三 父として母として
(さても、それがいつ来るか。さほど遠い日ではあるまい)
明けて康安元年(南朝元号正平十六年。一三六一年)。細川清氏が反旗を翻すのを、てぐすね引く、といった心構えで待ち構えながら、幸子はそれとなく、「播磨落ち」の準備を始めていた。
(義詮様へは、ばさら殿の元へとお勧めせねばなるまいし、則祐殿とも話を通しておかねばなるまい)
幸子の元には、これからどうなるのかという問い合わせが、公家どもや皇家からも頻々と届くようになっている。戦に慣れてしまった感のある庶民どものほうが、いち早くキナ臭さを嗅ぎ付け、まだ春も訪れていないうちから逃げ支度を始めているらしいのだ。
この最中に、幸子は父義季を亡くしている。戦ではなくて、長く患いついた上の病であり、身分が身分ゆえに実父とはいえ軽々しく見舞うことは出来ず、
(…今はそれどころではない。父とてまずは己のことを第一に考えよと言うであろう。お許し下されませ。私は貴方の娘である前に、将軍家正室。全ての者の母にござりまする)
実兄直頼からの懇望があっても、頑として葬儀にも出なかった。父へは心の中でそう語りかけながら、仏壇へ香を一本手向け、両手を合わせるだけに留めていたのである。
その胸の憤懣を抑えて、義詮が「そなたが言い出したことであろう」と、清氏へ再び南朝討伐を命じたのが、その年の八月。もはや幕府の全権を握ったと安心しきって、清氏が出発し、河内へ向かった九月に、義詮は後光厳天皇に細川清氏追討の宣旨を仰いでいる。これもまた、佐々木道誉や斯波高経との示し合わせであることは言うまでもない。
仰天した細川清氏は、幸子が予想していた通り南朝側につき、あの楠木正成を父とする正儀とともに、無実を訴えながら軍勢を引き連れ、京へやってきた。
「無実じゃと言い言い、武で威嚇するとはまた」
義詮を近江へ伴うために将軍邸へやってきた道誉は、同じようにやってきた赤松則祐を振り返って苦笑したものだ。
「公家方へはなあ、お方様の仰せのごとく、御所内へ避難致すようにと含めておきまいたゆえ、ご安心召されよ。なあに、皇家の方にまでへ手出しをすれば、百年の後まで非難は免れぬ。清氏とてそこは分かってござるよ」
「ご苦労をおかけしまする」
我が背へ抱きついてくる春王を手元へ引き寄せながら、幸子は二人へ頭を下げた。
「いや、なに…気がかりをよそへ移して京をからっぽにしておれば、心置きなく戦える。お方様には、こやつの白旗城にてどんと構え、勝利の報せをお待ちあれ」
道誉は言って、赤松則祐と顔を見合わせ、豪快に笑った。事実、攻め上ってきた細川清氏と楠木正儀は、大した戦もせずに京を占拠できたことに首を傾げたが、そこを待ち構えていた幕府軍に包囲され、命からがらそれぞれの領地へ逃げてゆくことになる。
かくして、義詮は我が子ともさほど触れ合わぬまま道誉のいる近江へ、そして幸子と春王は赤松則祐の本拠である白旗城へ、それぞれ逃れていった。この時に、細川頼之の妻であり春王の乳母であった庸子も同行している。
清氏方の兵がどこに隠れているかも分からぬということで、赤松則祐に護られながら、警戒に警戒を重ねてようやく白旗城に着いたのが、冬に指しかかろうという十一月の末。
白旗城のある播磨は海端で、吹く風は冬でも京、近江よりはまだ温かい。
(何より底冷えせぬのがよいわ)
「良子殿は、おいでにならなんだか」
贅沢ではないが、丁寧に掃き清められた一室の上座へ通されて、夕餉を取りながら、幸子は彼女の右手にいる庸子へ尋ねた。
「はい。水が変わるゆえ、どこにもゆかぬと。住み慣れた京が良いと申されまして、ご一家の方々と共に御所へ避難を」
「お体はお弱くないのであろうが…心配じゃの。共に参られれば良かったものを。こちらは暖かいし、何より京にはない海が見られるのが良い。心が洗われるようじゃ」
そこで小さく欠伸を漏らしながら、
「海など見ながら茶でも飲んで、とっくりとお話してみたかったのう」
運ばれた湯呑みを両手にとって、幸子がしみじみと言うと、庸子は驚いたように将軍正室の顔を見直す。
(まあ…私の評判も、良子殿の近辺では悪かろうしなア)
それに気付いて、幸子は軽く苦笑した。将軍側室、良子の実家では、正室の権威をかさに着て、母から子を取り上げた女、これみよがしに金品をばらまいて、公家や皇室の心を獲ろうとする悪女…恐らくそれに近いことを自分は言われているに違いない。
(良子殿や紀家の方々にお分かり頂けずとも良い。公家や皇家の方々に、幕府はやはり頼りになると思わせるのが大事なのじゃ)
いかに漠としているように見える幸子でも、自分の悪評には人並みに傷つかないわけがない。だが、それを言っても(詮無きこと)と、幸子はいつもの楽観性で自分の中で決着をつけ、
「このような折でなくば、春王殿にも海で思う存分、遊ばせてやれようがの」
「は…まことに仰せのごとく」
「こなた様も、お体をお厭いや」
まだ少し緊張しているらしい春王の乳母へ、彼女はいたわりをこめて言葉をかけた。幸子は、庸子が産み落としてすぐの我が子を亡くしたことと、それだけに、庸子もまた、(我が子が生きておれば同年…)の春王がかわゆくてならぬらしいことも知っている。
庸子のほうも、
(このお方も、お子の千寿王様を亡くされておられた)
「恐れ入りまする」
そのことに思い当たって、改めて幸子を見直し、深く頭を下げた。
「京は今頃、どのような有様かのう。清氏殿を京より追い出した、などと、則祐殿は頼もしいことを仰っておられるが」
冬のこととて日は短い。辺りは既に暗くなっており、そうなると波の音がより一層大きく聞こえる。それへ珍しそうに耳を傾けながら、
「こなた様の夫御、頼之殿はどうしておられるやら」
「…はい。恐れながら」
呟く幸子へ、庸子は旅を始めた頃よりはずっと親しみのこもった声で答えた。
(評判ほどお悪い方ではない…細やかなお気遣いができる方でもないようだが、むしろ良子様よりも内に篭らず、意外に打ち解けやすいご気性)
二ヶ月ほどではあるが、共に過ごしている間に庸子の幸子への印象も改められたらしい。
「…恐れながら、申しあげまする。我が夫、頼之は、清氏様が阿波へ逃れてこられたと聞くや、対戦の構えを見せてござりまする」
「ふウむ…頼之殿にとっては、清氏殿はお従兄殿。同族であるにもかかわらず、かや」
「はい。まだ将軍家から正式な命を受けてはおりませぬが、足利幕府へたてつくものは、同族であろうと討ち取る、そういった考えのようにござりまする。頼之は名うての頑固者ゆえ、一度こう、と決めましたらば、周りが何と申しても聞きませぬ。私の言葉でさえ、聞き入れてはくれぬようになりまする」
「なるほどなあ。失礼ながら、大変に頷けまする。かの御仁ならば、さもあらん。台本どおりに演じるしか知らぬ役者のようじゃ」
「そう言えば御方様には、お芝居がお好きであられましたなあ。仰せのごとく、頼之はまこと融通の利かぬ、名うての頑固者にござりまする」
「ほほ、奥方であるこなた様にまでも言わるるとはなあ」
幸子と庸子は、そこでふと顔を見合わせて微苦笑を漏らした。
「今頃、清氏殿とこなた様の夫御は、共にこの海に浮かんで戦ってござるのかのう。こなた様もご心配なことであろ」
「…恐れ多いことにござりまする」
どうやら清氏は、小豆島の豪族や水軍などを語らって、海上封鎖を行いつつあるらしい。幸子はそのことを言っているのだ。
「この分ですとなあ、正月はどうやら、赤松殿のご厄介になることになりそうじゃ。我等はせめて無事に京へ帰還できるよう、体調を崩さぬように努めねばなりませぬなあ。おやおや」
再び小さく欠伸を漏らして箸をおいた幸子は、彼女の隣の春王へ目をやって、顔をほころばせた。
「これ、春王殿。このようなところでお寝り遊ばしては、お風邪を召しまするぞえ」
いつの間にやら、春王は柔らかな頬へ飯粒をくっつけて座ったまま、膳の上でこっくりこっくりと舟をこいでいる。
「お連れ申しあげてくだされ。大事なお子じゃ。夜のものもお寒うないようになあ」
「はい。しかと心得まいた」
庸子もまた、微笑んで頷き、春王を抱え上げた。
逃れた若狭でも「無実」の声を上げながら、しかし次第に幕府に追い詰められて、清氏は細川家の本拠であった阿波へさらに逃げた。そこにはまだ彼の従弟の頼之がいたし、彼を慕う地下の者どももたくさんいると思ってのことである。
(頼之ならば従弟の誼で庇ってくれよう)
あわよくば、再起も図れる。諄々と説けば頼之も味方として抱き込めよう…などと考えていた清氏の目論みはしかし、頼之の妻である庸子が言うように「頑固者で節を曲げぬ」頼之が、康安二年(一三六二)三月に正式に義詮からの命令を受け、逆に彼に攻めかかったことで敢え無く崩れた。
清氏は、威勢と度胸という点では頼之をはるかに上回る。だが、頭脳を働かせて…となると、従弟には敵わなかったらしい。数を頼みに海上封鎖を謀ったのはいいが、
「降服するゆえ宇多津(現香川県綾歌郡)までお出でなされたし…」
との頼之からの申し出に、「従弟であるから情けをかけてやろう」などとコロリと乗せられて、逆に己が捕縛される羽目になった。これが同年七月のことである。
「よくも俺を騙したな! それでも貴様は、俺の従弟か! 鬼め!」
頼之陣屋を少数で訪ねた途端、家来ともども縄をかけられ、従弟の前に引きずり出されて、清氏は己のことを顧みずに見苦しく叫んだそうな。
「貴方の従弟である前に、この頼之は幕臣にござる。己の思うままに政を動かそうとした罪は重うござろう。せめて」
そんな従兄を冷徹に見下ろしながら、
「雑兵には手をかけさせますまい。私が直々に手を下す」
頼之は、すらりと刀を抜いた。
「兄者」
「なんじゃ! 早く殺せ!」
わめく清氏へ苦笑しながら、
「…この瀬戸内で、ともに大内や山名征伐に精を出しましたのは、つい数年前のことにござるのにのう」
「…」
「そのまま、貴方と手を携えてゆきたかった。まこと、残念にござる」
じりじりと地面を焼く夏の日差しが、汗が乾いて塩の吹いた従兄の首にも容赦なく落ち続ける。それへ頼之はためらわず刀を振り下ろした。これと同時に、清氏に同調して鎌倉を我が物にせんとした畠山国清の勢いも、一気に衰えたのである。
清氏の首が近江は佐々木道誉の元に届けられたのは、それから間もなくのこと。もちろん、使者が播磨の海端を通っての報せであるから、白旗城にまず「勝報」はもたらされたことになって、
「京へまた移動か、やれやれ。播磨は過ごしやすい。ずっとここへ居ついてもよいではないかと思うがなあ。たった半年ほどではないかや。光源氏の播磨落ちより短いわ」
「まあ、御方様」
「京へ帰るとなると、なぜか肩が凝るような気が致してたまらぬのじゃ。こなた様は違うのかや?」
己の顔を暑そうに扇子で仰ぎながら言う幸子へ、
「お気持ちは分かりまするが」
(この開け放しで気取らぬところが、将軍家正室様らしからぬ良いところ…)
この「間借り生活」の間にすっかり幸子贔屓になってしまった春王乳母、庸子は、苦笑しながら荷造りをしていたものだ。
「こなた様の夫御もなあ、大変なお仕事をなさった後じゃによって、少しはお休みになればよいものを」
「恐れ入りましてござりまする。頼之がそれを聞けば、さぞや喜ぶことと」
「私が申しても、生真面目な御方ゆえに逆に顔をしかめられそうじゃ、ほほほほほ」
幸子がそう言って好意の笑い声を上げると、庸子もつられて笑った。
庸子の夫、頼之は、従兄である清氏を討っても警戒を緩めなかった。足利直冬もまだしぶとく生存しているし、軍の士気が高まっているこの間にと、義詮に願い出て大内、山名両氏への「征伐」を再開している。
幸子が彼を指して「忙しい御方じゃ」としたのはこのことに拠る。「忙しい」というだけであれば、戦のたびに京から出ては東へ西へ移動する幸子やその夫、義詮も変わらぬくらいであったろう。涼しい海風の吹く播磨から、同じ風が山の上を吹きすぎてゆく蒸し暑い京へ戻る途上、
「…何事じゃ?」
摂津の琵琶塚で、輿が止まった。尋ねる幸子へ武士が言うには、
「春王様が、景色をご覧になりたいとの仰せにて」
「ほう。どれ」
幸子もまた窓を開けさせ、外を覗いた。
(これは、確かに素晴らしいのう)
見れば、すっかり赤松則祐に懐いた春王が、熊のような彼の肩へちょこなんと腰掛けて、昼のように眩しい月光に歓声を上げている。
時に葉月十五夜。雲ひとつない満月であった。岸辺には、淀川の流れが絶え間なく打ち寄せていて、その一つ一つが月の光を反射しており、大変に美しい眺めである。
「この景色を担いで、京へ持ってまいれ!」
と、春王は言ったとか言わなかったとか。ともあれ、
「春王殿」
幸子が声をかけると、春王を肩へ担いだまま、赤松則祐が彼女の輿の側へやってきて、軽く頭を下げた。
「よいお子じゃ。これからも、その御心を忘れぬようになあ」
言うと、則祐は豪快に笑って幼子を担ぎなおし、春王は嬉しそうにはにかむ。輿には乗らず、馬に乗るのだと言い張る『三代目』を抱えて「頼もし頼もし」などと言いながら、則祐は共に馬に乗った。
それを潮に、再び行列は京へ向かう。
(戦の間であっても、美しい物を美しいと素直に思う心のゆとりも大事…)
輿の窓を閉めながら幸子はふと、苦笑した。
夫の義詮にはそれがない。征夷大将軍ならそれらしく、どっしりと構えていれば良いものを、信じていた者に裏切られるとすぐに狼狽えて京を捨て、己だけが近辺へ逃れるということの繰り返し。それゆえ頼りないことこの上ない…と、初代尊氏より従ってきた周りの者にも見られている。
厳しい見方であるが、足利幕府を尊氏が創設してから、春王が義満として三代将軍になるまで、というよりも、三代目将軍としての実力を確立するまでの幕府が曲がりなりにも存続し得たのは、二代目の義詮の力ではなく、本人は自覚していないがその妻である幸子と、幸子を教え導いた佐々木道誉のおかげと言えるかもしれない。
道誉が政の舞台に次々と「役者」を登場させては引き摺り下ろして、その勢力を削ぎつつ、ついに幕府に従順たらしめた。幸子は、道誉のやり方を受け継ぎながら、北朝側の朝廷でさえともすればそっぽを向くのを、なんとか幕府側につなぎとめ続けた。この二人がなければ恐らく、足利幕府は尊氏が亡くなった時点で終わっていたに違いないからだ。
それだけに周囲の期待は、「二代様よりも胆力がある御方」と影で密かに噂されている幸子が訓育している春王へ注がれている。右の話なども恐らくは、どんどん高まっていく周囲の期待によって喧伝されたものであろう。実年齢四歳にもならぬ子供が、このような気宇壮大で大層なことを口にしたとは到底信じがたい。
意外に荒らされていなかった京へ戻り、その暑さに不平を零しながらも幸子が元の将軍邸に落ち着いた頃、頼之は相も変わらず「中国管領殿」として中国地方は言うに及ばず、四国、九州地方の平定に文字通り汗を流していた。
「中国管領殿は公平な方である」
とのうわさ通り、彼の几帳面な人柄のせいか、戦の後の評定がよほど良かったのか、帰服した武士のみならず、大内、山名両氏の領土下にあった武士までもが協力者に転じた。武士の多くが土着の者たちであり、両名に未だ従っている者たちにもそれらの親類が多い。親類同士のこととて、説得されるとどうしても矛先が鈍る上に、本領安堵を確約して、それを律儀に実行していた頼之側へついてしまうのである。
兵に厭戦気分が漂えば、戦も何もあったものではない。まず大内一族の長である大内弘世が孤立し、降服してきた。そのために支えを失った山名時氏も降服することになって、
「どうか一命だけは」
頼之の陣幕へ引き据えられてきた時氏は、大内弘世と並んで地に頭をこすり付けんばかりに平伏し、
「お助けくだされば、以前のように幕府へ犬馬の労を厭わず尽くしましょう」
言った。
「貴公らの処置を決めるのは私ではない、二代様である」
その二人を床机に腰掛けたまま見下ろして、
(さて、どうする)
頼之は苦笑した。二人が降服してしまったことで、直冬党とも言うべき反尊氏勢力は、一応は無くなってしまった。直冬本人は負け戦と見るやそのまま逐電してしまった模様で…事実、幕府がこれより十年の後、今川貞世を九州へ派遣しても、彼の姿をそれ以降の史実に見ることは出来ない…そうなると、山陰から中国、そして九州にかけての勢力を依然として保っているこの「大物」二人を処分することは、
(私個人の考えで出来ることではない)
頼之はそう考え、腕を組んで唸ったものである。これまでこの両名は、尊氏遺児の直冬こそが正統であるとして、散々幕府へ盾突いて来た。しかしそれには、人情に照らし合わせてみれば最もな理由があるのだし、人情を盾にしたやり方は卑怯ではあるとはいえ、物事の表面しか見ない大衆は、ひょっとすると二人を「悲劇の子を立てようとして処罰された哀れな武将」と見るかもしれない。となると、幕府の評判は悪くはなっても上がることはない。それに、こうして眼前で誓われてしまうと、頼之の「侠気」がむくむくと頭をもたげてもくる。
「貴公らの言い条、手前が手蹟でもって、二代様へお知らせ申しあげる」
そんな己に苦笑しながら頼之が言うと、大内弘世と山名時氏は現金にもたちまち顔を輝かせた。
頼之が言ったことは、つまり幕府へ彼ら二人の助命を嘆願するということである。さらには両名とも、頼之が呆れるほどに誠実かつ、頼ってきたものを見捨てることが出来ぬという侠気溢れる人物で、一度口にしたことを違えた事はないということを聞き知っている。
「やれ、中国管領殿のご恩、我ら生涯忘れませぬ」
「ご苦労、気遣い、まことありがたく」
彼ら二人が口々に言うのを、頼之はただ黙って苦笑し、頷いて受けていたのであるが…。
さても、こうして細川頼之が西日本の始末をおおまかに終えようとしていた頃、
「さあて、いよいよ我らの『順番』でござりましょうが」
京では、斯波高経がそう言って道誉へ迫っていた。手っ取り早く言うなら、清氏の「失態」の始末をし、さらにへこんでいる義詮の支えになるための次期政所執事を決めるために、真夏の将軍邸には武家諸侯がむさ苦しい顔を揃えているのである。
「清氏ならばという貴殿の言もあったから、手前、納得して引き下がったのでござる。清氏を薦めた貴殿の責任は重うござる」
「左様。手前とてあのような騒ぎを清氏が起こすとはなあ、予想だにしておらなんだ。ひらに許されよ」
赤と黒のだんだら染めの布地に銀の刺繍、という、近頃はますます華美になった衣装で、相変わらず人を食ったような顔をしている道誉は、その時ばかりは苦笑して頷いた。
(気に食わぬ坊主よ)
「しかしの、ばさら殿」
幾分の揶揄をこめて、高経は彼を初めてそう呼んだ。それまでは、彼を慕う者の中で「ばさら殿」と呼ばれていた道誉が、「正式に」幕府の内外で、そう呼ばれるようになるのは、この時期からである。せめて装いだけでも明るいものに、という道誉の衣装は、もはや彼の屋敷内に留まらず、灰色の戦が続くのに飽き飽きした京庶民へもじわじわと広がりつつあった。
(そもそも武士とは質実剛健たるもの。華美に流れてどうする)
そんな道誉を見て、高経は天井を向いている大きな鼻の穴から、勢い良く息を吐き出した。
「いかな二代様のご信頼を得ているからと言うて、貴公、少し図に乗りすぎて、人選を誤ったのではなかろうかの」
「ありゃ、申してくださるな。重々分かってござる。この度はのう、まっこと、この坊主の読み違え、目違いでござった」
諸侯の居並ぶ面前で、ねちねちと執拗に道誉へ絡む斯波高経へ、道誉は瓢げたように片袖をぱっと広げ、その手にしていた扇子で己の坊主頭をぺしりと叩く。たちまち周囲からは好意と呆れが半分に入り混じった失笑が漏れた。どうもこの坊主は憎めぬ。
それへ満遍なく笑顔を振りまきながら、
(とは申せ、これはまあ「予期していた範囲内」ではあるのじゃがなあ)
心の中で、密かに道誉は嘆息している。
小物であるゆえ、到底その任に耐えぬと分かっていた細川清氏を政所執事にし、それが何らかの過ちを起せば誰ぞに始末を…その「誰ぞ」に、まさか同族の細川頼之がなるとは思わなかったが…させたところで、斯波一族を代わって任命し、一時的にであれ不満のガス抜きをさせる。その後、必ず失政をしでかすであろう斯波一族を誰ぞに始末させる。
これは、幸子にも話をされたことで決めていた話の流れではあったのだが、
(幸子殿ではないが、男が絡むとどうも話は大げさになるのう)
今少し、この状況を明るく笑い飛ばせる余裕が己にも欲しいものだ、などと思いながら、
「二代様にも、大変にお力を落とされておる。ここで、今一番の勢力と誠忠を誇る貴殿が一族の全力を挙げてお助けする、と申しあげられたなら、もろ手を上げて賛成なさると思うが。無論手前も貴殿とそのご一族へ助力を惜しまぬ」
「…ふふん」
もとより道誉の腹の中を探るつもりもない高経は、彼の言葉に眉を挙げ、肩をそびやかして鼻を鳴らした。お世辞だと分かっていても、高経自身が密かに恐れている「ばさら殿」にこう言われて悪い気はしない。山名、大内両氏は帰参してきたばかりだし、同格の畠山国清は、幕府に楯突いたのを許されたばかりの「反逆者」だ。細川氏は頼之が正式に継いだばかりで、本人が言うには「未だ若輩の身」である。というわけで、今の幕府には、京極佐々木家を除けば斯波氏ほど実力のある家柄はないと言ってもいい。
ともあれ、このごろの義詮は、再び鬱々と楽しまぬ様子であった。再度近江へ落ちて無事に戻ってきたのはいいが、底冷えのする近江の気候と湖風に吹かれたゆえか、崩してしまった体調が半年以上も元に戻らぬまま、たちの悪い夏風邪を引き込んだとて、今日も寝床に臥せっている。
斯波高経と道誉が「斯波義将を執事に、後見は父である高経に」と奏上すると、それは「好きにするが良い」と、いささか投げやりに受け入れられた。
「山名、大内両氏が降服してまいりました。これは上様の御代が明るいものであるという吉兆ですぞ」
「北畠親房も亡くなったによって、南朝側の勢力も日に日に衰えており申す。ゆえに、われらに有利なよう、講和の話もぼつぼつ進めましょう。どうぞお力落としなきよう」
また、清氏が強引に進めた「半済令」が、妙な形で南朝側にも浸透してしまい、そちら側の武士にも北朝側に倣えで、そ知らぬ顔をして公家や寺社の領土を侵食している者がいるらしい。
会議場であった部屋へも出られず、簾をかけた向こうで医者に支えられ、辛うじて上半身を起こしている義詮へ、二人はこもごもそう言って慰めたのであるが、そのいちいちにも「左様か」としか答えない将軍を見つつ、
(ありゃ、長くない…)
道誉は思って、並んでいる斯波高経からは見えぬように扇子で己の顔を隠し、吐息を漏らした。すると義詮の側に控えていた幸子とも目が合い、期せずして二人は苦笑する。
このところ、鎌倉の抑えにと同地へ派遣し、初代鎌倉公方と称せられた義詮同腹弟、基氏が、「兄はあまりにも頼りない…」と言い騒いで、反抗の構えを見せているという知らせもあるし、病は気からとの言葉のごとく、崩した体調が戻らぬのは風邪のせいばかりではなかったろう。
ただ、そちら方面だけは世の男性と同じように機能するのか、紀良子に二度目の懐妊の噂もある。だが、それとて義詮の心を明るくするものには到底なりえず、さらには、もともと彼の体はさほど丈夫ではない。ことによると、
(俺や則祐よりも先に天に召されるかも知れぬの)
自分の主であるというのに、この食えぬ坊主は妙に冷静に…というよりも、「斜めに」物事を見ている。これは将軍正室である幸子にもどこか共通していて、だからこそ彼は自分の子供らではなく幸子に、
(俺の考えを継ぐ人物の一人…)
と期待しているのであるし、
(気の毒ではあるが、いかさま、頼りなさ過ぎる。なまじ頭が良いのも、考えすぎるゆえに困りものじゃのう)
と、息子のような年齢の義詮を見ずにはいられない。
義詮は、彼自身も思っているように、教養は深いがその分神経質すぎ、ゆえに到底将軍の器ではない。父尊氏から引き継いだ幕府の地盤があまりにも不安定すぎて、常に「天皇を追うた反逆者の子」としての汚名がつきまとったのには、同情すべき点もある。
己が将軍職についても、南朝との争いだけでなく、幕府内でも諸侯同士の争いが耐えぬ上に、身内の弟までもが将軍に相応しからずとして兄を責めているのであるから、義詮があれこれ思いつめて病を得るのも無理はないとも言えるのだが。
「…なにとぞ気を強う。われら、上様のために身を投げ出して働く所存」
「御心を安んじられて、われらにお任せあれ」
斯波高経と同時に平伏しつつ言い、退出しながら、
(もう少し、どっしりと構えておればよかろうものを。そうでないから、母御の登子殿にも心労をおかけするのじゃ)
と、道誉は幸子へも軽く頭を下げて思う。古くなって、あちこち「ガタ」の来ている将軍邸を懐かしく見回しながら、
(そういえば、三条坊門の邸宅の建設は進んでいるのかの)
彼は額や首筋に流れる汗を懐の布で拭った。将軍家の新しい住まいとして建設中であるその邸が完成すれば、少しは義詮の気も紛れるかもしれない。
「では、これにて失敬」
「ご苦労でござりまする」
廊下を曲がると、道は左右に分かれる。高経と道誉はそう言って軽く頭を下げ合った。
(なんにせよ、「お守り」は大変じゃ)
道誉がため息を着きながら、やけつくような夏の空を見上げたその時から二年後の貞治四年(一三六五年)三月、三条坊門の邸は完成した。これにより、義詮は「坊門殿」と呼ばれるようになる。
当然ながら、正室である幸子や、将軍の母である赤橋登子も一緒にそちらへ移ったのだが、それから二ヵ月後、今度は登子が体調を崩した。なんといっても、もう齢六十であるし、義詮と基氏の「喧嘩」は未だに続いている。南朝側との和睦も一向に進まぬし、幕府の行方はどうなるのかと、それやこれやが重なったが故の心労かもしれない。みるみるうちに容態は悪くなり、
「まさかとは思っておったが」
と、枕元へ呼び寄せた嫁の幸子へ、力なく微笑むのみになってしまったのである。
「いけませぬなあ…もうしばし長生きして、春を見たかった」
「お姑様。そのような気弱なことを」
「幸子殿」
痩せ細った姑の手が、布団の上で探るように動いて、幸子の手を思いがけない強さでつかむ。げっそりとこけた頬に、目だけをぎらぎらと輝かせ、
(これがあの、お優しくて儚げであった姑であろうか)
幸子ですら、思わず見つめなおすほどに、登子の表情は鬼気迫るといったそれであった。
「私の願いをなあ。どうかお聞き届けくだされ。どうか、のう」
「…お話くだされませ。伺いまする」
まさに幽鬼のようなその手を握り返し、幸子は頷く。すると登子も頷き返し、
「義詮と基氏…私の腹を痛めた子らが、兄弟で争う…これはなあ、二人を私が引き離して育ててしもうたからじゃ。いずれ一方は将軍となり、一方はその家来となる。そう思うたゆえのこと。しかしそれは誤りじゃった。その結果が兄を兄とも思わず、弟を弟と思わず争う…源家の血を引くものの、それが宿命じゃと言われてしまうには口惜しい。聞くところによると、紀家の良子殿は、再び男の赤子をあげられたそうな」
「…はい」
逆らわず、幸子は再び頷く。側室の紀良子が、のちに満詮となる子を産んだのは、昨年の七月六日のことで、これでいよいよ幕府も安泰じゃと周囲は無責任に騒いだものだ。
「兄弟を別々のところで育ててはなりませぬ。お分かりじゃなあ。公家に育てられたなら、どう育てられても武家の子にはなれぬ」
「…お姑様、それは」
「待ちなされ。今一つ」
問いかけた幸子を遮って、登子は続ける。
「あの折のお答えを、まだ聞かせていただいてはおりませぬ。こなた様がどう仰せあっても仇には聞かぬゆえ、どうか申してたも」
尊氏の葬儀前夜、二人で話したことを姑は言っているに違いない。側には侍女どもも控えており、その話を聞かれても良いものかと幸子はためらいつつ、
(私に…出来ようか)
幸子がこれまで道誉に言ってきたこと。それはあくまでも「傍観者」としての立場からのものでしかなかった。政治を動かしているのは、あくまで男どもであり、女である自分は口を挟める立場にはないはずである。だが、事態は恐ろしいほど、幸子が予測していたように動く。道誉も高齢ではあるし、もしも彼が亡くなれば、
「いやでもこなた様の存在は注目されましょう」
と、登子は言うのである。
どんな状況にあっても己は己、人は人。時には平然と人からの批判を受け止め、跳ね返す度量が将軍には必要で、義詮にはまるきりそれが欠けている。諸侯の顔色ばかりを窺って、機嫌ばかりを取るような彼は、母である登子の目にも…否、母であるからこそ、余計に不甲斐ないと見えるらしい。
「こなた様には、それがおありになる。己は己、人は人。京から二度追われた折も、こなた様は己を見失わず、むしろ置かれた状況を楽しんでおられた。私には到底真似できぬ…そういう人間をこそ、人間は頼もしいと思い、ついてゆくのじゃ」
(なんとかなるであろう、と思うて過ごしてきただけなのじゃが)
「お姑様は、私めを買いかぶりすぎにござりまする」
幸子が困ったように言うと、登子はかすかに笑った。
幸子は、やはり「仕合わせ」に育てられてきたのだろう。どんな時でもなんとかなる、という楽観性は、幼い頃から置かれた状況が不安定なゆえに、神経質に育った人間には到底、持ち合わせることは出来ぬ。
「買い被りと思われるなら、それでもよい。じゃが今、私が一番に頼みにしておりまするのは、こなた様だけじゃ。ゆえに、のう」
そこで再び、登子は幸子のそれを握っている手に力を込めた。
「こなた様の手で幕府を強く。戦を失くして下され。将軍家正室でありながら、私が出来なかったことを、こなた様が、どうか…こなた様への私からの願いじゃ」
苦しいほどの静寂が、しばらくの間その部屋を支配した。やがて、
「…やってみましょう」
後頭部に、熱い鉄串を指されたような心持ちで、幸子は姑へ頷いた。
実にこの時から、幸子の運命ははっきりと決まったといっていい。
(人は人、己は己。人から何と言われようとも、私は幕府のために私が良いと信じるところを成そう)
だが、もちろん彼女は彼女であることを忘れておらず、
(…やはり肩が凝るのう)
その一週間後の五月二十五日、登子は亡くなった。幸子に向後のことを告げたいがために、必死で生きていたのだろう姑の葬儀に出ながら、
(それはそれ、これはこれじゃ。お姑様も、このように大仰な葬儀を望んでおられたのかのう。私ならば、ごくごく親しい方たちのみで、ひっそりと送って欲しいと思うが)
いつものこととて、やはり小さく欠伸などを漏らしていたのである。
仲の良かった母を亡くしたとあって、最前列に並んで座った夫、義詮の肩はこれ以上ないほどにガックリと落ちていた。
「基氏様には?」
「お知らせしてはおるが、鎌倉から参られるには日数がかかろう」
道誉と幸子は、それを尻目にボソボソと話し合う。
さすがに今日の道誉の「衣装」は墨染めで、
(遠慮なさらずともよいものをなあ)
登子ならば、己の死で悲しまずに、むしろ賑やかに送って欲しいと思ったのではないかと、幸子は少し微笑しながら、
「良子殿は、何処においでなのですか」
「…あちらにおわす」
隠してはいなかったことなのだから、登子のいまわの言葉は、誰もが知っていた。幸子が問うと、道誉も心得たように、義詮側室、紀良子の席を目で指した。良子はこれまで一度も登子に会ったことはないが、さすがに姑の葬儀とあっては「出ねばならぬ」と、説得を受けたらしいのである。
(これはまた、義詮様が好みそうな線の細い御方じゃ)
道誉の目を追った先には、抜けるように色の白い、申し訳無さそうに体を縮ませて座っている公家の娘がいた。
「お呼びしてもらえまするか。別の間にてお待ち申しあげておりまする」
「心得た」
幸子が言うと、道誉もそっと席を立つ。読経の間から少し離れたところに用意されていた客間へ、先に幸子が入って待っていると、
「お連れ申した。よろしいですかな」
道誉の声がして、すらりと襖が開いた。
「お初にお目にかかりまする。渋川家の幸子にござりまする。一度二人のみでお話したいと思うて、失礼ながらお呼び致しました。お許しくだされ」
「…これはご丁寧な挨拶を」
幸子が畳へ手を着き、頭を下げるのを見て、相手は少し狼狽したらしい。
しかし、
「二人目のお子、乙若殿の薫育も、私にお任せ下されませぬか」
幸子が二言目にそう切り出すと、良子はさすがに俯いて、その白い顔を一層白くした。
「…ご兄弟が、別々のところで育てられていては、意思の疎通もままなりませぬ」
口をつぐんで俯いた「夫の愛人」の顔をじっと見つめながら、幸子はわざと彼女の葛藤に気付かぬ風を装って、
「それについては私のほうから申しあげずとも、身近な例をご存知のはず。兄弟仲は、やはり良いに越したことはない…それゆえ、お二人目もこの私がお引取りさせて戴きまする」
言われて、良子は唇を噛んだ。自分の実家の懐具合と、母としての感情の狭間で、激しく心が揺れ動いているのが、蒼白になったその表情からよく分かる。
幸子の援助の手は、公家だけではなく今や皇室にも及んでいる。幸子とて自分の腹を痛めてばかりいたわけではない。現将軍正室であり、三代将軍の後見であるからというので、
「私には要らぬものじゃ」
と、守護大名らが媚びて贈ってくる様々なものを「転用」もしている。皇家へも無論、義妹に当たる崇光前帝皇后、頼子の縁でもって幕府からのそれとは別に、兄嫁としての純粋な誠意から、様々な贈り物をし続けているのだ。よって、頼子は見たこともない義姉へ、多大なる好意を寄せるようになっている。
もちろんそれには、皇室とはいえ苦しい経済事情をそれとなく考慮しつつも、「援助」という名前はついていない。あくまで幸子からの「贈呈品」としてであり、これも幸子ははっきりとは言わないが、
(武家どもが好き勝手に振舞うことへの『点』が、少しでも甘くなれば)
との含みもある。半ば形骸化しているとはいえ、皇室やその取り巻きに対する「崇拝精神」は、庶民ばかりか武士の間にもまだまだ生きているし、いずれ武士どもが朝廷の地位をより占めるように…それが容易くなるように、と彼女は考えていた。幸子に言わせれば、それもこれも、幕府を強くする、ただそれだけのためである。
当初は、「我らの地であったものを、我が物顔に簒奪する武家側のものが今更」と、良い顔をしていなかった公家どもらも、幸子があくまで低姿勢を崩さず、慇懃かつ丁寧に己らを扱う様子なので、むしろ彼女を頼りにしている風さえ見える。
結局は皆、それほどまでに貧しいのだ。当たり前だが、公家であるという誇りだけでは、到底生きていけるものではない。衣食足りて礼節を知る、の言葉どおり、これは良子の実家である紀家も同じで、「将軍の側室」という名目でもって幕府から経済的に援助を受けているだけでは、到底足りない。よって、
「同じ公家の方々ゆえ、分け隔てなく…」
といった幸子の「援助」を今ではありがたく受けている始末だったのだ。そこのところは、さすがの紀家でも、
「よく出来たご正室」
と、認めざるを得なかった。夫の愛人の実家へも、「それとこれとは別じゃ」と、自腹を切って援助するなど、並の精神を持った女性に出来ることではないからである。
ために、良子はしばらくの間、返事が出来なかった。幸子には心外であったろうが、すでに朝廷側には「渋川幸子派」とも言うべき徒党が、何となく出来上がりかけている。何せ頼子后がその筆頭なのだ。実兄の義詮ではなく兄嫁の方を、「頼りに出来るし話せる人物」と、これも女性らしい直感で頼子は思っているし、「元皇后」がそう思っているのだから、
(もしも断れば、私だけでなく紀家までもが非難の矢面…)
良子だけでなく、他の公家も恐怖とともにそう考えるようになってしまっている。ここで幸子の言葉をはねつけてしまえば、紀家への援助も打ち切られてしまうだろう。どちらにせよ、正室の命令となれば、我が子をまたしても手放さねばならぬ。側室はあくまでも正室の雇い人だという認識は、この時代、常識として人々の心に根付いていた。
少し湿り気を帯びた風が、寺の境内の木の葉をかすかに鳴らす。それに耳を傾けながら、
(春王様もこのお方の元で、次代征夷大将軍らしく、大らかにのびのびと育っておられると聞く…)
もしもあのまま自分の膝元で育てていたなら、春王は今のように、周囲の期待を注がれはしなかったかもしれない。
(もう一人のお子も、側室の子より正室の子として育ったほうが、やはり良いには違いないゆえ)
そう考えて、良子は長く重いため息をついた。
「よしなにお願い申し上げまする」
幸子よりも白く細い指を畳につき、深々と頭を下げる彼女へ、
「感謝いたします。きっと、のう。春王殿の支えになる、頼もしい方にお育て申しあげまするゆえ。貴女様のご決断、決して無駄には致しますまい」
幸子は柔らかい微笑でもって答えた。
「…幸子様を信じまする」
言うと、良子はそのまま畳に突っ伏し、声を殺して泣き出す。
(これも、幕府にとって必要なこと)
幸子はただ、その様子をじっと見つめていた。黙ったまま、同室していた道誉もやはり無表情なままで沈黙を守っている。
(じゃが、またこれで私の評判は下がろうなあ。ま、致し方ないことじゃが)
そう思うと、幸子の口元は苦笑いに歪む。が、
「堅苦しいお話を致すと肩が凝ること。なあ、良子様」
幸子はそこで立ち上がり、普段の調子で言いながら肩をぐるぐると回した。涙をそっと袖で拭い、幸子を見上げる良子へ、
「全てが…そう、全てが終わりましたら、二人のお子とこなた様と私、のんびり茶でも飲みたいものじゃとなあ、私は思うておりますのじゃが」
少しの茶目っ気とともに話しかけると、良子も思わず微笑い、
「その時にはぜひとも、お供させて下さりませ」
そう答えたのである。だが、この誘いは結局実現はしなかった。良子は義詮が亡くなると共に気力を失って痩せ衰え、これも夫の後を追うように亡くなったからである。
ともかくも、春王(後の三代義満)、乙若(満詮)兄弟の養育は、正式に幸子へ任されることになった。
母を亡くしたことも、その繊細な心に深い影を落としたに違いない。今や義詮は、幸子の口上に「その通りにせよ」と言うばかりである。将軍という立場にあり、坊門殿、と一応は敬意を持って呼ばれていながら、皆が実際に恐れつつあり、頼りにもしているのはその妻のほうであることを、神経質ゆえに感受性の強い彼が気付かないわけがない。朝廷や公家らの後ろ盾があるということで、元々それらに神聖な惧れを抱いている武家どもも、いつの間にか幸子の顔色を窺うようになってきているし、将軍の母が息子の義詮ではなく、嫁の幸子へ後事を託したということも、暗黙のうちに知れ渡っているものだから、
(俺は一体何のために将軍の位にいる)
義詮はそう思い、しかしそうは思ってはならぬと激しい自己嫌悪に陥っていたであろうことは、想像に難くないのである。
政治を実際に取り仕切っているのは、斯波高経、義将親子であり、しかも彼らもまた、己の一族のみで幕府の高官を占めるようになっている。これでは義詮自身も結局「飾り」に過ぎず、斯波一族を除いたところで、また同じような輩が現れることの繰り返しだと、彼は一層投げやりになった。
それやこれやで、義詮が以前よりも病に起き伏す度合いが増えた頃、
「…もうそろそろ、斯波殿にも、舞台より退場願いましょうか」
幸子が、彼の枕元でぽつりと言うと、
(いつの間にか、俺はここでも操り人形になっていたのではないか)
義詮は思わず体を震わせて、妻の顔を見上げたのである。
時に登子が亡くなって一年あまり。汗が胸の谷間にじっとりと湧く七月のことだった。
この頃には、細川清氏その他武士失脚の「本当の担い手」が誰であったのかを、さすがに義詮も知っていたから、
(この女は、なんと恐ろしいことを淡々と)
戦場では敵を駆逐することに何のためらいも見せぬ彼も、病床で日常を送っていると、まともな精神を取り戻すらしい。
今日も今日とて、道誉が控えている前でも、
「しかし、斯波を罷免してしまえば、他に適当な人間はおらぬではないか」
女の身でありながら、平気で政治に口を出す妻を苦々しく思いながら、
「こうもたびたび、政の頂点を担う人物を変えていては、政権も安定せぬし、その一族も納得しまい」
義詮が脇息にもたれて言うと、
「その人物や一族のみが嘆くほうが、無辜の民を嘆かせるよりも、数の上でまだずんとマシにござりましょうが。簡単な計算でございます」
幸子は低く、はっきりした声で答えを返した。
「我が身やそれに連なる者のことばかり考えている人間を、いつまでも頂点に据えておくことほど、罪なことはござりませぬ」
夫の額に沸いてくる汗を見て、それへ扇子で風を送りながら、
「斯波殿が泣くというのなら、泣いてもらいましょう。高経殿はともかく、義将殿はまだ若年ゆえ、これから良きように成長する可能性もある。一時、領国の越前にでも、おとなしく引っ込んでいてもらえさえすれば良いだけのこと。能役者とて、演技が下手ならば即刻入れ替えられて、『大根役者』と呼ばれるそうな。いわんや、政の中枢を担う者をや、にござりまする」
きっぱりと言う幸子の顔は、涼しげでさえある。義詮は救いを求めるように道誉を見たが、娘婿がいるとはいえこちらも元より、斯波一族には好感を抱いてはいない。
つい最近では、五条大橋の造営を担った道誉が、京都の民から棟別銭を徴収して橋を建設するというやり方をしていたのを無視し、斯波高経は自腹を切って工事を推し進めてしまった。なるほど橋は早くかかって、道誉もそれはそれで良いやり方であると認めはし、市民にも金を出さずにすんだと感謝されたが、「ばさら殿」の面目は丸つぶれである。
先だっての戦で自身の白旗城へ幸子と春王をかくまった赤松則祐も、この三条坊門建設の折に、
「割り当ての場所の工期が遅れている」
との理由で所領の一部を斯波高経に没収されてしまったため、さすがに高経へはよい感情を抱いていないという。
また、寺社や公家側へも、高経は細川清氏の時で懲りていたはずの半済を、再び強行した。これにより寺社の一大勢力を成していた春日大社さえも、幕府は敵に回すことになってしまい、
「これでは、われらに好意を抱いて下さっている公家の方々や朝廷にも、またそっぽを向かれまする」
皆で仲良くとの己の精神に反する、と、幸子は思うのである。
「…致し方ない」
義詮は、ついにうなだれた。彼としても、幸子へは、将軍正室とはいっても己が頼りないせいで、京から二度も離れさせ、苦労をかけてしまったという負い目があるし、京極道誉には、京を奪われるたびに助けてもらったという義理がある。つまり、反覆常なかった斯波一族よりも、ずっと佐々木京極一族の存在は重い。よって、
「高経と義将を、執事職とその後見より解任する」
額から滝のように汗を流しながら、長い吐息とともに義詮は言ったのである。
太平記によると、貞治五年八月八日(旧暦。現在の暦では九月十三日)、義詮は将軍の名の下に、三条坊門において軍勢を終結させた。その上で、斯波高経へ向かって、
「急ぎ守護国へ下向すべし、さもなくんば」
罰を下す、という使者を送ったという。
義詮将軍就任当初は、まだまだ脆いと観られていた幕府勢力も、皮肉なことに義詮が病を深くするほど安定してきていた。山名、大内は帰参しているし、南朝側においても北畠氏などの骨のある武将は次々亡くなっていくし、その跡を襲った子息もいまいち脆弱であるし、というので、
「時期を逸した。もはや抵抗できぬわ」
幕府に対する反抗勢力も勢いを失った。それゆえに反抗しようにも共にかたらう武士がいないと嘆きながら、斯波高経は翌九日の朝に自邸へ火をかけた。越前を指しておちのびる前に、義詮へ向かって無実を訴えたが、義詮は「将軍でさえも思いのままに動かぬ世ゆえ、どうにもならぬ」と高経へ涙で持って言い聞かせたそうな。
表向きの彼の罪は、政治を私したこと、越前にあった興福寺の所領、河口荘を彼の配下である朝倉高景が勝手に切り取るに任せたこと、となっている。しかし、もちろんこれは高経があっては幕府のためにはならぬと判断した幸子と、利害の一致する京極道誉及び赤松則祐の示し合わせによるもので、名目上のものに過ぎない。事実には違いなかろうが、他の領土にもよく見られたことで、重大な訴えとして取り上げられる程度のものではなかっただろう。
この「貞治の変」により、また一つ、幕府にとって「敵に回れば少々鬱陶しい」勢力は削がれた。だが、幸子とその一派による斯波氏への追及はあくまで厳しく、
「ここで徹底的に叩いて斯波を懲らしめておかねば、幕府の安定はござらん。すずめの涙ほどの情けは、逆に無用とお知りなされ」
道誉はそう言って、これ以上の斯波追及を渋る義詮を叱咤した。
幸子もまた、
「斯波高経殿を討ち取ったならばすぐ、越前や若狭など、斯波一族の領土であった土地を御料所(幕府の直轄地)となすべきでございます。また、彼らがかすめとった所領を、本来の持ち主であった公家の方々や寺社に返すのが筋でございましょう」
そうしなければ、幕府の信頼回復は望めぬ、と、横から口を添える。苦々しい思いで、義詮は二人の言葉に頷いた。
斯波一族は、将軍など眼中にないように振る舞い、事実それだけの武力を持っていた。このように、将来、またもや恐ろしい敵になるかもしれぬ部下の始末に、強いためらいを見せるというこの一点だけでも、義詮はやはり将軍の器ではなかったと言えるのである。
幸子も道誉も、ここで高経を見逃せば、きっと他日、彼はまた幕府へ牙をむくであろう、と…彼を始末した後には、まだ十八歳という年齢の若い義将を将軍からの温情として残しておけば、斯波は従順な猫になる、と見ていた。これにより、道誉の三男であった京極高秀、赤松満範、山名氏冬(時氏三男)、畠山義深、尊氏以来の家臣である土岐頼康などが義詮を大将とし、大軍でもって斯波高経のこもった越前杣山城へ攻め入った。
この城は、鎌倉初期に源頼親によって築かれたと言われている。険しい崖を利用した天然の要害ではあったが、いかんせん、右のように大挙して攻めてこられては、防御も何もあったものではない。義将の篭る栗屋城もまた、同じように包囲されていると知らせられ、城内の高経は何ら有効な手を施せぬまま、翌貞治六年(一三六七)七月に、城内で病没するのである。
「ようございました。お疲れでございましょう」
一年経って、凱旋して京へ戻ってきた義詮を、幸子は表門まで出て穏やかな笑顔で迎えた。越前、若狭、越中、摂津は幕府の直轄となり、これによって幕府の懐もかなり潤ったし、また、斯波高経が行った半済を、義詮が幸子の勧め通りに即刻停止させたため、寺社や公家らの幕府への信頼も回復した。一応はこれで落ち着いたと幸子は思い、安心したのだが、京極高秀と赤松満範が、両脇から支えるようにして、彼女の待っていた部屋へ義詮共に入るなり、
「御方様。坊門殿の典医をお呼び下され」
口々に言い喚たために、三条坊門の将軍邸は大騒ぎになってしまったのだ。
早速白い布団へ横たえられた義詮の唇は、その布団よりも白い。その癖、額からは真夏のこととて、絶え間なしに脂汗が出てくる。
「疲れと暑さにやられなさりまいたかの」
兄を心配して、わざわざ宮中から頼子皇后が使わした典医は、言って首をかしげた。海に面している若狭方面は、京よりもずっと風が強い。それゆえに鍋の底の様な暑さからは解放されていて、実際、京よりはずっと過ごしやすかったはずなのだ。
だが、横になると、苦しげな咳が止まらない。食物を口の中へ入れても、上手く嚥下出来ずにすぐむせてしまうので、ろくに栄養も取れず眠れず、義詮はどんどん弱っていった。
(やれやれ、将軍というものは)
悪い病気であれば、伝染ってはならぬというので、幸子や子供達は彼から遠ざけられている。奥の間で春王や乙若が他愛ない遊びに興じているのを、目を細めて眺めながら、
(征夷大将軍というのは、どうやら並の神経では勤まらぬものらしいの…)
彼女は己の胸元へ扇で風を送り、しみじみとそう思った。
(ありゃ、『悪い病』ではないわ)
幸子が見るところ、義詮が弱ってしまったのは「悪い病気」のせいではない。人一倍、繊細で神経質な性格の義詮が、
(将軍の任には到底耐えなかった。病は気からというのはまことじゃなあ。ゆえに天は、これ以上あの方を苦しめるに如かずと、召し返そうとしている。ただそれだけのこと)
と、彼女はそうも考えている。食えず、眠れずというのでは、幸子だけではなく、誰が見ても義詮は長くないというのが分かるし、
(後のことじゃな…。頼子様にもつなぎをつけておかねば)
夫を夫として心配でないわけではないが、幕府に関わる人間としては、むしろ夫がいなくなった後の方を、より心配しなければならぬ。いつ反対派が出てくるかも知れぬし、そうなると跡取りが手中にあるとはいえ、少しでも隙を見れば、跡取りもろとも寝首をかかれかねないからだ。夫に対して薄情だと、その点ばかりで彼女を責めることは出来ない。
今のところ、「将軍家の確実な味方」と思える諸侯は、幸子の目から見たところでは、佐々木京極、赤松、細川の三氏のみである。
再び宙に浮いてしまった政所執事の座は、
(はて、ようよう細川頼之殿の出番が回ってきたというところかの。ばさら殿からも阿波へ手蹟が参っていようが)
幸子は考えて、ぱちりと扇を鳴らす。心得てやってきた春王乳母、庸子へ、
「頼之殿へ、この私からも一筆、したためまする。庸子殿、よろしゅうお口添えを」
言うと、庸子の顔に緊張が走った。
庸子は元々、北朝の名の元になった持明院の現当主、保世の娘である。教養はそれなりに深いが、関与しないために政治感覚には疎かった。それが女の身でありながら、幸子の側近くに仕え、幸子が頼之を京へ呼ぶとあって、
(いよいよ我が夫が政所執事に)
それくらいのことが、即座にピンと来るようになっている。
「…我が夫に、そのような恐れ多い役割が勤まりましょうか」
庸子へ言うなり、硯を引き寄せて紙へさらさらと筆を走らせる将軍正室へ、震えを隠せぬ声で、恐れながらと彼女は言った。
(御方様ならいざ知らず)
と、近頃では庸子ですら、そう思っている。慎ましい彼女は、口に出すのも憚っているが、
(どのような時でも己を見失わず、これと思えば断が素早い…)
真に将軍たる素質に恵まれたのは、その妻である幸子のほうではなかったかと、改めて畏敬の目でもって己の主を見直しているのだ。義詮が病に起き伏ししてからというもの、幕府からの指示は義詮から出ているように見えるし、道誉の進言も入れて、ということになっている。しかし、ともすれば義詮を素通りして、幸子の意見でほとんど幕府の政治が動いていたことを、彼女に近い人間は皆知っていた。諸事、迷いに迷って決断の遅い義詮に、斯波一族へ施したような思い切った処置が出来るはずがないからである。
だが、庸子や周囲が見ているほど、幸子が将軍の器であったかどうかは疑わしい。幸子の政治感覚は、彼女自身が意識せず表舞台に立っていたとしても、あくまで「観客」としてのそれであったし、ために一種の気楽さがつねに彼女の周りに漂っていて、「大物である」と勝手に思われていた節がある。
彼女が周囲に恐れられ、顔色を窺われるようになったのも、「やれることをやっているだけのこと」と思っていた幸子にとっては、まさに望外のことであったろう。
「細川頼春殿、頼之殿ご父子の忠誠はなあ、私も心に深く刻んでおりますゆえ。それに、我らのためとは申せ、頼之殿はお従兄まで討ってのけた、その誠実さは坊門様もようようご承知じゃ。ばさら殿も再三、頼之殿ならばとお勧めされておる。頑なに辞退なされてこられたが、他に適任はおらぬゆえ、もうよいじゃろうと私も思うたに」
「…まあ。あの、そのようにお気軽な」
(確かにのう。まるで友人を呼びつけるようでもあるし)
幕府の中枢を担う役目就任のことを言っているにしては、あまりにも気軽である。庸子が目を丸くするのへ、幸子は苦笑して、
「それそれ、気楽にお受けくださればよいのじゃとな。幕府の政の頂点におるからとて、そうきつくきつく構える必要はないわえ。生真面目な方ゆえ、ご自身ばかりで荷を負おうとなさろうが、周りにももっとお任せなされば、と。三代様の後見たる資格を持ちまいて、私からも書きましたゆえ。お渡しくだされ」
「は、はい」
これは、事実上の命令である。さらりと巻かれた白い紙を見て、受け取ろうと差し出した庸子の手は刹那、震えた。
(さても、あの頼之殿がどのようにお役を勤めるのかの)
庸子が去っていき、一人になると、急にしんとした晩秋の冷えが幸子を襲った。
(義詮様の気を晴らすために、能役者らをこちらへ呼ぶのもよいか。ばさら殿や赤松殿も共に呼んでのう)
つ、と、立ち上がって襖を開けると、庭では紅葉が美しく色づいている。
それを見ながら、
(まこと、政も能舞台のようなもの。はて細川殿には何の役が似合うやら。よもや、ひょっとこやおかめの類ではあるまいがの)
不謹慎にもそう考えてしまい、幸子は思わず喉の奥でクツクツと笑った。
中国、九州地方が安定したと見られた時点で、細川頼之は中国管領を解任され、変わって四国の統一を命じられていた。そこで勢力を張っていた河野氏をほどなく追討し、今度は「四国管領」として阿波や讃岐を治めていたのである。
(他に適当な人物もおらぬしのう)
という幸子の言葉が伝えられたわけでもなかったろうが、ともかく、細川頼之の元へは、使者が急ぎ走った。
義詮が「天へ召し返された」のは、幸子が庸子へ頼之への書状を託してわずか二週間後、年の瀬も押し迫った貞治六年十二月二十八日(旧暦十二月七日)のこと。頼之が京へ到着したのは、その数日前である。
「…もはや信頼できるのは、こなただけじゃ」
幸子に支えられながら、義詮はそれだけを言うのにも喘ぎ、何度も咳き込んだ。布団を敷いたこの部屋には、病人が発する独特の匂いが濃く漂っていて、それが時折つんと鼻をつく。どうやら二代将軍の「その時」の瞬間には
(間に合ったらしい)
不吉なことをと内心で己を叱咤しながら、それでも頼之はしみじみと己の主の顔を見直さずにはいられない。
(征夷大将軍というものを、到底、負うことの出来る方ではなかった)
整っていたかつての面立ちは、見る影もない。咳と嘔吐を繰り返し、げっそりとこけてしまった頬を懸命にこちらへ向けながら、
「私は、父の跡継ぎとしてやらねばならぬことを、何一つ出来なかった」
自嘲気味に笑ったその顔は、まさに幽鬼のそれである。思わず背筋を震わせながら、
「何をおっしゃる。まだまだこれからではござりませぬか!」
不安な目をして成り行きを見守っている春王とを等分に見つつ、頼之は膝をついたまま、一歳年下の将軍へにじり寄った。
「私を近江へ逃がすために、こなたの父は京で死んだ。こなたは私のために従兄の清氏を討った…こなたが忠誠、片時も忘れたことはない。ゆえに、後を頼む」
「上様。気弱なことを。我等が幕府のために忠誠を尽くすのは当たり前の事ではござりませぬか。どうか気をしっかりとお持ちなされて」
「…頼む」
痩せ細った震える手が、頼之へ伸びる。思わず差し出した彼の両手を、義詮の青白い手が思いがけない強さでがっしりと掴んだ。
「私の手でなすべきであった、皇室の一本化…結局それも出来ずに、幸子にも、春王にも、夫らしい、父らしいことは何一つしてやれなんだ。私には全て分不相応、手に余るものであったのかと思うと、胸が張り裂けそうになる…ゆえに、こなたへ頼む」
言葉もなく、ただ己の顔を見つめる頼之から、義詮はつと目をそらして側の春王を見やり、
「父は今、新たな父をお前に与える。その教えに背くことなかれ」
言ったかと思うと、
「…疲れたわ」
背後の幸子へかすかに笑いかけて、彼女の肩に頭を乗せ、目を閉じたのである。
こうして、細川頼之が、管領と名を変えた政所執事の役に着いたのが、義詮の死の直前。中国、四国を経て、ついに本物の管領になったわけだ。むろん、これには赤松則祐やばさら殿こと京極道誉、そして幸子など「反斯波派」からの推薦があったのは言うまでもない。
実父を亡くしたこの時、跡継ぎの春王こと義満は、まだ十歳という幼さだった。義詮の死の翌年の応安元年(一三六八年)、一月十一日の評定始において行われたのは、彼の元服式である。この時、頼之は義満の権威を高めようと、必要以上に大げさな儀式を執り行ったという。
「貴方はまだ幼い。それに、朝廷からまだ、正式に征夷大将軍として任じられてはいない」
そして、彼の新たな「父」としても、彼は、当たり前の事を改めて認識させるように、懇々と諭した。
「ゆえに、よりに嵩にかかって尊大な態度を取る者も多く出ましょう。私は貴方様の父として、それらをびしびしと取り締まってゆく所存。貴方様も征夷大将軍として、褌を締め直してかかってくだされ」
「ウン。こなたは私の父ゆえ、こなたの思うようにやってくれたらそれでよい」
義満となった春王は素直に頷いた。
もともと、頼之の妻を乳母とし、実の母のように懐いているのである。その夫である頼之を実の父のように思うのは、義満にとってごく自然のことだったろう。
同年の我が子を早世させた頼之にとっても、義満は実の子のように思えたに違いない。滅多に笑わぬ厳しい顔が、義満を見るといつも少しほころぶ。義詮より直々に乞われて就任した管領という役目を果たすというだけではなくて、まさに父の代わり、子の代わりという以上の細やかな絆が、二人を着々と結んでいくのがよく分かった。
「まあ、これで一安心、というところでございましょうかなあ」
幸子が言って、一応は安堵の吐息をついたのが、義満が正式に朝廷より征夷大将軍に任じられた翌年である。細川頼之が、俗に応安大法と呼ばれる寺社や公家側の荘園を保護する半済令を出したとあって、
「まずは及第点ではございますまいか?」
「はは、そう思っていただけると、この坊主も彼奴めを推した甲斐があるというもの。則祐も春王様には、何よりわが国の帝王になって欲しいと、このごろは口癖のように申しておりますわい」
そして幸子の安堵は、京極道誉や、今は領土の播磨にいるが、春王が「じい」といって慕っていた赤松則祐にとっても同じものらしい。いつものように、近江土産を山ほど携えて訪ねてきた道誉は、赤くてらてらと光った坊主頭を扇で軽く叩きながら、
「手前にとっても、春王様、いや、義満様は恐れ多い事ながら孫のようなもの。手前も三代様の手足となるよう、不甲斐ない我が倅どもらの尻を一層叩かねば」
と、豪快に笑うのである。声を合わせて幸子や庸子がひとしきり笑った後、
「幸子様。実はのう」
この食えぬ坊主が、昔を思い出すように遠い目をして、しみじみとした息を吐き出した。
「貴女様は、ひょっとするとあの頼之の妻となられていたかもしれぬのじゃ」
「おやおや、それはまた何ゆえ。庸子殿もおわすというのに、今更言わずもがなのことを」
彼の言葉を聞いて、幸子はいたずらっぽく側の庸子を見る。すると庸子も幸子へ苦笑を返してきた。
「あれの父である頼春殿がなあ、こなた様の父御の渋川義季殿に懇望しておったのをなあ、昨日のことのように思い出せる。堅物すぎるゆえに、凝り固まったところをほぐせるような、むしろどこか漠、としておるような、そんな女性が良いのじゃとな」
「まあ、失礼な」
「ありゃ、これはしたり! 褒め言葉にござる」
言いながら、幸子と道誉は再び、声を上げて笑った。
「したが、何の因果でござるかのう…」
道誉はしかし、すぐに笑いを引っ込め、化粧っ気のまるでない、それゆえに冴え冴えとした美しさを湛える幸子の顔をつくづくと見る。夫を亡くして髪を下ろした彼女は「大方禅尼」、「大御所渋川殿」と呼ばれるようになっており、幕府に従う武家どもは、ことごとく彼女の顔色を窺う有様なのだ。
幸子へ遠慮のない口を聞けるのは、この食えぬ坊主と、赤松則祐、そして、頼之くらいであったかもしれぬ。もちろん、幸子は周囲に恐れられていることなど、蚊の泣くほどにも意識していない。
「人が自分を評するなら、勝手になされい。やらねばならぬことの前には些細なこと。大御所などと呼ばれる筋合いはない」
といつも彼女も言っているように、誰の前でも己の評判などどこ吹く風といった、とぼけたような表情を崩さぬし、誰を前にしても、身分や嫌悪の情によって態度を変えることはない。さらには、夫を亡くして悲嘆にもくれぬ。己の身の置き所について絶望するどころか、むしろ一層、前途への闘志を掻き立てているように見える。
(大したものじゃ)
今はこの坊主も、素直にそう思うようになっている…最も、幸子の方は人が自分をどう思おうと「どうでも良いわ」なのである。ひょっとしたら、幸子自身が本当に嫌っている人物というのはいなかったかもしれない。
「結局、こなた様は将軍家へ嫁入られた。実のお子とのご縁は薄かったが、春王様と乙若様、両のお子を実のお子のようにして育てられた。失礼ながら、手前」
そこで、庸子が茶を注ごうとするのへ、「や、これは」と言いながら湯のみを差し出し、
「春王様が、御方の腹から出たような気を、ふと起こすことがござる。いや」
幸子が口を開くのを抑えて、道誉は続けた。
「間違いなくのう、春王…いや、義満様は、御方の質をそっくりそのまま、受け継いでおられる。ゆえに、義満様は御方の実のお子ではなかったかと、のう…折々に錯覚を起こす。良子様には大変に失礼に当たるがなあ」
…もしも、あのまま伊勢邸で育てられていたら、と、彼は言いたいのだろう。
「ああ。いつか共に茶を呑みましょう、となあ。約束しておりましたものを」
幸子もまた、まことに「普通の」女人であった夫の愛人を思い出し、嘆息した。先述のように当の良子は、義詮が亡くなってすぐ、気力を無くして枯れるようにその後を追った。確かに、その母の膝元であのまま育てられていたら、宮中の将軍任命式において、
(齢十一にして、しかめっつらをした、いかめしい肩書きの公家どもや帝の前で、堂々と胸を張っていた…)
との評判を得たようには、大らかに図太くは育たぬ。
(人の子の親となるのは、難しいものじゃ)
幸子はそこで、亡くなった義詮を瞼の裏へ描こうとして、
(…もう思い出せぬわ。私には、人並みの情というものが欠けておるのかの)
ほんの少し、苦笑した。
夫婦でありながら、千寿王を亡くしてからというもの、肌を重ねたのは片手の指で足りる程の回数でしかなかった。もともと、義詮との婚姻が義務のようなものであったから、愛情はなかったのかも知れぬし、
(それゆえに、泣けなんだのかの)
尊氏、登子、実父義季、義詮…幸子に近しい人々が亡くなっていっても、何故か涙一滴出ぬ己を、自分でも彼女は不思議がっているのだ。
「ともあれ、出来ればのう…このまま」
「はい、このまま。諸侯の贄にもならず」
期せずして同時に茶をすすりながら、道誉と幸子は頷きあった。このまま、細川頼之を管領として留任させ続けることが出来れば、と、二人は口に出さずに意思を確認しあったのである。
(あの頼之殿と、私が夫婦になっていた可能性がある、となあ)
そこで、来客を告げられて席を外していた庸子が慌しく戻ってきて、己の夫と義満の来訪を告げる。己の妻の案内で現れた頼之が、道誉と幸子の側へ義満を座らせ、己は低く下がって平伏しながら、
「ちとお耳に痛いことを申しあげまする」
と、道誉の服装であり、京の町民へ浸透しつつあるところの「ばさら風」を、風紀が乱れるという理由で禁止する旨を伝えた時、
(これはなあ。無理じゃ)
「好きになされ。こなた様が管領であろうが」
と、告げながら、幸子は思わず緩んだ口元を慌てて扇で隠した。己を管領という地位につけてくれた、いわば恩人である「ばさら殿」や幸子にすら、遠慮せずにその服装を華美だと非難する、このような「カタブツ」は、確かに幸子には合わぬ。
「は。決定事項なれど、とりあえずは大方様、道誉殿、双方へお知らせしようと思いましたゆえ」
「ご丁寧にのう。したが、あまり民は締め付けぬが良いのではと思うが」
「服装の乱れは心の乱れに通じまする」
「…ふむ。言われてみれば、なあ」
ばさら殿といえば、二人の会話を苦虫を噛み潰したような表情で聞いている。さすがに、「これでも考えているつもり」の己の服装を、心の乱れの一言で片付けられてしまっては、面白くはあるまい。
頼之と道誉の様子があまりにも滑稽で、ともすれば吹きだしそうになるのを堪えつつ、
「まあ…気張らず励まれなされ」
幸子が言うと、頼之はまさに「気張った」声で、
「はっ。では手前、まだ片付けねばならぬことが残っておりますゆえ、これにて。義満様、確かにお送りいたしまいた」
妻である庸子を一顧だにせず、部屋を退出していったのである。
「…なんとまあ、徹底して公私の区別をつけておいでなこと。いずれが良いのかは、民が判断しましょう」
義満が、服を変えるために次の間へ立つと、庸子もまた、手伝いのためにその後を追った。苦々しい顔をしている「ばさら殿」が、少し気を悪くするくらいに吹き出して、ひとしきり笑った後で、
「あのお方を勧めなさったのは、入道殿でござりましょうが」
「…左様。それゆえ、余計に複雑な心地なのじゃ。服装にまで煩いことを…あの堅物めが。決して手前の父ではあって欲しゅうない男じゃ」
ぶすりとしたまま答える道誉の言葉には、それでも頼之への限り無い愛情が篭っている。それを聞いて、
(父として、母として…なあ。もしも頼之殿が私の夫であったなら、とは想像も出来ぬわ。よしんば、私のほうから妻にしてくりゃれと申したところで、頼之殿のほうから、お断りじゃと言うてくるであろ。あの、難しい顔をさらに難しくしてのう)
思いながら、幸子はますます笑った。