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我が胸中に在り  作者: せんのあすむ
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二 羅刹の心

 ともあれ、北朝側にとっての危機は再び去った。細川頼之は戦死した父の代わりに正式に阿波の守護代に任ぜられたし、近江の佐々木道誉もその地位を保ってどっしりと近江一帯に勢力を張り、赤松則祐もまた、播州白旗城へと戻って行った。


 京を奪われ奪い返され、まことに煮えきらぬ両皇家の戦いは、結果的には尊氏が幕府を創設してから約六十年は続くのである。


「またいつなと…」


 己を頼れ、と、勝楽寺を去るときに幸子へ告げた佐々木道誉の言葉は、初めて彼女が京を離れた実に九年後、再び現実のものとなるのだが、ともあれこの時は、


「やれ良かった。向後は京を動くまいぞ」


 尊氏ともども、京へ戻った義詮や武士どもらが口々に言うように、北朝へとりあえずは忠誠を誓っている者ども全てがそう思っていたに違いない。このように争いが続くのは、


「やろうと思うのなら、徹底的に叩かねばならぬわ」


 今の北朝側では強硬派である斯波高経らも常々吐き捨てていたが、南北朝双方が「もともとは親族であるから…」と、変に遠慮をしていたからではないか、とも言える。


 それほどに皇家は未だ、人々の心のどこかで畏れられているのだ。広義門院が治天の君となることに難色を示した公家らへ、


「尊氏が剣となり、良基が璽となる。何ぞ不可ならん」


 つまり、たとえ女性が後ろ盾となっても、三種の神器がなくても、尊氏が草薙の剣であり己自身が勾玉である、それで何が悪いと啖呵を切った二条良基の言葉が効いたのも、天皇に一番近い関白であるからこそだった。となれば、


(公卿の官位を得る…なるだけ上の官位に就くことも大事)


 京に戻った折、父の義季から全ての経緯は聞いている。己の膝元で無邪気に戯れる我が子を見ながら、


(女であればこそ、それが出来る。皇家の近くに仕えている方々へそれとのう、しっかりと繋がりを持つことが。女は女同士、というからのう)


 男であれば目立つであろうことでも、女の身で成せばさほど目立たないし、女性特有の仲間意識とでも言おうか、いざとなれば男同士の繋がりよりも強い絆が出来る。恐らく佐々木道誉はそのことを暗示したに違いなく、


(この子の後ろ盾として、政に関与することも可能ではないか)


しかも、己は次期将軍の正室である。となれば不可能なことではなさそうだ、と、幸子は考えていた。


 無論、そこには我が子の栄達を願う母としての気持ちも働いていたろう。そのためには何よりも、将軍家が強くなければならぬ。先に二条良基が切った大見栄は、


(自分の保身のためとはいえ、まだまだ朝廷の力は侮れぬ)


 関白という地位を保持したいがためであったとしても、今時の公家において、まだこれほどの度胸がある人物がいるということを幸子に強く認識させた。


 言うまでもないことながら、まだまだ足利幕府の足元は危うい。実際、将軍弟の直義を除いたとはいえ、その養子であり尊氏の庶子である直冬は未だ九州に健在であった。これも反尊氏派である山名時氏や大内弘世らと語らって文和四年(南朝では正平十年。西暦一三五五年)には再び実父尊氏を追い、京を制圧しているが、尊氏派の反撃にあって間髪を入れずに京を追われている。よって将軍邸はもとより、公家屋敷や御所へもその時には大した被害は無かったのだが、


「力を落とすな。子などまた、すぐに儲けられよう」


「…はい」

 

 将軍邸を訪れた父の慰めに、幸子はかすかに顎を引いて頷いた。初めての近江落ちで風邪をこじらせ、それから健康がすぐれなかった一粒種の千寿王丸が、五歳で夭折してしまったのだ。


「こなたも二代様もまだ若い。気落ちいたすな。これからじゃ」


 攻め入り、攻め入られ、落ち着かぬ情勢下での慌しい葬儀を終えて、


(手持ちの駒をひとつ、失うてしもうたわ)


 呆然と庭を眺めながら、そのような考えを持ったからこそ罰が当たったのかもしれぬと、幸子は寂しく苦笑した。


 当然ながら、娘の密かな心積もりを知らぬ父義季は、


「子はまたすぐ得られる。今はなあ、初代様も具合が思わしくないのでお忙しいのじゃ」


 と、幸子にとってはどこか見当違いの慰めを続けている。


(父上は知らぬのじゃなあ)


 子供のいない居室は、一気にしんと静まり返る。子がいなくなったというばかりではなく、そもそも夫である義詮が、京へ帰還してからまともにこの屋敷へ帰ってきたことはないのだ。父の言うように、尊氏の健康はすぐれないし、それゆえに義詮がより忙しくなったのは事実だが、


(順徳帝の御血を引くとかいう、紀良子殿の元へ通うておいでじゃろ)


自分の娘が、とっくの昔にその夫の愛妾の存在を知っているということを、父はどうやら知らぬらしい。得てしてそういう情報ほど、周りで召し使っている女どもから早く伝わるものなのだ。男というものは、かほどに「どこか間が抜けている」もので、


(まあ、よいわ。それでも希望は捨ててはならぬ)


夫が「息抜き」に興じている間に、やらねばならぬことは山ほどある。子を亡くしたことが悲しくないといえば嘘になるが、


(将軍家正室として出来ることをせねば)


 幸子の脳裏には、近江落ちの際に見た貧しい母子がいつもあるのだ。


(あのような母子を、二度と作ってはならぬ。母の手から子の命を、理不尽に取り上げられるようなことがあってはならぬのじゃ)


 そのためには、せめて北朝側の皇家や公卿らの覚えをよくしておくことであり、「粗暴な」と陰で罵られる武家が官位に容易に食い入るための下地を作っておかねばならぬとまで、彼女は考えていた。


(そのためには、子じゃ。子を作らねばならぬのじゃが)


 義詮は、几帳面な性格ではあったらしい。千寿王丸が生きていた間も、夫としての責任は間をおかず律儀に果たしていたのが、幸子に一向に懐妊の兆しがなく、加えて尊氏が病に起き伏しするようになってから、我慢が出来なくなったようなのだ。


 こればかりは、


「致し方ありませぬ」


 この時、幸子にも挨拶をと訪ねてきた細川頼之も、苦笑いして言ったものである。


「先ほど、こなた様も妻を娶られたそうな」


 ごく身近な者だけが残った部屋で、生真面目に平伏している頼之と幸子が会い見えたのは、千寿王丸の喪が明けた文和四年の晩秋のこと。先だって男山で南朝を追い返したり、直冬からの京奪還に加わって功を挙げるなどして、頼之がまだ京に滞在していた時である。


 襖には、傾いた日差しに照らされた紅葉の陰が映し出されており、


「おめでとうござりまする」


 聞けば、夫義詮と同い年らしい。その親しみもあって幸子がそう言うと、


「ご正室様ともあろうお方が、臣下のささいなことにまで気を遣われまするな」


 気遣い無用、と、ばっさり切って捨て、


「それよりも我ら、二代様の和子を切に所望しておりまする。我等の基を成すものが危ういようでは、我等も落ち着きませぬ。僭越ながら、御方様には御方様のなすべき役割があるはず。それを果たしていただきませぬと」


 これにはさすがの幸子も苦笑いを漏らした。初対面の者が、しかも次期将軍の正室に言うことにしては、無礼としか言いようがない。周囲もざわめいたし、同行していた彼の従兄である細川清氏も、慌てて年下の頼之の袖を引いた。


「こなた様とこなた様のお父上様のご忠誠、まことに嬉しく思いまする」


 幸子はしかし(これはこれで興味深い殿方じゃ)と、むしろ、あくまで生真面目な彼の様子におかしささえ覚えながら言葉を返して、


(幕府のことのみを思うての苦言であろうが、己より身分が上の者にも物怖じせずズバズバと申される。これでは敵も多かろうの)


 女性らしい直感でそうも思った。


「世継ぎの問題はのう、私ではのうて、他のお方が解決してくれるやもしれませぬゆえ」


 幸子が自虐もこめて続けると、


「は、確かに…こればかりは致し方ないものも」


 頼之もまた苦く笑った。もちろん、彼も「二代様の愛妾」の存在は知っているだろう。どうやら周囲には格好の話題の種になっているらしい。身分の高い貴人が愛人の一人や二人、持つのは常識であったから、他の者ならば問題にもならぬことだが、義詮だとそうはいかないらしい。次期将軍の跡継ぎ問題に関わることでもあるし、


「お子をあげられぬご正室様は、密かにお怒りなのでは」


「良子様はご正室様のお怒りを恐れて日々すくんでおられるそうな」


 などというくだらぬ憶測が周りで飛び交うのは、むしろ当然の成り行きだったかも知れぬ。


「御方様、まことに失礼ながら我ら、これにてお暇を頂きまする」


 そしてその二、三言を交わしただけで、頼之はさっさと立ち上がる。


「お忙しいことじゃなあ。わが一族のことながら、手数をかけまする」


「いえ、これも責務のうち。御方様にはどうぞ、われら男どものなすことで御心を煩わされることのないよう」


 戸口で再び頭を下げた頼之へかけた幸子に、返ってくる彼の言葉はあくまで硬い。まだ座っていた清氏は苦笑して、


「あのような分からず屋ではありますが、根は全く持って良い男。それゆえ、なにとぞお怒りになられませぬよう」


 幸子へ平伏した。


「いえ…今はまだまだ尋常ではない時。あれでよいのでござりまする」


幸子が言うと、恐縮したようにもう一度深く頭を下げ、清氏もまたあたふたと従弟の後を追った。京から追われたはずの直冬は未だに虎視眈々と京を狙う計画を立てていたのである。頼之が父から受け継いだ自領である四国へ帰っていなかったのは、このことにもよる。


 さても、将軍邸となっている屋敷の廊下へ出て、何やら怒ったように大股に歩き去っていく従弟の後を、


「頼之、待て、待たぬか、こら!」


 清氏は慌てて追いかけた。


「兄者。何です」


「何です、ではないわ。仮にも御方様に対してあのような大それた」


「私はただ、『それぞれの者が果たすべき役目を果たさぬのは、ただの怠惰である』と申しあげたまで」


 元を辿れば、足利も、幸子の実家である渋川も、清氏と頼之の細川も、そして道誉の佐々木も皆、同じ源氏の血を引いている。


「上に立つものが怠慢では、下も惑う。それが道理。幕府が強くないのはそれもある。誰ぞがそれを直言せぬと」


「確かに正論ではあるが」


 清氏は、吹き出物の出た丸っこい鼻の上へ汗をためながら、天井を仰いだ。


「貴様は少し頭が固すぎる。確かに将軍家世継ぎの問題は重大ではあるが、われ等が口出ししてもどうにかなることでもあるまい」


「しかし世継ぎは本来であれば、ご正室様の腹から出ることが望ましい」


 どうやら清氏は、次の政所の執事になりたいらしく、しきりにその旨を義詮へ働きかけている。政所の執事ともなれば、幕政の最高責任者であるから、思い通りに政を動かせるのだ。当時は細川、畠山、斯波の三家が交代でこの任務につくのが慣習になっていたし、ゆえに清氏がそう考えていてもあながち実現不能な夢ではないのだが、


(これだから今の幕府はいかんのだ)


 結局は人間、誰しも己のみが可愛い。北朝側であるとは言っても、そちらにいればいずれは甘い汁が吸えるという期待からであり、吸えねば吸えぬで敵対している南朝側につけば、いくらでも厚遇してもらえると思っている…と、憤っている頼之にしてみれば、


(この従兄にしてからがそれじゃ)


 男として、政を己の思うように存分に動かしたいという気持ちは分からないでもない。だが、結局はそれも私利私欲であり、同族であるがゆえに一層、この従兄をも苦々しい思いで見ざるを得ぬ。が、当面の彼の怒りは、


「…確かにこればかりは天からの授かりもの。将軍家ご夫婦のご家庭の問題。しかしそのお役目を果たされようとしていない御方様はやはり怠惰である」


 将軍正室、幸子に向けられているらしい。


「貴様、此度はそれで怒っておるのか」


「まあ、そういうことだ。直冬殿がまたぞろ京を狙いだしておるし、山名一族も六分の一衆などと呼ばれて良い気になって、それに加担しておる気配もする。このような時なればこそ、一つでも我らの不安要素を消さねばならぬ…よって、怒っておったのだが」


 言い掛けて頼之は、大げさにため息を着いている従兄の表情が、


(ひょっとこのような…)


 河原者によって創り上げられ、能とほぼ同時に一気に広まった狂言とやらの、ひょっとこ面に似ていると思ってしまい、やや口元をほころばせた。


「怒ってばかりもおれませぬな」


「左様左様。毎度毎度、よくも怒りの種があることよ。どうも貴様は四角四面に物事を考えすぎて、無用の敵を作りすぎる」


 滅多に笑わぬ頼之の口元がほころぶと、なんともいえぬ男前の顔になる。近頃蓄えだした鼻の下の髭がまた、それに良く似合っていて、


(この硬ささえなければ、俺に劣らぬ男ぶり…)


 自尊心の甚だ強い清氏は、己よりも少し背の高い従弟の目に映る自分の姿を見て、負けじとそう思うのが常なのだ。


「上に立つものは、我が身をすり減らしても下々のことを考えるべきなのじゃ」


(また始まった)


 清氏はため息をつくのみでそれに答えず、彼と共に将軍屋敷の門を辞去した。馬に乗りながら、


「政は私するべきではない。武士たるもの、ただ己を信頼してくれる尊き方へ忠誠を捧げるのみ。だが、その方々でも時には成す間違いを正すのもまた、臣下としての勤めじゃ」


 熱を持って語る従弟の顔をつくづく見、


(これがあの、「ばさら殿」に何故かように気に入られているのか皆目分からぬ)


 佐々木道誉が何故己ではなく、この「真面目一点張り」で「面白いところも何も無い」「人のささいな間違いを許せない」頼之を政所執事にと強力に推しているのか、理解に苦しんでいるのである。


 裏を返せばこれも、まだ三十には間がある若さゆえの一途さ、頑なさの表れと言えるかもしれないし、頑固者が多いとされる三河者特有の一面でもあったかもしれない。とにかく、「すれていない」のだ。


 幼い頃、生まれ故郷である三河から京に出でて共に夢窓国師の教えを受けながら、国師の説くところにより強く傾倒したのは、どうやら頼之のほうらしい。昨日は東に今日は西にという戦続きのなか、その間が無かったせいもあるかもしれないが、


(愛妾の一人や二人、作っても世間は何も言わぬものを…どうやらまことに「正室一本槍」で生涯過ごしそうじゃの)


 娶った妻のみを大事にする、と公言して憚らぬ従弟なのである。


「貴様はほんに、面白みのない男よのう、頼之」


 直冬「征伐軍」は、義詮を筆頭に続々と集結しつつある。その中で伊予への発向を命じられた頼之へ、少しの皮肉をこめて清氏が言うと、


「別にそれで結構。私も貴方を面白がらせるために生きているのではない」


 元の渋面に戻って、いつものごとく頼之はそう受けた。顎できっちりと烏帽子の紐を結わえたその水干姿には、一糸の乱れも無い。




 平和時であっても、物事の創設期は慌しいもので、人の心も落ち着かぬもの。尊氏が彼に従うものへ、鎌倉幕府が許さなかった直接の領国経営を「守護」どもに許したのも、北に南にと揺れ動く武士どもを何とか掌握しようとしてのことなのだが、その結果、守護どもが守護「大名」と呼ばれるように力をつけていったのは、なんとも皮肉なことである。


 無論、細川氏もその「おこぼれ」に預かった者のうちに入るのだが、


「じゃがなあ、こういう折であるからこそ、愉しさを忘れてはならぬのではないかの」


 明けて貞治元年(正平十七年)。正月の行事もそこそこに、元・九州探題足利直冬征伐のため、共に九州へまでも行く道すがら、清氏は折々そうこぼした。


「人の上に立つものが、そういつもいつも仏頂面ばかりしていれば、下々とて息もつけまい。別に俺を面白がらせろと言っておるわけではなし」


 この戦に出立する折り、頼之は尊氏に、九州における闕所処分権の譲渡を願い出て拒否されている。闕所というのは、何らかの罪を得て、家はおろか、畑も家畜も、まさに「根こそぎ」その地位を剥奪された領主が治めていた元の領土のことで、この時代は尊氏によって「征伐」された守護大名の領地のことを指す。いわば財産刑とも言える。


 これを処分するのを、大将に任命されたからには己に任せよと頼之は申し出たわけで、


「緊急事態であるからそう願い出た。何も私するわけではない、一時的で名目上のこと。全て幕府に返上するつもりであった。行く先々で降服した敵の知行を我らのものとしておかねば、いずれまた離反するゆえ。しかしそれが聞き入れられぬとあっては、また同じことの繰り返しじゃによって」


 言い出した大将としての面目が立たぬゆえ阿波へ帰る、と頑なに言い張ったこの従弟を、清氏は、


「貴様を此度の大将にと推薦された『ばさら殿』の顔を潰すつもりか」


 と、何とか説得したばかりなのである。


(一体どうやったら、このように硬く育つのやら。戦は強いし、何よりも誠実ではあるが)


 幼い頃からの付き合いで、そこは清氏も十分に認めている。たとえ、昨日は敵であったとしても、頭を下げられて庇護を求められてしまえば、もう頼之にはその相手を攻めることは出来ぬ。頼られると、とことん侠気を見せるのがこの従弟の性分で、清氏に言わせればそれが「良くも悪くもある」ところらしい。それに、頼之が兵を労わること家族のごとくなので、「口煩くはある…」が、そこそこに信望もあるのだ。


 亡き父の分国を任された後、将軍家の命ぜられるまま、着々と四国での反足利派を排除して足場を固めて行ったところなどは、こういった手堅い彼の性格をそのまま現しているようである。


「今少し、笑って見せたりもせねば」


「おかしいこともない折に何故笑わねばならぬ。別に私は、己が愉しゅうなくてもよろしい。守護というお役目を果たすためには何事も隠忍と、そう思うております。現に」


 先立っての戦では、後光厳帝を自ら負ぶって近江塩津の山越えをした従兄へ、やはり頼之はしかめ面のまま言って、前方を指し、


「山名どもらの顔は、己の身の栄達ばかり図って緩んでおる。ああはなりたくないもの」


 ことあるごとに足利氏へ反発している山名一族は、同じ中国地方の大名、大内氏とも語らって直冬側についていた。一族の長の山名時氏に言わせれば、これも直義へ対する尊氏のあまりな仕打ちに憤慨したから、ということなのだが、


(そればかりではあるまい。いずれは己がと思うておるに違いない)


 頼之がそう考えているように、それが表向きの理由であることは誰が見ても分かる。普段から野心満々の時氏なのだ。いずれは己が尊氏にとってかわろうとしているのは明らかで、


(「残念ながら」あの折の初代様の処置は正しい)

 

 大声で兵士たちへ檄を飛ばしながら、彼は妙に冷静にそう思った。


 尊氏がその弟を殺したという人々の記憶は、事件より数年しか経ていないために、未だに生々しい。感情に訴えるのは分かりやすいだけに、その野心を隠す格好の手段となる。


(卑怯な)


 父から尊氏の苦悩を聞き知っている若い頼之には、それが我慢ならない。それに、直冬は確かに公には認められていないが、尊氏の実子であることには間違いないのだ。よって妾腹ではあるが長子である彼こそが尊氏の後を襲うべきである、との「大義名分」もまた、


(実父に顧みられぬ気の毒な公達…侠気に溢れた叔父に育てられて、その叔父も殺されて)


 と、深い事情を知らぬ人々の同情を、憎いほど煽りやすく出来ている。それがために、


(許せぬ)


 誰しもが犯してしまいがちな、若き日の過ちにつけこむようなやり方が、頼之には到底許しがたかったのである。


 よって、「尊氏派」の攻め方は、大将である彼の激憤をそのまま表したかのように激しかった。結果的には頼之率いる幕府軍が勝利を収めて、山名、大内両氏は一旦はなりを顰めるのだが、


「さても、京へ報告しに帰るべきであろう」


 いつしか、清氏がそう言うのが口癖になっている。


 二人が遠征して、気が付けば二年半になろうとしていた。そのうちに頼之は備前、備中、伊予、安芸など、瀬戸内海に面した領土の八割を平定、「中国大将」と呼ばれて軍政ばかりではなく行政指揮も任され、降服してきた武士諸家の所領安堵などに忙しかった。京にも戻れず、山名時氏、大内弘世本人らをなかなか追い詰められなかったのも、ひとつにはその処理のせいもある。


 この日も、幕府側となった武士の館に留まり、戦の後始末に忙しい頼之の部屋を尋ねて、


「これほどまでの功を成したのだ。一度はわれ等が自身で報告しに行かねばなるまいよ」


 清氏は言ったものだ。


 暦の上では、そろそろ梅雨にさしかかろうとしているが、瀬戸内地方の雨は、夏でも少ない。ただ風ばかりが吹き抜ける晴天に照らされた縁の先で立ったまま、清氏が眩しげに目を細めながらせかせかと言うのへ、


「…よきように」


 頼之は書類を広げた床机から目を離さぬまま、頷いて答えた。頼之に言わせれば、勢力を着々と削ぎつつあるとはいえ、山名と大内の大物二人がこのまま引き下がるわけはない。この地方の、幕府側による支配体制を整えるべく、「征伐」を続けるべきなのだが、


「貴様の仕事を手伝いたいが、俺にはあいにく、そういった細々とした政務に向く頭を持っておらん。それに、尊氏様がいよいよ危ういらしいというのでな」


 弁解するように続けるこの従兄の心配は、そちら側であるらしい。一応の戦果は挙げたのだから、報告を兼ねて幕府の様子を窺いに行きたいと、気もそぞろのようである。


「よろしい。こちらは私が引き続き、征伐を続けよう。ただ今は万事、こちらに有利に運んでおる。このままいけば山名、大内は逼塞する道理、他の武士どもは恐れるに足りぬ。ゆえに私一人で十分。兄者が京へ報告しに行きたいと仰るなら、好きになさればよい」


「かたじけない。貴様のことも悪いようには申しあげぬゆえ」


「私のことは結構」


 苦笑しながら頼之が従兄へ言ったまさに当日、清氏は逗留していた館を引き払い、自分の手勢を引き連れて京へ戻っていったそうな。


 時に、北朝が改元して延文三年(一三五八年)六月七日。尊氏はその波乱に富んだ生涯を閉じた。


 義詮正室、幸子が、姑の登子に呼ばれ、京北山の別院北等持寺に伺候したのは、まさにその深夜のことである。暦応六年(一三四三年)に尊氏が開いたこの寺は、彼の死後に等持院と改められ、その後、足利代々将軍の墓所となった。方丈の北に池を挟んで清蓮亭と名づけられた茶室があり、


「夜更けにもかかわらず、ようお越し」


「お姑様こそ、このたびは大変にお気落としのことと」


 先にその部屋で待っていた登子は、己を気遣うように入ってきた嫁の姿を見て、目を細めた。この姑が嫁に抱く好意は、幸子が義詮の元へやって来た時から変わらない。


「御召しによって急いで参りましたが、このように遅くなりまして」


「構いませぬ。遅うに御身を呼びつけたのはこちらゆえ。お寒うござったろ。ささ、もそっと側へお寄りなされ。二人きりでお話したいことがござりまする」


 梅雨時の京は、夏とは言いながら朝と晩がことに冷える。ために、小さな茶室の中には火鉢が二、三置かれて、その一つへ手をかざしていた登子は、自分の側へ来るように嫁を差し招いた。言われるままに幸子が侍女を遠ざけて姑の側へより、同じように両手をかざすと、


「初代様は亡くなられました」


 しばらくの沈黙の後、登子は事実を確かめるように、長い睫を伏せて言った。


「よう治まっている時でも、代替わり時には一波乱あるもの。此度は初代が亡うなっても、義詮殿がその後を襲うと決まっておるが、だからとて幕府は安泰じゃとは言い切れませぬ」


 幸子に話しているというよりも、自分自身に言い聞かせているように、登子は一言一言をゆっくりと口にする。


「時に、紀家の良子殿がご懐妊とか。このままゆけば、秋には和子がお生まれになろう」


「…はい」


 苦労人であるこの姑は、普段から嫌味を言うような人柄ではない。よってこの時も、幸子が懐妊せず、息子の愛妾であるところの紀良子が子を授かったと、ただ事実を淡々と述べているだけなのだ。 

   

 だが、ただ愚痴を零したり説教をするためだけに、幸子をわざわざ深夜に呼びつけるような姑でもないということも、幸子はよく知っている。故尊氏や、登子自身の子供達である義詮、後に鎌倉公方ともなる義詮の弟、基氏、崇光前帝皇后である頼子とも、至極仲がよい、おっとりしているようながら、実は大変に気配りの出来る、頭が良いしっかりものの女性なのだ。


(何か仰りたいことがおありなのであろ…)


 幸子は相槌を打つのみで、姑の言わんとするところを聞き入った。


「良子殿があげられる子は、太郎であれ姫であれ伊勢貞継殿預かり、ということになりまする」


 正室の子ではないため、将軍邸で育てることも、しかし次期将軍の子ではあるため紀家で育てることもならぬ。よって、世話係として政所の財務を預かる伊勢家で育てられることとなる、と、登子は言う。


「正室とはいえ、子を持たぬ女の立場は弱い。…お分かりじゃなあ?」


 そこで、登子は伏せていた睫を上げて幸子を見た。


(お美しい御方じゃ)


 苦労が磨きあげたに違いない慈母のような表情を、何の嫉妬も衒いもなく幸子は眺めた。彼女もこの姑が『好き』であったし、自分が経験させられてきたことに対する恨み言を一切口に出さぬところが、


(尊敬すべきことじゃ)


 幸子自身には到底真似できぬことと、常日頃感服もしているのである。よって、


「…まこと、左様にござりまする。お姑様にはさぞかしそのことでご心労を…われながら、まこと不甲斐なく」


 幸子は姑に、真心から頭を下げた。夫婦の営みは、義務的とは申せ千寿王丸夭折の後も変わらず続いているのだが、それでも正室が子をなさぬのでは、


(頼之殿にまで言われるのも無理はないわなア)


 幸子は寂しく苦笑した。


 登子のほうでも、幸子の素直な性分や、幸子が自分へ寄せてくれている限り無い好意を知っている。よって、むしろ労わるようにしんみりと、


「いや、こればかりはこなた様のせいでもありますまい。天が」


 少し弱くなった火鉢の炭を、火かき棒で起こしながら、


「天が、なあ…こなた様には子を成すよりもせねばならぬことがある、と、申されているのではありますまいか。ただ子を成すだけでよいのであれば、他にもおなごはたんとござるゆえ」


 この人には似合わぬ激しい言葉である。


「…お姑様」


(天が、とはまた)


 消え逝く命ばかりを見つめてきたゆえに、運命論者になったわけでもなさそうであるがと、思わず驚いて登子の顔を見つめなおす彼女へ、


「こなた様の皇家や公卿の方々への働きかけ、ありがたく思うておりまする」


 白刃を思わせる、凄みすら漂わせた表情で姑は言った。


「それもこれも、上様(義詮)が不甲斐ないがゆえ。正室以外のおなごの尻を追う前に、二代としてなさねばならぬことはたんとあろうにのう…こなた様が上つ方のつなぎを取ってござるのは、我らを強うするためであろ」


「はい。左様にござりまする」


 この姑には、もともと嘘やごまかしは通用しないが、その時はなお一層。まるで人が変わったような登子に圧倒されて、幸子は頷いていた。


 不毛な争いがかくも長引いたため、見栄を張っている皇家と公家の内実は、幕府側についている武家よりも苦しいし、先述のように自殺者すら出ている。ことに、食うことと身を飾ることのみに余念の無い上に世間知らずである女性というものを、それらは多く抱え込んでいたから、切り詰めねばならぬところを逆に金ばかりがかかる。切り詰めねばならぬと言い聞かせれば、苦労を知らぬ女どもらは不足を言い立て駄々ばかりをこねる。


 当時、所領の「持ち分」は男女に関わらず等しい権利を与えられていた。よって、幸子も父である義季から、己の食い分として所領を与えられている。だがそれは例によって武士だけの慣習で、公家や皇家にはない。鎌倉幕府が出来、耳慣れぬ武士だけの守護、地頭という役職の者らにじわじわと荘園を蚕食されていくのを、指をくわえて見ているだけの人々であったから、


(ご自身と公家どもらのみを優遇した後醍醐帝のお気持ちも分かる)


 鎌倉幕府が滅び、その広大な所領のほとんどを己と公家とばかりで分けた南朝初代の帝の気持ちも分かるし、それらの人々からの余計な恨みを受けぬためにも、何らかの援助が必要だ。つまり、


(彼らの体裁と見栄を満足させ、生活を保障してやればよい…その「構え」だけでも見せておくことじゃ。さすれば幕府の評判も少しは回復しよう)


 幸子は、持ち前の大雑把さでそう考え、早速実行に移したのである。


 近江から帰還してより、己の所領から得ている「収入」の一部を、彼女はそれらの人々へ贈り物という名目でずっと援助し続けてきている。義詮の方も、幸子が勝手にやることだからと特に問題にもしていないし、幸子が特に隠そうともしていないので登子ももちろん知っていた。


「…無論、こちらとしてもきりがないゆえ、お助け出来る方々は限られておりまするが…いざという時の女どもの団結力は、男どもにもひけを取りませぬ。それに、おなごが男どもへ及ぼす影響力というものはやはり大きく」


「まこと、その通りじゃ」


 そこで、二人は顔を見合わせて苦笑した。どんな男でも、女に「かわゆく…」迫られてしまえば、冷静な判断をしているつもりでもどこかに私情が入るものだ。


「…いずれは、幕府だけではのうて皇家をも動かせる力と成り得るかもしれぬなア」


「いえ、そこまでは私は」


 登子が言うのへ、幸子は苦笑して首を振る。だが、


「私には、思っていてもそれが出来ませなんだ…いざとなれば勇気が出ぬ。せいぜいが、我が娘を皇家へ差し上げ、娘にまで忍耐を強いるのみ。紀良子殿なら尚更、考えもせぬであろ。ゆえに、なあ」


 火鉢の上へかざしていた彼女の手を、登子の老いた手がしっかりと握り締めた。


「良子殿の腹になるお子が、もしも男であれば、こなた様が母となられよ」


「…は…それは」


「愛妾の子を己の子として育てることが出来る権利を持つのは正室だけじゃ。子を産むだけなら良子殿へ任せておけばよい。じゃが、三代目を胆力のある後継に育て上げられるのは、こなた様だけじゃと私は思うています」


 答えかねて、幸子は思わず顔を伏せた。気が付けば辺りは静まり返っている。雨も一時的にとはいえ止んでいるらしい。


(幕府と皇家の結びつきを強くする。三代目の後見となる。すなわち政に介入するということ…あくまで陰で支えることが出来ればよいとのみ思うておったが、私に、そのようなことが出来ようか)


 ともかくも彼女が答えようと口を開きかけた瞬間、襖の向こうが光り、


「幸子殿」


 登子が彼女の名を呼んだ。遠くでかすかに雷が鳴る音もする。


「今宵はなあ、このままこちら様に泊めて頂きなされ」


 幸子の手をつ、と離しながら、姑は立ち上がる。明日は葬儀であるから、というわけであろう。幸子は登子の顔を見上げたまま、黙って頷いた。




 翌日は、皮肉なほどに晴れ渡った。


 足利尊氏の訃報を聞いて集まってきたのは、戦場から駆けてきた細川清氏その他、斯波、佐々木、など、「今のところは」幕府に忠誠を誓っていると見られる武士どもである。


 特に斯波氏一族の長、高経などは、文和四年に直冬が乱を起した際、共に京へ攻め入ったりなどもしたが、その翌年に再び帰参を願い出て許されるなど、何度も離反と帰参を重ねている「面の皮の厚い」人物だった。今回も尊氏が亡くなったとみるや、剃髪して道朝などと称し、そ知らぬ顔で葬儀の列に加わっている。つまり、そういった離反常ない武士でさえ頼みにせねばならぬほど足利幕府は弱いと見られ、舐められていたと言えよう。


 こういった斯波高経を取り込むため、「ばさら殿」佐々木京極道誉は、己の娘を彼の三男である氏頼へ嫁がせることを約束し、尊氏へも献言した。この縁組によって幕府内における斯波高経の、地位の安泰を約束したことにもなる。それゆえに斯波高経も「安心して」葬儀へ出席したのに違いない。


(やれやれ、寝足りぬわ。蒸し暑いしのう)


 読経が響く中、幸子は常の彼女のごとく、ともすれば漏れそうになる欠伸を堪えていた。


(お姑様の仰らんとすることは、ようく承知したのじゃがなあ、それはそれ、これはこれ。眠いのは眠いのじゃによって)


 もとが開け放しな性格であるし、幸子自身は、特に舅である尊氏に思い入れがあったわけではないから、


(このような堅苦しい席は肩が凝るわ)


 というわけで、彼女は前列で同じように正座している登子の様子を窺いながら、こっそりと己の肩を回したり、首を左右へ傾けたりしている。


「…御方様。此度はさぞやお力を落とされたことと」


 そんな彼女に、小声で擦り寄ってきた者があった。


「こなた様は…おお、こなた様こそ、此度はご苦労でありました」


「なんの。手前、将軍家の御為とあらばいずこへでも」


 これなん、細川清氏である。幸子は苦笑して、縁へ出るように彼へ合図し、立ち上がった。


 初夏の太陽の光を、寺の池はぎらぎらと照り返している。


「さて、手前になんぞ」


 その池に近いほうの縁へ出ると、読経の声も聞こえてこない。そこへ片膝をついて、清氏は幸子を見上げた。


「こなた様のお従弟殿は、未だ帰還ならず、かの」


「は、それは…このような時でござりまするのに、融通の利かぬヤツで、現地の平定こそが先だと頑なに申しておりまして」

「山名や大内に手こずっておられるのかや」


「いや、それらは我等がいちどきに蹴散らしまいたら、尻尾を巻いて領国へ逃げ帰りましてござりまする。我等、手を結んで事に当たりますれば、さほどに敵は脆く」


「なるほどのう」


 ちょっとした手柄でも、大げさに言い立てて恩賞をより多くもらうというのは、鎌倉時代から続く慣習のようなものである。それゆえに、清氏が今回の戦の功績について、大風呂敷を広げても咎められはしないが、


(眉に唾して臨まねばなア)


 次期将軍御台とはいえ、所詮は女であるから戦のことは分からぬ、と、そう思ってもらっては困るのである。


「頼之殿は、誠実な御方なのじゃなあ」


「は」


「確かにこの非常の折、得た領土を放置したまま京へ帰ってまいれば、初代様の葬儀に乗じて乱を企む輩も出ようでなあ。戦の後始末を黙々とやってのける…これは何より初代様への供養ともなろう。お従弟殿も、そうお考えなのかもしれぬなあ。これはひょっとすると、一番手柄ではないかの」


「いや、それは」


 幸子が言うと、頼之の姿が無いことを、彼の先だっての無礼な態度と合わせ、当然のごとく彼女が責めると思い込んでいた清氏は、意外な言葉に少々慌てた。


「こなた様の従弟殿のような御方こそ、二代様の補佐に相応しかろう…なるほど、ばさら殿は、さすがに人を見る目がおありじゃ。女どももな、そういった締める所ではきちんと締める、そういう殿方にはめっぽう弱いゆえ、結構よろめいておる者もあるし、頼之殿を噂にするものも多いわえ。加えて頼之殿は男前ときてござる」


「ありゃ、しばらく!」


 二代目義詮の補佐をする、ということは、ゆくゆくは政所執事になる可能性もあるということで、その地位を継ぐのだと公言して憚らない清氏にとっては、たまらぬことであろう。


 それに、女によって広められた噂の威力は、それが根も葉もなく、さらには人を腐すものであればあるほど強さを増すのだということを、さすがに彼は知っている。


「頼之は、確かに誠実な男ではありますが、四角四面すぎまいて、人の些細な過ちを許せぬ、度量の狭いところがござりまする。それに、年齢的にも未だ若い。若い者に顎で遣われるとなれば、熟練のお歴々は果たして納得致しましょうや? よって、背いた者どもの征伐、ということならともかく、政務を執るということになりますと、疑問符がつくと手前、考えまする」


「…フム」


 従弟であると言いながら、酷い評し方である。だがそれは、


(確かに、これはこれでひとつの見方ではあるの…)


 頼之と初めて出会った時に幸子が抱いた印象と一致する。


「政所執事に、となりますと、清濁併せ呑む、ということが何より肝心かと考えまする。畏れながら、頼之ほど、その質に合わぬ者はなく」


 必死に言い募れば言い募るほど、清氏の口は尖っていく。それを見て、


(まるきり、狂言の『ひょっとこ』じゃ)


 義詮との婚儀前、一度きりではあるが、実家の渋川邸で見たことのあるその面を思い出し、今度は吹き出しそうになるのを堪えながら、


「なるほど、なるほどのう」


 幸子はとりあえず神妙に頷いた。


「では、こなた様のご意見も、私にではなく二代様に述べてみられたがよい。が、いずれにしてもようよう皆と協議を重ねなくてはなりますまいの。殿方も大変じゃなあ」


 もっとも、最後の慨嘆には多少の皮肉も含まれている。直接の政局から一歩離れたところで眺めていると、武家諸氏の離反と帰参は結局、


「己が中心となって思う様、政権を揮ってみたい」


 ということに尽きるのが良く分かる。己の野心を満足させたい、つまり己が頂点に立ちたい、その一点に凝縮されているのだ。


(一旦は、斯波殿に政を執らせてみねば収まりますまい…かのような人物が、政を私せぬはずがないゆえ、いずれはそれを理由に遠ざけることも出来よう。あるいは、彼の自尊心をくすぐってやれば、逆に頼もしい味方に成し得るやもしれぬ)


「は、ご正室様にそう仰って頂けましたらば、我ら犬馬の労を取る甲斐があるというもの」


 清氏は無論、幸子が意外なほどに冷静に「足利」や己らを見ているとは知らない。所詮は女子供の申すことと、文字通りにその呟きを受け取って、媚びるような笑みを見せる。


「はい。苦労をかけましょうが、向後もなあ、二代様ともども、よろしゅうにお願い申し上げまする」


(これも、己がいずれは…と思うておろうなあ)


 幸子はそんな清氏の表情を見ながら、


「はい、我らにお任せあれ」


「頼りにしておりまするえ」


 彼が胸を叩いて言うのをさらりと受け取った。


「おや、曇ってきましたな」


 清氏の言葉に、幸子は天を振り仰いだ。晴れ渡っていた空の一点に黒い雲が見える。それが見る間に広がったと見るや、たちまち池の表面を細かく叩く雨が降り出してきて、


「やれ、ここにいると濡れてしまう。じゃがこれで、少しは涼しくなりましょう。…いや、本日は貴重なお時間を取らせまいた。これにて」


 幸子は清氏へ軽く頭を下げ、まだ読経の響く寺の広間へと戻って行ったのである。


 結果的にはその一ヵ月後、義詮が二代目征夷大将軍として尊氏の後を無事に継ぎ、斯波高経がその補佐に就くことになった。その就任式を終え、「祝い」と称して山のような近江土産を抱え、幸子の住む将軍御所へその宵、訪ねてきたものがある。


「おお、これはお久しゅう。ますます男ぶりも良うなられて」


「ははは、御台所様にも女ぶりが上がられましたぞ! いや、お美しゅうなられた」


 形は出家でも墨染めの衣は性に合わぬとて、瀟洒な縫い取りで飾った衣の袖を広げ、佐々木「京極」道誉は笑った。


「年を取られて、ばさら振りがいよいよ板につきましたなあ」


「ははは、戦続きゆえ、せめて装いだけでも愉しい気分にならねば、やっておられぬ」


「ほほほほ。ほんに申される通りですなあ。一々仰ることが憎い」


 ひとしきり笑い合ったところで、彼はすっと真面目な顔になり、「人払いを」と言う。幸子も頷いて、侍女を遠ざけた。


「貴方様のことゆえ、ただの『お祝い』に来て下さったのではない事、すぐに分かりましたえ…あの折も、こうして貴方様のお話を伺いましたなあ」


「左様。ほんにお懐かしい」


 夏もいよいよ本格的になってきている。山に囲まれているゆえに、涼しい風もはるか上空を通り過ぎる。盆地特有の、まさに「鍋の底」のようなジリジリした暑さは、日が暮れても変わらない。


 にもかかわらず、襖を締め切って蝋燭の乏しい火を挟んで向かい合うと、


(ほんの少し見ぬ間に、変わったのう)


 改めて幸子を眺めて、道誉は思った。一見すると頼りない、漠とした表情であるところは変わらない。だが、彼を見つめてくる切れ長の瞳は、「食えぬ」道誉でさえハッとするほどの鋭さを湛えていた。それが一種の凄みとなって、幸子の顔に冷たい美しさを与えているのである。


「…斯波殿のことにおざりまする」


「…はい」


 蝋燭が、風も無いのにわずかに揺らいで音を立てた。それを皮切りに道誉が話し出すと、幸子は促すようにまた頷く。


「斯波の三男、氏頼は、未だ十二、三の小童。しかし父に似ず素直で頭も良い。このまま育てば見所はある男になろう…そう思えたゆえ、手前、娘を嫁がせようと約した。決して政略の上から、というだけではござりませぬ」


「さもあらん。貴方様ならそうでしょう」


 幸子は両目を閉じて、道誉の語るところに聞き入った。


「二代様の補佐…細川頼之は年若く、僭越ながら手前が後ろ盾をすると言うても、未だその任に相応しからずと固く辞するゆえ、手前もやむないと思うて引き下がった。それならばというので、氏頼を推したのでござるが」


 斯波高経は、氏頼を補佐とし二人で後見しようという道誉の意見を無視して、四男である義将を補佐にし、己がその後見につこうとしているというのである。


「義将は未だ七つにもならぬ。後ろ盾も何もあったものではないわい」


 道誉の言うことなど聞かず、父である高経の言うままになるのは分かりきっているし、


「ようよう意味ある言葉を話し出したばかりの幼子に、政務が取れるのか、むさい大人どもに囲まれて、逆に母の乳房を恋しがるのがオチじゃと言うと、さすがに高経も黙ってしまいおったのじゃが」


 そこで道誉は失笑した。


「頼之への説得は続けておりまする。何せ本人が頑固者ゆえ、手前が諦めねばいずれは折れようが時間がかかる。誰ぞ、つなぎでもよい。代わりになる適当な者はおらぬものかとなあ。つなぎゆえ、適当な人物でよいのじゃ。幕府へもほどほどな忠誠心があって、たとえ専横が目立ったとしてもさほど大した騒ぎにはならぬような…いざとなった時には、こちらの手ですぐに始末できる、そのような『つなぎ』が」


「ふうむ。つなぎ…適当な、でござりまするか」


 つなぎ、という表現と、道誉によるその意味するところは、失礼というよりも、あまりにも冷酷すぎる。だが彼が口にすると、それがまた何ともおどけたものになって、(しっくり来る)と思えてしまい、幸子もまた失笑を漏らして目を開けた。途端に飛び込んできた蝋燭の光が、ひりひりするほど妙に眩しく見える。


「…御台様には、お心当たりがあるのでは」


「そうですなあ」


 おどけた表情ながら、道誉の目は少しも笑っていない。幸子は微笑しながら、


「道誉殿ご自身が補佐くださる、というわけには参りませぬのかや」


「ありゃ、手前がそれを? いやはや恐れ多いことにござりまする。出家には幕政参与権はござりませぬゆえ、考えたこともありませぬなあ。そうでなくとも、手前のような武一辺倒、癖のある出家を引き出しまいたら、幕府の舞台にはたちまち穴が空きまするぞ」


「ほほほ、これはまた」


(武一辺倒とは、また心にも無いことをさらりと言うてのけて、それがまた憎いほどに嫌味の無い…これも一種の人徳なのかのう)


 幸子はまた、笑ってしまった。年老いてなお、精力胆力共に余りある彼が、一度たりとも己の手で政権を握ることを考えもしなかったわけがない。しかし同じ言葉でも道誉の口から出ると、夜の闇に沈んでゆく周囲の景色に映える彼の派手な装いとあいまって、ただ心憎い冗談にしか思えぬ。自分は表に出なくとも、後見という形で政に関わることができるし、物を教えるということで自尊心も大いに満足するという醍醐味のほうを、この食えぬ坊主は取ったのだ。いつも道化ているように見えながら、


「長老殿に引き受けてもらえぬとあれば、致し方ない。実はなあ、貴方様がお察しのように、私のほうに一人ばかり心当たりがござります」


「ほう、して?」


 そこでずいっと膝を進めて聞き逃すまいとする態度から分かるように、話のツボもまた憎いほどに心得ていて外さぬ。笑いを出しながら要所要所で道化を引っ込めて、相手の話へ一応は真摯に耳を傾ける道誉だからこそ、彼の敵側にいる者も、彼には敬意を示してきたのだろう。ただの権謀詐術だけでは、この争いばかりの世の中を上手く泳ぎ渡れるわけが無いのだ。


「先だっての初代様の葬儀で、本人ともちらと話したことがござります。細川の、清氏殿では如何」


「清氏なあ。なるほど、なるほど」


「道誉殿にもご存知でありましょうが、彼には野心がある。じゃが、適度な利を食らわせてあれば御しやすいといった程度のものと見ました。いざとなればなあ、貴方様の仰るように、また誰ぞへ命じて始末することも出来ましょう。清氏殿には野心はあっても、周囲の信望を築き上げられるほどの度量や、政を仕切ることの出来る力はない…私も政にはまるきり関与せぬ身でありますれば、人のことは言えませぬがなあ、ほほほ」


「ふむ。それで?」


 幸子がそこで笑っても、道誉は難しい顔を崩さぬまま頷き、先を促す。それで幸子も笑いを引っ込め、


「ゆえに清氏殿の『治政』は、もって…数年、四年程度と私は見まする。じゃがそれだけの年月が経ちましたら、義将殿も一応は元服できるお年頃になっていよう。その時は斯波の義将殿へ任せるからと高経殿には前もって言い含めておれば、『お父上』も不承不承ながら一応は引っ込むのではありますまいか。高経殿も、聞くところによれば到底、政所執事後見の器にあらず…いずれは専横で非難を浴びようゆえ、格好の口実を自ら作ることになりましょう。これも、もって数年。こうなればいよいよ適当な人物がおらぬゆえ、貴方様が推す頼之殿へ頼みやすくなるのでは」


「…いやはや、失礼ながら、大したものじゃ」


 幸子がそこで口をつぐんで、再び道誉をじっと見つめると、彼はさも感服したように吐息をついて、


「女子供じゃからとて馬鹿にしてはならぬ、が、手前の座右の銘ではあったが、御方様には敵わぬ。大いに参考になり申した」


 言いつつ道誉がその扇で彼の坊主頭を叩くのを見ながら、


「私がこれほどに物を考えるようになりましたのは、貴方様のおかげにござりまする」


 幸子は静かに言った。


「幕府を強うする。そのために成せばならぬことは?とそれだけを考えてゆきますとなあ、自ずと道は見えてくる。それに、私が今、申しあげた程度のことならば、道誉殿が腹中にも既にあるはずにござりますれば、のう?」


「…フム」


「それに、貴方様ともあろうお方が、誰でも彼でもこのような話をなさるとは到底思えませぬ。それをわざわざ私の元へお訪ねあり、問われた。ということは」


 そこで幸子は道誉を真似ていたずらっぽい目つきをし、


「私は女ながら、貴方様のお眼鏡に適うておる、と自惚れてもよろしゅうござりまするか」


「…尊氏殿の創られた幕府を強う。手前の願いはただそれだけにござる。」


 道誉もまた、渋い微笑でもってそれに答えた。


「手前が心底ほれ込んでおりましたのは、失礼ながら尊氏殿のみ。尊氏殿の苦悩も、目指しておったことも手前、全て知っておる。それゆえに、今の幕府をこのままで終わらせぬためにも、御方様のような人間を手前の目の黒いうちにたんと見出し、育てねばならぬと思うておる。じゃが、この世は羅刹ばかり…尊氏殿の目指されたところには程遠い。羅刹に対するには、不本意じゃが羅刹にならねばならぬ。そう思い切れる人間をなあ」


「はい。まさに。私も貴方様に頂いた教示がなくば、かのように考えることはございませなんだ。ぜひにまた、私や義詮様に教えを垂れてくだされ」


「ふむ、それはもう、この坊主でよければ…さても奥方様」


 そこで顔を見合わせ、にっこりと笑い合った後、道誉はきらびやかな衣装の袖を大げさに左右へ広げ、


「羅刹にならねばと申したが、やはり人間、時には楽しいことをを作って楽しまねばならぬ、己が楽しくなければ他人もまた楽しめぬ、これもまた道理。一度なあ、この坊主に付き合うて下され。狂言をやる者どもをなあ、京の我が屋敷へ招くつもりなのじゃ」


 と、口を尖らせる。どうやらひょっとこの真似をしているらしい。


(己が楽しくなければ、他人も楽しめぬ…)


 つまり、己のみの幸せを追求するのもよくはないが、さりとて己自身が幸せでなければ、己の周囲の人間も不幸な気分にさせる、と、彼はそう言いたいのだろう。


「能ではござりませぬのかや?」


「能はいかん、能は。美しいかもしれぬが肩が凝る。将軍家には失礼じゃが、一度見て、手前の性には合わぬと思うてしもうたゆえ」


 こうして、この侠気たっぷりの傑物が、「手前も一度狂言とやらを習うべきか」などと言って幸子を笑わせつつ、彼女の元を辞した二週間後には、この時の話は現実のものとなっているのである。


 道誉は道誉で、幸子を、


(おなごにしては珍しく、冷徹に物事を見ることの出来る人物)


 只者ではない、と新たに見直していたし、幸子の方は、


(己の手をなるだけ汚さず、相手の心を読んで巧みに煽り、自滅させる…こういったところは、大いに学ばねばならぬ)


 道誉の陽気へ十分に好感を抱きつつ、その一方で彼の食えぬところをどこか冷めた目で見ていた。二人の結びつきは彼ら自身の言うように、「足利幕府を強くする」のただ一点から発していたし、道誉もまた、幸子がただ将軍正室という地位に甘んじているだけの女性と見れば、ここまで彼女に肩入れはしなかったに違いない。


 細川清氏が、「意外な人選…」と、周りを驚かせながらも、本人の希望通りに二代義詮の補佐につけたのは、道誉と斯波高経の二人が強力に推したのが原因である。道誉にもその腹案はあったとはいえ、それが彼の中で決定事項となったのは、やはり幸子の言葉があったからだといっていいだろう。無論、清氏本人や斯波高経らは幸子と道誉の「密談」を知らぬ。ともあれ、


「清氏は、意外に頼りになる」


 清氏が就任して三ヶ月あまり、義詮は至極ご満悦の表情で、幸子へもそう言うようになった。自らも義詮へ働きかけていたということもあるし、何よりも大物二人が自分を推したというので、清氏も張り切っているのだろう。それに、


「良子殿、無事に出産なされまいたとか。健やかな男子だとのこと。おめでとうござりまする」


「…うむ」


 夫が「ご満悦」なのは、ひとつにはそれもある。彼の愛妾である紀良子が男の赤子を出産し、一応は跡取りが出来たという安心感であろう。しかし幸子が夕餉の膳で酒を注ぎながら祝いを述べると、義詮はさすがに複雑な顔をした。


 幸子が嫉妬や恨みという、人間の負の感情をどこかに置き忘れているような女であることは、夫である義詮自身が良く知っている。だが、


「春王丸様、と名づけられましたそうですなあ」


「ああ…うむ」


「義詮様」


 曖昧に頷く夫の前で、幸子が白い指を揃え、


「その赤子の訓育、私にお任せ下されますまいか」


 そう言った時には、さすがに義詮が手にしている杯が震えた。


「無論、すぐにとは申しませぬ。赤子には母の乳房が必要。ゆえに乳離れなさってからで十分。私には、恐らく貴方様のお子はもう望めませぬゆえ」


 ついに杯が膳の上に転がった。義詮は思わず正妻の白い顔を見つめ、


(この女は、なんと淡々と)


 唸る。女は子を産む道具である、とまではさすがに義詮も言わないが、女にとってデリケートな問題であるはずなのに、他人事のように言ってのけられるのは大したものだ。この点でも、冷静にならねばならぬ政治上のことで、つい感情的になってしまいがちな己を自覚している義詮は、感心しながらも首をかしげるのが常なのである。


 自身で子は産めぬと告げるその表情は、いつも見慣れている幸子の漠としたそれ。表面上は妬み、嫉みとは程遠い妻の顔を見つめて、義詮は腕を組んだ。


 冷静に考えてみれば、確かに幸子の言うように、側室の子として育つよりは形の上だけでも正室の子として育ったほうが、子にも箔がつくし、周囲にも軽んじられぬ。


(良子とて、普通の女人ではないのだが)


 愛妾である良子も、遠くは皇室の血を引く公家、紀家の出である。血筋の上では決して卑しくはないが、やはり「愛人」の子は愛人の子。正室の子とは比べ物にならないほどに、その価値は低い。いくら先に生まれていても、正室の腹から生まれた子が家督を継ぐのが当たり前で、愛人の子はその家来となるのが当たり前とされているのだ。このことは、古くは北条八代執権時宗と、その庶腹の兄であった時輔の関係からもよく知られているし、何より義詮自身とその庶兄、直冬との確執もまさにそれが原因なのだから、


(良子は嘆こうが) 


「よう分かった。赤子のためにもそれが良かろう」


 だもので、義詮もまた、淡々と決断を下した。紀良子にとってはこの上なく残酷な決断であったろう。


「お聞き入れ頂けまいて、まことにありがとうござりまする。誠意を持って、春王丸様の訓育に当たらせて頂きましょう」


(愛妾から子を取り上げる正室…羅刹と呼ぶなら呼べばよい。これも幕府を強うするため)


 道誉の言葉を思い出し、幸子はかすかな笑いを口辺に浮かべながら、畳に額をこすり付けんばかりにして夫へ頭を下げた。、こうして彼女は、後の義満となる春王ばかりでなく、後に良子から生まれる乙若丸(満詮)兄弟の養母になったのである。


(子を持たぬ正室の立場は弱いが、愛妾の子を己の子として育てられる権利を持つのは正室だけ)


 幸子の脳裏には、葬儀の折の登子の言葉が常にあったに違いない。内には次期将軍の母として幕府の政に陰ながら参与し、外には皇家や公家との結びつきを着々と進めてゆけば、


(武士どもの足並みも揃おう。幕府が強うなれば、我等が崇める北朝の権威とて高まる)


 こうして幸子が少しずつ、幕政の表舞台へ足を踏み入れ始めて三年後、張り切っていたはずの細川清氏が、こともあろうに南朝側と組んで乱を起こしたのである。


 元々彼を良く思っていなかった斯波高経はむろんのこと、道誉でさえも時には「張り切りすぎじゃ」と苦笑を漏らすほどに、清氏の政治の進め方は強引だった。


 その最たるものが、「半済」である。


 これはもともと、年貢の半分を免除するという意味で、観応三年に幕府から出されたのが最初である。戦乱続きで近畿やその周辺は年貢の徴収率が激減していたので、百姓の負担を軽減する狙いがあった。


 だが、いつの間にやら守護が、戦のための現地調達ということで、公家や寺社の荘園の半分預かるという意味になり、最終的にはそれらの領土を武士が蚕食していくことになる。


 混乱を防ぐため、一旦は幕府がそれを撤回したにもかかわらず、力をつけた守護はそれを不服として、相変わらず公家や寺社領土への侵入をじりじりと続けていた。


 清氏は、彼の領国として与えられていた若狭でそれを堂々と強行したのである。己の領土内で、己に仕える武士どもの人気取りのためとはいえ、これが寺社や公家からの反発を招かぬわけがない。


 そして、延文五年(南朝元号正平十五年。一三六〇年)五月、清氏は昨年に自ら計画していた南朝討伐のため、畠山国清と共に河内へ軍を進めた。しかし、鎌倉制圧へ向かった国清とその途中で別れて、彼だけが京へ取って返した。清氏の政敵であり、幕府の立役者の一人でもあった仁木義長の罷免を義詮へ強要するためである。


 南朝を討つための軍勢で迫られては致し方ない。さらには、鎌倉を己らの手中にするように、畠山国清とも示し合わせてあるとまで言われて、義詮はやむなく、父尊氏の股肱の臣を罷免したのだが、これにはさすがに、


「あの若造が、増長しおって何をやり出すやら」


 清氏をこそ討つべし、排除すべしと、斯波高経ら「宿老」は言い騒いだ。


「まあまあ、これではまだ討つには弱い。今少し、今少し」


 道誉や幸子が、ほぼこうなるであろうと思い描いていた筋書き通りであるとはいえ、


(清氏がここまで愚かとはなア。彼奴めをちと良い気にさせすぎたかの)


 彼らをなだめながら、さすがの道誉も苦笑いするしかない。


「討つのであれば、今少し待たれよ。畠山国清が鎌倉を征伐したという知らせもまだない。ことを起こすなら彼奴めを説得して、こちらへま一度、向かせてからでも遅うはない」


 道誉が言うように、幕府のほぼ半分の軍勢が清氏配下にあるのである。これでは戦力のほとんどを提供した『居残り組』に勝ち目があるはずは無く、


「それに、清氏がまだ警戒して京に居座っておるのでは、どうもやりにくい」


 義詮から南朝討伐の命を改めて受けたところで、仁木義長の「引退」をしっかりと見届けて、己の手へ完全に政権を握ったと思えるまでは、京にいるであろうと道誉は加えた。


 なだめられて「清氏排除派」はしぶしぶ矛を収めたが、一番の目の上のコブを除いたと思った清氏は、ますます傲慢になってゆく。将軍である義詮も、「今しばらくのご辛抱を」と道誉や赤松則祐に聞かされているからこそ、細川清氏の僭越な振る舞いへ何も言わずに堪えて、さらに一年余りが過ぎているのだが、


(全く、男どもとはほんにしょうことのない。己の身のことばかりではなく、少しは戦のたびに泣く民や女子供のことを考えてみればよいものを)


 季節はまた、蝉の声を聞く夏になった。本日も、幸子はそれらとはまるで関係がないといったそ知らぬ顔で、訪ねてきた女人達の愚痴の相手をしている。それら女人に「気さくな奥方」として評されているように、彼女は己を訪ねて知己を得ようとする人物を拒まなかった。なぜなら、


(男どもが「世間知らず」と密かに思っている彼らの愚痴にこそ、世の中の動きが全て秘められているゆえ、大事にせねばならぬ)


 将軍邸奥深くに居ながらにして、今や朝廷女官どころか公家、そして武士の女房たちとも太い繋がりを持つに至った幸子には、自らが動かずとも、世間の情勢が伝えられて来るのだ。彼らは幸子にとって、貴重な情報源であった。


 そんな彼女は、あの我の強そうな清氏が必ずまた何かしでかすと見て、


(今一度、落ちねばならぬかもしれぬ)


 とまで、考えている。道誉からは清氏を「始末する」計画が着々と進んでいると聞いているし、清氏そのものは彼以外のほとんどの人間が思っていたように、大した人物ではない。しかし始末されるとなれば清氏は恐らく、これまでの武士がしてきたように南朝側について京を占拠しようとするに違いない。


(その場合、近江ではいかぬ。冬でも暖かく、食料の豊富な場所)


 夫や息子、そしてジリ貧に陥って行く生活の惨めさなど、愚痴を零し続ける彼女らを慰め、帰りには土産と証して何がしかの金品すら持たせると、どこぞの参議の妻である今日の客は、それらを押し頂くようにしながら退去していくのである。


(子を育てるために、子を護るために必要なものが揃っておる場所)


 遠ざかっていく客の行列を見送りながら、幸子はそのことばかりを考えていた。


(良子殿から無理にお預かりしたこのお子を、私の過失で再び失うわけには断じてゆかぬ。失ってしまえば、それこそ私は羅刹じゃ)


 昨年、邸へ正式に引き取ったばかりの春王と共に客を見送りに出て、彼女は小さなその手を思わずぐっと握り締めた。顔を合わせた事もない夫の愛人は、寵が深いゆえすぐにもまた懐妊しようし、その子で気が紛れようと無責任な世間は言うが、子に何人恵まれようとも、「我が子を取り上げられた」母の哀しみと恨みは癒えぬことを、誰よりも幸子自身がよく知っている。


(…赤松殿のおられる播磨の白旗城とやらならば。それにしても人というものは)


 考えつつ、彼女は口の端をわずかに持ち上げて笑った。


 …人間というものは、虐げることのできる相手が一人でも居れば、それを叩き潰すために、常から仲たがいしている相手とでも手を結ぶことができるものらしい。


(道誉殿を嫌いぬいておるらしい斯波殿でさえ、参与しておられるとはのう。現金なこと。じゃが、これで学んだわ。武士どもの不満をそらして足並みを揃えるためには、贄を常に用意しておくことじゃ)


 弱い幕府の現状に不満だらけの武家諸侯をまとめるための、それも一つの手段であると幸子はそこまで思い切っているのである。そこでふと、


「お母上様」


 舌足らずの小さな声がかかった。


 育てられていた文官の伊勢貞継邸から引き取られる時には、身を裂かれるような声を上げて泣いた春王は、今年二歳、数え年で三歳になったばかりである。このところ、ようよう幸子を「母」と呼ぶようになった彼へ、


「はい。何でござりましょうや、春王殿」


 たちまち甘い母の表情になり、幸子は答えた。その怯えた表情に気付いてハッとし、


「おやおや、これはいけませぬなあ。母は怖い顔をしておりました。お手々も痛うござりましたなあ、すみませなんだ」


(そうじゃ、再び母となれた私は『幸せ』であった。この上は母という役をなるだけきちんと演じ切らねば)


 彼女は慌てて小さな手をそっと握り直しながら、さらに笑顔を作る。ホッとした顔になって笑う春王を促し、邸内へ戻って、


(羅刹を討つには我が身も羅刹に。じゃが、我が身がこのように幸せでなければ、周りの人をも幸せにすることは出来ぬ…か。難しいが、これは忘れてはならぬなあ)


 己に言い聞かせながら、赤松則祐本拠の白旗城までの道程をもまた、幸子は脳裏に思い描いていたのである。




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