかに不機嫌なのです」

「行かなければ、彼らはどうなるのだ」

「それは状況次第です。彼らの場合、二人とも烏塁にいることはわかっているので……定刻に現れなければ捜索されるでしょう。ここに匈奴の部隊が現れることになりかねません」

「それはまずいな。非常にまずい」

 しかし李広利は、イルシとコウカスコの意思を尊重しているようであった。彼らが行きたいといえば行かせ、留まりたいといえば留まらせるつもりであったようだ。なぜか——。

「その意思に反して彼らを強引に行かせれば、おそらく彼らは我々がここにいることを単于に報告するだろう。それは非常にまずい。しかし留まらせれば、匈奴が彼らを探しに来る。それもまずい。しかし、どちらがより困難な状況かといえば、明らかに単于に報告される方だ。もし匈奴の捜索隊が烏塁に現れることになったら、我々はその前にここを発てばよいのだから。寒風吹きすさぶ中だが、そろそろ行動を開始しても早すぎるということはないだろう」


 李広利は自らイルシとコウカスコのもとを尋ね、二人に問いただした。君たちの本意はどこにあるのか、と。

「君たちが単于に忠誠を尽くす形で国元へ帰るということであれば、私には止める権利がない。しかし、ここに留まりたいというのであれば、危険が伴う。君たちは捜索されたのちに逮捕され、処罰を受けるだろう。それがどの程度かわからぬが、軍事に厳しい匈奴のことだから、死罪を申し渡される可能性は充分ある。もし、その危険を覚悟で国元には帰りたくないというのであれば、私は君たちを保護して、共に漢への道を辿ろうと思うが、どうだろうか」

 問われた二人はひとしきり悩む様子を見せたが、やがて恐る恐るその決心を口にした。

「漢に参ります」

「うむ。……そうか。よくぞ決心した」

 結局李広利は匈奴人の二人を漢へ連れ帰ることにしたのである。これに対し私は危惧を抱いた。彼らの存在が敵を寄せ付ける一因になるのではないか、と。

「彼らを連れ歩くことで、余計な危険が増しませんか? 仮に正体が露見せず、うまくその存在を隠し通せたとしても、風習の違いから軍内部で衝突が生じるような予感がします。彼らは、捨て置くべきかと……」

「うむ。当初は私もそれを考えた。しかし彼らに冷たい仕打ちをした結果、こちらが不利になることは避けたい。匈奴に捕らえられた彼らが我々の存在のことを明らかにしたら……その弊害は軍の内部で喧嘩が起きることの比ではない。彼らのことは私が責任を持って……漢に帰還したのちに彼らの居場所がなければ、私自身の家令にしてもよいと思っている」

「武闘派の匈奴人が、家令などという慎ましい仕事におとなしく収まりますかな」

「わからぬ。それが無理であれば配下の兵として扱うまでさ」

 かくして、長期間にわたって活動を休止していた我が軍は、行動を再開することとなった。しかし、その前に確認すべきことがあった。

「李淑を呼べ」


 李広利は今後の計画を李淑に問いたださなければならなかった。



「さて、李淑よ……。我々は出発するが、異存はなかろうな。そして改めて聞くが、今後の予定はどうなっているのか」

 李淑は一本しかない腕を大事そうに胸の前に置き、自らを抱きしめるような仕草をしていた。我々は皆それを不自然に感じていたのだが、どうもこれは両方の腕がある者が腕組みをする動作に当たるらしい。彼にとっては自然なものであったのだろう。


「考えてあります。ご安心ください。……我々はここを出てまずは焉耆国に向かいます。そこにも私が所有する館がございますので、次の滞在地はそこということになります」

「ふむ。ここから焉耆国に至るまでは距離にしてどのくらいか」

「早駆けして半日もあれば到着するでしょう。しかし、今の季節では夜になると行軍が不可能ですので、日の高い時刻に移動は済ませなければなりません。夜になると、馬の吐く息が凍り付くほどの寒さです。野営は不可能です」

「そこに匈奴はいないのだろうな。そしてそれに替わるような勢力も?」

「匈奴は現在挙国体制を整えており、兵はみな北の戈壁(ゴビ)に集結しております。焉耆にはおりません。また、現地の人々もあなた方が傍若無人な行動を起こさぬ限り、静観していることでしょう。ご心配は無用です」

 李広利はふうむ、とつぶやき、李淑の瞳の中を窺うような素振りをした。その言葉に嘘がないか、精神に圧力をかけて探っているのだ。しかし、李淑は表面上動じなかった。

「イルシとコウカスコに動員がかかったと聞いております。焉耆国でも同じ状況です。間違いありません」

「……私が心配しているのは」

 李広利は李淑の発言を遮るような、やや強めの口調で語を継いだ。

「匈奴ではなく、君のことだ。君は焉耆にも土地を所有していると、君自身の口でそう語った。だが、それも多くの捕虜を奴隷として差し出した報酬として、匈奴から譲られたものだろう。私は、いつ君が我々を奴隷として差し出そうとしているのか、気がかりでならない」

 李淑はしかし落ち着いた口調でこれにやり返した。彼の態度は、一貫して揺るがない。

「それにつきましては先日申し上げたとおり、私の言葉を信じていただくしかありません。仮に私があなた方を匈奴に引き渡すつもりだとして……西域から匈奴が残らず出払った今では、その方法もないのです。したがって、将軍の心配は杞憂である、と私には申し上げることが出来ます」

「君は私によって裏切りを疑われていることを何度も問われても、いつも動じる素振りがない。君は綿密に言い逃れる方法を考えているのではないか。いつ何を言われても言い逃れできるように。……しかし、私はこれで君に警告を与えたつもりだ。君が我々を裏切るようなことがあったら……そのときはどうなるかわかっているだろうな」

 これは明らかに脅迫であった。しかし、この問いかけにも李淑は動じることがなかった。

「では、焉耆に行くことをやめますか。もしこの私が信用できず、これ以上の援助は不要だと仰るのでしたら、私は構いません。今すぐこの館を出て行ってもらいましょう。あなた方が寒空の下で凍え死ぬか、当てもなく永遠に彷徨うことになろうが、私の与り知るところではない」

 李広利はそれに対して無言であった。

 しかし、李淑を退出させたあとに彼が放ったひと言は、我々の意思を統一させるものであった。

「あの男は、間違いなくその胸中に企みがある。善意で我々に協力しようとする者は、絶対にあのような言葉を吐かないものだ」



「目を離すな。四六時中監視下に置け。それも相手に気づかれずに、だ」

 李広利は李淑の行動を見張るよう軍内に指令を発し、そのうえで焉耆に出発した。

 焉耆に至るまでは山越えの必要がある。それほど高い山ではないが、馬の足を鈍らせるには充分なほどで、この山がこの地の冬の寒さを助長しているようであった。山を越えた地は乾燥の度を増し、砂を舞わせる。その砂は氷のように冷たいのだが、水分が含まれていないので凍らないのである。

「夏は暑くなりますが、冬は極端に寒くなります。そのおかげか、川の周辺の土地は肥沃で、穀物から果樹まで多くの作物がここでは育ちます」

「ということは、住民は農耕民族か。都市の規模はどのくらいだ」

 問われた私は、記憶をもとにして答えた。

「確か住民は三万ほどであったと思います。西域諸国の中では中程度の国であると言えましょう。湖水があって、山中の国であるにも関わらず、魚が食べられると記憶しております」

「ほう……慎ましく暮らそうと思えば、幸せに暮らせそうな土地だな。それだけを聞くと、ここの住民がうらやましく思える。実際には匈奴の支配下にあるのだから、そんなことはないのだろうが」

 李広利は呟いたが、これは彼が思っている以上に重要なことであった。西域の住民は、匈奴が存在しなければ重い賦税に苦しむことなく、自由に暮らせる。自分たちが争うことなく、また争いに巻き込まれることなく努力していれば、他の勢力による安全保障など不要であるはずであった。


 そして漢は匈奴に代わり、この地を支配しようとしている。漢が匈奴より強権的な支配体制をこの地に及ぼそうとすれば、必然的に彼らは反発するであろう。漢は、受け入れられる努力をするべきであった。しかし実際はそのようなことはなく、大宛を攻略するという戦果によって彼らに畏怖の念を引き起こそうとしていたのである。つまり、匈奴を上回る軍事力によって……恐怖でこの地を支配しようとしていたのだ。

「現地の人々は漢も匈奴も存在しなければ幸せだろう、という考えは常に私の頭の中にある。しかし、それは現実的な考え方ではない。現に我々は存在しているのだから……。現地の人々も漢の文化に触れ、優れた生産物を手に入れ、それをもとに商売が成り立つだろう。それはこの地に住む人々にとっても良いことであるはずだ。生活が向上するのだから」

 寒い気候が彼の思考を弱気にさせていたのかもしれない。しかし彼はまだ自分たちの存在意義を信じていた。何のために戦っているのか、彼は懸命に答えを探していたのだ。


 焉耆国の都城は員渠(いんきょ)城にあり、長安から七千三百里の位置にある。王がこれを治し、六千の兵がこれを守っている。我々はみな隊商の風俗に身を固め、城内に歩を進めたあと、李淑の所有する館に宿泊することとなった。

「さて、何の危険もございませんでしたな。私の言ったとおりだったでしょう。これで信じていただけますか」

 李広利は不機嫌な目で李淑を見つめた。明らかに彼は疑心暗鬼になっていて、無事に入国できたことを素直に喜べないでいるようであった。

「敦煌に入るまでは、心から君を信じることはしないつもりだ。しかし、無事にそれが果たせたときには、それ相応の報償を約束しよう。それは約束する」

 だから裏切るな、と李広利は言いたいのであった。

 殺伐とした空気が二人の間に流れた。李淑が単純な協力者であったとすれば、明るく疑いを否定したことだろう。だが、それを本人が行わないものだから、疑いはさらに膨れ上がる。もはや、この流れは軍が敦煌にたどり着くまで変わることがないに違いない。しかし、そうとわかっていても我々の気持ちはどこかもやもやとしていて、常に不安と欲求不満に苛まれていた。


 だがそれを打開する時期が訪れようとしていた。そのきっかけは軍中にある男の姿を見つけたときに始まる。



「なんだ貴様……。烏塁の店主ではないか。なぜここにいる」

 李広利が声をかけたその男は、部屋の片隅で屈託のない笑みを浮かべていた。

「なぜと言われても、この間、わしは焉耆で生まれたと言ったではないですか。久しぶりに故郷の地を踏んでみようか、と思っただけですよ」

「烏塁での商売はいいのか。館の管理は?」

「冬の間の旅行客は少ないから、わしがいなくとも旅館はどうにでもなるでしょう。露店の方は、やる気になればどこでもやることは出来ます」

「ほう。では焉耆の市場に店を構えるつもりなのか」

「いえ。それはもう少し落ち着いたときに……。今は将軍にお話ししたいことがあるのです」

 常になく神妙な面持ちをした店主は、小声で話そうと体を李広利にすり寄せた。その顔にはすでに笑みはない。

「……李淑は烏塁を出発するにあたって、私財をすべて処分したようです。身軽になって何か行動を起こすつもりです」

「……あの館も処分したというのか」

「破格で現地の商人に売り飛ばしました。おかげで私は実のところ、お払い箱という形でして……。あの男は、必ず何かしでかします」

「漢に帰るつもりなのだろう。身軽になって」

「甘い甘い! あの男の心はすでに漢にはありませんよ。……これまで話すことが出来ませんでしたが、李淑は烏塁城の主になることを夢見ています。単なる豪商ではなく、一国一城の主になることを望んでいるのです。その方法として、あなた方を匈奴に売り渡し、その褒美として封地を得ようとしているのですよ」

「なんだと! ……貴様、どうやってそれを知った」


 店主は含みのある笑みを李広利に向けた。どうやら、とっておきの秘密があるらしい。

「将軍。イルシとコウカスコは、李淑側の人物ですよ。彼らがそういった内容のことを話しているところを、私はたびたび目にしているのです。もちろん、彼らは気づいていませんがね」


 李広利は、ふう、と息をついた。彼は李淑を信じてはいなかったが、イルシとコウカスコに関しては、疑っていなかったのである。つまり、彼らが自然に匈奴を離れる決心をしたと思っていたのだ。

「まったく……誰を信じて良いかわからなくなってきたが……しかし店主。貴様の話はつじつまが合っているようだ。だがそれにしても……李淑の野望は実に大それたものだと言わざるを得ない。匈奴が漢人を王に封じる、そのようなことが起こりえようか」

「前例のない事例であることは認めます。しかし匈奴にとっては、しょせん西域の王です。そもそも西域は匈奴にとっても外国なのですから、外国人が王であっても構わないわけです。税さえ納めてくれれば」

「簡単に言うものだ。貴様は、実現可能なことだと思うか?」

「弐師将軍を捕らえたということになれば、不可能な話ではありますまい。李淑は、機会を窺っています。お気を付けください」



 焉耆の館に滞在すること七日目のことである。李淑は神妙な面持ちで李広利に面会を求めた。

「烏塁は新しくできた城ということもあり、私は好きなように振る舞うことが出来ましたが、焉耆はかなり古くからある国です。王もいれば、普段だと匈奴の兵もいます。私は館をこれ以上大きく出来ませんでしたし、日常に用いる品の蓄えもあまり多くありません。出来ればご協力いただきたいのですが」

 李広利はこれを強要のように捉えたようである。どうやって李淑の要請を断るか、内容を聞く前にそのことを考えたようであった。


「我々に何をせよというのだ」

 つっけんどんな言い方であり、表情もその通りであったが、李淑はそれを無視して話を進めた。

「あなた方に提供できる食料が底をつきかけているのです。この国ではあまり貨幣が流通しておりませんから、食料を得るためには何かを交換しなければなりません。つまり、あなた方の武具や兵器を提供していただきたいのです」

——そら、きたぞ。

「李淑よ。それがどういうことかわかって言っているのか。我々にとって、武器は命に等しい。なぜなら、我々は他ならぬ軍隊だからだ。武器を持たぬ兵団など、どこの世界にもないだろう。そうではないか?」

「すべてを供出せよ、とは申しておりませぬ。ごく一部でいいのです。例えば……西域の兵隊の多くは弓矢を用いますが、()を使う文化はありませんので、供出していただければ良い条件で取引できるでしょう」

「相手が用いない武器だからこそ、我々にとっては貴重なのだ。李淑は我々を破滅させる気か」

「しかし、食糧が手に入らなければ、行き着くところは死です。軍隊が破滅するより根本的な問題だと思いますが」

「いや、違う方法を考えてもらいたいものだな。言っておくが、これは君のためでもあるのだぞ。もともと漢へ帰るために我が軍と行動を共にすることを選んだのは君自身だ。軍事力がなければ君を庇護することが不可能になる」

「もはや、その軍事力も必要ありません。その段階はとうに過ぎました。なぜなら、西域には匈奴がいなくなったのですから」

 李淑の言動は非常に白々しいものであった。裏で何かを企みながら、言葉巧みに軍を無力化する意図が見え隠れする。

「ここの食糧が尽きかけているのであれば、早々にここを立ち去り、次の目的地に向かえばいいだろう。もう私はそうするつもりだ」

 李広利がそのように告げたとき、李淑の顔には多少の焦りの色が浮かんだ。


「焦ってはなりません。この冬空の下では夜営は不可能ですし、作物が育たなくなる時期には盗賊も増えるものです。もう少し慎重なご判断を」

「武器があればこそ盗賊にも対応できる。だからこそ供出はしないのだ。君こそ、もっとましな案を持ってくることだ。とにかく武具を供出することはしない」

 李淑はこのとき即座に返答せず、退出した。



 その夜——。

 私は李広利に事態が急変したことを告げねばならなかった。

「イルシとコウカスコの二人が逐電したようです」

 李広利はしかし驚く様子を見せず、落ち着いた口調で指示をよこした。

「全員に、密かに武装するよう指示を。王恢どのも鎧兜に身を固めよ。火矢を浴びせられても落ち着いて対応できるように……。私は李淑の部屋を訪ねることにする」

「訪ねてどうするというのです?」

「酒でも酌み交わそうかと思う。まだ在庫はあるだろう。店主に給仕させるから呼んでくれ」

 李広利は李淑の意図を読み、それを阻もうとしているのだろう。そう感じた私は、同行する必要を感じた。

「私もお供します」

 一度身につけかけた鎧を脱ぎ捨て、李広利と共に部屋を出た。その途中で店主を呼び止め、酒を用意させる。その道中で李広利は自らの思うところを語ってくれた。

「李淑は最後の瞬間まで動くまい。我々に疑われないよう、悠然とした態度で臨むだろう。だが、彼には死んでもらう。館の周囲を匈奴兵が取り囲んだとき、その矢面に立ってもらうつもりだ」


 やがて李広利と私は押し入るように李淑の居室内へと歩を進めた。さすがに驚いた様子の李淑は、しどろもどろになってこれに対応した。

「い、いったいどうしたというのです。こんな夜更けに」


 李広利は笑みを浮かべながらこれに応じた。

「なに、今夜は冷えるから酒でも飲もうと相手を探していたのだ。まあ、座るがいい」

 李淑は不承不承といった様子で腰を下ろした。李広利が先に述べた悠然とした態度とは違うが、やはり時間を稼ごうとしている意図は見て取れた。

「珍しいこともあるものだ。将軍が私を相手に酒をお飲みになるとは。将軍は私のことをお疑いになっているものと思っていました」

「君がその身にかけられた疑いを晴らすための機会を与えようと思ったのだ。もっとも、そのつもりがないというのであれば、私ひとりで飲むだけだが」

 そう言って李広利は李淑の盃に酒を注ぎ、飲むよう促した。


 が、李淑はそれを飲まなかった。

「申し訳ないのですが、これから私は出かけなくてはなりません。それも急ぎの用事なのです」

 李広利は結局一人で酒を飲んでいたが、不意に脅迫めいた口調でそれを咎めた。

「急ぎの用事とは、イルシとコウカスコの二人に合流することか。君らが裏でつながっていることはすでに確認が取れているのだ。真実を話せ」

 しかし李淑はしらを切った。

「そのような者たちと私とは、何の関係もございません。きっと、将軍の勘違いでございましょう。仮にその者たちと私が共謀したとして、何が出来るとお考えなのでしょうか。この非才たる身、何も出来やしません」

 李淑の発言は白々しいものであったが、李広利はそれに激怒したりはしなかった。


「では、急ぐこともあるまい。今夜の要件が何か知らぬが、他ならぬ私が誘っているのだ。夜通し付き合ってもらおう」

「困ります。どうしても外せない用件があるので……。将軍のお誘いには感謝いたしますが……」

「おかしいではないか。このような夜更けに。焉耆の王でさえも就寝する時間だ。……貴様の企みはすでに明らかだ。王恢どの、こやつに縄をかけよ」


 私は、その言を受けて李淑の体を縄で縛った。

 そのとき室内の明かり取りの窓から、複数の火矢が夜空に放たれた様子が目に入った。


焉耆国は別名イエンチーと呼ばれ、現在でもその名が地名に残っている。その民衆の風俗は遊牧民族とは違い、男性は髪を短く刈り揃え、頭巾などは用いず、首飾りでその地位を示したという。音楽を好み、言語はトカラ語を用いたが、李広利の活躍したこの時代には、まだ文字がなかったらしい。地理的には四方を山に囲まれ、夏は暑く、冬は極寒の地であった。

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