終 「失せにけり」
そして明徳三(一三九二)年四月。細川頼元に案内されて、西の外れの地蔵院を訪れる幸子の姿があった。
「今となってはもう遅いが、地蔵院とやらへ参りたいもの」
と漏らした幸子の希望を入れたのである。
「大方様。雨で地面が滑りやすうござりまする。足元には気をつけなされて。どうぞ無理をなさいませぬように」
西芳寺に面しているあの急坂を登りながら、近頃は、とみに胸の動悸が激しくなったという幸子を、頼元は折々振り向いて気遣った。
「恐れ多いことながら、手前が大方様を負ぶうても」
「それには及びませぬ。まこと、すみませぬな。どうも胸が苦しゅうて、早くは歩けぬだけじゃに」
その彼へすまながりながら、まことに短い坂の途中で、幸子は時々足を止めては嘆息をついている。
結局、戦の後始末もあって、幸子とはその後再び話す機会もないまま、頼之は二週間前に風邪をこじらせて亡くなっている。義満主催の葬儀が相国寺で行われ、頼之の遺言によって宗鏡禅師も眠る地蔵院に葬られたのだ。
「兄は、上様にとって一番気がかりであった山名一族の勢力を削げて、もう思い残すことは無いと申しておりました」
「お風邪でお亡くなりになるとは、私も思いもしませなんだ。お年を召されておられたゆえなあ。無理をおさせしまいて、すみませなんだのう」
幸子が苦笑しながら応えると、
「なんの。最後の最後まで使うて頂いて、兄も私も、感謝しておりまする」
彼は首を振って言うのである。
二十五年前、兄弟で眺めたのと同じ場所から、今度は幸子が京の町を見下ろしている。桜は今年も町のあちこちで美しく咲いており、
「さぞや、私をお恨みであったろ」
雨の中、桜色にかすんだような街並を眺めながら、しみじみと彼女が言うと、
「いいえ。京に戻りまいてから、兄は大方様にお詫びを申しあげたいと常々」
「さてもお詫びとは大仰な」
「いえ、いいえ」
これが実の兄弟かと思うほどに、頼之とは似ていない角ばったその顔を「大仰に」振り、
「大方様という御方を誤解申しあげていたこと、なんとしても風邪を治して正直に申しあげ、謝罪せねばと、晩年はそれだけを気にしておりました。ささ、ま少しの足労を願わねばなりませぬ。こちらへ」
掌を上に向けて頼元は言うのである。
性格はどうやら、頼之ほどではないが彼に似て生真面目であるらしい。そう思ってみれば、幸子に向けている頼元の背中の雰囲気は、やはり兄に似ている。
「これはまた、清々しいたたずまいにござりまするなあ」
山門をくぐると、幸子は感嘆して息を吐いた。本堂へ続く砂利を敷いた道の両脇には、雨に打たれてかすかに葉ずれの音を立てる竹やぶがうっそうと茂っていて、
「右は方丈。庭には十六の羅漢に見立てた石を飾っておりまする」
「羅漢、とのう。たしか、宋よりもずんと向こうの、天竺の仏様とか聞いた覚えがあるが」
「はい。見つけた人間を幸せにするそうにござる。宗鏡禅師のお心遣いにて」
「ふむ。じゃが」
得々と説明する頼元へ、しかし何を思ったか幸子は首をかしげ、
「幸せというものは、石っころの中にあるのではなくて、人がそれぞれ、己の中に見つけるものではないかの。羅漢を見つければ幸せになれる…となれば、羅漢を求めることそのものが目的になってしもう人も出てこよう。それでは本末転倒ではないかや」
「これは…ふむ。仰せのごとく」
(なるほど、禅師が申されたように、このお方は羅漢じゃ)
確かに尼形ではあるが、それは夫を亡くした妻としての、形式上の出家である。だもので、幸子自身は特に仏教に対する造詣が深いとも思えない。恐らくこれまでの経験と、生まれもった感覚でそれを知ったのだろう。彼女の言葉に感嘆すると同時に、
(確かにこれでは、あの兄とは合わなかったに違いない)
頼元は、彼の兄が幸子に苦手意識を持っていた理由が、わずかながら、ようやく納得できたように思ったのである。
その幸子は、
「おお、疲れる。肩の凝る話はやめじゃ。さても頼之殿はどちらにおわす?」
「こちらの左で、宗鏡禅師とともに眠っておりまする」
まるで、まだ頼之が生きているかのように問いかける。微苦笑を漏らしながら頼元が示すように、本堂の左には小さな道がついていて、どうやらその奥に頼之の墓はあるらしい。
「…雨は止みまいたなあ」
そちらへ足を運びかけて、幸子はふと空を仰いだ。供の者達もつられて顔を上げると、なるほど、どんよりと空を覆っている雲の隙間から、少しずつ光が漏れ始めている。
「頼元殿へ例のものを」
そして彼女は後に付き従っていた頼元を振り向いて、傍らの侍女に持たせていた包みを解かせた。中から出てきたのは、
「観音菩薩、にござりましょうか」
「左様。ゆえあって、私が庸子殿からお預かりしたものじゃ。今、お返しいたしまする」
「…それは」
「庸子殿が、朝な夕な、もったいなくも私や頼之殿ご一族の無事を祈られておったもの。せめてこの仏様だけでも、頼之殿の側に」
「…かたじけのうござりまする」
侍女の手から渡されたそれを両手で押し頂き、頼元は幸子へ深々と頭を下げた。それへ少し笑って、
「傘は要らぬ。頼之殿と話がござりまする。少し、一人にしておいてくだされ」
幸子が言うと、頼元はしばらく配下や幸子付きの侍女と顔を見合わせていたが、
「それでは我等、方丈へ参っておりまする。後ほど、誰ぞを呼びにやりまするゆえ」
軽く頭を下げて、本堂を右へ曲がって行った。
(まあ、これはなんと)
途端に幸子は目を丸くする。
地蔵院の二代目住持、宗鏡禅師と並んだ頼之の「墓」は、
(このように、大きな岩をでん、とばかりにのう…)
次に幸子が苦笑したほど飾りもなく、素っ気無い。
余計な飾りや塔は要らぬからと、これも生前の頼之のたっての希望であったというが、木を挟んで両隣に大岩を置いただけの墓標は、
(まあ、貴方様らしいと申せば、まこと貴方様らしい)
幸子はそう考え、クスクス笑ってその岩の表面へ手のひらをそっとつけた。
(生国の三河にも、自国の領土の備中や讃岐にも戻らず…貴方様は、お亡くなりになっても、ここから上様をお守り下さっているのであろ。阿波に葬られたという庸子殿は、貴方様のお帰りを今か今かと待っておられたであろうに)
その岩の表面は、雨を含んでしっとりと濡れている。
(死してなお、上様を…お役目を果たしておいでとはのう。私には到底、そこまでは出来ませぬ。まこと、お疲れ様にござりました。お互いになあ)
思った途端、幸子の頬を雫が流れた。木の葉から落ちてきた雨の雫かと思ったが、
(あれあれ、私は泣いておるわ)
今まで誰の死にも心を動かさず、涙すら出なかった幸子は、泣いている自分に驚きながら、袂から取り出した懐紙で己の頬を拭った。
(もしも、のう。貴方様のお父上の懇望どおり、貴方様の元へ私が嫁入っていたら…否)
そこで幸子は泣き笑いの表情になり、
(いやいや、やはり貴方様と私が夫婦というのはなあ、想像も出来ぬわ。まるきり狂言の舞台ではないかえ。大根役者同士でのう)
若かった頃のように、思わず声を上げて笑ったのである。
「大方様。お茶の用意が出来ましたゆえ、お迎えに上がりました」
そこへ、若い侍女が遠慮がちに声をかける。振り返っていたずらっぽく笑いながら、
「頼之殿となあ、話をしまいた」
「まあ、どのような」
木の根に足を取られて滑りかけた幸子を、その侍女が支えながら問うと、
「さてもさても貴方様はやはり、まこと肩の凝る御仁じゃ、となあ」
幸子は再び笑った。その瞬間、我が胸を押さえてうずくまる…。
そのまま倒れた彼女が、義満の願いも虚しく、昏々と眠り続けて帰らぬ人となったのは、それから三月の後、明徳三年七月十五日のこと。この「女傑」の死を、義満のみならず皇家も惜しみ、葬儀には丁重に使者を送って追悼の念を表している。
幸子が望んでいた両天皇家の「仲直り」、南北朝の合一が行われたのは、それから間もなくのこと…。
もしも意識があれば、
「最後の『大芝居』をぜひとも見たかったのう」
と言って笑ったかもしれぬ幸子は、嵯峨香厳院に葬られた。幸子が庸子からあずかり、頼元へ託した千手観音菩薩坐像は、その後も地蔵院に国宝として大切に保管されている。
…終