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烏塁の庵


 慌てふためくように城を駆け抜けたため、李広利と私の一団は最も早く集合地点に到達してしまった。予定した頃合いよりもずいぶん早く、半日以上待たなければ他の連中は到着しないだろう。

「情けないばかりだ。匈奴の影に怯え、指揮官自ら逃亡せざるを得ないとは……しかし、軍としての姿を隠しているのだから、仕方ないだろう? 王恢どのは、どう思うか」

「おそらく将軍の姿は匈奴に悟られているのかもしれません。人相書きでも手配されているのでは?」

「いや、文字も持たぬ連中に似顔絵を描く才能があるとは思えぬ。しかし、そう考えると不思議だ。市場の雑踏の中で狙いすましたように私を見つけて声をかけるとは……やはり私は匈奴に面が割れている、と見るのが自然かもしれない。だが、いったいなぜだろう」

 確かにいくら匈奴が西域に支配力を持っているとはいえ、一個人を特定してそれを捕らえることができるほど、彼らに洗練された文化があるとは思えなかった。私は本気で人相書きが出回っているのではないかと思ったが、文字を持たぬということは、おそらく筆もないに違いない。詳細な特徴を捉えた似顔絵を彼らが描けるとは、やはり思えなかった。

「誰かが教えているのだ」

 だしぬけに李広利がそのような結論に飛びついたので、私は彼の言う意味がよく理解できなかった。

「我々漢軍が大宛に遠征していることは西域諸国を通じて匈奴にも伝わっていることと思いますが……具体的にどこの誰が指揮官であるかを認識している可能性は少ないでしょう。だからといって安心はできませんが、少なくとも匈奴が何らかの形で詳細な情報を得ていることはないと思います」

「……きっと、裏切り者がいるのだ。とはいっても、それが我が軍中にいるという意味ではないが。私にもよくわからぬ。ただ、そのような気がするだけだ。そもそも私の姿が匈奴に悟られていると言ったのは、王恢どのではないか。私は、それならば、と思ったまでだ」

 私にもよくわからなかった。なぜこうも簡単に正体が見破られるのか。将軍である李広利だけではなく、他の連中も狙われているのか。いったい匈奴はどれほどの勢力を西域の監視に当てているのか。

 西域の大部分は匈奴の監視下にあるというざっくりとした情報を得ていたとはいえ、具体的には一切が謎であった。

 しかしその謎も実際に都市に足を踏み入れたことで明らかになったことである。踏み入れなければ謎は謎のままであり、我々は永遠に西域の本質を知ることができなかったであろう。


 そのようなことを考えていた際に、趙始成が部下を率いて集合場所にやって来た。これも、予定より早いことである。

「軍正。早いが……なにかあったのか」

「将軍こそ、我々より早いとは……やはり、その身に何か災いが降りかかったと見えます。実は、市場で得体の知れぬ追捕使にまとわりつかれ、隙を見て城を脱出してきた次第です」

「何か言っていたか?」

「いえ……いや、何かは言っていたのですが、言葉はわかりませんでした。あろうことか、町なかで剣を突きつけられましたよ。とにかく事情がわからず、いきなりのことだったので恐怖しか感じられませんでした。いやはや、武人といえども戦場以外では常人と変わらず……」

「そうか……とにかく無事で何よりだった。実は我々も同じような体験をしたところだ。軍正のときと同じとは限らないが、我々を追ってきた者たち……あれは匈奴の僮僕都尉の手下ではないかと私は睨んでいる。まず、間違いあるまい」

「我々が密かに輪台城内に入り込んだのを、彼らが察知しているというのですか……確証はありませんが、そういうこともあるような気がします」

「なぜだ。なぜそう思う?」

 たたみ込むようにして聞いた李広利だったが、趙始成はそれに対して申し訳なさそうに答えるのみだった。

「なぜだと問われても推測でしか答えられませんが……往路で私の不手際により脱走した兵が数多くいます。彼らの幾名かは近くの都市に逃げ込んでいるでしょう。その者たちが情報を流し、その結果として我々が危険に晒されているのだと思われます」



 李広利は言葉に詰まった。その原因は確かに趙始成にあるのかもしれなかったが、いま彼を叱責してみたところで事態が改善されるわけではない。我々に必要なものは対策であり、反省することではなかった。

「人は、生き延びるためなら何でもするものだ。彼らが我々を裏切るような行為をしたからといって、いまの私はそれをどうこうできる立場にないし、またそのつもりもない。ただ言えることは……敵に通じる行動をとる者もいれば、昔のよしみを重視して味方する者もいるかもしれない、ということだけだ。次の目的地でそれを探そう」

 我々はそこで夕刻を待ち、全員が集合したことを確認したあと、東に向けて移動を開始した。


 すでに道は砂漠化しており、夜の道は歩きづらいことこの上なかった。松明の火を最小限度に抑えなければ、どこにいるかわからぬ敵に居場所を教えることとなる。かといってそれがないと足もとが暗いので危険なのだ。

 さらに輪台ではくだんの混乱があって、まともに食糧を得ることができなかった。市場に山積みされた食物を前にして、我々は逃げなければならなかったのである。


 次の目的地は烏塁である。伝承では、

「匈奴の西辺の日逐王は僮僕都尉を置いて西域を治めさせ、焉耆・危須・尉黎の三国の間に常居し……」

 と伝えられている。烏塁は焉耆の手前にあり、まだその地には達していないが、少なくとも輪台より危険なことは確かだ。ここである程度の手がかりを掴まなければ、その先の旅程が危険である。

「少なくとも、敵の正体をはっきりさせることができれば……それなりに対処の仕方があるだろう。しかし、いまの我々には戦うことは不可能だ。どうやってその危機を乗り越えるか……つまり逃げ方を考えなければならない」

 李広利はそう言い、全員に対して、暗に暴挙に出るなと言い渡した。私は心から、この場に李哆が不在でよかった、と考えるようになった。


 やがて目の前に烏塁城の門が見えてくると、李広利は私にその勢力を確認させた。私は、記憶と記録の両方を確認しながら答えた。

「烏塁は戸数百十、人口は千二百、そのうち兵は三百名です。典型的な小城です」

 李広利は安心したように鼻を鳴らした。そのような小城が相手だとすれば、最悪戦うことも不可能ではない。しかし、それは城内に匈奴がいなければ、の話だ。

「夜が明けたら、輪台のときと同様に潜入しよう。それと、市場では可能な限り食糧を調達せよ。余剰な武具を物々交換の対象にしてもいい。敦煌に到達したら、あらためて武具は支給されるはずだ」

 そして彼はそこで一呼吸置くと、次のように付け足した。

「今回もそれぞれ分かれて潜入するが、お互いの姿が確認できる位置を保て。危機が迫ったら……前回と同じように相手が二人だとすれば、取り囲んで逆に捕らえよ」

 ただし彼は、戦わないという前提は覆さなかった。相手を捕らえて情報を引き出し、そのうえで逃亡する、というのである。目の前の敵は二人に過ぎないかもしれないが、その後ろには強大な組織が存在する、と彼は踏んでいた。

「各自、気をつけていけ。だが混乱を避けよ、とは言わぬ。敵との接触がないと、情報を得ることができぬからな。しかし、無事に食糧を得ることも大事だ」

 李広利の指示は矛盾しているようだが、どちらも大事な事項であり、我々は皆意気に感じた。ここに至り、しばらくぶりに軍は逃走以外の目的を得たのであった。


 そして我々は烏塁城内に潜入した。



 烏塁は小城ということもあり、市場の規模も小さかった。客引きの音楽はなく、舞う女性の姿も見えない。物量も少なく、果物や野菜などの生活物資ばかりが目につく。それはそれで構わないのだが、交換品として我々が持つ武具などに、彼らが価値を見出してくれるか疑問に感じられた。

「あまりぱっとしない市場だな」

 李広利はそう呟いたが、確かにその表現が相応しい。店の主人たちは奥で小さく座っているだけで、声を上げることもあまりしない。こちらが声をかければ応対はしてくれるのだろうが、全体的にそれもしづらい雰囲気があった。

「王恢どのの見立てによれば、この地区の住人たちは商売下手だな。店主が悲壮な顔をしていると、客が集まらないという意見によればだが。しかし、静かであることは我々の行動を制約する。騒ぎになると注目される危険が高い」

「でも将軍は心の中でそれを待っているのでしょう? この地に巣食う匈奴の情報を得るために……」

 李広利は気恥ずかしそうに頷き、肯定の意を示した。

「しかしその前に、是非とも必要な物資は確保しておきたい。……そこの店から食糧を買おう。穀物は少なそうだが、たとえ瓜だけでも乾きは満たされるからな」

 我々は、目の前にある露店の商品をのぞき込んだ。葡萄や柘榴(ざくろ)のほか、細長く、表面にイボの着いた瓜の一種などが店先に並べられていた。


 だが、その店の主人はいきなり我々に言い放った。

「あんたたちに売れる品物はない」

 出鼻をくじく発言であると同時に、それが流ちょうな漢語であったことに、我々は戸惑いを禁じ得なかった。

「……どういうことかな。それなりの対価は払うつもりでいるのだが」

 李広利は問うたが、店主の対応は素っ気ない。

「あんたたちに物を売ってはいけない、と言われているのだ。聞こえなかったのか?」

「誰にだ」

「それは言えんよ。言うわけにはいかない。言ったら立ち去ってくれるのか?」

 店主は嫌らしい笑みを浮かべた。この城下で初めて見る笑顔は、非常に胸がむかつくものであった。

「君は、この私がどこの誰だか知っているのか?」

「知っている。あんた、漢の将軍だろう。大宛からの帰りだな?」

「確かにそうだ。が、ここに店を出している連中は、皆そのことを知っているのか」

「なぜわしがあんたのことを知っているのか、尋ねないのか」

「どうせ答えられないと言うのだろう。しかし、さっきから尋ねているのは私の方だ。君はいつも質問に対して質問で答えるのか?」

「別に尋ねられる道理はない」

 その後、しばらく沈黙が続いた。ここまでの会話の印象では、この店主は非常に漢語が巧みで、いわゆる屁理屈までもうまく表現する。李広利は、質問の方向を変えて、さらに尋ねた。

「君は、もしかして漢の生まれなのか?」

 すると、店主はにべもない返答を寄越した。変わらぬ素っ気ない態度と共に。

「答えなければならない義理はない」

「では、他の店に行って買い物をするとしよう。せっかく言葉が通じる相手に出会えたのだが、買い物をするときは気分よく、というのが私の信条だ。あまり面白くない思いはしたくない」

「どこに行っても同じさ。この城の住人は、決してあんたに物を売ったりはしない」

「では、どの店の主人も私の正体を知っているということだな。ならば君と話を付けた方が手っ取り早い。そこの商品をすべて我々に提供しろ。さもなければ殺す」

 店主は突然の李広利の発言に、明らかに表情を硬くした。瞬間的に額に冷や汗が浮かび、声は裏返った。

「この品物を……すべて差し出せと? 盗賊のような物言いをするのだな……」

「売ることができない、というのであれば、我々としては奪うしかない。どうか我々の立場に身を置いて考えてもらいたいものだな。食糧の確保は我々の喫緊の課題であるから、君を殺してでも手に入れなければならない。さあ、どうするのだ」

「そんなことができると思うのなら、やってみるがいい。あんたは無事にこの城を出られないぞ」

 と言いながらも、店主は現地の言葉で大声を発した。おそらく助けを呼んだのだろう。

 軒を並べる店の主人たちがそれぞれ顔を出した。我々はすぐさま荷台から武具を取り出し、それぞれ剣で武装した。李広利の手にもすでに剣がある。

「本気なのか! やめてくれ」

 哀願を始めた店主だったが、李広利はそれに構わず店先の商品に剣を振るった。騒ぎを聞きつけた隣接する店の主人たちが駆けつけようとしたが、部下たちがそれを剣で阻んだ。

 李広利は剣で乱暴に商品をまき散らし、ありったけの狼藉を働いた。

「もう商品は持って行って構わないから、出て行ってくれ!」

 店主は叫んだが、李広利はしかし許さない。残酷に、彼は言い放った。

「いいや、まだだ! おまえの命も貰わなければならない」



 店主の叫び声や近所の店の者どもが騒ぐのを聞きつけたのか、やはり二人組の騎馬武者が姿を現した。

「将軍、来たようです」

 私は、李広利に耳打ちした。すると彼は店主の襟首を掴み、その喉に剣を当てて路上に連れ出した。

「お助けを!」

 店主は叫んだ。駆け寄る騎馬武者に注目されるよう仕組んだ李広利の行動は、着実に効果を発揮しつつある。彼らの注意は、我々に集中した。

 やがて武者たちが現場に到着すると、数歩離れた位置から趙始成とその部下たちが彼らを取り囲み、乱戦となった。二人はしばらく抵抗を続けていたが、取り囲む兵が投げ放った大網によって動きを止められ、観念したようだった。

 李広利はそれまで取り押さえていた店主を乱暴に解放しながら言う。

「貴様らは、僮僕都尉の配下の者か。しかし、捕らえたぞ。聞きたいことが山ほどある」

 そして彼は食糧の調達も忘れなかった。

「そこの店のものをすべて回収せよ。大分荒らしてしまったが、食うには支障ないはずだ」

 店主はこの言葉に憤慨した。

「そんな! あんまりだ」

「黙れ! お前が私と我が軍を陥れようとしていたことは明らかだ。殺されなかっただけでもありがたく思え!」


 我々は二人の捕虜を連行し、城外へ出た。そこで尋問を始めるつもりであったが、残念なことに彼らには漢語が通じなかった。

「あの店主をここに連れてくるのだ。通訳をさせる」

 店主には迷惑なことだっただろう。この日二度目の災厄というものである。彼は襟首をつかまれながら、ぶつくさと文句を言いつつ、再び我々の前に姿を現した。

「先ほどの一件で解放してやろうと決めたのだが、緊急にお前の必要性が高まった。この二人の捕虜の言葉を訳して我々に伝えよ。そして我々の質問を訳して彼らに伝えるのだ。可能だな?」

 店主はむっつりと黙り込み、承諾の意を示さない。そこで李広利は再び剣を取り出し、その先を彼の喉元に向けた。

「わかりましたよ。やります。やればいいんでしょう」

「よし、まずは二人に名前を聞け」

 促されて質問した店主は、二人から返答を得たようだった。この時点で、彼らの会話は成立しているようである。

「待て! 店主、いまお前が話した言葉は、現地語か?」

「は?」

 店主は戸惑った様子だったが、李広利は質問を繰り返した。

「お前が話した言葉は烏塁の言葉か、と聞いているのだ」

「……違います」

「では、どこの言葉をお前は喋っているのだ」

「……匈奴語です」

 まずいことになった、と店主が確信したのは、おそらくそのときだった。

「では、お前はこの者たちが匈奴だと、一目見てわかったわけだな。おそらくは、お互いに顔も見知った仲なのだろう。だとしたら、改めて名を問うまでもない。お前自身の口でこいつらについて説明しろ」

 相変わらず店主はもったいぶった態度で、返答を保留しようとしたが、李広利はまたも彼に剣を突きつけて、それを促した。

「わかりました。言います」

「早く説明しろ」

「ええと……この二人は、紛れもなく匈奴人です。兜を外せば、剃り上げた弁髪があらわになって、一目でそれとわかるはずです」

「では兜を外すように言え。手枷はしてあるが、その程度の動作は可能なはずだ」

 店主は嫌々それを伝え、二人は静かに兜を外した。後頭部まで剃り上げた頭があらわになると、周囲がどよめいた。

「ふうむ。匈奴がどういう風俗をしているか、話に聞いてはいたが……実際に目にすると恐ろしいものだな。漢の国内にも多くの匈奴出身者がいるが、彼らは捕虜となって以来、漢の風俗に同化している。私は、こうして純然たる匈奴人を見るのは初めてだ。王恢どのはどうか?」

「初めてでございます。こうしてみると、やはり野蛮な印象を拭えませんな」

 私は即座に答えたが、それは嘘をつく必要がなかったからである。この私が何を言っても、店主が訳さない限り、彼らに伝わる恐れがない。しかも、私は本心から彼らを恐ろしいと思ったのである。

「だが彼らには彼らなりの伝統があるのだろう。私としては、一目で区別できる特徴があって、ありがたいことだと考えている。何しろ、漢の国内にいるもと匈奴の者たちは、あらかじめ知らされないと漢人と見分けがつかない。……では店主よ」

「はい」

「この者たちが、どのように我々の正体を見破り、付け狙うことによって何をしようとしているのかを話せ。お前自身がそれを知らなければ、彼らに尋ねるのだ」



「それについては、わしは知らなんだ……。一介の住民に過ぎぬわしなどに彼らが何を企んでいるかわかるはずがない」

「では聞け。そう言っているではないか」

 店主は躊躇い、おどおどとした視線を李広利に向けたり、匈奴の二人に向けたりした。李広利は呆れたようにため息をつき、

「ならば質問の順序を変えてお前自身に聞く。お前が漢語を話せるようになった経緯を話せ。誰に教わったかを、詳しくだ」

 と、問い直した。

「それはもう……この地を訪れた漢人に習いました。ただ、それだけです」

 李広利はその瞬間、剣を抜いた。

「ふざけるな! 私は、それがどのような人物かを聞いているのだ。ごまかそうとするんじゃない」

 店主は両手を挙げ、焦った口調で付け足した。

「お、お許しください。その人は、漢から匈奴に亡命した人のようで、もう長いことこの地に留まっています。漢の言葉を喋れれば、わしらには商売の足しになるので……ありがたくその人の逗留を受け入れている状態でして」

「漢から匈奴に亡命した人物だと……。ならば、その人物は匈奴から任を受けてこの地に派遣されているのか」

「そうだと思います」

「逗留している、と言ったな。会いたい。どこにいる」

「……わしは隊商向けの宿屋を経営していまして……そこにずっとおられます」

「なんだと? お前の家は旅館なのか。なぜそれを先に言わないのか」

 李広利は喜色満面で、しかし店主はその理由がわからない様子であった。彼は不安げに問い返した。

「ええと……どういうことでしょう」

「わかりきっている。お前の家が旅館であれば、我々がそこに逗留するということだ」

「ひょっとして、無償でですか?」

「いや、お前の命を保障してやる。これ以上ない報酬だろうが」

「ああ……そうでしょうとも」

 店主はふてくされたように気のない返事をした。あるいは彼は冗談のつもりだったかもしれない。しかし李広利はこれを許さなかった。

「なんだその態度は? 言っておくが、旅館での貴様の応待次第では報酬は支払われないぞ。つまり、命の保証はないと言っているのだ」

 李広利が再び剣を突きつけながら言ったので、店主は不承不承従わねばならなかった。

「食事も提供します」

「よし。では匈奴の話題に戻ろう。名は何という?」

「右の男がイルシ、左の男がコウカスコといいます。イルシが上官で、この二人が烏塁城の監視を行っています。僮僕都尉の配下として」

「貴様はこの二人から我々を引き留めるよう指示を受けていたのか」

「……はい。ですが、わしらには将軍さまのお姿はわかりません。ただ、今日だけは見知らぬ者に物を売るな、と言われていた次第でして……なぜと問われてもそれ以上のことは存じ上げません。これは本当です」

「ならば、直接尋問しなければならない。店主、貴様の家でそれを行う。城外では尋問中にこいつらの味方が現れるかもしれぬからな」


 我々は、二人の捕虜を連行しながら、店主の案内で再び城内に入った。

 市場が集まる中央ではなく、裏通りを行くと、驚くほど人が少ない。烏塁は住民の少ない城なので、ほぼそのすべてが商売を生業としているのだろう。生産者がなく、取引だけでこの町は成り立っている。底が浅いようにも思われるが、だからこそ店主のように宿屋を経営する者も出てくるのだろう。

 やがてその旅館の前に一行はたどり着いたが、その景観に誰もが度肝を抜かれた。

「こいつ……。いい暮らしをしていやがる。これは宮殿なみの建物じゃないか。ごたいそうに池までこさえている」

 我々は、店主の正体に疑念を抱かざるを得なかった。門をくぐって玄関に入ると、大きな吹き抜けの構造になっており、非常に開放感がある。窓は枠にはめられた格子が開閉できる仕組みになっており、流れてくる風が心地よい。床は頑丈な無垢板で、いったいどこからこのような建築材を手に入れたのか不思議に思われるほどであった。

「貴様、どのようにしてこれほどの財をなしたのだ? いや、その前に……お前は何者だ?」

 その質問に店主は答えず、わざとらしい応待の態度で一行を中に入れた。

「さあさあ、そんなことは気にせず、おくつろぎください。こうなったからには私も腹を決めました。食事も豪勢なものをご用意します」



 部屋の調度品は質素であり、派手さはなかった。しかし抑えられた光の具合も相まって、それが涼しさを感じさせる。外の砂漠の風景に飽き飽きした者にとっては、楽園と感じさせるほどであった。

 李広利はその部屋にイルシとコウカスコを置き、自らは上座に座った。そして店主に漢から匈奴に亡命した人物をここに呼べ、と命じたのである。彼は、ここですべてを明らかにするつもりであった。


「……漢の者、名は」

「李淑、と呼んでください」

 その男は、意外に若い。李哆よりやや上の年頃であるように見えた。ただ、腕が片方しかなかった。

「おわかりいただけるでしょう。私は、戦場で傷つき抵抗できず、匈奴の捕虜となりました。帰る術もなく、そのまま亡命したのですが……。私のように無名の兵士では匈奴も厚遇はしてくれません。本来であれば匈奴軍の一員として戦わねばならぬ立場であったのですが、ご覧の通り片腕しかなく、兵士としては役立たずです。そこでかつての味方であった漢の情報を集め、それを流して生計を立てておりました」

「李淑とやら、潔く喋ってくれるのはありがたいが、それによって私の気分が晴れるということはない。匈奴に亡命した事情はわかったが、結果として君は漢が不利になるような状況を作り出した。君はここの店主に漢語を教え、店主はそれによって匈奴の策略を実現しようとした。君にとって漢語を教えることは単に話し相手を探しただけかもしれないが、現実はこの通りだ。私は、あやうく匈奴の虜になるところであったのだ」

「いえ、私はもっと罪深い男です。このような状況に至ったことは、私があらかじめ想定していたことであり、望んでいたことでもあるのです」

 李淑は壮年と呼べる年頃の男であり、片腕は失っているものの、まだまだ男盛りである。目にはぎらぎらした光を宿していた。顔立ちは端正かつ知的な香りがしたが、逆にそのことが李広利を苛立たせた。

「何を言いたいのかよくわからぬ。それとも何か? 君はこの私に殺されたいのか? 罪を罰して貰いたいのか? お望みとあれば、そうするのはやぶさかではない。しかしそれは、私が事情を把握してからだ。君は匈奴に属して漢の情報を流していたと言ったな。それは具体的にどういうことか」

 李淑は躊躇うことなく、それに対して答えた。

「あなた方の軍には離脱者が多数存在した。私は、その者たちの数名を収容し、匈奴に送りました。その過程で彼らから将軍さまの素性や、軍の行動予定を聞き出し、それをもとにあらゆる手法で情報をかき集めました。あなた方の行動は、匈奴に筒抜けになっております」

 李広利は李淑の態度と、その言上に戸惑いを隠さなかった。彼の意図が読めないのである。

「君は、我々を害することを行い、それを我々に向けて平然と述べる。私が激怒して君を刺し殺すことに恐れはないのか? また……亡命したとはいえ、匈奴の手先となって働いていることに、君は何も心に恥じることはないのか」

「先ほど将軍さまは、私を断罪するのは事態を詳細に把握してからだ、と仰いました。どうしても私のことを許せぬというのであれば、その沙汰も甘受しなければなりません。ですが、もう少し説明の機会をいただきたく存じます」

「……ふむ。続けるがいい」

「あなた方は、楼蘭に立ち寄ったあと、姑師国の常盤城を訪れ、そこの攻略に失敗されました。ここで進路を変えて天山の裏側に回り、烏孫へ入国したことが明らかになっています。この行程であなた方は数多くの試練に直面しましたが、結果的には他者からの妨害を受けることなく、独力でこれを達成しました。しかしこれは、匈奴はあなた方の行動を把握していながら、終始静観を決め込んでいたからなのです」

「なぜだ。なぜ彼らは黙って見ていたというのか」

「匈奴にとっても西域の覇権を失うことは重大事であり、あなた方の進路の最終目的地が大宛にあるということは由々しき事態であることに変わりありません。これが成功してしまえば、西域から手元に入ってくる収益の大半が失われ、極端なことを申せば、彼らは冬を越せなくなってしまいます。当初、単于はあなた方を襲撃しようと計画していました」

 李淑は淡々とこのようなことを話す。李広利は彼の態度に苛々した表情を見せ、ついに怒気を発した。

「端的に質問に答えろ! 長々と説明ばかりして私を煙に巻くつもりか」

 それに対して命の危険を感じた李淑は、ついに結論を口にした。しかし、それは充分に言葉を選んだものであった。

「お許しください。すべての出来事は、私が漢に帰還したいという思いに起因します。私は、往路では匈奴に静観するよう提案し、復路では逆にあなた方を捕らえるように差し向けました。すべては、この私があなた方と共に漢に帰還するための策略でございます」


烏塁城は、のちの時代に漢の西域経営の拠点となり、「西域都護府」が置かれた地である。しかしその正確な位置は把握されておらず、亀茲国と焉耆国の間、という程度でしか論じることができない。しかし確実に歴史は存在するのである。

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