2話 空き家
「……酷い有様だな」
街へ辿り着いた優馬だったが、その街の様子に顔をしかめる。
街中はゴミに溢れ、肉片がこびりついた何かの骨や割れた瓶が転がっていた。下水機能はとっくに機能していないのか、街の中央にある大きな道の脇につくられた排水溝らしき穴は溢れかえり、ゴミや糞尿が浮いていた。側溝にはドブネズミらしき小さな生き物がゴミを漁っており、優馬が視線を向けても構わず食事を続けている。
これでは腐敗臭がしていて当然だ。
街に入ってむせ返りそうな臭いを前にして優馬は上着を一枚脱ぐと鼻に当てて頭の後ろで結ぶ。
「無いよりはマシだが……慣れるまで待つしかないか」
衛生面などこれでは期待出来ないだろう。
久しぶりの食事をと思っていたが、腹痛を起こすくらいなら空腹を選ぶ。
元々そこまで食事を取ることを必要としない体だ。味覚を刺激するために美味しい食事をと思っただけであり、胃腸を必要以上に刺激するつもりはない。
どうやらこの街には人が住んでいるようだ。
会話こそ叶わなかったが、時折道端に酒瓶を抱えて寝ころんでいる男女が数名見かけられる。酒臭さが腐敗臭に混じって感じ取れるため、酒に酔って寝ているだけなのだろうと優馬はその場を後にする。
その他の住民はまだ見かけられない。どこかへと仕事に出かけているのか、それとも家に引きこもっているのか、前者にしろ後者にしろ人間がいるのなら情報源として期待出来るだろう。
「1つ前向きに考えることが出来るとすれば、酒と瓶を作る技術があるということだな」
どちらも優馬の担当した異世界では終ぞ見ることの無かった物たちだ。
まあ藁ぶきの家に住む者達には困難であったとは思うが、このレンガ造りの家に住む者達には可能であったということだ。
この街では衛生的に問題があるが、他の街ならば食事や休憩場所を安心して使うことが出来るのではと思えてくる。
「ベッドも駄目か。ゆっくり休みたかったのだがな」
街中を歩き回っているうちに日が落ち始めて来た。
どうやら、この世界では優馬が到着した時点で昼過ぎだったようで、野犬との戦闘と街中での探索をしているうちに夕暮れへとなっていたようだ。
どこか泊まる場所と探していたのだが宿屋らしきものは見つからない。
仕方なしに街の隅にある空き家を1つ拝借することにした。
長年誰も暮らしていなかったのか、その空き家は薄い布団が一枚埃を被って置かれていた。他に家具といったら欠けた皿が数枚置かれた戸棚くらいしかない。生活感に欠けたこの家は主を失って長いのだろう。
優馬は少し考えると空き家の外で布団を手で叩き埃を払い落とす。
まだ染みついた埃の臭いはあるが、これでマシな睡眠は取れるはずだ。
「衣食住が満ち足りていることがあれほど有難いものだったとは。有難いとは有ることが難しいと書くが良く言ったものだ」
衣食住のうち衣と住はこれで揃っているが、食は諦める他ないだろう。
「夜が明けるのを待って、それから原住民達に話しかけるとしようか。早朝ならば酔っていない者もいるだろうし」
そういえば、と優馬は思い出す。
この街で1人も子供を見ることが無かった。子供というよりも若い人間だろうか。道で寝ていた人間は老若男女問わなかったが、年齢は若くても30歳がせいぜいだった。
まともな大人を見かけなかったのと同様にどこかへと行っているのか家に引きこもっているのか……。
いや、それにしては赤子の声も聞こえなかった。年齢が一桁程度の幼い子共なら働くことは無く街中で遊んでいても良いはずなのに。
この腐敗臭と街中の様子。
これがこの街の異常だとするならば原因は一体何なのだろうか。
「正義の暴走した結果、か」
この状況を見逃す、あるいは見過ごす正義はあの場にはいなかったはず。
成否に関わらず何かしらのアクションは起こすことだろう。
だが、それなのにこの状況が続いているのだとしたら……
「世界中が似たような状況で手が追い付いていない。もしくは正義が意図的に作り出している」
神父の言葉を信じるのならば後者だろう。
しかし何を考えてこのようにしたのか。清潔感が保たれていた方が何かと良いはずだ。病気の蔓延化、犯罪率の上昇、住民の不安、負となる感情は減らないだろう。負の感情はやがて悪を生み出す。
悪を育てる正義など存在しない。
「知らずにやっている……ならどれだけ良かっただろうか」
何をしなくても夜は更けていく。
このまま体力を温存するためにも一先ず休むかと先ほど埃を落とした布団を敷いてその上に寝転がる。
「この世界はどれだけの広さなのだろうか……」
ふと考えてしまう。
昨日までいた異世界は優馬が二日も走れば一周できてしまうほどの狭い世界であった。
恐らく地球と比べても小さすぎる世界であった。
この世界がもし広大だったとしたら。地球よりも広い世界だったとしたら……
「俺は探せるだろうか」
無論、全力で探せばいつかは見つかることだろう。
だが、悠長に探していられるほど正義も悪も暇ではない。
この世界の暴走した正義とやらはその間にも世界を壊そうとするのだろうか。
「……」
目を閉じれば前の世界の住民たちを思い出す。
彼らは彼らなりにその日を生きようとしていた。優馬という異物が混ざろうとも、怪物が生活を脅かそうとも何とか生きていた。
それを見るのが羨ましくあり嬉しくもあった。
「……誰だ?」
目を開ける。
家の前に誰かが立つ気配があった。
「……」
「強盗なら目を瞑ろう、すぐさま立ち去るがいい。この家の主に用があるなら諦めろ。俺がここに来た時にはもうすでにこの家には誰も住んでいなかった」
返事はない。
その場から気配は動かず、優馬はどうしたのだろうと扉を開けた。
「……誰?」
「それはこちらの台詞だ」
そこには10歳ほどの少女が立っていた。
「私は泥棒でも尋ね人でもない。この家は私達のもの」
「私達のもの……こんな家がか?」
この空き家はまるで数年誰も住んでいなかったかのような有様だった。
「こんな家とは失礼。この家は私の大事なもの。私達の唯一の財産」
「それはすまなかったな。……と、私達ということは」
「どうしたミサ。ん? 誰かそこにいるのか」
「……泥棒?」
少女の後ろに斧を担いだ1人の男がいた。
斧を見て警戒する優馬であったが、男は斧を玄関口に下ろすと、
「泥棒か。こんな何もない家に来て盗むものなどないぞ。……いや、その気概があるだけまだそこいらの連中よりはマシか」
男は笑う。
優馬が強盗だと思い込んだうえで、だ。
その前に誤解を解かないとと優馬は、
「すまないが、俺は泥棒などではない。勝手に家を使わせてもらったことは謝る。去れというならすぐに去る。だが、可能であるならば話だけでもしてほしい」
「……なるほどな。確かにこの家を見て誰も住んでいないと思うだろうな。分かった、一晩だけなら泊って行ってくれ。何も出せないが、話だけでいいなら問題はない」
「恩に着る」
少女と男が家の中に入ってくる。
「その布団にでも適当に座ってくれ。椅子はすまないがこの間壊れた」
「地面で構わない。その少女……ミサというのか? そちらに布団は座らせてやってほしい」
「そうか、ありがとうな。ミサ」
「ん、ありがとう」
この家の主は2人のはずなのに優馬が礼を言われている。
「……ん? ふかふかじゃない」
少女が布団に座って首を傾げている。
「灰色のふわふわしたやつが無くなってる。……何かした?」
「ふわふわしたやつ……埃のことか? あれなら俺が先ほど払っておいたが」
「ふわふわしていない……これじゃ気持ちよく寝られない……」
「……どういうことだ?」
優馬は男の方を見る。
埃などダニの糞やカビの胞子を含んだ集合体だ。
こんなものを纏った布団など使っていればすぐさま体調を崩すことだろう。
まさか虐待、などとは思えない。
家の中にあった布団は一式のみ。ミサの口ぶりから一緒に使っているかミサが使っているかのどちらかだろう。
ならばなぜ、このような埃だらけの布団を使わせていたのか。
少し叩けばそれだけで埃が舞い散るほどまでの布団を使っていたのか……それどころかむしろ埃があることを望んでいたのか。
考えれば考えるほど理解できなかった。
「こんな布団をなぜ使わせている。いくら生活が苦しくても埃をそのままにしておけばどうなるか分かっているだろ? アンタが丈夫だろうとその娘はいずれ病気になるぞ」
そう優馬は忠告する。
親子なのか分からないが、子供を育てるならそれなりの責任が必要だ。
体調を崩してからでは遅い。だから優馬はそう言ったのだが、
「何を言っているんだ? 今の俺達がそういうものにならない体になっているのは知っているだろ?」
「……?」
そういうものにならない体とはどういうことだろうか。
「どういうことだ?」
「だから……って、お前の体は病気になったりするのか?」
「いや、俺もそう簡単に怪我や病気になったりするわけではないが」
これは正体を言っておいた方が良いのだろうか。
この世界を正すためにも、この世界を担当する正義が何をしたのかを聞くためにも。
「俺の名前は優馬だ」
「そうか優馬。俺はゲダルだ。こっちは娘のミサ」
「ゲダル、1つ言っておかなければいけないことがある。この世界は今、異常に満ちている。俺はそれを正すために外の世界からやってきた正義なんだ」
「正義……?」
ゲダルが正義という言葉に反応する。
「正義に聞き覚えがあるのか? ならば話は早い。俺はこの世界の正義を探している。居場所が分かるなら教えて欲しい」
この世界に来たその日に原住民と話が出来たのは幸運だった。
このまま早いとこ、この世界の正義と決着を着けてこの世界を救いたい。
「ああ……知っているよ。良く知っている。この世界に現れた正義はな。そうか、お前もか。お前も子供たちを不幸にするんだな」
ゲダルは玄関口にあった斧を手に取った。
そしてその斧の切っ先は優馬に向けられる。
「ミサは俺が守る。お前が正義だというならなおさら俺は闘わなくてはいけない」
「待て、何のことだか俺には分からない。なぜ俺がお前の敵なんだ? 俺はこの世界を救いに来たのに」
「10年前、同じことを言ったやつがいた。そして結果はこの有様だ。これ以上悪化するくらいなら俺は……闘う道を選ぶ」
斧を持った一般人くらいなら優馬にとって敵ではない。
だが、この場にはミサもいる。迂闊に闘ってしまえばこれから先この親子との関係は築くことは出来ないだろう。
拳を握る優馬であったが、しかしゲダルの斧は優馬に振るわれることはなかった。
「グワウ!」
家の外から犬の吠える声がした。
一匹や二匹の声ではない。もっと……10匹を超える群れ単位のものだ。
「チッ……」
ゲダルはすぐさま家を飛び出すと声の方へと走り出した。
「ま、待て!」
恐らくはあの野犬の群れだろうと優馬は推測する。
優馬に襲い掛かった群れは追い払えたが、あの山の中にいくつもの群れがいたのなら、追い払えていなかった群れがこの街に食料を求めてやってきたのだろう。
本来は優馬が率先してその場に向かうべきなのだが、なぜだかゲダルが先行していた。
「……なんだ、付いてきたのか」
「俺は正義だ。街の人が襲われるかもしれないのに見過ごすことなど出来ない」
「そうか……なら遅かったな」
「なっ……!? これはどういうことだ……?」
ゲダルに追い付いた優馬であったが、ゲダルの指さす方を見て驚いた。
野犬に人が襲われていた。襲われているのは酒瓶を持って寝ていた者達だろう。そして襲っている野犬。これは優馬の推測通り、追い払った犬ではなく別の群れであった。
ここまではいい。まだ理解できた。だが、襲われている人は誰も逃げ出そうとしていなかった。
「混乱している……あるいは恐怖で足が竦んでいるのか?」
どちらにせよ早く助けなければならない。
近くにいた、人を襲っている野犬の一匹を蹴る。昼間追い払った時と同様に殺すことはしない。だが、すでに人を襲っているため少しばかり力は強めである。
「きゃっ」
少女の声がした。
振り返ると、ミサが野犬に足を噛みつかれていた。
優馬とゲダルが揃って家から飛び出したため付いてきてしまったのだろう。
すぐそちらへと向かおうとした優馬よりも先にゲダルが斧を振り上げてミサへとへと走っていく。
殺すのか、そう叫ぶことを優馬はしない。娘を襲われて追い払うだけなど我慢できないだろう。
そこまで優馬も野犬に対して優しくできない。
「ミサ、我慢していろよ」
そして、振り上げた斧をミサの足に噛みついている野犬の鼻っ面に――ではなく野犬に噛みつかれているミサの足に向かって振り下ろした。
躊躇いもなく振り下ろされた斧はザクリ、という音とともにミサの足を切断し、血しぶきをミサと野犬とゲダルに撒き散らしたのであった。