プロローグ 正義その1
世界には正義と悪が存在していた。
両者は決して均衡しておらず、決して平等な扱いをされてはいなかった。
そして、決してその2つの間に線引きはされず、両者の間を入り乱れる者も少なくはなかった。
正義とは力が必要か。否、正しいと思う行いをすればそれは正義である。
悪とは力が必要か。是、力の無い悪などすぐさま正義に押しつぶされてしまうだろう。
正義を滅ぼす者はおらずとも悪を滅ぼす正義はある。
何故ならば悪とは他を害するからである。正義とは悪を滅するために存在するからである。
しかしながら力無き正義は何も出来ない。
悪は己の為に行動し弱者を害する存在であるが、正義とは弱者と己を守りながら悪と闘わなければならないからである。
弱くとも心さえ正しいと信じているならば正義となれるが、力無き正義は何の役にも立たない
弱くとも更に弱い弱者を虐げることで益を得る悪。
強者を相手にしなければならない正義と弱者を相手にする悪。
どちらがより簡単に楽に生きることができるかと問われれば当然後者であろう。
だから悪は蔓延る。
決して絶えない。
弱者がいる限り、弱者の一部は悪と成り下がり、弱者の中でも格付けが決定されてしまう。
正義の心を持っていたとしても正義として行動するのであればそんな彼らを倒すための力を必要とする。
彼らは力を欲した。悪を倒すための力を。
彼らは欲した。自身を正当化するための力を。
彼らは欲した。自身が正しいと思う行いを誇るための力を。
彼らが命を賭したところで悪は滅びない。
だが、少しでも笑顔が増えるならばと彼らは闘う。
明日、命が終わるならば今日のうちに救えるだけ救ってしまおう。
1秒でも多く正義としての力を振るえるならばそれだけ救える命も多くなると今日も闘う。
そして正義は増え、力ある正義は更に増え、悪は減った。
やがて正義は衝突する。己の抱えた正義と相手の正義は矛盾することに気づいて。
相手の正義はともすれば己の思う悪なのではないか。
正義と正義は闘う。それこそ正義と悪の闘いと何ら変わることなく。
「招待状……」
正義そのものとは関係が薄いが、正しさを象徴するならば切っても切れない関係であろう教会から一枚の招待状が佐藤優馬に届いた。
優馬にとって幾度戦場を経験しても尚、それよりも慣れない場所である教会。
来なければどうなるか、それが分からないからこそ優馬は大人しく招待状に従わざるを得なかった。
何よりも、優馬の正義としての力は教会から与えられたもの。
戦場を超えるためにはほとんど意味を成し得なかった能力ではあるが、身体能力に限っては死線を越えるために必要となった場面は多かったため、教会の指示に従わなかった結果剥奪なんてことになれば困る。
「何をやらされるのかは分からないが、何が議題かは分かってしまうあたりこの世界も歪み始めているな……」
今、この世界では正義は飽和状態となっていた。
悪は存在するが、それ以上に強力となってしまった正義によって速やかに排除されてしまうため、悪はその存在をひた隠しにする。
悪の心を隠して生活を送っている。バレてしまえば即座に滅ぼされる存在などまるで魔女狩りの如き、弱者を刈り取る悪と同じ行動のように思われてしまう。だが、それでも刈り取る側はそれを正義と信じて疑わず、周囲もこれを正義の行いと称えるため悪は小さな声ですら講義を奏でることは敵わなかった。
今や正義の力を持つ者の一部は悪を相手にするよりも戦場で自身の国を正義として勝利に導かせるものとなっていた。
「まさか正義同士の闘いは止めろだなんて言わないだろうな……」
優馬もその戦場で闘う正義の1人であり、悪を滅ぼすなどせいぜい近所のスーパーで万引きを見かけた際に警察に引き渡す程度。
身体能力は一般人を凌駕してはいるが、銃弾を何発かぶち込まれれば致命傷に届くかもしれない程には弱い。無論、他の正義が同等の力なのかは優馬には分からないことではあるが。
「まあ仮に正義同士の衝突を咎められたとしても俺は大丈夫か……」
哀しいかな、優馬は正義としての身体能力の強化率は低い方である。
それは当人には知らされてはいないが、周囲には無言の事実として知られており、彼は戦場において一般人を相手にすることこそあれ正義との衝突はまず間違いなく敗北することが予想されている。そのため彼に割り振られている戦場は主に領土の最低限の確保。内地が主であり、先頭立って攻めることはない。
当人はこれが普通の戦場なんだろうと思っているが、実は同じ戦場に他の正義がいたというケースはいくつか存在していたのだ。
教会に辿り着くと優馬は感慨深い思いを胸からこみ上げさせる。
正義になりたい。そう願ったその日のうちにはこの教会の門を叩いていた。正義としての適性試験を受け、正義としての力を得たあの日を忘れることはないだろう。
「いよう兄弟。何か心配ごとかい?」
思い出にふけりながら教会の扉を開けたせいだろう。
扉の陰に立っていた男に優馬は声を掛けられるまで気が付かなかった。
「……何でもない」
見る限り教会の関係者ではない。ならば、正義だろう。
正義同士の慣れ合いは必要以上にするべきではない。
なぜならば、正義は衝突することもあるからだ。
悪と闘うために正義が共闘するだなんてそれは御伽噺だけであり、実際は悪と正義が共闘して1つの正義を倒すなんてこともある――と優馬は教会に教えられたことがあった。だからお前はそんなことするなよ、と言外に窮されていたのだが優馬は真正直に悪との共闘だなんてまっぴらごめんだと返していた。
「待てよ兄弟。この中を少しでも見たかい?」
「正義となった時に一回。そして闘いを終えるたびに毎回報告には来ている」
「違えよ。今日、この中を一回でも見たか聞いているんだよ」
「……? それはまだだが」
優馬は正義として活動する際は言葉を堅くするよう心掛けている。
彼の心に灯る正義の像とは誰もが掲げる正義像そのものであり、悪を滅ぼし人知れず去っていく姿であった。
孤高とも孤独とも言えるが、それが格好いい正義だと優馬は信じていた。
「じゃあ見てみろよ。勢揃いだぞ」
「何がだ?」
教会の扉を潜り奥へと進むと、そこにはこれまでに見たことの無い光景があった。
「これは……」
「どうだい?」
優馬が絶句しているとそこに先ほどの男が近寄ってきた。
「最強に最高、それにありゃぁ最適かな? 世界でも名だたる有名な正義の味方さんどもだ。あいつら1人いれば悪の組織なんてこぞって逃げ出すって噂だぜ」
男の言う通り、そこにいるのは1人での正義を自称する優馬ですら知っていた正義の各々であった。
強さを体現とする『強さこそ正義』
勝つことを信条とする『勝った方が正義』
正義そのものである『俺が正義』
まだまだ多くの正義がこの場にはおり、互いに目線こそ合わすが会話は一切行われていない――否、会話こそないが論争はあちらこちらで起きていた。
「ヒッヒッヒ。あっちにいるのは『不戦の聖女』様じゃねえか。ええっと、……正義としての名前は何だったかな。まあいいや、噂通りの良い女だ。拝めただけでも良いことありそうだねぇ」
男は本当に有難そうに手を合わせている。
優馬は早くこの場を切り上げてあの正義達と同じ様に自分の正義の有様をその立ち姿だけで現したかった。
「……それで俺に何の用だ? まさかこれを見せたかっただけじゃないだろう」
「これを見せてからが本題さ。俺は正直弱い。だからこそこれから起こるであろうことが予想できる」
「これから起こること、か」
「兄弟も見たところそこまで強さはないだろ? ああ、能力もそうだし身体能力もだ。どちらも平凡的な正義としての力じゃねえのか?」
自分でも思ってはいるが、他人に、しかもこの男に言われるのは少しながら腹が立つ。
「俺も似たようなものさ。もし弱い正義はいらないなんて言われれば真っ先に脱落するのは俺達だ。だからよ兄弟、俺と手を組まねえかい?」
「手を?」
「ああ。俺と兄弟の2人で活動しているって言えばそれは2人分の戦力として数えられるはずだ。そうすりゃ、あの正義の面々と比べても遜色ないだろう?」
「……」
優馬は改めて目の前の男を見る。
中肉中背の優馬と同じくらいの年齢の男だろう。ならば10代半ばを少し過ぎたくらいか。
鍛えてはいるようだが、筋肉の付き方は弱々しい。優馬と同じくらいの強さと先ほどこの男は言ったが、恐らくそれは自分を過大評価しているのだろう。優馬と比べても弱い。
結論としては優馬にこの同盟に対してのメリットはないということだ。
そもそもであの正義達とどうこうするという確証がない。
単に正義同士での諍いは控えましょうといったところだろうと優馬は推測している。
「無――」
「皆様お集りのようで」
無理だという優馬の言葉を遮るようにして、大きく張られた声が教会内に響き渡った。
「皆様招待状はお読みでしょうか? 破ってしまった、燃やしてしまった? ええ、ご安心を。別にそれそのものに意味はございませんので。読んだ、という結果が皆様にありましたら幸いです」
それはこの教会での一番の権力を誇る神父であった。
優馬にも正義の力を与えたいわば父のような存在。
「実は皆様同様に不詳この私めが力を与えさせていただいた方々なのです。世界中からご活躍を報告されていて私は感激し誇らしい限りでございます」
それは優馬にも初耳であった。
てっきりここと同じような教会が世界中に存在し、神父と同様の者が正義としての力を与えているのだと思っていた。
「ですが皆様。1つだけ杞憂がございまして。それは正義側が増えてしまったことでございます」
やはりこの手の話題であったか、と優馬は思う。
正義が飽和してしまったことによる悪の減少と正義同士のぶつかり合い。
それを神父は嗜めるためにこの会を開いたのだろう。
「近年は滅ぼす悪がめっきりいなくなり、正義同士での勃発もあるようで。戦場で付いた側の国の正義の旗を掲げて行動すれば敵味方になることはございますでしょう。その闘いに巻き込まれた者達の被害は大きくなれど、勝った正義の側が戦争として国の勝利に繋がることは間違いなし、ということは分かります。ええ、分かりますが……」
この時点で優馬は自分には関係ないなと思っていた。
もし正義同士で争った者達に処罰が下ろうとも、正義と争ったことのない優馬にはどうとでも言い逃れが出来る。
言い逃れが出来るだと悪みたいだから悪いことはしていないと主張できるだな、と思い直す。
「まあ悪も減ってきたことで少し正義と悪の均衡が崩れてしまっているのは周知の事実。見なくても分かる現実です。子供だって文字を学ぶよりも先に認知しています」
「いいから早うしいや。神父さんは何を言いたいんや?」
正義の1人が挙手をする。
「ほほお。『守ることが正義』君ですか。君は正義としては正しい方でしたね。その点は『不戦の聖女』……おっと『闘わない方が正義』と通じるものがありますな」
「私はただ闘いたくはないだけです。そして闘わせたくはないだけ」
神父の言葉に反応したのか1人の女が答える。
先ほど優馬に同盟関係を申し込んだ男が言っていたように美女でありスタイルも良い。年齢は優馬よりも少し上だが、それは年齢を重ねたことによる色香を醸し出していることに他ならない。
「では少し話を略して……というか、口調は砕いてしまってもいいかね? 畏まった話し方をするのは得意ではないのだよ」
そうして口調を改めて神父は話を再開する。
「君達は正義同士で闘っているね? 死傷者こそ未だ出ないが、裏ではいくらでも闘い合っているのは知っている。隠さなくていい、悪がいなくなれば必然と他の正義を悪として見てしまうのは分かるから」
すでに睨み合っている正義達もいる。
優馬にも分かる正義だと男女をそれぞれ至高とする正義達だろうか。彼らは分かりやすく対立しており、決して分かり合えないことは誰もが分かっていた。殺し合いになることは想像に容易いためどの戦場でも出会わないよう国同士で決定されていた。
「正直に言おう。もはやこの世界には正義は必要ない。戦場を駆け巡るなど戦士の領分であって正義の仕事ではない」
それは薄々優馬にも感じていたことだ。
国の正義に従って戦争を終わらせるのは間違っている。
己の正義のために闘うと誓ったはずなのに、だ。
「この世界に正義はいらない。なら、正義の力は剥奪か?」
どこからともなく声があがる。
それはこの場にいる誰もが思っていることであり、1人が代弁しただけで全員一致の言葉でもあった。
「いいや、言っただろう。この世界には必要ない、と。むしろこの世界以外の他の世界には必要なのだよ君達のような己の意思を貫き通せるような人物が」
「他の世界?」
「異世界という言葉は聞いたことがあるだろう。パラレルワールドとも少し違う。この世界とは文化も価値観も何もかもが違う世界が確かに存在する」
「それを救えってか?」
「どうやって行くんだよそんなところに」
どうやって救うのだなどという言葉は出なかった。
正義を必要としている。それだけで彼らにはその世界へと赴く理由が出来た。
「異世界が本当にあるのか、という質問が無いことは褒めておこう。まあ正義の力があるならば異世界もあるとしか私は答えないつもりではあったがね」
「もし断ったらどうなるのだ?」
ここで優馬は挙手する。
正義を実行することはまだいい。だが、異世界へ行くとなると最悪この世界と別れなければならない。
一方通行であったならば即決出来ないこともある。
「手紙の最後の言葉」
「は?」
「それぞれが正義足り得る大事にしているもの。帰った者はこれを剥奪する」
「剥奪って」
「それが人であるならば殺そう。物であるなら壊そう。能力は勿論奪われよう。これは教会の決定事項であり、冗談などではない。だから早く戻ってきたまえ」
『普通の正義』君。
そう最後に付け足した言葉でようやく正義達が優馬に注目し始めた。
「まさかあんなやつが……」
「確かノーマライズ・ジャスティスって……」
「あんな弱そうなのが?」
「というか、隣のやつも弱そうだな」
「仲良さそうだな。もしかして組んでいるのか?」
それを聞いて隣の男が頷き手を振る。
「兄弟、俺は多田雑人だ。よろしくな」
と、小さく自己紹介までしてくる始末である。
完全にこれで仲間だと周囲にも思われ、この多田雑人も思い込んでしまったようだ。
「皆々思い出したかな? 己が大事にしているものを。場合によっては正義よりも大事なものを。いくら君達が最強でも最高でも我々にはその手段がある。何せ君達の力の根源は私が生み出したのだからな」
この一言で諦めたようにそれぞれの正義達は黙る。
「とは言え、君達は1人でも強大な力を持つ正義だ。同じ異世界に多くの正義を送ってしまえばまた同じように争い始めてしまうに違いない」
それは優馬にも容易く想像できた。
この世界と異世界。舞台を変えただけでやることは同じであろうと。
「幸いなことに君達に救ってもらいたい異世界は山の数ほどある。その中から君達に向いた異世界をいくつも選んだ。安心してその世界を救ってきてほしい。能力に合わせた分、大変な世界を任せる者がいるかもしれないがどうか乗り越えてほしい」
優馬は己が救うことになるであろう異世界を想像する。
だが、自分の能力を思い出したところで辟易する。この能力では望んだものにはならないだろう。
「先ほど問われていた異世界への移動手段の心配ならご無用だ。それくらいは我々の方で用意している。入ってきたまえ」
神父の下へと教会の奥から現れたのは1人の少女であった。
「紹介しよう。人類を愛する正義。人類しか愛せない正義である『愛ある正義』だ」
「ヨ・ロ・シ・ク」
少女は日本人離れした顔をしており、その見た目通り片言の日本語で挨拶をした。
「彼女の能力は移動系の能力でね、似たような能力を持つ正義は幾人かいるだろうが、彼女は別格と言ってもいい。人間のみに限るがね。ではやってくれたまえ」
「おい、もしかして今から行くのか?」
「不満かね? 戦場で待てと言われても待たれないように、正義に休む時間など無い。心構えなども必要はない。必要なのは正義の心だけだろう?」
少女を中心として光が発していく。
眩しい、そう思った瞬間には何も見えなくなった。
そして、ようやく視界が回復したころには、
「どこだここは……」
神父が言っていた、異世界。本当にそう表すことしか出来ないような海と木々で覆われた島の海岸部に優馬はいた。
勿論ながらあれだけ同盟を組もうとしつこく言っていた多田もこの場にいることはなく、優馬は1人砂浜で打ちひしがれていた。