四 政変、そして
(大方様も親父(道誉)殿も、気楽に過ぎる)
頼之のほうは頼之のほうで、二人の様子へ少し不満を抱いている。
応安元(一三六八)年、宗鏡禅師(碧潭周皎)に深く帰依して建立した、この地蔵院の方丈で、座禅を組んで軽く瞼を閉じながら、
(幕府の頂点に近いものとして、今少し緊張感というものを抱いてもらわねば)
考えることは、周辺の竹がもたらす静寂とは裏腹だった。
しばらく阿波へ引っ込んでいたので、いまいち中央の状態には疎い。だが、
(幕府の権威を高めるためには)
と、これも幸子とは違う立場で「まだまだ脆い幕府をより強くする」ことのみを考えているという点では同じである。
それにはやはり、幕府は一枚岩でなくてはならぬ、と、彼は幸子とこの点でも同じことを考えているし、義満を託されたことは、幕府すなわち義満を守らねばならぬという、その思いに一層拍車をかけた。というよりも、その一方向に偏ってしまった、といっていい。事実、義満に関わる行事のことごとくを、将軍の威を高めるためとして、彼は日頃の彼に似合わず、大仰すぎると非難を浴びるほどに派手にしてのけているのだ。
もともとが「与えられた仕事は十二分にこなすのが勤め」と考える、生真面目一方な人物なのである。生真面目なのは彼の家庭においても同じで、
「家庭を守り、世継ぎを生むのが妻の役目」
としながらも、正室の庸子があげた我が子が早世して後、一向に子に恵まれぬことに悩んでいる彼女を見て、愛人一人持とうとしない。ために庶子でも我が子と呼ぶものを、生涯持たなかった。
「だからといって、妻のほかにおなごを作って悲しませるのは、余計な罪作り」
と、公言して憚らぬ「カタブツ」なので、子としては実弟の、年の離れた頼元を養子に迎えて跡継ぎとなしている。
つまり、「こうと思い込んだら、それのみしか目に入らぬ」、悪く言えば年をとっても角の取れぬ頑なな人物であったということで、幸子の方もまた「己は己、人は人」と割り切って考える個性を持っている。
このような強烈な個性の者同士がぶつかりあえば、強く惹き合うか、あるいは逆に強く反発しあうかのどちらかしかない。幸子はともかく、頼之が、
「大方様には、今少し危機感というものを持ってもらわねば困る。能やら狂言やら、あのように怪しげな連中をお邸へ出入りさせて」
と、折々その弟や妻に漏らし始めても、幸子の方は、頼之が自分のことをそう言ったと、庸子から済まなさそうに告げられた時ですら、
「あの御仁なら、そう申されるであろ。あな、おかしや」
と、ただ無邪気に手を打って笑うのみであったし、
「芝居のような感覚で、男どものなす政に口を挟まれても困る」
頼之のみは、道誉や赤松則祐と違って彼女と同世代であったということもあり、幸子が政治を「どこか面白がっている一面がある」ことを鋭く見抜いてもいたから、次第に苦言を呈するようになったのも、致し方なかったろう。
繰り返すが、女性というものは、あくまでも家庭を守り、陰で男を支えるのが役割であるし、女性は男が護るべきものだというのが頼之の信条であった。それゆえに、幸子のように「おなごでありながら」政治に口を出し、夫を亡くしても悲嘆の色も見せぬと言うのは、まことにあるまじきことのように彼には思えたのである。
管領就任から二年。その間に寺社に対しては五山制度を出し、宗教への統制を厳しくする一面で、幸子にも絶賛された応安大法を、朝廷の勅許を得るという形で義満の名でもって施行しているし、義詮時代に一度朝廷へ謙譲した室町邸を、義満へ再び下されるよう、交渉を重ねてもいる。
(全ては、義満様の御為…)
義満への威信が高まれば、それは幕府の権威が高まることにもつながる。早くに実父を亡くしたという不憫さも相まって、
「上様の御父代わり、お疲れ様にござりまする」
「ありゃ、これは。気付きませなんだ。お許しあれ」
彼の側へそっと近づいた宗鏡禅師が微笑ましく思って言うように、頼之が義満へかける愛情は、実の父そのものであった。
「ま少し、肩の力を抜かれては如何かな。わが師が存命でおわせば、きっと御身を心配されておわしたろうが」
「いやいや、手前こそ、国師にさえご心配頂けるのは恐れ多い。ですがそれはなかなか」
完成したばかりの地蔵院を訪れた時は雨であったが、今ではそれがじりじりと焼け付く夏の空に変わっている。
(…清氏兄を討った私は羅刹じゃ)
軒先から見上げたその空は、雲ひとつなくどこまでも蒼い。その蒼さに、ふと何年か前の夏の出来事を思いながら、
(まだまだ、羅漢を見つけるには遠いわ)
彼は嘆息した。
「肩の力を…なかなか、できることではありませぬ。手前、未熟者ゆえ」
「上様には帝王学を、そして内と外には政を…気骨が折れることでござろ」
言いながら、宗鏡は冷えた緑茶を頼之へ勧めた。畳の色はまだまだ新しい蒼で、すがすがしい草の香りを放っている。どうやら宗鏡も、自らが差配したこの寺が気に入っているらしく、毎日のように入り浸っているという。
「いやさ、手前」
その茶は少しほろ苦いが、喉へ流し込むと通った場所から彼の喉を冷やす。少しずつ味わいながら、
「国師の仰っていたような、羅漢にはなれませぬなあ。まこと、不肖の弟子にござる」
彼は方丈の前の、十六の石を見て苦笑した。
自分で自分を「こうあらねば」と、常日頃から厳しく戒めているためか、他人に対しても、ついそれを求める。失敗をするのは人の常だとは思っていても、
(幕府の大事な政を預かる身でありながら)
と、つい思ってしまって、些細な過ちでも見過ごすことが出来ぬところなどは、己でも嫌気がさすほどで、かつて頼之がとりなして、一命がつながったはずの山名時氏の縁に繋がる氏清でさえ、たったの二年で彼を煙たがるようになってしまった。
そして、頼之を煙たがる人間は…当然のごとく、というべきか…もう一つの隠然たる勢力と見られている三代将軍後見で前将軍正室、渋川幸子へすりよるという、
(大方へ、あらぬことを吹き込んでおるのではないか)
幸子がそうそう、人の噂に左右される人間ではないと、妻の庸子からも常日頃聞かされているにも関わらず、つい、そう心配してしまうように、彼にとって甚だ面白くない結果になっているのが現状である。
もっとも、そこには反頼之派の武士らの、
(大方様も、現管領家を面白く思っておられぬはず…)
という、勝手な見方があったし、そう見られる十分な原因は確かにあったのだ。
二代将軍、義詮が亡くなる一年前の貞治五(一三四八)年に、幸子の実兄、渋川直頼の子である義行が十八歳で九州探題に任ぜられていた。幸子の甥であるからというわけで、義詮は半ばお義理でこの栄誉を義行に与えたのだろう。しかし、世間は幸子が強引に勧めたと噂しあった。結局のところ、義行は菊池氏などに阻まれて九州へは一歩も入れなかったので、頼之はこれを罷免して、頼之と親交の深い今川貞世を派遣した、それを幸子が恨んでいる、というのである。
実際のところ、いくら恐れられているからとは言っても、幕府の人事に幸子がそこまで関与できたはずがない。勧めたというのは事実だったかもしれないが、採用を決定するのはあくまで当時の将軍、義詮だったのだ。たとえ幸子が勧めたとしても、義詮がつっぱねれば、幸子の性格からして、それ以上強く推そうとは思わなかったに違いない。責任を問われるべきなのは幸子ではなくて、若すぎる義行を九州における南朝討伐という、重要な任務を負う九州探題に任命した、義詮のほうであろう。
渋川義行が九州探題を罷免されたのは、単に彼の実力不足のためである。役に立たなかったから罷免されるというのはむしろ当たり前で、何より彼の叔母である幸子が、
「不甲斐ない甥じゃなあ」
と言って、わざわざ義行を三条坊門邸へ呼びつけて、叱り飛ばしさえしている。その後義行は、世を拗ねて政治の表舞台から引っ込み、さらに出家して道祐と称して、罷免された五年後の永和(一三七五)元年に二十八の若さで亡くなっている。
ともかく、幸子は幸子で、
「義行よりは、今川殿のほうがなんぼうかマシな働きをなさろう。管領家の処置は正しいわえ。甥とはいえ、大事なお役目を果たせなければ、お役御免は当たり前。私は一向に気にしておりませぬし、私に遠慮なさることはありませぬ。じゃが、世間というものはまこと、次から次へと面白いことを考え付くものじゃ。一度は私も、噂するほうへ回りたいものよなあ」
と、カラカラ笑い、
「言わせたい者には言わせておけばよい。我らは事実を知っておる。いずれその事実が噂を消すであろ。ま、放っておかれよ」
談判に言っても、頼之の妻の庸子を、ちょうどよい相手として茶を飲んではそう言うのが常で、これも彼から見ると、面倒ごとをのらりくらりとかわしているとしか思えない。結局、頼之と幸子の間にある「誤解」を解こうともせず、武士どもらへ弁解しようともしないのだから、流れる噂のいちいちにイライラしている頼之には、歯がゆがるしか出来ない有様なのだ。
そこへもってきて、
「こなた様が五山の決まりごとを整えられまいた折、大方様からも色々とお骨折りを頂きましてな」
宗鏡までが、空になった自分の湯呑みへ二杯目の茶を注ぎながら、
「あのお方も、貴方様と同じで大したお方じゃ。政に深く関わり、羅刹ばかりの中に身を置いておられながら、なお人生を楽しむコツというものをご存知のようにみえる。幕府の中におらるる方のうち、大方様こそが、ひょっとすると、羅漢に一番近いお方かもしれませぬな」
と言うものだから、
(大方様は、ただ面白がっておるだけじゃ)
無理に自分を管領の地位につけておりながら、協力もせぬ癖に、と、頼之、いよいよもって面白くないのであった。
幸子の方では彼へ特に悪感情その他を抱いていないのであるから、そこで頼之が我を捨て、幸子と手を組んでいたならば、義満にとっても、それ以上ないほどの頼もしい『父』と『母』となり得たし、幕府の安泰はもっと早く成し得たかもしれない。だが、
「宋の昔の言い伝えにも、おなごが政治に口出しすると、家が滅びるとありまするが」
憮然として、頼之は言い張る。何がおかしいのか、
「いやはや、おっしゃることじゃ」
たちまち声をあげて笑い出す宗鏡禅師へ、彼がむっとしたまま、
「政を預かる者は、己の身を削っても、他の者の幸せを考えねばならぬのではありませぬか。手前は、己が幸せでのうてもようござる。じゃが、大方様は違う。まず自分ありき、自分が幸せでなくてはならぬと仰る。そのお言葉どおり、能や狂言を鑑賞するためじゃというては、怪しげな連中を出入りさせる。上つ方の風紀の乱れは、下にも通じる。これでは何のために手前が、ばさらを禁じたのか…その意味がありませぬ。今は皆が一丸となって、己よりも幕府のことを考えねばならぬという時に」
「それそれ、そこが肩の力が抜けておられぬと拙僧が申す所以。羅漢はなあ、思いつめている人間にはようよう見つけられぬもので」
反論すると、宗鏡は笑いを引っ込めて静かに言う。さすがに彼の言葉の中に深い意味があると悟って、考え込んでしまった頼之へ、
「一歩引いておるからこそ、物事がよう見えるということもある。今一度、お考え下され」
あまり多くを語らず、禅師は再び微笑んだ。
(…知恵を拝借しに参ったのじゃがなあ)
貴重な『休暇』は、あっという間に終わってしまった。傾く夏の日差しを背中で受けながら、六条万里小路の自邸へ馬を走らせ、
(相談する気が失せてしもうたわ)
頼之は何度もため息を着く。
応安三(一三七〇年)七月。先に頼之が制定した五山制度のせい、とは一概には言えぬが、それにより、以前からくすぶっていた信教上の問題が表面化した感がある。仏教の伝統的勢力であった比叡山と、幕府が保護した新興禅宗の南禅寺との争いであった。
事は当時、幕府も経済面で援助していた南禅寺の楼門建造に端を発する。恐らくは新興派と伝統派、そして信教の違いからであろうが、南禅寺と叡山派園城寺の争いにおいて、南禅寺僧定山祖禅がその著作で天台宗を非難した。比叡山側も黙っているはずがなく、神輿を奉じて入京、朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めたのである。
もともと、神輿を奉じての「強訴」は、平安時代から比叡山側のお得意芸。久しぶりの「懐かしい風景」を、京市民は無責任に面白がって騒ぎ立て、囃しながら眺めたものだ。さてもこの、「伝統のある」強訴に対して、頼之は、
「禁裏を護ることこそ第一である」
として内裏を警護させ、神輿の御所への「入場」を断固、阻止して僧兵を一歩たりとも中へ入れなかった。
宗教上の争いは、各自が信じている心の中の「何か」を護るためのものである。いわば互いに互いの考えを否定しあうことになるために、今も昔も仲裁は真に難しい。これを、
「さてあの堅物どのは、いかに裁くやら。私が口を挟むと、あの御仁はよい顔をせぬし」
と、幸子はまたしても、ただ面白がって見ていただけなのだから、真に人が悪い。
さてもこの勝負は、朝廷の要請によって定山祖禅は流罪、しかし南禅寺の楼門造営は続行、という、頼之なりの裁定で落ち着きかけたように見えたのだが、叡山側は、それでは引っ込まなかったのだ。楼門破却を求めてなおも強訴を続け、その喚きは連日、三条坊門邸まで聞こえてきたというのだから、
「暑い中を、ご苦労なことじゃ。蝉より鬱陶しいのう。頼之殿は何をなさっておるのやら」
と、幸子が零したのも無理はない。しかしこれも「大方様はやはり管領殿へ不快感を示している」と、大げさに周囲は伝えていく。
結局、朝廷や諸将も比叡山の威力を恐れた。宗教に心身を捧げたものは、死を恐れぬゆえに、相手にすると武士よりも厄介なのである。
頼之も朝廷側の懇請によって、七月中には楼門撤去をやむなく命じることになった。すると今度は五山側代表で、夢窓疎石の甥にあたる春屋妙葩が、
「大変に遺憾である」
と、幕府の象徴でもあった天竜寺住職を辞め、阿波国光勝寺や、丹後国雲門寺へ引っ込むことで、その裁定に抗議の意を表したのである。これで、五山側とも埋めきれぬ亀裂が残ることになってしまったのだ。
武士の多くは、禅宗を心のよりどころとしている。その筆頭たる頼之の差配が拙かったから、妙葩がヘソを曲げてしまったのだと言われて、
「ではどうすれば良かった…」
妙葩と直接話し合いたいと、何度か会談を持ちかけてはいるのだが、妙葩は「今の管領家では何を言っても無駄じゃ」と、いっかな聞き入れようとしない。
「まこと、管領の仕事というものは頭が痛くなるものよ」
嘆きたいのはこちらのほうだと、坊門邸を訪れるたびに、頼之は妻、庸子の前で何度もため息を着いたものだ。
さらにその一ヵ月後の八月には、彼にとって再び頭の痛い問題が持ち上がっていた。かつて南朝に奪われ、賀名生へ連れ去られた皇族のうち、祟光上皇が我が子の栄仁親王に皇位を譲りたいとごねていたのである。
(皇家のことであるから、皇家で判断下さればよいものを)
幕府管領の頼之にまで皇位継承問題を持ち込んでくるのだから、ただでさえ常に忙しなく頭を働かせている彼にとっては、
(恐れ多いことながら、わずらわしいだけじゃ…)
ということになり、せっかく彼の寺である地蔵院を訪ねても、心は癒されぬ。
頭を痛めていたのは幸子も同様。これは亡き夫、義詮の妹でもある頼子后や、栄仁親王生母の源資子に泣きつかれてのことで、
「…肩が凝るわ」
「御所へのお運び、まことにお疲れでござりましょう。お察し申しあげまする」
と、庸子が、坊門邸へ戻ってきた幸子を慰めていた。主従とはいいながら、今ではその垣根を越えて、長年付き合いのある親友のように彼女を思っているのだ。
現帝である後光厳天皇は、祟光上皇の同母弟である。祟光上皇は、
「所詮、弟は我が身が南朝側へ奪われた時の身代わりに過ぎぬ」
と、常々言い続けてきた。後光厳天皇は、当時の幕府の事情で立てた、いわば「急ごしらえ」の帝であり、普通なら実父がなるところの治天の君は、例外的にその母である。よって権威は弱いと思われ、その分軽く見られていた節があった。味方であるはずの北朝内でもそうだったのだから、まだ若いはずの後光厳帝が心身ともに疲れて、子である緒仁親王へ譲位を漏らすのも無理はない。
そこへ、待ったの声をかけたのが、祟光上皇だったのである。「兄」である自分の後継が次代天皇となるのは当たり前だという、これも無理からぬ要求だ。
「急用じゃと申されるから、何事じゃと思うたら」
おお暑い、などと言いながら、幸子は庸子が差し出す冷えた茶を飲む。
これが事実上、初めての「義妹」との対面で、
「嫂上様におすがりするしかございませぬ…」
挨拶もそこそこに、宮中の一室に通された幸子の右を頼子、左を栄仁親王生母の資子が固めて泣きの雨を見せるのである。
「はっきりとした返事は、私などの口からは申せませぬ」
と、幸子が困惑しながら言うと、
「そこを曲げて…嫂上様は、いつも私どもをお助けくださいましたではありませぬか。今ひとつのお骨折りを、どうか」
と、また泣き続ける。
(こればかりは私ごときに申されても、何ともならぬというのに。我が子を帝位につけようと思う者が、泣いておるばかりでもなァ)
ともかくも考える猶予をくれと言いつつそれを慰めて、幸子が御所からようよう退出させてもらえたのが、もう日も暮れて京の町に夜の明かりが灯りだす頃だった。これによって幸子は上皇派であると見られてしまったのだが、彼女自身は例によって、まるきりそれを自覚しておらず、
「しかし義詮様に、よう似ておられたわ。頼子様を拝見申しあげて、我が夫の顔をな、それそれ、そんな風じゃったとようよう思い出すとはなあ、ほほほほほ」
のんびりとそんな風なことを話しもするのである。
「左様でございますか」
庸子は苦笑しながら、今度は袂から扇を出して幸子へ風を送っている。それへ「すみませぬなあ」などと言いながら、心地よさそうに目を細め、
「…まこと、どうにもならぬわ」
しばらくの沈黙の後、幸子はぽつりと言った。庸子はそれへただ黙って頷き、同意を示す。
もともと幸子は、「政に支障がなければ、天皇位にどの親王が就いても同じ」だと思っている。祟光上皇の子であっても、後光厳天皇の子であっても、天皇と名のつく者を上へ戴いてさえいれば、彼女の理屈の上では幕府は幕府として成り立つのであるが、
「義妹君にまで出てこられてはのう…」
自らは女性でありながら、考えることは甚だ男性的である幸子も、嘆息せずにはいられない。頼之も頑固なことは頑固であるが、彼の場合とはまた違って、女性なだけに思い込むとより一層、周りが見えなくなるため、これも僧兵の強訴と同じで甚だ扱いに困る。だが、
(『母』としては、お気持ちは分からぬでもない…まこと、人の情というものほど、厄介なものはないのう)
とも、幸子は思う。その資格がある者の家に生まれた子を、人間の世界での最高位につけてやりたいと願うのは、母親として、ごく当たり前の感情であろう。それを「手前勝手」の一言で片付けてしまうのは簡単ではあるが…。
京の夏の夜は蒸し暑い。じっと座っているだけでも体中から噴き出してくる汗を拭おうともせず、幸子がただ、蝋燭の炎を見て何事かを考えている風情なので、
「いかにお返事なさいますので?」
幸子の額の周りを飛び交う蚊を扇で追い払いながら、庸子は心配になって声をかけた。
すると、幸子はふと顔を上げて首を少しかしげ、庸子の顔をじっと見つめる。やがて、
「…こなた様の夫御と示し合わせて、芝居でもやらかすかの」
そう言った彼女の顔は、もう笑っていた。
「…は?」
「そうじゃそうじゃ、それがよいわ。実は以前、頼之殿は何の役が似合おうかとこっそり考えたことがござっての」
「はい…」
幸子が何を言い出したのか掴みきれず、きょとんとしている庸子へ、
「失礼ながら、ひょっとこやおかめではあるまいと思うた次弟じゃ。ほほほ」
幸子はなおも、上機嫌で笑い続けたのである。
そして八月が終わる頃、
「皇家の存続問題に関わること、そもそもはご聖断によるものであり、我等が口を出すのも恐れ多い事ながら」
と、頼之は朝廷からの勅使へ、苦虫を噛み潰しつつ平伏することになったのである。
「光厳院のご遺勅により、皇位は後光厳帝御皇子、緒仁親王殿下へお譲り下さるように」
言うと、勅使も尊大にそれを受ける。
これは、幸子の提案である。調査の結果、上皇、天皇の実父である光厳帝の遺言が見つかったとすればよい、それを示せば、さしもの上皇側もなりを潜めるだろう…。
(その通りにはなったのだがのう)
祟光上皇や、その后、頼子らも「遺勅がござったのであれば致し方ない…」と、泣く泣くながらこれで諦めたらしい。嫂である幸子への好意は変わらぬながら、やり場のない無念さは、幕府、すなわち実際に政務を執っている頼之に向けられることになってしまった。
勅使がもったいぶりながら坊門邸の廊下を歩いてゆく。その後ろにつき従いながら、
(どうも納得行かぬわ)
元々頼之はムッとした顔のまま、何度も鼻の穴を膨らませて息を吐いた。もともと彼は、現帝である後光厳天皇系が皇位を世襲すればよいと、単純に考えていたのであるから、いうなれば「天皇派」である。よって、この度の幸子の「遺勅がなければ作ればよい…」との提案は渡りに船であったはずなのだが、
(役者は観客をたばかるのが仕事ゆえ)
言って、カラカラと笑った彼女の顔が瞼にちらついて離れない。幕府管領という地位を、役者に置き換えて表現したのが気に食わぬし、それが必要なことであったと重々承知していながら、「ないものをあった」ように見せて周囲を欺いて、その結果、自分が上皇派から恨みを買うことになったのも、正直と誠実を信条とする頼之には耐え難い。
「此度は管領家にのみ泥を被せて、申し訳ござりませなんだ。じゃが政治とはそのようなもの。それ、そのように難しいお顔をなさりまするな」
直接幸子へ不平を漏らすと、肩の力を抜け、と彼の師の一人である宗鏡と同じことを、彼女も言った。つまり、割り切れ、ということなのだろうが、
(皇家まで欺いて、割り切れも何もないものだ)
それへ密かに(政治を知らぬおなごが口を出し、俺に全て『罪』を被せて知らぬふりを)と、逆に反感と闘志を燃やしてしまう頼之なのである。
南朝側の楠木正儀を寝返らせたり、名将と名高い今川了俊を九州へ派遣して、そこで未だに勢力を張っていた南朝側の懐良親王の威力を削ぐように命じたり、と、南朝側への牽制が功を奏して、南朝の勢力はかなり衰えてはいるのだが、それでも気ぜわしいことには変わりない。そんな時に、北朝内から問題が生じるようではまことに困る。
それでも、頼之が管領職についてからは、京周辺での戦がなくなった。幕府の運営も滞りなく進んでいるので、それぞれの生活が安定し始めて精神的な余裕が出てくると、人々の関心は、もっぱら面白く揶揄できる事件が勃発しそうな所へ集まるものらしい。
今一番の「実力者」同士が、上皇派と天皇派に分かれて争った…口さがない、事情を知らぬ人間どもは、幸子がさぞや不快であろうと噂したものだ。
「対立」というものは大抵の場合、こういう無責任な話が事実となって広まった結果として起こる。頼之へ不満を持っていた者どもは、この根拠のない噂に力を得て、山名氏清や先に討伐された斯波義将を筆頭として集まりつつある。その中には、なんとあの「ばさら殿」の実子である京極高秀さえも加わっていたのだから、
「さてもさても、さしものばさら殿も、お子のご指導は誤られましたかの」
「いやはや、これは」
幸子が、京の佐々木京極邸を訪れて、その枕元で揶揄を込めて言うと、食えぬ坊主はさすがに苦笑した。
何様、彼ももう七十をはるかに越えた。このごろは「寄る年波には勝てませぬ」と、先だって亡くなった赤松則祐同様、京の自邸にへ引っ込みがちの道誉なのである。
幸子が訪れたと聞いて、慌てて寝床から起き上がろうとするのを、
「こなた様は、私の師ゆえ」
「いやさ、これは…年を取ると、涙もろうなるもの」
楽に、と、幸子が推し留めた時、彼は彼らしくなく、目を潤ませたものだ。
「大方の仰せのごとくにござるのう。手前も則祐も、頼之ならではと思うたゆえに、生きてある限りは彼奴めの防波堤の役目を果たそうと誓いあったものじゃが、まさかその堤を崩しかけておる者の一人が、我が三男であったとはなあ」
「…まこと、殿方とはどうしようもないものにござりまするなあ」
「いやまこと、左様左様」
そこで、この「盟友」たちは顔を見合わせ、喉の奥で笑った。
「頼之は、上様の御為、我は上様の父じゃと二言目には必ず口に出す。それがより、他の者どもの反抗心を煽るということに気付いておるのじゃろうが、そうなればなったで逆に一層、上様の権威を振りかざしてかかる。困ったものじゃ」
政権は、これも当然であるが、道誉らよりも若い者達に移りつつある。頼之と変わらない世代の諸侯らは、ことあるごとに「三代将軍の代理」という言葉を頭上に振りかざされるのだから、面白くないと思うのはこれも当たり前で、京極高秀などは、
「六角殿とのあの一件で、倅めはすっかり頼之にヘソを曲げてしもうた」
佐々木京極の親戚である六角家の跡目相続争いで、頼之が自分に不利になるような裁きをしたと言い言い、相当激怒しているというのである。
幕府に従う武士ども、つまり「身内」には処罰や裁定は厳しく、しかし幕府に新たに帰参してくるものや頼ってくるものにはなるべく厚遇を、という、これまでの頼之の政策は全て、守護時代の彼らしくなく強引で高圧的なものだった。
一度反感を覚えた人物を再び赦せるほど、人の心は広くはない。
例えば、頼之の工作によって南朝から寝返った楠木正儀のことがある。南朝から正儀が攻撃を受けているからと言って、それを助けるために河内へ幕府の大軍を向けさせた。これが、彼に反感を抱く者から再び、「自分を頼るものだけを贔屓する」と取られてしまった。
楠木正儀の救援は、幕府の大多数の反対を押し切っての決定だった。諸将にしてみれば、正儀一人を助けたところで、大した恩賞が出ないのは分かりきっていたし、実際に大した戦にはならなかったのだから、頼之に対する反発はさらに高まってしまったのである。
頼之にとっては、それもこれも、全ては「義満の威厳を高めるため」であり、
(一度己を頼ってきた者を、突き放せるものか)
という、彼なりの侠気を示したつもりなのである。さらには、彼が二言目には口にする「上様の父代わり」という言葉も、決して彼自身が政を私しようとした心から出ていたわけではない。
「彼奴をよう知っている手前や則祐には、それが分かるのじゃが」
「…ですが、世間はそう見ぬ」
「うむ。上様は成長なさったと申しても、まだ十四歳…そろそろ妻を娶っても良いお年頃ではあるが、その幼い上様から全幅の信頼を得ておるのを良いことに、好き放題しておる、あれではかつての斯波と同じではないか…となあ。しかし、手前ミソかもしれぬが、頼之はあれでも一応、政を担う役者としては、ましな部類に入るのではないかと。さて大方様には如何」
「はい、それはもう。頼之殿は、まっこと面白き役者殿にござるゆえ」
「ははは、確かに彼奴は生真面目で面白味がないゆえに、そこがまた面白い男。大方様にお分かり頂けておれば、手前も安心」
幸子が微笑みながら頷くと、道誉も頷いて笑い、
「ゆえに手前と則祐は、頼之がことを体を張って庇おうとなあ。ワキを二人で固めておれば、上様が成長なさるまでは何とかなろうと。ところが則祐の阿呆めが、手前よりも先に逝ってしまいおった」
「…こなた様と赤松様には、まことに骨折りを頂いて」
「いやいや、大方が御礼を言われるには及ばぬ。頼之を推したのは、手前と則祐。しかし、瀬戸内へ出陣した折のような、あの癖が折々出るのには参る。シテがたびたび出家を言い立てて、勝手に舞台を退場しかけるようではなあ。観客席から座布団が舞いましょうて」
「ほほほほほ」
「笑い事ではござらぬが」
幸子が思わず笑うと、道誉も苦い顔をしながら、しかし笑わざるを得ない。
道誉のいう頼之の癖というのは、「己の主張が通らねば寺に篭る」というそれである。管領という地位に就いて諸将からの非難を受けるようになると、その癖は頻繁に顔を出した。
義満のためによかれと思って強引にしたことが裏目に出て、周囲の猛烈な反発を買ってしまう。そのことは覚悟はしていたのだろうが、彼の神経が耐え切れなくなる。そんな時には必ず、
「到底管領の任に耐えず」
と、義満に退官を言い立てては寺に篭り、出家したいと零す。その都度、彼を父と慕う義満はもちろん、赤松則祐、そして京極道誉になだめられて気を取り直しては政務に戻る、の繰り返しだった。
(気持ちは分からぬでもないが)
と、それを聞くたびに幸子は苦笑したものだ。
「堤防役」の一人であった赤松則祐が、応安五(一三七二)年一月に亡くなってしまったので、諸侯の反発の激流はいよいよ堤を破り、頼之自身を直接飲み込もうとしている。
(じゃが、そのたびに振り回されてオロオロする庸子殿のお気持ちも考えてみられたがよい。一度管領に任ぜられたら、とことんやり通してもらわねば)
彼のやっていたことが、かつての斯波氏のように私心ではなく、「誠忠」から発していたことを知っているだけに、
(憎むなら、とことん憎んでみよ、と開き直るだけの心根が欲しかったのう。ようよう信頼出来る人物に出会えた、と思えただけに、惜しいこと)
今では、彼女も頼之に対して呆れ半分にそう思っている。
「まあ、確かにのう」
幸子は大きく息を吸って、
「主役にたびたび消えられては、舞台としては成り立たぬ。シテはどんと構えておればよいものを。少しヤジられたからと言うてメソメソしておるようでは、観客としては面白うないゆえなア。このままでは、お従兄(清氏)殿と同じ、贄になるのがオチじゃ」
深々と吐き出した息と共に、そう言った。
「大方様」
すると道誉は、おどけた顔を引き締め、彼女を呼ぶ。
「先ほどは、大方様にお分かり頂けていたらなどとと申したが、もしも、のう。もしも、頼之がその任に耐え得ずと判断なされたら、これまで我らがしてきたように、なあ」
「…よろしいのかや?」
「言うにや及ぶ。否」
老いた目に、かつての炯々とした光を宿し、
「手前と則祐に代わり、大方ご自身が泥を被る覚悟がおありなら」
(あるいはこの女性なら)
力を込めて言いつつ、道誉は思った。
(泥を泥と思わず、これからも飄々とことを成す…)
「…そうじゃな」
道誉の考えを見ぬいたように、幸子は頷いて、
「どうやら私のお役目は、舞台を統括する裏方であったらしいわ。確かに私では、舞台に出まいても喝采は浴びられますまい」
「いやはや、手前とても大根役者。この上は潔う『失せにけり』と参りたいものじゃな」
二人は再び笑い合ったのである。
それから間もなくの応安六(一三七三)年九月十二日、一代の怪物と言われた道誉も亡くなった。道誉の死によって、尊氏以来の「宿老」は、土岐頼康を除いてほぼいなくなり、政権は幸子と同世代の「若手」に移った。同時に頼之に対する諸将の反感は、事あるごとにはっきりと現れるようになる。
ともかくもその翌々年、
「まあこれで、私にもいずれ、和子様のお顔を拝めましょうなあ」
十六歳になった義満は、彼の正室として、大納言の日野家から業子を迎えた。いつの間にか自分よりも背が高くなってしまった「息子」が、彼よりも七歳年上の業子を後ろに従えて一人前に挨拶をする。優しい笑みでもってそれを見る幸子へ、しかし義満は、生母の良子に良く似たふっくらしている下膨れの頬を少し引き締めて、
「お母上様。人払いを」
尖った声で彼女へ言った。心得た庸子が業子を連れて別室へ去り、他の侍女達も姿を消してしまうと、
「上様には、如何なされました」
「頼之がことにござりまする」
「フム。管領家が何か」
とぼけたように言う幸子のほうへ、義満は業を煮やしたようにずい、と、膝を進め、
「お母上様は、頼之を憎んでおられるとか。まことにござりまするか」
「まあ。どこからそのようなことをお聞きやった。根も葉もない噂じゃ」
「ですが、母上様は頼之の管領職を、近々解くおつもりじゃと…そのおつもりで、斯波を動かすのではと、皆が申しておりまする」
「ほほう。私にはそのような権限はござりませぬが」
すると幸子は、面白そうに義満の顔を見て、
「もし、そうだとしたら、上様はどうなさりまする?」
逆に問い返す。思わず言葉を失った「将軍」の顔は、まだまだ幼い。幸子は慈母の眼差しを彼の面に注ぎながら
、
「ワキのことごとくにそっぽを向かれ、演技も拙い…そのようなシテを、上様なら見物料を払ってまで観たいと思われるかの」
「それは」
「征夷大将軍という地位はなあ、昔は『あずまえびす』を退治した、坂上田村麻呂とか仰る将軍へ捧げられたものと聞いておりまする。じゃが、今は違う」
「はい」
「上様が毎日召し上がる朝餉、夕餉や、それ、今まとっておられる御衣装も、全て民が額に汗して作ったもの。征夷大将軍というものは、その民を護るためにある」
幸子の言う「征夷大将軍」の意味を、違うように捉えていたらしい義満は、彼女の口から意外な言葉を聞いて、丸い目をもっと丸くした。
「我らを生かしてくれているのは、民と、神仏じゃ。我らの政が拙ければ、いずれ民は我らからそっぽを向くであろう。されば、見物料をもらえぬシテと同じではないかや」
そこで幸子は小さく笑みを浮かべ、次の瞬間にはそれをさっと引っ込めて、
「上様にもようくご承知のことであろうが、我らの最終目的は、南朝と北朝の一本化。一枚岩となってかからねばならぬ時に、ワキを固めず一人突っ走り、舞台の和を乱すシテには、管領たる資格は無い!」
日頃の彼女に似合わず、カッと目を見開いて強く言い放ったのである。しばらくは、庭の木々を吹き抜けていく風の音ばかりが流れていき、やがて、
「たとえ管領が頼之殿でなかったとしても、のう。私はそう考えたに違いありませぬ。これまでも、その任にあらずと思うたら、遠慮のう決断を下してきた。上様も、それを側でご覧になってきたからには、ようご存知であろ」
黙り込んでしまった義満へ、再び幸子は語った。
「たとえ上様の御父代わりであったとしても、もらった役を演じきれぬ役者同様、能の無いものは消えねばならぬ道理。でなければ、幕府の存続は危ういし、民の生活はすぐに崩れる…初代様以来の宿老でいられる土岐頼康殿も、一度は頼之殿にヘソを曲げられて、領国へ帰ってしまわれたであろ。土岐殿だけではなく、京極高秀殿、帰参を許された斯波殿ご一族や、呆れたことに頼之殿によって幕府へのとりなしをしてもろうたた山名一族…さらには、我らの帰依を受けているからと、信教の上での心強い味方であった五山の方々も、そして上様の叔母君(祟光上皇后、頼子)や上皇派の方々、ことごとく頼之殿からそっぽを向いておるとお思いなされ。上様には幕府を護る義務がある。厳しいようじゃが、このまま頼之殿を庇い続けられたなら、共倒れになりまするぞえ。『将軍』の重みをようお考えなされ。その上で、なあ」
こちらからは見えないが、戻ってきた庸子が、縁側の上でそっと膝をついている気配がする。きっと全身を耳のようにして、自分の言葉を聞いているに違いないと思いながら、
「頼之殿の処遇を、上様ご自身がお決めなされ。その際には、情に流されてはなりませぬぞえ。ま、一番良いのは」
袂から出した扇子をハラリと広げ、幸子は己の顔を扇いで、
「上様が、誰にも口出しさせぬように、ご自身で政をされることじゃの」
なんということもないように、さらりと言ってのけた。
「それは…」
「なに、それが拙いというのであれば、形の上だけでも管領をおいておけばよろしい。ただそれだけのこと」
胃の腑に石を詰め込まれたような、重苦しい表情に変わる義満とは対照的に、幸子の顔は再び明るくなる。
「上様ご自身が政を仕切られる、つまりは上様がそれだけ強く、幸せになられればよい、こちらとて、『ただそれだけのこと』じゃ。さすれば幕府も強うなって、敵から戦など仕掛けられることもなくなろう。いつも幸せな上様がおられる幕府に仕えると、皆が楽しく幸せじゃと思うようになる。そうなれば、こちらから戦を仕掛けることも出来ようが。こちらから出て行くということになれば、京の町を灰にしてしまうこともなくなろうゆえ」
そこで、幸子は声をあげて笑い、
「さればさ、将軍なればこそ、何でも出来る。何をやっても許される。ご正室のほかに、おなごもたんと作られたがよい…上様ご自身がいつも幸せであるようにお心がけならば、皆へもそれが伝染しましての、幸せになれようわえ。しかめ面をしてばかりでは、幸せのほうが逃げてゆくわ」
「母上様」
いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げ、義満は再び彼女を呼ぶ。
「はい」
「母上様は、今、お幸せなのでござりましょうか」
「まあ」
義満の質問に、幸子は切れ長の目を見張って、
「上様の目には、どう映られまするかや? 実は母自身にも分からぬのでござりまする」
逆に尋ね、それからまた声を上げて笑った。
後の豪快な彼の生き様からは想像もつかない、重苦しい表情のまま、義満が幸子の部屋を出て行くと、入れ替わりに庸子が幸子の側へ入ってきて、両手を仕えた。
「…こなた様の夫御には、まことに申し訳ないことながら」
「仰られまするな」
さすがに声の震えた幸子へ、庸子は泣き笑いのような複雑な表情をした。
「大方様を、私は尊敬しておりまする。願わくばその日が来るまで、お側において、良きように使うて下されませ」
「…かたじけないこと」
この十年来の『友』に、幸子も素直に頭を上げる。
(その日、のう)
頼之に対する反感は、時折活火山のように噴火はするが、まだ決定的なものにはなっていない。しかし、そう遠くないうちに本格的な爆発は起きるだろう。
庸子が「火を入れましょう」と、席を外すのをぼんやりと見送りながら、
(それでも、戦は無いものなあ)
幸子は思う。彼女にしてみれば、究極、朝廷や寺社が勝手に争っているだけで、民の生活が安定しているならそれでいい。頼之当人は意識していないかもしれないが、京周辺から戦の気配をなくした彼の功績は、やはり大きいと幸子は思っている。
(近江落ちの折のあの母子は、今頃どうしておるのやら…無事に生きておるのであろうか。生きておれば、今の京を、どう思うであろう)
民にとっては、良い執政で「当たり前」なのである。今のところ、頼之に対する不満が出ているのは結局幕府の中だけで、しかしそれは悪くすれば、(また戦になる…)可能性があるだけに、
「…惜しいことよなあ」
幸子は、庸子が燭台に火を灯すのを見つめながら、何度も嘆息したものだ。
(いつだったか、お従兄である清氏殿が、あれでは四面に敵を作ると申しておったが、まさかここまでとは思わなんだものなあ)
事態は頼之にとって、悪くなるばかりらしい。
その翌年、紀伊における南朝勢力の掃討が、将軍義満より出された。これは全く、義満が初めて一人で下した決断であり、頼之も「上様がご自身で決断された」そのことを絶賛したのだが…。
「まずは手前どもにお言いつけ下され」
と、願い出た頼之は、己の跡継ぎである実弟、頼元へ幕府の兵を預けて紀伊へ派遣した。しかし、それは結果的に失敗に終わり、諸将は「それみたことか」とやたら大げさに嘲笑したのである。
さらにその翌年には、斯波義将の所領内でのつまらぬいざこざが、隣り合わせであった細川頼之の太田荘(現富山市)へも飛び火しそうになり、それについてまた頼之が、
「南朝討伐の失敗を論じるよりも、まず足元を固めてもらわねば困る」
「己の領土内の争いは、その中できちんきちんと始末をつけられよ」
などと、諸侯の集まる評定始で言ったものだから、これまで曲がりなりにも恭順を装っていた斯波義将の、
(あそこで食えぬ坊主(京極道誉)が余計な口出しをせねば、今頃は我等が管領であったものを)
という、冷たい恨みと妬みの炎をさらに煽ってしまった。
(出家したいと零すならとっとと出家すればよい)
なのに、その都度義満に懇願されては復帰する。それをたびたびやられては、
(上様と管領家の『芝居』ではないのか)
とも思えてしまうし、実際に義満と頼之の間には、そんな暗黙のうちの了解があったかもしれない。例えば評議の場で、頼之がわざと義満の怒りを煽って、義満の将軍としての権威を高めようとしていたのへも、
「見え透いておる。芝居の下手な管領家よ。あれを大根役者とか申すのではないかの」
と、義将は唾を吐き出しながら言ったものだ。
義将はもともと、父の高経は道誉の陰謀によって失脚させられたと思い込んでいる。
(あの腐れ坊主が推した貴様なぞが、偉そうな口を利きおって)
まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というわけで、幕府へ帰参を許されてからも、頼之へ一欠片の好意も寄せてはいないのだ。
というわけで、いよいよその化けの皮を自ら脱ぐことを決意して、土岐頼康や山名氏清、さらには道誉三男京極高秀とも語らい、反頼之派として一大勢力を成してしまった。
そして、「管領家を恨んでいるはず」の幸子の元へ、斯波義将をはじめとするそれら一勢力が訪ねてきたのが、のちに「康暦の政変」と呼ばれる政権交代劇が起きた前年のこと。
「おやまあ、暮れのこととて忙しかろうに、諸侯方にはお揃いで」
三条坊門邸において、幸子の住んでいる棟は、東南の一角を占めている。そこへ集まった斯波、山名、土岐、京極など錚々たる面々は、幸子がそう言いながら姿を現すと、一斉に平伏した。
(雁首揃えてのう。これはなんとまた、むさと苦しい役者ばかりが揃った舞台よ)
それを見ながらつい思ってしまい、
(これならば、まだ頼之殿のほうが余程、男前と申すもの)
「この私ごときに、何の御用かの」
笑ってしまいそうになって、幸子は慌てて扇を取り出し、口元を覆いながら言った。すると、斯波義将が「恐れながら」と、平伏したまま少しにじり寄り、
「管領家のことにござる。我等、細川頼之殿ご就任以来、不当な扱いを受けて、じっと偲んでまいりましたが、それも限界。聞けば大方様にも、甥御のことや恐れ多くも禁裏の頼子様とのことで、かなりご不興とのこと」
(やれやれ。誰がそのようなことを)
思わず声を上げて笑ってしまいたいほどに呆れながら、それでも、
「ふむ、それで?」
幸子が促すと、それで力を得たように義将は顔を上げて、さらに幸子へにじり寄る。
「頼之殿は、依古の贔屓ばかりをなさる。上様の信頼を得ているのを良いことに、政権を私し、己に都合の良いものばかりを引き立てて、我らのように諫言を致すものは遠ざける。このままでは、幕政は乱れるばかりにござる。ゆえに」
(大した「見栄」よのう。諫言、とはこれまた、まさに物は言い様、じゃ)
義将の言い分にも一理はあるが、周囲に思われているほどに頼之を恨んでいない幸子にとっては、まさにただの役者の口上で、
(下手くそな芝居を見せられているような気分じゃ)
さらに言えば、舞台の裏を幸子は知っているのだ。何よりも上皇の一件に関しては、幸子自身が黒幕なのである。扇の陰で必死に笑いを堪えている幸子にはまるきり気付かず、
「大方様さえ、我等の後ろについていただければ、上様のお目も醒めましょうし、無念の涙を飲んだ上皇派の方々も皇位に就いていただくよう、差配できましょう。ゆえに、大方様が、やれ、と一言仰ってくださったなら、すぐにでも亡きばさら殿のお役目を我等が努める用意は出来ておりまする」
義将はそこで言葉を切り、意を含んだ目を幸子へ据えたまま、再び平伏した。
つまり、幸子が亡き道誉と共に、今まで同様の地位に就いてきた武家へ下してきた「決断」を頼之にも下せ、と、言いたいらしい。が、
「まあまあ、そこまで血道をあげずとも」
彼らにとっては意外なことに、幸子は笑いすら含んで、
「もうすぐ正月も来る。幸い大きな戦もないことゆえ、今しばし、政のことは忘れて、諸侯方もゆるりとくつろがれたがよい」
全く期待はずれな返事をしたものだから、勢い込んでやってきた彼らは、不満をうちにためたまま、帰ることになってしまった。
もしも幸子が男であれば、尊氏同様、知らぬ間に反頼之派の武将達によって彼女はその旗頭にされていたかもしれないし、そうなればすぐさま、彼らは武力でもって頼之とその一族を掃討したろう。しかし、それがなされなかったのは、何といっても幸子が「女」だったからである。いくら力があると言っても女を頂点に据えて、しかも武力を用いるとなるとやはり「常識外れ」も甚だしい。ために、ここでも幸子は非難の矢面になることから免れた。彼女の幸運であったといっていい。
ともあれ、幸子もまた、反頼之派の「期待」を裏切って、なかなか頼之を糾弾しなかった。だからこそ、「堤防」であった道誉が亡くなって六年経った現在、不穏な空気を抱えたままで年の明けた康暦元年(一三七九)まで、
「…なんとか保ってきたようなものです」
と、ようよう十八歳になった義満は言うのである。年の初めとて、少し離れた広間では、訪ねてきた諸将へ振舞い酒が出されている。その喚きは奥の間まで聞こえてきて、時折耳をつんざくような騒ぎになる。それへ苦笑しながら、
「斯波義将などは、お母上が動かれぬゆえ我等も動けぬ、などと、私の前でも大きな声で言うて憚りませぬ」
と、彼は続けた。それに京極道誉などは、
「いや、ありゃきっと見せかけじゃ。大方様は我が父同様、まことにトボけた御方ゆえ、怒りを内に秘めておられるに違いない。大方様は我等が味方ゆえ、いずれ動かれる」
などと触れ回っている、と、義満は大きく息をついて、幸子が注いだ酒をぐっとあおった。
「やれやれ。情けないことよのう。この母は、まるきり表へ出たことがござりませぬのに」
義満の言葉に幸子が呆れながら言うと、
「ですが、皆、お母上とばさら殿が共謀して、これまでの執事を引き摺り下ろしてきたことを知っておりまするゆえ」
義満は、むしろニヤリと笑って言葉を返した。彼のための新邸(後の花の御所)も、完成間近であるし、彼が初めて飛ばした「諸将らはその庭において、一番の名木をわれに捧げよ」というハッタリが成功して、ひとまずは三条坊門邸の庭にと、続々各地の庭木が集まりつつあるので、それによって自信を得たらしい。
「まあ、共謀とは人聞きの悪い」
(これなら安心)
幸子もまた、義満の「成長ぶり」に苦笑しながら、それでも自分の存在が幕府において、そこまで大きく見られているということを驚かざるを得ない。
「上様は、幾つにおなりになりまいたかの」
そこで、幸子は分かりきった問いを発した。
「十八にござりまするが」
この『母』が、自分の年を忘れるはずがないということを、義満はよく知っている。なので、戸惑ったように彼が返事をすると、
「では、そろそろご自身で決断なさっても良い頃じゃな」
「…はい」
幸子は静かに言った。その「決断」の意味を悟り、義満は顔を引き締めて軽く頭を下げた。
(『母』は、まこと強い御方である。このお方に育てられて、己は幸せであった)
目尻に皺の増えた幸子を見ながら、義満はしみじみそう思う。もちろん彼も、彼と幸子が「なさぬ仲」であることを知っていたが、彼女に寄せる情愛は、彼が頼之に対して寄せる信頼に負けるとも劣らない。
(一人で。『母』が守ってきたものを、これからは己が、何事も一人で)
「では、ごめん。母上様も、夜のものは温うなされて」
「お気遣い、まことに嬉しゅう存じまする。上様も無理召されるな。一人で手に余る時には、周囲のものを遠慮のう、こき使われよ」
「はい!」
激を飛ばされ、気負って去っていく若い「息子」の背中を見送りながら、幸子は
、
「…これでよいわ。私もようよう、休めるであろ」
「まこと、お疲れ様にござりました」
幸子は傍らの庸子へ、話しかけるともなく呟いた。庸子もまた、深く頷いてそれに答えたのである。
だがその半年後、
「なんと、のう…」
幸子は、またしても天を仰いで嘆息する羽目になった。
康暦元年半ば。再び義満は南朝勢力の掃討を命じ、大和や紀伊へ土岐頼康らを初めとする反頼之派の武士らを派遣していた。だが、ほぼそれと同時に近江では京極高秀が反頼之の兵を挙げたのである。それに呼応して、土岐、斯波らは紀伊へ向かうどころかその兵力でもって、完成間近の花の御所を囲んでしまった。
彼らの要求するところは、もちろん「管領家の罷免及び討伐」と「これらの軍事行動に対する容認」で、それを聞いた頼之は、
「兄者(清氏)がかつてしたことの罰を、私が受けることになろうとは。これが仏罰、というものであろうかの」
と、自嘲したという。
「庸子殿、そのお支度は」
「永らくのお暇ごいに参りました」
康暦元年半ば。すっかり旅支度を整えた様子の庸子が己の前に手をつくと、さすがの幸子も動揺した。
「それはまた、なにゆえに…庸子殿だけは、ここへ居てくださるものばかりと」
「面目次第もござりませぬ」
「そのようなことを…何、頼之殿が罷免されたとしても、それは一時だけ、形だけの事。生きてさえあれば、復帰も可能ではありませぬか。少しくらい図々しくとも、人は存外、何も言わぬものじゃ。こなた様も、これまでの我らのやり方をご存知であろ。あの斯波一族とて、すぐに赦されているではありませぬか。此度とて、それと同じなのじゃ」
必死で言いながら、思わず彼女の側へにじり寄り、幸子は自分よりもずっと痩せたその肩へ片手を置いた。すると、庸子は目に涙を滲ませ、震える声で、
「頼之は先日、上様に向かって、邸へ火をかけるゆえ後始末を頼むと申し上げ…一族を連れて阿波へ引っ込むと言うておりまする」
「…なんと…いつもながらあのお方は、せっかちすぎじゃ」
「まことに」
幸子が言うと、庸子は苦笑し、
「こなたはここへ残ってもよいぞと、頼之は申してくれやったのでござりまするが」
そこで大きく息を吸い込んで、
「私は、細川頼之のただ一人の妻ゆえ…夫の参るところへなら、どこへでもついてゆくのが、妻の務めではないかと考えましたゆえ」
一気に言い放ち、声を殺して一声泣いた。
「庸子殿」
「申し訳ござりませぬ。お見苦しいところを」
放心したように己の名を呼ぶ幸子へ、庸子は涙を拭きながら、
「頼之が皆にそっぽを向かれて一人になりまいても、私のみは大方様の庇護によって、こちらへ仕えておられる他の侍女方に、いじめられることもついぞござりませなんだ。馬鹿馬鹿しいと思われるでありましょうが、大方様に私が庇われてきたゆえに、私が被るべき非難の分まで、頼之へ行ってしもうたのかと思うと…」
「ああ」
幸子は思わず頷いた。確かに庸子が義満の乳母であり、幸子の「お気に入り」でなければ、心ない女どもは頼之のことにかこつけて、庸子を虐げたに違いない。
(それにしても、まことにお優しい御方よ)
そんな幸子へ庸子は少し笑って、
「大方様、恐れ多いことながら、私は貴女様が『大好き』でございます。それゆえ」
傍らの小さな荷の中から、何かを取り出した。
「僭越ながら、これを…私が毎日、夫や大方様のご無事を祈念しておりまいたもの。よろしければ、お受け取り下されませ」
「…しかと受け取りました」
それは、千手観音が坐した、十寸(約三十センチ)ほどの小さな銅製の仏像である。両手でそれを押し頂く幸子へ、
「大方様がこれからも息災でありますよう…私に代わりまして、その仏様が大方様をお守りくださりますよう、阿波よりお祈りしておりまする」
「庸子殿」
畳へ頭をこすり付けるように平伏しながら言って、庸子は立ち上がる。幸子が再び呼ぶと、彼女は静かに振り返る。むしろ淡々としたその表情に、胸をきりきりと絞られるような痛みを覚えながら、
「必ずや、戻って参られよ。いつまでもお待ちしておりまする」
幸子が言うと、庸子は涙を零しながら深々と頭を下げた…。
こうして、細川頼之も管領の地位にあることほぼ十年で失脚した。これが、後に康暦の政変と呼ばれる政権交代劇で、さすがに幸子も大きく息を吐いた。
(今回ばかりはまことに肩が凝った…疲れまいた)
義満にも胸に迫るものがあったろう。彼もまた幸子同様、半年間ほど片づけを命じもせず、そのままにしておいた六条万里小路の焼け跡を訪れては嘆息したものだ。
その後を襲ったのは、反頼之派がこぞって推した斯波義将である。
新管領の正式な任命式は、完成したばかりの花の御所で行われた。これによって、幕府の政治の中枢は、再び斯波一族で占められるようになったのだが…。
かつて坊門邸でも嗅いだ、すがすがしい畳の匂いを胸へ吸い込みながら、
「庸子殿から手蹟が来たのじゃが、頼之殿は、阿波へ戻られる途中で出家なさいましたそうな」
(忸怩たる思いであられたか…しかし、逆にさばさばしておられたかもしれぬなあ)
幸子は縁側へ座って庭を眺める義満へ、茶を進めた。
「はい、その通りです。私には、直接頼之から知らせが来ました。気候は温暖、海からも山からも採れるものは美味いゆえ、折があれば、ぜひ讃岐へもおいでなされと」
軽く頭を下げてそれを受け取りながら、義満は答える。
敷地だけでも、御所の二倍にも及ぶと言われた花の御所は、永和六(一三八一)年に、やっとその外壁が完成した。待ちかねていた義満は、既に完成していた寝殿に己のみ住まっていたのだが、完成を聞くやいなや、一族を招いて長年住み慣れた三条坊門からそちらへ移らせたのだ。
政変の折、武将らが囲んだのはこの寝殿のほんの二、三間先で、
「上様にも、お疲れであったろ」
二年前の出来事をしみじみと瞼に思い描きながら、幸子は義満をねぎらった。
「…母上様にしては、間の抜けたことを仰る。年を取られたという証拠でしょうか」
すると、義満はニヤニヤと笑って母の顔を見るのである。
「おやおや。確かに年は取りまいたが…何か、おかしいかの?」
「いや、私も少しやりすぎたかと思うて。頼之がまさか、あそこまで生一本とは思いませなんだ故。それ、ここに」
いまいち要領を得ない幸子へ、義満は懐から一枚の書状を出して示し、
「頼元からの赦免を乞う書状が届いておりまする。私は近々、頼之を『赦す』ことになりましょう」
「…なんと仰せある」
「母上もようご存知のように、そもそも私は、頼之を父と思うておりこそすれ、毛ほども憎んでおりませぬ」
「それは、のう…」
『母』の驚いた顔がおかしかったらしい。義満はますますニヤニヤと相好を崩し、
「母上様の真似をしようと思うたが、母上様がおやりになられた以上の騒ぎになったと、ただそれだけのことにござりまする。男が動くと、かほど事は大仰になるのかと、私も驚いたもので。まさか細川以外のほぼ全てが、『敵』に回るとは思いもしませなんだ。しかし、それゆえに反ってやりやすかったというもの」
「上様」
幸子は思わず「息子」の顔を見直していた。
つまり幸子がやってきた「武士どもらを互いに争わせて勢力を削ぐ」こと、それを真似したのだと、義満は言っているらしい。
「そろそろ私も、頼之から離れても良い頃。そう仰ったのは母上様ご自身ではありませぬか。頼之には何の恨みもありませぬが、何、辛いのは一時のこと。ほとぼりなぞすぐに冷めようから、いつなと復帰させればよい…そう割り切りましたらば、物事がよう見えるようになりました」
何事も無いように、義満はカラカラと笑う。事実この数年後、彼は将軍としての睨みを聞かせるために西国へ旅するのだが、その際に阿波へ立ち寄って頼之と大いに旧交を温めもしているのだ。
「頼之は、世を去ってしもうたが赤松則祐やばさら殿、そして今目の前におわす母上様同様、私が心から信頼している数少ない人間の一人。じゃが、それはそれ、これはこれ…情と政とは別じゃとなあ。これも母上様の口癖にござりましょうが。信頼しすぎれば細川とていつまた、幕府をしのぐ勢力を持たぬとも限らぬ。それゆえ、これくらいの荒療治は良いであろうと」
「まあ…まあ、上様は」
(ほんの数年前には、私が頼之を憎んでおるのかと詰め寄った御子がなあ…)
彼女の知らぬ間に、義満は幸子から多くを学び取っていたのだ。
「母上様」
ただ驚いている幸子へ、義満は、これだけは幼少から変わらぬ下膨れの頬を少しだけ引き締め、
「土岐康頼は老いぼれで、斯波は思慮に欠けるゆえに、機嫌さえ損ねなければ手綱を取りやすい。よって管領にしたところで、さしたる支障は出ぬ。山名はいずれ始末をつけるつもり…さすれば、皆は幸せでござりましょう。ま、頼之のように、やり過ぎはいかぬが」
そこまで言って、再び豪快に笑いながら「少憩は終わりにござる」と、政務の場である表座敷へと戻って行ったのである。
(そうよなあ。私も年を取った。登子様がお亡くなりになった年になるまで、あと十年。庸子殿にも再び会えようか)
いつの間にか将軍らしく、頼もしく成長していた義満を見送りながら、幸子は深々と息を着いた。
気がつけば、自分はもう五十に手の届く年になっている。ふと周りを見回せば、己に仕えている者は新しく雇い入れた若い侍女たちばかりで、見知った者は数少ない。
(少し薄ら寒いわ。これも年を取ったゆえかのう)
ふと心に忍び込んできた「寂しさ」を、努めて感じないようにしながら、
「さて、観阿弥でも呼ぶかの。ここで能のお仕舞いを見せてくれやるように、使いを出してたも」
幸子が明るく言うと、途端に若い侍女達が騒ぎ出す。老侍女は、それを苦笑いしながら制する。それを見て、
(そうじゃ。人の上に立つものが、辛気臭い顔をしていてはならぬわ。こうして生きてある限りはのう)
幸子の唇に再び笑みが浮かんだ。
斯波義将や、頼之の伊予における政敵であった河野氏らの要求を一度は呑んだ形で、頼之追討令すら出したらしい義満も、その翌年にはそれを撤回している。義詮ならば到底不可能であったばずのそれを成せたということは、義満自身が次第に幕府の政治を執りつつあるということで、
(なるほどなあ)
幸子は、先だっての義満の言葉が大言壮語ではなかったことを、改めて認識したものだ。
頼之がいなくなったから、というので、ヘソを曲げていた春屋妙葩も再び五山側の代表として就任している。このことからも、
「妙葩殿も、ひょっとして頼之殿失脚に一枚噛んでおったのではありますまいか?」
いつであったか、
「上様にチエをつけられたのは、妙葩殿では?」
いたずらっぽく幸子が問うと、義満はトボケた顔で、
「さあ、それはお母上様のお考えのままに…」
と言ったものだ。
寺社勢力に対しても、義満は強気に出ている。頼之失脚と相前後して、奈良興福寺の信者どもらが春日大社の神木を担ぎ、
「南朝方の武士である十市遠康に奪われた寺社領を、幕府の力で取り戻せ」
と、京へ強訴にやってきたことがあったが、この折も、春日大社を信奉している藤原系公家らは、神木の祟りを恐れるばかりで、宮廷へ出仕しようとしなかった。
この中で、義満のみは、
「恐れ多くも清和帝の御血を引く源氏であり、藤原氏にあらず」
よって神木の祟りは己には降りかからぬ、と出仕を続け、翌康暦二(一三八〇)には、中断を余儀なくされていた宮中行事である御遊始、作文始、歌会始などを立て続けに、しかもことさら大仰に催している。
「日の本の帝に楯突くならついてみよ。神の子孫たる皇家を護らねばならぬはずの木が、その主に祟るとは片腹痛い」
とばかりに、強訴にやってきた信者どもらを、無言で逆に威圧したのだ。このため、信者らは、十市遠康討伐の約束を辛うじて幕府に取り付けただけで、同年十二月十五日に奈良に戻っていったのである。今回の神木を担いでの強訴は、いわば史上初めての失敗に終わって、これにより寺社勢力は大打撃を受けたといっていい。この鮮やかな「芝居の結末…」に、京の町民らはやんやの喝采を送った。
こうした中で、幸子は、花の御所が完成したその年、後円融天皇が行幸された折に、従一位を授けられている。これはかつて、夫の義詮も授けられたことのある、女性としては最高の地位で、
「幕府と朝廷の融和を図り、朝廷へ多大なる尽力を捧げた…」
との言上とともに、彼女へ下されたものだ。これは無論、朝廷の中でまだ脈々と息づいている「渋川幸子派」の斡旋によるもので、同時に、義満の亡くなった生母、紀良子や、義満の正室、日野業子にも従二位を与えられた。
もともと幸子は、朝廷の地位は「飾り物」だと考えている。だが、将軍の母が、曲がりなりにも最高の地位を与えられたということはやはり、
「幕府に箔はつきましょうなあ」
ということで、
「まこと。飾りは飾りではありましょうが、役に立つものは大いに使わねば。役者へも、投げ銭がなければなりませぬ」
天皇一行を花の御所から送り出した後、共に「肩が凝る」などといつもの口癖を言いながら、母子は二人して顔を見合わせて、大いに笑った。
そして、義満が自ら政権を握り、奉公衆と呼ばれる将軍直轄の御家人制度を作ってから、幕府の権威はより一層高まった。これは守護大名や国人から選ばれた武士で構成されており、その数は総勢五千から一万とも言われている。
(守護大名となった諸侯に対抗するには、ただその上に乗っかっているだけではならぬ)
頼之失脚により、義満自身が考え出した己のためだけの軍事力で、これはその子、義持の代になってより強化された。さらには公家社会における地位でも、かつて公家衆へ向かって啖呵を切った二条良基の援助を受けながら、権大納言にまで上っている。
こうして、北朝側が義満の代になって着々と足場を固め、さらにその勢力範囲を全国へ広げていったのに対し、南朝側は昔日の勢いを急速に失いつつあった。気弱になっていく南朝側へ、義満は、
「一本化に同意なさってくだされば、皇室の方々、公家の方々の生活は保障しまする」
「一本化となっても、これまでどおり、持明院、大覚寺、それぞれの系統で交互に皇位についていただけるよう、お約束しまする」
「お聞き入れなき場合は、それらは全て保障いたしかねまする」
折々に使いを送っては脅し、なだめ、すかし、交渉という名の揺さぶりをかけていったのである。
かくして、康暦の変から十年あまり。斯波義将には口を出させても断は取らせず、細川頼之を康応元(一三八九)年に正式に「赦免」して、その弟である頼元ともども、再び京へ呼び寄せた義満へ、
「…もう、私が差し出た口を挟むこともなくなりました。上様はもう、お一人でも十分におやりになれる」
幸子は庭に散る桜と、その下で戯れる初孫(後の義持)を見ながら、しみじみと言ったものだ。
思えば、幸子が誕生した六年後に『室町幕府』は創設されたのである。いわば幕府は幸子の人生そのものと言ってよく、
(よくもここまで来たもの…)
戦を失くす、そのためには幕府を存続させることこそ肝要…そのことだけを思って己の評判など気にも留めずに走り、その結果、不本意ではあるが今でも陰では畏れられている。義満が自身で政務を執るためには、それが逆に障害になるだろう。
(これまでとて、でしゃばってきた覚えは無いのじゃがの。なるだけ早う、潔う引っ込まねば)
ふと息をついて、
「まこと、肩が凝りましたわ。もうよい年じゃものなあ。ようよう負っていた荷を下ろしまいた気分にござりまする」
幸子は正直に愚痴った。
(庸子殿も、阿波へ戻られて間もなく亡くなっていようとは)
戻ってくることを約束したはずの「友人」も、鬼籍の人となってしまった。そう思うと、今までには気付かなかった疲れが、体のあちこちを蝕んでいるのが分かる。
「なんの。母上様には、皇家が『仲直り』するまでを見届けていただかねば。それも恐らくは、まもなくのこと。この義満が催す、一世一代の芝居となりましょうゆえ、どうぞお楽しみに」
すると、義満は彼女の肩を揉みながら笑うのだ。
「…上様は、まことお元気であられること。つくづく私は年を取ったと思いまするわえ。昨日は土岐、今日は山名と、二つながら始末を付けられるとはのう。さすがお若いだけに、精力がたんとおありじゃ」
そんな「息子」へ幸子が嘆息するのも最もで、康応元(一三八九)年には土岐氏を、明徳元(一三九〇)年には、全国で六十六カ国あると言われていた当時の所領のうち、十一カ国を保有していたゆえに、六分の一殿と呼ばれていた山名氏を、それぞれ逼塞させているのである。
「いやいや、土岐はともかく山名までもが、一気に片付くとは私も思っておりませなんだ。いつもながら、まことに母上の教えは素晴らしい」
義満がまた、ニヤニヤしながら言うように、そもそもこれらの戦は、義満が両氏を挑発した結果なのだ。
一国の領主を挑発するには、起こらぬはずがない所領争いにこちらから首を突っ込んで、引っ掻き回すのが一番手っ取り早い。代替わりになったところでその所領を削ぎ、「惣領」と仲たがいしている人物に与えてやると、必ず一族の内紛に発展する。
「内輪で争わせ、弱ったところを叩く、となあ。母上のやり方をここでも真似たつもりでござりましたが、山名の場合はてこずりまいた。同じ手を用いて弱らせたと思うたところが、まだまだあのように余力があった。私の読み違えで、朝廷や公家方にもまこと迷惑をおかけ申しあげまいた。このたびばかりは私も実は、冷や汗をかきました。民が無事であったのも、母上の宰領あってこそのこと」
「またお口がお上手な」
京の市街で一両年、久しぶりに激しい攻防戦が行われたのは、昨年のこと。これも、山名一族の所領争いに乗じて、その勢力を削ごうと義満は画策したのだが、
「上様は土岐にしたのと同じ手を、我等に使おうとしておる」
と、かつて反頼之派であった山名一族の氏清が、わざわざ南朝側へ下り、錦の御旗まで頂いて、京へ攻め入ってきたのだ。
最初は半信半疑であった重臣達も、氏清の甥の氏家が京を密かに退去したことにより、これが事実だとようやく悟った。悟った頃には山名一族が京を包囲していた、というわけで、幕府は完全に後手に回ったことになる。
ここで、渋る朝廷や公家を説得したのが幸子で、
「我等がお守りしますゆえ、どうか民をお庭へお入れくだされ」
との彼女の願いが聞き届けられ、京の民は曲がりなりにも、それぞれの公家邸や御所庭園内へ避難することが出来た。これにより、
(京の町を灰に…またしても民を焼け出させてしまう)
そういった義満の精神的負担は、かなり軽くなったといっていい。民さえ無事ならば、京の町はまた再建されるからだ。
そして、幸子の楽観性を受け継いだはずの義満に
、
「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」
とまで言わしめた、この「明徳の乱」では、どうやら天は幕府に微笑んだらしい。本格的に両者が矛を交えたとされる戦の中の、たった一日で山名氏清は敗れさった。そして山名一族は、十一カ国あったその領土を但馬・伯耆などに減らされてしまい、一気に勢いを失ったのである。
この戦いには、僧籍であり、高齢であったにも関わらず、細川頼之も加わった。頼之自身のたっての希望であったが、その無理が祟ったのか、それとも、義満の最大の敵となると懸念していた山名一族を討伐できたので安心したのか、風邪を引いて寝込んでしまったという。
管領であった斯波義将は、「京へ敵を入れて民の生活を乱した」ということで、義満が解任してしまい、代わりに頼元が、兄である頼之の後見を受けて管領に就任した。これ以降、「一氏による長期間の政権掌握はよろしくない」ということで、細川、斯波、畠山の三氏が交互に管領の地位に就くことになり、「三管領」の制度は事実上整ったと言える。
「まこと、一族で仲が悪いとろくなことはない。私も満詮(義満同母弟)と、せいぜい仲良うせねば」
「ほほほほ」
桜の下で戯れ続ける彼女の「初孫」は、実は義満正室の子ではなく、すでに義満が多くたくわえていた側室の一人、藤原慶子を母としている。
彼はその豪放な性格でもって、その後も、判明しているだけで合計九人もの女人を愛することになるのだが、むろん、幸子はそのことを知らない。
「それらの女人の腹になる上様のご兄弟も、母を異にするとは申せ、仲良うしなされとのう、しかとご薫育せねば。側におわす頼之殿は、さぞや口うるさいのではありませぬかや?」
「これは」
さすがの義満も「母」に言われると照れるらしい。額に手をやって、しきりと恥ずかしがる、もう三十三にもなった息子を微笑ましく見ながら、
「頼之殿、と申せばのう…あの方にも、上様がお小さい時から、まことにご苦労をおかけしました。上様には、わざわざ御前沙汰まで設けられて、六十を越えた頼之殿をこき使われてのう」
「ははは。僧籍にある頼之を再び使うために設けた決まりごと。それだけ私が、頼之を信頼しているという証ではございませぬか」
そこで義満は、庭へ降りて我が子を抱き上げ、子への茶を淹れるよう、控えていた侍女の一人に手振りで命じながら、
「頼之は私の父、そしてなさぬ仲とは言いながら、母上様が私の母。『父母』ならば、生ある限り子の仕事を助けてくださるのが当たり前。いや、母上様が私の母上で良かった!」
おどけて言った。
「まあ、お言いやること。女人へもなあ、その調子でさぞや上手いこと、口説いておいでなのであろ」
幸子も道化て返すと、また辺りは笑いに包まれる。
(父母、のう)
そこで、彼の乳母でもあった頼之の妻、庸子のことがふと思い出され、
(阿波までついてゆくのが妻としての勤め、とのう。とうとう他におなご一人作られず、それゆえに妻にそこまで思われて)
庸子は自分だけが頼之に愛されていると信じていたから、そう思えたのだろう。ただ幕府を強くするため、と、ただそのことだけを考えていたために、その他を考える余裕がなかったといえばそうなのかもしれぬが、仮初めにも夫であった義詮一人さえ愛することもなく、きちんと向き合うこともしなかった。そんな自分と比べて、
(私は、女としては不幸であったかもしれぬなあ)
「憎い御方よ」
心の中に浮かべた頼之、庸子、どちらへともなくほろ苦く笑って幸子が呟くと、
「私は、私と契ったおなごは全て幸せにする自信がござる。頼之は、おなごの無用の恨みを買うと相変わらず煩いが、何、それこそ無用な心配と申すもの」
自分のことを言われていると思い込んでいる義満は、唇を尖らせてひょっとこの真似をした。我が子を肩へ乗せ、能役者の真似をして舞い始める彼へ、周りの者が手を打って笑っている間にも、桜はハラハラと散り続ける。
(まこと、政も人生も、能の舞台のようなもの。私の出番は終わった)
花びらの一枚が、春風に吹かれて幸子の膝の上へ落ちたのへふと目をやりながら、
(このうえは、上様の邪魔にならぬように、己で幕を引いて『失せにけり』と参りたいものじゃ、なあ、ばさら殿。私の幸せはまあ、『及第点』といったところであろ)
彼女は心の中で亡き道誉へ話しかけていた。