城下の策謀家
一
李淑の言葉には、暗に自分に感謝せよという意味が含まれており、李広利にはそれが気に入らなかった。
「具体的に、何をしたのか」
ふてくされたように、彼は聞いた。その面持ちに傷つけられた少年のような表情が私には見て取れたが、李淑はそれに気づかず説明を始める。
「匈奴は西域に覇権を持っているとはいえ、現在は河西回廊を失い、漢の軍事能力に恐れを抱くようになってきています。しかし彼らは迎撃しようとしていました。そこで私は、恐れながらあなた方は目的を果たせないに違いないから、放っておけばよいと単于に進言したのです。敦煌手前で蝗害に遭い、常に食糧危機の状態にあると聞き及んでおりましたので……」
「……実に結構な進言だな。匈奴の意思をくじくと同時に、私の虚栄心も根本から打ち砕く進言だ」
李淑はそこで初めて申し訳なさそうな顔をした。おそらく、あまり他人の気持ちには忖度しない性格なのであろう。
「嘘も方便と申します。あの当時、私にはそう進言する以外に匈奴の軍行動を制約する理由が思いつきませんでした」
「誰も頼んではおらぬ。君が、自分のために勝手にやったことだろう」
「しかし、事実ではないでしょうか」
李広利は、それに対し、意地になったように反論しだした。
「確かに我々の状況は君の言ったとおりだったが、匈奴が君の進言を元に迎撃を取りやめたというのは違う。彼らは、それをやろうと思ってもできなかったのだ。なぜなら、いまなお漢と匈奴は戦争中だからだ」
「ほう」
「いくら匈奴が軍事中心の国だからといって、異なる二つの敵を相手に作戦行動をとることはないだろう」
確かにこれは李広利の言うとおりである。漢は浞野侯趙破奴に命じて朔方郡に駐屯させ、また郭昌を抜胡将軍として任じている。両者は大小多くの紛争を国境を挟んだ地で展開し、その優劣は一進一退を繰り返している状況であった。
また、前の年には単于が死に、新たにその息子が即位している。匈奴の国内も混乱しているはずであった。
「その通りではございますが、私の意思はあくまで匈奴の矛先があなた方に向かわないように仕向けることです。漢と匈奴との間に講和を結ばせることではありません……したがって、私があなた方のことなど放っておけと進言すれば、彼らは思う存分浞野侯なり抜胡将軍なりと戦うことができます。しかし実を申しますと、新しい単于は年齢が若いせいか、常に戦いを好む傾向にあり……匈奴国内でも厭戦気分が蔓延しているところなのです」
「ほう。匈奴人でも戦いに飽きるということがあるというのか」
「ええ。前の年の冬が極端に寒く、家畜の多くが凍え死んだということも一因としてあるようです。いずれにしても、このことで私の進言は容易に受け入れられました。匈奴とて、人の子です。誰もが戦死を望んでいるわけではありません」
「しかし、今上の単于は戦いを好むのであろう。それなのに進言が容易に受け入れられたというのは、おかしい。そうではないか」
李淑は少し考え込む表情を見せた。彼には言いたいことがあったようだが、それをどう伝えるべきか、やや迷ったらしい。
「なんと言いますか……どうお伝えすればよいのでしょう。いまの匈奴は一枚岩ではないのです。単于を尊敬していない部下も数多くおり、その代表的な人物は左大都尉です」
匈奴は伝統的な官制として、単于の下に左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、その下に左右の大都尉を置く。さらにその下には左右の大当戸、左右の骨都侯などが置かれたが、いずれも右より左の方が上位であった。
「左大都尉といえば、単于の縁者だろう。かなりの権勢を持つ地位だ。それが単于に反感を持っていると? それはおそらく秘密なのであろうが、なぜ君に知れたのだ」
「匈奴の国内には、漢の捕虜が多数おります。また、条約を交わそうと使者を送っても抑留されることがしばしばあり、漢人同士が匈奴の国内で顔を合わせることはそう少なくありません。また……捕虜の中には脱走を試みる者もあり、数十回に一度は、その試みは成功します。左大都尉は、捕虜に自分の意向を含ませ、そのうえで脱走を補助したのです」
李広利はついに膝を乗り出した。
「ううむ、なるほど。確かに一枚岩ではないな!」
二
砂漠のただ中のはずなのに、梢の葉擦れが奏でる音や、小鳥が遊ぶ声が聞こえたりする。この部屋は涼しく、建物自体が楽園であった。しかし中の人間たちの表情はいずれも険しく、軽やかな雰囲気を漂わせているとは言えない。いや、むしろ重苦しい空気がいずれは固体化して沈殿するのではないかとも思わせるようなものであった。
李広利は言う。
「その左大都尉とやらは、何を脱走者に言い含めたのか? また、君は先の私の質問にはっきり答えておらぬ。つまり、君がどうしてそれを知ることになったのか、という質問に対しての答えを私は聞いていない」
「もっともでございます」
李淑はそう言ったが、ややぎこちない感じである。どうやら、いまこの場では話しづらい内容であるらしかった。
「恐れながら」
彼は小声でそう告げると、
「ここに僮僕都尉の手下二人がおります。彼らには漢の言葉は理解できませんが、あるいはそのふりをしているだけかもしれません。彼らを別室に控えさせるわけにはいきませんか」
と続けた。どうやら、彼らには聞かれるとまずい話のようである。李広利は部下に顎で示し、イルシとコウカスコを別室に連行させた。彼らに対する尋問がなかなか始められないことに、我々は皆一様に若干の苛立ちを感じたが、いずれ機会は訪れるであろう。
「李淑よ。さあ、話すがいい」
「では。匈奴の左大都尉は国内の漢の捕虜を密かに集めて告げました。その中に、この私も含まれていたので、この話を知ることができたのです……。左大都尉はこう申しました。『我は単于を殺して漢に降伏しようと思う。しかし漢は遠いので、もし漢が兵を遣わして我に近づいてくれるなら、我は直ちに兵を挙げよう』と」
李広利は息をのんだ。これは明らかに謀反の申し出である。
「それは……言うなれば公然の秘密というやつか。漢の捕虜たちは皆知っているが、匈奴人の大半はその事実を知らない、という……」
「まさにその通りです。漢は脱走した捕虜の口からこの事実を知り、黄河の北に受降城を築きました。そこを匈奴攻撃の拠点とすると同時に、名前が示すとおり降伏者を受け入れる施設として建造したのです。しかし、この策はまだ成功するに至っておりません。受降城が完成したのは、今年の春のことですから」
「では、これから大きく情勢が動くということか? 匈奴と漢の間に大きな決戦が控えているとなれば、匈奴の注意はそちらに回り、我々の帰路は安全なものになるかもしれない」
「私は、好戦的な単于に対してはあなた方のことなど放っておいても構わない、どうせ自滅する、と説き、単于に好意を抱かない人々に対しては、単于失脚の材料としてあなた方の安全を確保すべきと説得しました。しかし、僮僕都尉は単于直属の配下であります。そのさらに配下の連中も単于の意向には逆らうことができません」
「ならば、どうしたというのだ」
「私はあえて僮僕都尉の配下にあなた方を捕らえさせ、その後の体制を整えることに徹しました。すなわち、最終的にあなた方をこの館に招き入れることです」
「この館……? この建物が君のものだというのか。あの店主の持ち物ではなく? しかしたとえそうだとしても、我々は僮僕都尉に捕らえられなかった。逆にその手下を捕らえて虜にしたのだぞ」
李淑はそれを聞き、苦笑いしたようであった。
「まさにそのことは私の計算から外れたことでありました。あなた方は、輪台で危機から逃れ、烏塁では果敢にも逆襲に転じ……しかし、結果は同じことです。いずれにしてもあなた方はこの館に足を踏み入れました」
李広利は表情を変えることなく、たえず李淑に不信の目を向け続けていた。彼からしてみれば、当然のことである。結局自分たちが置かれた状況が未だにわからないからだ。李淑は、再三叱責されながらも、のらりくらりと結論を先延ばしにしていた。
「この館にいれば安全です。数ヶ月のうちに漢は匈奴に対する攻勢を強めようと受降城から出兵を始め、左大都尉に率いられた部隊はこれに呼応しようとするでしょう。西域を監視する匈奴の目は自国内に向けられるようになり、我々は安全に漢に帰還できるものと思われます」
「…………」
「ご不満ですか?」
「無論だ。まず第一に、君が図々しくも『我々は』などと言っていることに不満を感じざるを得ない。君はいけしゃあしゃあと我々と行動を共にするつもりでいるらしいが、私はまだそのことを容認しているわけではない」
「あなた方が安全に漢に帰還できるのであれば、ひとりのもと捕虜を旅の道連れにすることは容易なことでしょう。ここには食料の蓄えもありますので、行程の迷惑になるようなことないと思いますが」
「君がいったいどのような人物で、今後どのような行動をとるつもりなのかが、私にはわからぬ。つまり、君が我々にとっての裏切り者ではないという保証がない」
三
「私が裏切り者ではない、という保証は、私の言葉以外にございません。私自身はそのつもりはありませんが、おそらく将軍は私がそう言っても信じようとはしますまい。そのことは私自身、わかっているつもりです」
「全くその通りだ。では、どうやって私を納得させるつもりだ」
李淑は神妙な表情で訴えかけた。
「三ヶ月。三ヶ月の間、無条件でこの私を信頼してください。その間の食糧と、安全はあなた方がこの館に滞在されることで保証されます。この私を信頼して三ヶ月の間、この館に留まっていただければ、その後の漢への帰路も安全が保証されるのです」
李淑の言葉は熱を帯びていき、それに反して李広利の表情は一層冷めたものになっていく。結局李淑は、自分に何の疑いもないことを証明することをしなかった。ただ、感情と可能性に訴えただけである。ただ、李広利に李淑を処断する理由が、今のところなかったのも事実である。
「……他に選択すべき道も特段見当たらないことだし、当面は君の言うとおりにしてみるのも悪くない。が……三ヶ月の間に怪しい行動が見つかれば、そのときは委細構わず処断するぞ。その意味で、私が採る策は、君が言う『無条件』という性質のものではない」
「……お聞き入れくださり、誠にありがとうございます」
李淑はその場を退出した。彼は漢に帰還したいという自らの希望のために、我々を手玉にとった。その行為を許せないと思ったことは事実である。しかしそのおかげで我々全員が全然を確保できるのであれば、決して悪くはない結果であった。
「店主と、匈奴の二人をここへ呼べ。尋問する」
李広利が命じると、やがて三人が姿を現した。そのうち二人の匈奴は、手枷をはめたままである。
「お前たちの誰でもいいが……あの李淑という男が何者か、私に教えてくれ」
李広利が尋ねると、彼らはお互いに顔色を窺う素振りを見せ、すぐには返答しようとしなかった。その様子から、この三人の誰もがその正体を知っているようであった。
「では、店主。お前に話して貰おう。知っている限りのことを包み隠さず申せ」
「私が、ですか? ……仕方ありません、お話しします。あの方は、僮僕都尉の後見人というか、助言者というか……正式な官名はありませんが、僮僕都尉とは友人以上の関係にあります。また、それでいて莫大な利益を上げる商人でもあります」
李広利は怒りを覚えた。店主を怒鳴りつけたい衝動を抑えながら、彼は厳しく尋ねた。
「李淑は漢への帰還を望んでいたと言うが、その気持ちを内に秘めながら、あえて僮僕都尉に仕えていたというのか。店主、おまえの観点ではどう思うか。李淑が裏切り者か、そうでないか」
店主は困った表情を見せ、やがて呟くように言った。
「それは私には判断できません」
確かにその通りであろう。彼などに李淑の頭の中が見通せるようであったなら、苦労はない。李広利は質問を変えた。
「李淑が僮僕都尉の協力者だったというが、具体的にどのようなことをして協力していたというのか」
「それはもう、僮僕都尉の本来の業務というか……あの方が大物の商人だと申し上げたのはそのためです」
「どういうことか? あまりよくわからぬ」
店主は自分の言うことが李広利に通じなかったことに意外さを感じたのか、しばらくその理由を頭の中で探っているようであった。やがて得心したように頷くと、彼は調子よく説明を始めたのである。
「将軍。そもそも『僮僕都尉』とはあなた方の言葉であって、匈奴語ではアルバンとかアルバズとかいう官名なのです。しかし漢語である『僮僕都尉』とはこれを音で表した語ではありません。昔の人がこの官職の本質を見据えてこの名前を付けたにも関わらず、いまの漢の人々はその由来を忘れたように思われますな」
「何と、僮僕とは匈奴語をそのまま音訳したものではないのか。店主はその意味を知っているのか」
店主は得意げであったが、その質問に答える際は、やや声を抑えた。
「僮僕とは、簡単に言えば、奴隷を捌く役職です。李淑はその協力者として、人身を売買する商人でした」
四
「なんだと……。では我々の部隊から離脱した兵たちも、奴隷として売られたというのか。李淑の話によれば、捕虜として匈奴に送った、とのことだったが」
「将軍。それは言葉は違えど、同じ意味ですよ。奴隷として売れば、対価が貰える。捕虜として届ければ、褒美が貰える。どっちにしても同じことです」
「なんとも吐き気がする思いだ。話が本当ならば、李淑は同胞として唾棄すべき男ではないか」
李広利は苦虫を噛み潰したような表情を示し、実際に怒っているようであった。私は彼の袖を引き、あえて話に割って入ることにした。どうも怒りに身を任せては、冷静な判断ができかねるように思えたからである。
「店主どの。対価や褒美を貰えるといっても、匈奴には貨幣の文化がない。そのような中で財産を築くには難しいことと思うが、李淑はそのあたりをどう処理したのだろう」
私が呈した疑問に李広利は頷いて同意の意を示してくれたが、店主はいとも簡単にそれに対する答えを提供した。
「なに、不動産ですよ。例えば、この館です。この館を旅館として運営しているのは確かに私だが、所有者は李淑、あの男です。あの男は西域のそこかしこに匈奴から権利を保障された土地を確保し、建物を建ててもらっているのです。それを現地の者に売ったり貸したりして利益をあげているのですよ」
「では、お前も彼の商売を助けている者のうちの一人なのか」
「まあ、その通りです。私はもともと焉耆国の生まれでしたが、商売に失敗しましてねえ。そんなときにあの男に拾われたのです。いまの商売で得た利益の大半をあの男が持って行ってしまいますが、それでも不自由なくは暮らせています。この館は私にとって借り物に過ぎませんが、作りは豪勢だし、とりたてて不満はない」
「感謝しているというのか」
店主の答えが自分の意に沿わぬものであったことが不満だったのであろう、李広利はそのように反問した。ただ、それに対する店主の答えは、我々をさらに困惑させたのである。
「あの男に拾われる、ということは奴隷として処理されるということなんですよ。それを思えば、私はいい生活をさせてもらっている部類に入ると思うのです。売り飛ばされず、自分の手元に置いてくれたことは、私にとって幸運であった。……しかし、奴隷であることには変わりない。複雑なところですな」
つまり、愛憎が相半ばしているということだろう。店主の気持ちはそれに違いないだろうが、我々にとっては李淑という人物像が、より一層捉えにくくなったことは否めない。そこで業を煮やした李広利は、端的な質問を店主に発した。
「では、李淑の腹にある意思は、我々を捕らえて奴隷として売り飛ばすことなのだろうか。お前の目にはどう映るのか、聞きたい」
問われた店主はしばし沈思し、やがて答えた。
「李淑が漢に帰還したいという気持ちを持っていることは事実だと思うね。そのためにあなた方をこの館に引き入れて保護したという行為自体に嘘はないと思う。だが、油断はしない方がいいだろうな。あの男は商売に貪欲でね……。最後の最後には裏切るかもしれん」
「つまり、彼が晴れて漢に帰還できると確信した時点で、我々は売り飛ばされるかもしれない、ということか」
「焉耆にも危須にもあの男は館を持っている。漢への道を行くなら、当然あの男は自身の館にあなた方を泊めようとするでしょう。しかし朝になって目覚めてみたら、館は匈奴に取り囲まれていて、あの男だけがいなくなっていた……ということは充分あり得る」
「ふうむ……」
「もっとも、李淑がどう考えているか私にはわかりません。だから、可能性の話をしたまでのことですよ」
確かに可能性の話をしたらきりがない。李淑にしても、店主にしても、その発言を裏付けるものは何もない。どちらの発言が真に迫っているか、言葉ぶりと態度で判断するしか、この局面を乗り切る策はなかった、と言える。しかし李広利は、拙速なようだがこれを解決する策を定めたようであった。
「もし李淑が我々の裏をかこうとしているのならば、我々は、裏の裏をかくべきだな。そのためには、相手以上の知識と状況の把握が必要だ。……匈奴の二人に尋問する。店主は通訳をせよ」
五
「コウカスコが言うところによると、李淑の手引きによってあなた方を捕らえに来たそうです。いま、漢の将軍が城内にいて騒動になっているから、鎮圧する名目で捕らえればよい、と……」
「李淑は匈奴の中でどの程度の地位を得ているのかを聞け。片腕しかない男が重宝されている理由を知りたい」
李広利は質問したが、その返答を部下のコウカスコに求めた。上官であるイルシが先に答えようとしたのだが、彼はそれを遮り、あえて部下に意見を求めたのである。
「立場や地位にとらわれない意見が聞きたいのだ」
コウカスコは上官のイルシの表情を垣間見ながら質問に答えた。従ってその視線はちらちらとしていて、一定せず、落ち着かない。
「李淑がここに現れるときは、僮僕都尉の名代としてやって来ます。李淑は僮僕都尉に成り代わって我々に命令し、我々は疑うことなくそれに従います。もちろん李淑が漢人であることを我々は知っているし、そもそもは我々にとっての捕虜であることも知っています。しかし彼は数々の奴隷を売り込むことで単于の信用を得ました。李淑のあるところ、財産が生じる、と。実際にそれはその通りで、我々も李淑のことを信用するようになりました」
「李淑がおこなったもっとも大きな仕事は何だろう。彼がもっとも信頼を得るに至った仕事とは……?」
「その最たるものは、この烏塁城を建設したことでしょう。この城は新しく、非常に実験的な城でもあります。王はおらず、住民が共同で行政を司っています。規模が小さいので我々のような監視役も二人しか必要なく、効率的に支配ができます」
李広利は衝撃を受けた。この城は李淑自身が作ったものだというのか、と。
「李淑は匈奴が効率よく税収を得るには、新たな都市を作るのが最上だとして、実際にそれを行いました。しかし都市が栄えすぎてあまりにも多くの住民が流入するようになると、反匈奴の勢力が形成されることも否めません。そこで彼は必要最小限度にそれを抑え、住民の自治で事足りるような規模の都市を建設し、賦税したのです。烏塁は、現在の匈奴にとって、もっとも支配するに優しい城なのです」
「そうか……なるほど」
話を聞けば聞くほど、李淑の意図は読めなくなるばかりである。いったい彼は何を望み、最終的にはどうありたいのであろうか。
「これまで李淑に対して尋問してきたのを横で見てきたことと思うが、李淑自身は漢に帰還することを希望していると述べた。これについて君たちはどう思うか」
これに対しては、イルシが先に答えた。
「嘘だと思います」
一方、コウカスコは、
「本気だと思います」
と答えた。上官と部下との間で意見が割れたのである。ここで李広利は、上官のイルシに問うた。
「なぜ彼は嘘をついていると思うか? 李淑が我々に対して嘘をつくということは、つまるところ彼は匈奴の味方だと言いたいのか」
イルシは首を振った。
「私が感じているだけに過ぎませんが、おそらく李淑には匈奴も漢もないのです。あるのは自分のことだけでしょう。李淑は匈奴で充分に利益をあげましたが、漢に戻ってしまえば今のような暮らしは望めません。だから残る、それだけのことでしょう。あなた方と共に漢に帰りたい、と申すのは彼の戦略的な方便だと思います」
「では、コウカスコはどうこれに反論するか」
「私は、人が故郷に帰りたいと願う心は常にあると思います。李淑が匈奴で充分な利益をあげたことは、先刻イルシが申したとおりですが、彼はもう充分だと思っているのではないでしょうか。おそらく、漢では捕虜の立場から帰還したもと兵士を冷たく扱わないでしょう。よく帰ってきた、とその労をねぎらうのではないでしょうか。もしそうだとしたら李淑の期間後の生活も安定したものになりましょう。彼はそれを望み、匈奴からの脱出を企んでいるのだと思います」
二人の意見はそれぞれ異なっているが、李広利は共通する部分を見つけた。この二人は、それぞれの感じ方で李淑に好感を抱いていない。
「李淑は、三ヶ月待てと言った。私は、あえて彼の希望に添う形をとりたいと思う。三ヶ月は何も行動を起こさず、事態を見守り、現状を維持することにする。よって、君ら二人を解放しよう。だが、ひとつ条件がある」
李広利はそこで言葉を止め、匈奴の二人の反応を窺った。彼らは意外さを表情に示し、お互いに顔を見合わせている。
「私は、何も行動を起こさず、事態を見守る。従って、君たちは僮僕都尉にこのことを通達してはならない。我々はここに来ず、君たちは捕らえられることもなかった。したがって事情を根掘り葉掘り聞かれることも、手枷もはめられることはなかった。我々がここに滞在していることが露見した際は、遺憾ながら君たちを断罪する。何事もなかったことにせよ」
二人は従うしかなかった。少人数による効率のよい支配体制は、安易に覆すことが可能であることを、李広利は自身の行為で示した形となったのである。
六
夏が過ぎようとしていた。これから三ヶ月は過ごしやすい空気のもとで暮らせると聞き、砂漠にも秋があるのか、と驚く李広利であった。
「秋というか、本格的な冬を迎えるまでの準備期間でしかありません。将軍は三ヶ月の間この烏塁に留まると仰せですが、問題なのはそのあとです。三ヶ月後には極寒の冬を迎えますから、行軍はほぼ不可能に近くなります」
私は注進したが、それに対して李広利は次のように答えた。
「李淑の話によると、漢が匈奴に対して攻勢に出るのは三ヶ月後だとのことだ。おそらく受降城が完成するまでの期間を見積もってのことだろう。しかし、それによって情勢が大きく我々に有利に働くとは限らぬ。動きが見え始めるのが三ヶ月後というだけであって、我々が安全を確保できるのは一年後かもしれない。私は、三ヶ月とは言わず、安全だと判断できる限り、ここに留まるつもりだ」
「しかし、糧食が確保できるでしょうか」
「李淑が用意してくれるさ。店主を通じて。……のらりくらりと、騙されたふりをしてやってみるよ」
あるいは李広利の気持ちが萎えてしまったのか、と私は気を揉んだ。このまま何もすることなく館に滞在するということは、どうも気が引けるような気がしたのだ。
しかし兵の増強がなされない限り、我々にできることは帰還することのみである。そうである以上は、安全を確保せねばならないし、必ずやあるであろう次回の出兵のために情報を得なければならない。おそらく、李広利の判断は正しかったのだ。
我々は、烏塁で優雅な秋を過ごすことになった。
朝晩がめっきり冷え込むようになり、寝所から起き上がることがつらく感じる日々がやって来た。館の周囲に植えられた花木は紅葉を始め、やや哀愁を帯びた赤い色合いが我々を取り囲む時期となった。
「風情があるな。砂漠の中の楽園都市……。中原生まれの我々の目から見れば箱庭のようなものだが、これはこれで美しい。味わいがある」
李広利は店主を褒めたつもりだったが、彼が答えて言ったひとことで、機嫌を悪くした。
「この庭も、李淑が設計して作らせたものだよ。いや、この庭に限らず、烏塁全体が李淑の作品だ」
「……そうか。この風景は極めて漢にある景勝地に近いものだが、君たちのような西域の人々や、匈奴人もこれを見て美しいと思うのだろうか」
店主はとぼけた様子で答えた。
「私には、金をかけて木を植えたり、池を作ったりする意味がよくわかりませんよ。どうせ金を使うなら、もっと自分のために使いたいものですな」
これを受け、李広利は私にこう告げた。
「李淑が漢に戻りたいとする気持ちは、やはり本当のものなのかもしれないな」
言うなれば李淑は、当代きっての経済人であった。彼は小さいとはいえ、ひとつの国を作り出した。しかしそれが漢の風景を模したものであったことは、彼の心にある故郷への憧憬を示したものであったのだろう。
戻りたければ、戻ればいい。しかし気に入らないのは、彼が採った手法であった。我々を利用し、その運命を弄びながら、本人はそれを気にも留める素振りを見せない。漢の風景を模した都市を作っておきながら、匈奴に支配させ、さらには多くの同胞を敵国に売って利益を得た……事実が露見すれば、帰国できたとしても皇帝は彼を許さぬだろう。たとえ李広利が彼を許したとしても。
「そうであるならば」
李広利は続けていった。
「彼が許されざる者か、そうでないかは皇帝の判断に任せてもよいわけだ。我々が帰国できるかどうかは、彼の行動にかかっている。利用できる間は利用させてもらうのが得策だろう」
そして月日は流れていった。やがて空気が乾燥し、風が肌を切るような冷気をもたらす時期になると、事態は動いた。ひとつの情報が我々にもたらされたのである。
匈奴の地に前年に続いて大雪が降り、家畜の多くが凍えて死に至ったという。このことがもともと殺伐を好む単于に対する不満を増大させ、左大都尉は正式に漢の攻撃を要請したのだ。
折しも受降城が完成した頃であったという。漢は翌春に攻撃を仕掛けることを高々と宣言したのであった。
兵は二万騎、指揮官は浞野侯趙破奴である。
「さて、李淑のいうとおり三ヶ月で事態が動き出したな。今はまだ宣言したに過ぎないが、匈奴がこれに対してどう動くかで我々の行動も定まる。しかし厳しい冬の間、我々はこの館で安穏として暮らすことができそうだ」
李広利はそう言って笑った。
「李淑は我々を戦わせて自らを助けようとしたが、我々は浞野侯に戦わせて、その間に自分たちの安全を確保しようとしている。どちらもやっていることはたいして違わないな」
そもそも人というものは、他人の助けを受けて幸福になったり、成長したりするものである。しかしそれが軍人となると、その良識を疑われ、不潔さがつきまとうものである。
しかし生き残るためには、それしか方法がなかった。
僮僕都尉という匈奴の官職の役割について、具体的なことはわかっていない。これについて京都大学の羽田明氏は『東洋史研究』(1939)の中の雑録において、「一般的に遊牧民族が奴隷売買を以て主な生業の一としたと云ふことからして、此の官名の由来を説くことも出来さうである」と述べておられる。本作ではこの学説に基づいて物語を展開させてもらっている。