一 観応の擾乱
さて、話は初代尊氏が持明院党側の天皇家を頂き、幕府を開いたとされる時から十余
年が経った、観応二年四月頃へと遡らねばならない。
「幸子様。お父上様がお呼びにござりまする」
襖の外から、侍女の声が遠慮がちに響いた。足利二代将軍、義詮の住むところから、さほど離れてはいない場所に位置していた、渋川義季の屋敷である。部屋の中にいた女性は、その声にふと、文机へ向かっていた顔を上げてそちらを見た。 襖の向こうでは、春の午後の日差しが明るい。彼岸に差し掛かったばかりだというのに
今年はめっきり春めいて、京の四方の山々にも桜の花が咲き初めていた。明日明後日には満開になるであろうと屋敷の者どもは言い言いして、花見の準備などしているらしいが、
(桜なぞ、のう。父上は大層お好きと見えるが、私はそれよりも狂言のほうが)
神妙に手を仕えているらしい侍女の影が、くっきりと障子に浮かび上がっているのを見つつ、彼女は立ち上がる。途端にこみ上げて来た欠伸を、一応は慎ましく口の中でかみ殺しながら、
(なんの、毎年人を見たか桜を見たか分からぬ。疲れるだけじゃによってなあ)
それでも、父が命令すれば自分は出かけなければならないのだろう。
「何用でお呼びなのじゃ」
足利氏の支流であり、清和天皇から続く河内源氏の末裔だということを誇りに思う父、義季の顔を心の中で思い浮かべて、彼女は苦笑しつつ障子を開いた。
「はい、いいえ」
幸子の先に立って歩きながら、侍女は彼女の問いかけに首を振る。
「私はお聞きしてはおりませぬ。何事もまずお姫様へお話するからと殿様は仰せで」
「やれ大仰な」
父の物言いは、いつも一方的である。母や娘である彼女へも、何か話があると言って申し渡された時には、既に父の中では決定事項であり、屋敷の者の周知の事実となっているのだ。いわば、事後報告である。特にそれへ反発を覚えたことも無いが、
(なんぞ、重大事であろうか)
少なくとも、花見の相談ではないらしい。そう思うと再びの苦笑が幸子の顔に浮かんだ。
女子供「ごとき」に先に話しておかねばならぬ…屋敷の者へも明かさぬ事情が、今回はあるようだと思いながら、幸子は磨き上げられて黒光りのする床を、白い足袋でひそやかに踏んで歩く。
長い廊下を曲がって父の…というよりも屋敷の表側に位置している大広間へ近づくにつれ、渋川邸に仕えている郎党どもの姿も次第に多くなっていく。彼らは幸子の姿を見ると慌てて廊下の端へ避け、膝をついた。
その中には彼女にも覚えのある赤松氏や細川氏、そして斯波氏の家来などもおり、
(男どもとは、よほど戦好きに出来ているもの…)
それらへ頷き返しながら、彼女はまた、沸き起こってくる欠伸を口の中で噛み殺した。
時に初代将軍弟、足利直義が幕府の重臣であった高師直を排除しようと、あろうことか南朝側について、『兄』へ刃向かったのが、昨年、北朝側の年代では観応元(一三五〇)年のこと。これが後の世で「観応の擾乱」と呼ばれる戦いである。
この戦いに乗じて兵を挙げた阿波国守護、小笠原頼清を討伐すべく、若かりし折の細川頼之が派遣されたのも観応元年。頼之の小笠原氏「征伐」と同様、この戦はその二年後の一三五二年まで続いていたのだが、
(よほど規模の大きな…)
所詮は、男が勝手にする戦なのだ。その真っ只中でありながら、他人事のように幸子は思うのみである。父が戦の最中でも頑固に催そうとする花見も、どうやらその兵士たちの慰労のためらしい。だが、
(迷惑なこと。戦など、人のおらぬところでこそ存分になさればよいものを)
どちらにしろ、女である自分は蚊帳の外に置かれている。実の父を含む男どもの事情など、
(知らぬことよのう)
なのだ。
「参られました」
侍女が引き戸の側で膝をついて指を揃えると、締まっていた障子がすらりと開く。身分の高い娘らしくなく、今にも大きな口をあけて欠伸をしようとしていた幸子は、そこで慌てて顔を引き締めた。
「おお、幸子か」
彼女の姿を見ると、父、義季は顔をほころばせた。
「こちらへ、近う、近うござんなれ」
「お帰りでありましたか」
幸子が軽く頭を下げながら言い、部屋の中央を進むと、
「おお、おお。今は戦の合間の少憩よ。いわば『忙中、閑有り』といったところかの」
家の者には密かに亭主関白振りを微苦笑で眺められているのを知らぬ、さらには子煩悩をもって自認しているこの父は、
「うん、美しゅうなった」
己の前に手を仕えた娘の顔を上げさせて、独り頷くのである。
「改まられて、何の御用にござりまするか」
幸子は、色白の頬に黒目がちの瞳をまっすぐ父へ向けて尋ねた。
親の目から見ると、その幾分おっとりとした、というよりも物事にさほどこだわらぬら
しい性分は、
(あまり『己』というものが無うても…まあ、器量は悪うないが)
自分の意思を持っていないようで、どこか漠としていて、いささか物足りぬ。だが、
「こなたの嫁入り先を決めてきた」
「まあ、それはまた急なことで」
「いやいや、こなたにとっては急でも、父にとっては急ではない」
いきなりそう切り出しても、どこか他人事のように目を見張るのみの娘の様子を、この時ばかりはありがたいと、義季はしみじみ思ったものだ。
「こなたの叔母が直義殿に嫁いでおる縁での、以前よりなんとなく話はあったのじゃ。それが今の時期となっただけのこと。こなたももう十八じゃ。まだ嫁に行かぬのかと周りがうるそうての。なまじ将軍家に近い家柄ゆえ、選り好みをしておるなどと、あらぬことばかり申しおる」
「別に周りが何を申そうが、どうでも良いことではござりませぬか。それに、どこへ嫁に
参りましても私は私でございます。特に口へ入れるものの嗜好が変わるわけでなし。して、どちらの殿方の元へ私は参ればよろしいので?」
(ありがたいことはありがたいが、あっさりしておるの…)
万が一、娘が拒否した場合のことを考えて、説得の言葉を用意していた義季は思わず苦笑を漏らしながら、
「二代様の元へ参ってほしい」
「二代様…と、申されますと、もしや義詮様」
「左様」
そこで、父はぐっと幸子のほうへ膝を乗り出した。
「我等、細川殿らと同じ、幅ったいが将軍家と同じ血を引くもの。このようなご時世ゆえ、
同族のよしみとて、せめて我等、源氏の血を引く者だけはがっちりと結束を固めておこうと。それゆえに、こなたもそのつもりでのう」
「そのつもり、とは?」
「これこれ」
(少し育て方を間違えたかの…)
聞き返してくる幸子へ、義季はまたそこで苦笑する。自分のことであるのに、やはりどこか他人事のような様子に、
(まず、致し方ない)
いざとなれば京も戦場になるかもしれぬからと、常日頃言い聞かせてはいたのだが、そこは親心。跡継ぎの直頼はいざ知らず、なるだけ妻や娘といった女子供は戦から遠ざけておきたいし、また実際に遠ざけてきたのだから、
(無用の戦を避けるため、と申しても分かるまいのう)
言っても現実味が湧かぬに違いない。
「ともかく」
義季は、そこで腹の底から息を吐き出しながら、
「二代様との祝言、異存はないということで、各位へ申し上げても良いな」
「もう皆様方でお決めになったことなのでしょうに。今更私の意志など確かめなさって、どうなさるおつもりなので」
「…よろしい。となればのう」
決して嫌味ではなく、むしろ淡々と返してくる娘へ、義季は頷いた。
「いつまた誰ぞが背くやもしれぬゆえ、出来る限り早く参ったが良い。父の用はこれだけじゃ。大儀であったの」
…娘が二、三頭を縦に振って去った後、義季は天井を仰いで嘆息した。
(どうも、のう…)
父としては、今一度幸子へ念を押しておきたく思う。だが、あまりくどいのも反って、
(せっかく参ると申しておるのだから)
娘の『その気』を損なうのではないかと…ひいては、将軍家へは嫁がぬと言い出すのではないかと、それが憚られたのである。
しかし、あっさりしていればいるで、寂しいものだと義季は思い、我ながら身勝手なことよと苦笑した。我が娘ながら、幸子の性格は今ひとつ掴みきれぬ。
決して投げやりになっているのではない。父が行けと言うのだから嫁に行く。それは当然のことと割り切っているようで、素直といえば素直といえるのかも知れぬ。だが、私は私、という言葉が出るのは、強烈な自己を持っていることの表れとも思える。
ともかくも、
(結束の固いと思われたご兄弟ですら、二つに分かれて争う世ゆえ)
「御所へ参る」
義季は近習の者へ言い、両膝を叩いて立ち上がった。初代尊氏や彼の一番の信頼を得ている播磨国守護赤松則祐、近江守護の佐々木京極道誉らへの報告のためである。
(このまま、平穏が続けばなァ)
屋敷の外へ出ると、うららかな陽光が彼を包んだ。つい二ヶ月ほど前までは戦の只中にあったと思われぬほど、穏やかな昼下がりである。
室町幕府とは、まことに不思議な武家政権であると言わねばならない。
武家の棟梁でありながら、その中枢を担う将軍は三代義満に至って公家の最高位である太政大臣をも兼ね、それがために将軍家は「公方」と呼ばれることになる。彼が構えていた「花の御所」の場所が京の室町にあり、彼の時代に至って初めて政権が安定したことをもって、この幕府を室町幕府と呼ぶのだが、この頃の足利幕府の権威はまことに弱く、頼りなかった。
将軍というものは、天皇を上に頂いてこその征夷大将軍であり、現在の幕府に抱かれた天皇家は北朝と呼ばれている。その天皇家が所有している皇位継承の象徴である『三種の神器』は、初代尊氏によって吉野へ追われた、亡き後醍醐帝が、
「直義に迫られてやむなく渡したが、あれらは偽者である。本物はこちらが持っている」
と主張して憚らなかった。つまり、南朝が正統な皇家であると言いたかったのである。
よって、隙あらば幕府に楯突こうとしている武士にとっては、
「何とも様にならぬの。締まらぬ話じゃ」
豪放、豪快、率直な人柄で、ほぼ誰からも愛された赤松則祐でさえ、時折苦笑いで持って言っていたように、
「今の天皇家は名のみであり、正統な天皇家ではない」
として、格好の大義名分になったし、それがために乱が絶えぬと言えなくもない。もともと、初代尊氏その人が、時の天皇であった後醍醐天皇を追うたというので、南朝側からは当然のこと、味方からでさえどこか、反逆者と見られてもいるのである。
(お辛いであろうのう)
義季は、無論、同族だからという理由だけでは無しに、尊氏へ同情している。外に敵がわんさといるからこそ、幕府のうちではがっちりと結束を固めねばならぬというのに、それぞれ両腕と頼んでいた将軍家執事と弟までもが二つに分かれたのであるから、
(せめて我等と細川殿…源家の血を引く者だけは、将軍家を支えねば)
打算抜きで、真実、彼はそう思っていた。
さらに言えば、今回の戦とて、直義に反発した尊氏執事、高師直によって「知らぬ間に」反直義側にまつりあげられてしまっていたのであり、これも尊氏にとっては本意ではなかったことを、尊氏の味方である武家の棟梁たちは知っている。それになんといっても義季の妹が尊氏の弟である直義に嫁いでいるのである。彼にとっても他人事では済まぬ。
(妹のためにも、ご兄弟の和睦の道を、のう…)
「御免つかまつる」
案内されて詰めの間へ入っていくと、そこにいた同僚たちが一斉に彼を振り向いた。
「おお、各々方、お揃いで」
それらへ軽く頭を下げ、細川頼春がずらして空けてくれた畳の上へ義季が座を占めると、
「して、ご息女は」
挨拶抜きで、赤松則祐がいきなりそう切り出した。挨拶の無いのがまた彼らしいし、それでいて決して不快にはならぬ。そう思わせられるのは、則祐の持つ、一種独特の人徳のためだろう。
京の町では相撲人として名を馳せているように、元々ががっしりと武張った体つきであったが、近頃はさらに肉置きも豊かになった。ために、
(熊のような、とは、あれのことを指すのではないか)
実物の熊を見たわけではないが、そう評して女どもが少し怖がっているのも無理もないかも知れぬ。だが、当の則祐は、
「いや、何事も無く、二言で承知いたしてござる」
「左様でござったか。いや、それはまず一安心」
義季が苦笑しながら返した言葉に、大げさに笑って腕を組み、二つ頷く。その様子に、また何ともいえぬ愛嬌があるのだ。
「なにせ、顔を合わせるのも初めて同士じゃ。いかに義季殿が説かれたとは申せ、幸子どのにもいささか異論がござろうと。いや、娘御がご承知ならば、初代様も安心なさろうて」
「ははは」
則祐の、いかにも単純な安心の仕方に、義季は再び苦笑をもらした。
「いやさ、素直は素直ゆえ、二代様とも案外に上手くやれるのではないかと思うてはおりますのじゃが」
すると今度は、細川頼春が、
「娘御には、あのこと?」
「告げ得ませなんだなぁ」
「無理もない。じゃがそう聞くと」
そこで一度、口を結んで鼻から大きく息を吐き出し、
「やはり我が倅にくれて欲しかった、とのう、思いまするなぁ。将軍家にしてやられましたわい。こいうった話は早いもの勝ち、とはよう言うたもの」
「未練じゃぞ、頼春殿」
則祐がからかうように言うと、一座は好意の笑いに包まれた。
幕府二代将軍、義詮には、当時思いを寄せていた公家の女性がいた。後に彼の側室に入って三代義満を含め、二人の男児をあげることになる紀良子である。
渋川義季が娘に告げることが出来なかったのは、つまり「次代将軍の愛人」の存在であり、細川頼春がそれに対して無理もないといったのは、同じ親としてその気持ちが分かるからであろう。確かに身分の高い男性には、愛妾の一人二人いても不自然ではない。が、自分もそうであるとはいえ、いざ娘を嫁がせる立場となってみると、やはり複雑なものがあるらしい。
「いやいや、冗談ではなく」
一座の笑いが収まると、頼春が再び口を開いた。
「渋川殿の娘御なら、我が倅の嫁女に頂きたかった。頼之は親に似ぬ堅物ゆえ、未だもらわぬうちから、もらったからには女房殿一筋と決めてござる。それゆえ嫁女を泣かせることはまずあるまいと、なあ。いかにも未練じゃ」
この頼春、幸子が二代義詮に嫁ぐと決まってから、残念そうに義季へその意を告げたのである。
「それそれ、そのお倅殿」
京の町を、戦など知らぬげに春の日差しは照らしている。尊氏の「お出まし」にはまだまだ時間がかかるらしく、彼らの話も尽きぬ。
「頼春殿に代わって小笠原の征伐に参っておられるとお聞きしたが」
則祐が、丸っこい膝へ、これまた分厚い両手を乗せて、ぐっと頼春のほうへと身を乗り出した。
「ありゃ、それにつきましてはのう。逐一、勇ましい返事が届いておりまする。いやはや、折に触れて戦況を知らせて寄越せとは申しておりましたが、月の二十日には必ず、我が家へ便りが届くよう、差配してござる。程度というものを知らぬで。合戦の最中に便りをしたためる、そのような暇があるのかと。我が子ながら、なんとも融通の利かぬ者でな」
「いやいや、全く便りの無いより、そのほうがなんぼうかマシではござらぬか」
「そう申して頂けると」
則祐が苦笑すると、頼春もまた苦笑した。
「とまれ、それによるとまもなく阿波は平定、伊予支配も安定できようとのこと。後は、将軍家が…いや、なにより早うこの戦が終わって、民の心が落ち着くのが一番」
言い掛けて、頼春は慌てて言葉を濁した。一座の者たちも彼の失言に、苦笑を禁じ得ぬ。
実際、何とも規模の大きい「兄弟喧嘩」である。ここに集っている者たちばかりでなく、誰もが一日も早く皇家の一本化を、ひいては生活の安定を願っているのだから、
「あれほど仲の良い兄弟だったのだから、早く仲直りを…」
と、言いたかったに違いない頼春の気持ちは、渋川義季の心にも突き刺さった。
己は、そういった危うさの中へ娘を送り込もうとしている。果たしてそれが、あの「自分は自分」とする、おっとりとした幸子のためになるであろうか。
(いやいや、『男親』の感傷じゃ。あれならば存外、あっけらかんと乗り切ってゆくやも)
ふと生じた不安を、義季は首を振って追い払った。そこへ、
「尊氏様、おなりにござりまする」
そんな声がして、彼は一座の者達同様、慌てて平伏する…。
この頃は、いわゆる幕府創設期である。創設してまだ十数年であったからというばかりではなく、当初から幕府の内外では戦が絶えなかった。
幸子が嫁ぐことになった二代、足利義詮は幼名を千寿丸。父尊氏と、その正室、登子との間に生まれた嫡子である。庶出の兄に、叔父直義の子として育てられた直冬と、幼くして夭折した竹若がいる。順から言えば、三番目の子であった。
直冬は、いまだ登子を妻に迎えぬうちに、尊氏が身分の低い女に産ませた子であり、生涯父に認知されなかった。それを哀れに思った直義が実子として育てたのであり、そのことは内外に広く知れ渡っていた。無論、直冬本人もそのことを承知している。
よって、直冬が「冷たい実父」よりは、我が子のごとく可愛がってくれた猶父へより親しみを抱いたのは、人情としてむしろ当たり前だったかもしれぬ。
今回の戦でも当然のごとく直義へ味方し、直義が一次的に失脚すると九州へ逃れて、そこで南朝側の懐良親王とも結び、着々と基盤を築きつつあるらしい。
観応二年一月には、直義が京へ攻め寄せ、ために二代義詮は当時直冬討伐のために備前にいた父尊氏のもとへ走った。二月には、尊氏は戦達者の直義には勝てぬと折れて、「仲直り」をしてはいるが、その際、直義は対立していた執事の高氏兄弟(師直、師泰)を殺害している。何と言っても、高兄弟は尊氏お気に入りの執事であった。確かに直義の腹の虫は治まったであろうし、
「我が弟のしたこと…」
と、苦笑いするのみですませたとはいっても、尊氏の心の中には何らかのしこりが残ったに違いないのだ。「本当の仲直りを」と赤松則祐や細川頼春らがそう願いつつ、内心ハラハラと気を揉んでいたのも無理もないのである。
ともかく、表面上とはいえ兄弟が仲直りしたおかげで、南朝側とも一時的に講和が結ばれることになった。これにより、直冬も九州探題に正式に任ぜられて、幕府の内外は一応、落ち着いたように見えてはいる。つまり、渋川義季が、その娘、幸子を嫁がせようとしていた先は、このように先の見えぬ、内外共に真に不安定な政権の中枢を担わなければならない「次代将軍」のところだったのだ。
義詮は、蒲柳の質である。そうとまで言うのは酷であるとしても、どこか頼りないという感じは否めない。
千寿王を名乗っていた四歳の頃、まだ鎌倉幕府は細々と続いていた。父が六波羅探題を攻めるのに合わせ、父の名代として鎌倉討伐に出た。もちろん本人の意思ではなく、尊氏の打算が働いていたからであり、名代とはいえ、四歳という幼さで血なまぐさい戦場に出たことが、その後の彼の成長に何らかの影響を与えたかも知れぬ。どちらにしても、武士の棟梁に望まれる豪胆さやホラを吹く機転に少し欠けていた。
その代わりに、天は彼に人を気遣う繊細さや聡明な頭脳を与えたらしい。蒲柳の質の人間は、しばしば優れた人間洞察者であるもので、
「渋川幸子にございます。以後、よろしゅう…」
戦の最中とて、将軍家の後継にしてはまことに簡素で慌しい祝言を挙げた夜、幸子が義詮の前へ言って手を仕えると、
「頼りない二代ではあるが、こちらこそよろしゅう」
言って、彼は端正な顔を少し歪めて皮肉に笑った。母の登子は色白の美女であるし、そう思ってみればなるほど、義詮はその母に似ている。
「予は、予のことをよく知っているつもりじゃ。こなたの父や管領どもが予を歯がゆがっておるのものう。それゆえ、こなたも予にはまず、多くを期待せぬことじゃ」
「まあ、それは」
こともあろうに初夜、夫が寄越したのは、何とも投げやりな諦めきった言葉である。それを聞いて、幸子は大きな瞳をより丸くした。
義詮の繊細さは、果てなく続く戦に耐えられなかったのだろう。
(俺は到底、将軍二代という器ではない)
だが、武士どもの頂点に立つ者は、弱音を吐けぬ。義詮も配下の前では決して右のような言葉を口に出したりはしなかったが、
(能天気な顔をしおって)
幸子と向かい合ってみると、彼女の様子があまりにも開けっ放しなのが、いささか癇に障ったらしい。
(良子にも似たようなところはあるが、それでも危機感は抱いていた)
傷つきやすい人は、同じように繊細な人間を己の周りに選ぶ。彼が恋うていた紀家の良子もまた、彼と雰囲気の良く似た、細かく気の付くなよやかな公家の娘だったのだ。
が、どうであろう。
「期待、などと…そのように考えたこともござりませんでしたなあ」
目の前の娘は、さも驚いたといった風に頷いて言うのである。
「人は人、自分は自分、それで良いのではござりませぬか? 将軍家ともあろうお方が、いちいち周りを気にして、周りの思うとおりに自分を型にはめていては、息も出来ぬでしょうに」
悪気はないのであろう。だが、あっけらかんと放たれた幸子の言葉は、義詮の心を鋭く抉った。いつ南朝側へつくか分からぬ武家どもゆえ、なんとか幕府側へ引き寄せておかねばならぬといつも彼らへ気を配り、機嫌を取るようなことをしていた…それが『媚』であると、幸子にずばりと言われたような気がしたのだ。
(この娘は、苦しむということがないのか)
彼女は、紀家を含んだ、じり貧に陥りつつある公家の家や、我侭な武士どもの手綱を取らねばならぬ武家の棟梁の家に生まれたわけではない。よほど幸せに育てられてきたらしいと、義詮は妬みを少々含んだ複雑な気持ちで改めて『妻』を見る。
(顔立ちは悪くはないのだが)
すると、彼女もまた、わずかに笑って首をかしげ、己を見返してきた。
「存じておるかもしれぬが」
(この娘、苦しむ時はどのような顔をするのか)
その顔を見ていると、衝動的に「傷つけたい」といった気持ちがこみ上げてくる。しばらくの沈黙の後、義詮は乾いた唇で言った。
「予には、こなたの他におなごがいる。…こなたは好いておらぬ」
これもまた、初夜に交わす夫婦の会話としては、あまりにも残酷である。だが、
(…少しは苦しんでみるが良い)
すでに幸子を「無神経な女」として己の中へ位置づけてしまった義詮は、意地悪な喜びで持って彼女の反応を待った。
「それは…致し方ありませぬなあ」
案の定、幸子は少し傷ついたような顔をして、長い睫を伏せる。
「私と貴方様の婚礼も、周りの思惑で決められたもの…さぞや、お心は進まなんだこととお察し申しあげまする。ですが」
そこで、幸子は伏せた目を上げ、
「人というものは、周りに与えられた場所で、己の意に染まぬことをせねばならぬ時もある。ですが、どのような時も人は人、自分は自分。私が貴方様の正室であるという事実は、もはや変えられませぬでも、己さえ持っていれば大丈夫」
まっすぐに義詮を見た。
「貴方様が、どれほど他におなごを作られても、私を心からお好きになられぬでも、私は私。貴方様の正室でござります。私の実家ともども、どうぞ大いに頼られて下されませ」
「…よう分かった」
義詮は、怒りを帯びた震える声で、
「夫婦の勤めは果たす。予も腹をくくろう」
搾り出すようにそう言ったのである。
傷つきやすい人ほど、己の最初の思い込みを信じる傾向が強い。
(無神経で気遣いの出来ぬおなご…)
そして、第一印象での偏った見方をそのまま引きずってしまう。義詮の幸子への見方もそうだった、というよりも、反覆極まりない周りに常に振り回されていては、無理もないかもしれない。
大げさでなく、昨日の味方が今日の敵、といった具合で、今、幕府に擦り寄っている武士どもも、またいつ裏切るか分からぬのである。ゆえに、いつまでたっても緊張が解けぬ。
直義は確かに京を包囲した。だが、やはりそこは何と言っても「兄」の本拠地であり、加えて彼の親族や彼を慕っているものも大勢いる。
兄の尊氏よりもよほどの情の濃い、心底「武士」であった直義は、それゆえに彼らを脅かすに忍びなかったのだろう。攻め入ることはなく、包囲するだけに留まって、京市街へ入って乱暴狼藉をする者は厳罰に処したという。ゆえに、直義の裏切りによって何らかの影響があったのは、武士として戦に出ていた男どもだけであり、公家やその他武家の子女の生活までが脅かされたわけではない。直義はこの点、兄よりも甘かった。
ために、幸子は戦を知らぬ。もちろん、小競り合い程度の戦が彼女の周りでなかったわけではないが、あくまでも聞き知る程度のことであったため、現実に起きていることとして受け取るには甚だ実感が薄い。
(怯えもせず)
だからこそ、正月に自身が備前へ落ち延びるという経験をした義詮には、幸子のその様がどうしても気に食わない。
正室を迎えるのだからしばらく慎め、と父からの戒めもあったことだからと、紀良子に会いたいのを控えているのに、
(良子なら、涙を零して「さぞやご苦労をなさったでしょう」の一言くらいは申しおる)
同じように戦況を知っているはずの幸子には、それがない。つまり、義詮が欲しいのは共感だったのだ。
ともかく、尊氏が名目上は南朝側へ降服したので、正平、観応と二つに分かれていた元号は南朝側の正平に統一された。観応二年は正平六年となり、南朝側もある程度は息を吹き返している。
息を吹き返したのはいいのだが、南朝はその祖である後醍醐帝とほぼ同じ過ちを繰り返した。幕府が擁立した北朝の祟光天皇及び直仁親王は廃され、武士の職である地頭の領分取り上げて寺社や公家へ配分するなど、まさに北朝側にとっては「腹に据えかねる…」ことばかりをやってのけている。
だが、「負けた」のは幕府側なのだ。それに降服した際に、皇家のことは皇家に任せるという条件を飲んでしまっており、さらには三種の神器も南朝側へ渡してしまったため、こちらとしては手も足も出なかった。じりじりしている間にも、南朝側は着々と基盤を吉野から河内の国へと伸ばし続けている。
おまけに幕府の中では尊氏側と直義側のしこりが未だに解けていない。義詮にとっては緊張の連続で過ごしていた観応二年十月に、尊氏がついに南朝側へ「直義・直冬追討」の綸旨を貰い受けてしまったのだ。
「なんと、まあ。また戦でござりまするか」
全く、何もかもが慌しかった。幸子が嫁して、京御所により近い義詮の住まいへ居を移してから、既に半年が過ぎ去っている。こぎれいに整えられた庭は、初秋ののどかな日差しに照らされているが、
「ああ、戦じゃ。だが、安心せい。予は京に残る」
それとは裏腹な苦虫を噛み潰したような顔で、彼女の前にどっかりと座り、義詮はそう吐き捨てた。彼が京に残ったのは、南朝側との折衝のためである。本日も、せわしない昼食を終えて、南朝側との交渉のために河内へ行くという。屋敷へ戻ってきたのは、ひと時の休息を得るためであろう。
「こたびこそは、京へは戦火は及ばぬであろうとなあ、父上は仰せじゃ。だが予までもが京を留守にして、万が一のことがあっては、とのう。逃げた叔父御や、九州の直冬殿の後始末は父がするそうな」
「左様でございますか…」
先だって「仲直り」した際に、直義は義詮の後見役になっている。これでまた、兄の信頼を取り戻したと単純に思ってしまった直義は、やはり甘い。
執事の高兄弟を殺したのも、直義にとっては
「あの兄弟が思う様、政を牛耳るようでは…」
全ては兄を第一と考えていたためであり、南朝側へ走ってしまったのも、将軍としての威厳を示さねば自分までもが裏切るぞという、大げさではあるが兄へ「喝」を入れるためだったのであるから、
「あの直義様が、なあ…惜しいことにござりまする」
「言うな」
眉は濃く、瞳は黒く、筋骨は隆々と盛り上がり…甥の嫁を見たいからと、夏に一度訪ねてきた直義の顔を思い浮かべながら、幸子がぽつりと言うと、義詮はぷいと横を向いた。幸子に慨嘆されるまでもなく、叔父に「追討」されるほどの罪などないことは、彼自身がよく承知している。おまけに追討されようとしているもう一人の人物は、父尊氏に認められていないとはいえ、彼の庶兄なのである。
だが、武家でありながら、その棟梁である将軍家に背いた罪は罪。叔父とはいえ、
「身内であるからこそ、征伐されなければならぬ」
義詮は苦々しげに言い放った。
直義の行動は、あくまで「皇室第一」であった。頂く天皇家がいないと、幕府などあっという間に崩壊することを、彼はよく知っていたし、だからこそ、自分に対する討伐令が朝廷から正式に出されたとなれば、淡々とそれを受け入れて鎌倉へ落ち延びていったのである。
実父尊氏へ反感を抱いている直冬ももちろん、それを聞いて九州でおとなしくしているわけがない。よって、京を挟んで東に西に、またしても戦の火の手が上がったのである。
「直義様は、己が悪者になればよい、とお思いなのでしょうかなァ」
「何と申す」
もう一度、ため息を着きながら立ち上がりかけ、義詮は幸子の言葉を聞きとがめた。
「されば」
すると幸子は襟を正し、彼の前へ両の指先をついて、
「将軍家の弟御でさえ、背けば成敗されると…。直冬様はいざ知らず、直義様は自らが犠牲になられまいて、おあにい様の威厳を高めようと覚悟を決めておられるのでは…でなくんば、あの戦達者の直義様が、京をそのままにして去られる理由がござりませぬ。直冬様は、何と申されても将軍家の実の御子におわしまするゆえ、悪いようにはなさりますまいと、なあ。形の上では賊軍であっても、心の底では、おあにい様の肉親としての情を信じておわすのでは」
「女どもが小癪なことを」
(薄ぼんやりしておるとばかり思うていたが)
内心、意外なほどの彼女の洞察に舌を巻きながら、それでも義詮は苦々しげに、
「参る。数日は戻れぬであろう」
言い捨てて、幸子に背を向けた。
「どうぞ、お気をつけられて」
頭を下げた彼女の声に答えることもなく、荒々しい足音が遠ざかって行く。
とにもかくにも、尊氏は「討伐」のために京をあけ、義詮は残った。父尊氏が義詮へどれほどの期待をかけていたのかは分からない。当時は生まれた順ではなくて、母親の身分や、母が正室であるかどうかで嫡子であるか否かが決まったのであるから、尊氏が義詮を内心、どのように歯がゆく思っていたとしても、将軍家の跡継ぎは彼しかいないのである。
むしろ、猶父であり叔父である直義に似て戦達者であった実の子、直冬のほうが、この不安定な局面を乗り切るに相応しいと思っていたかもしれない。だが、一度「認めぬ」としてしまった以上、征夷大将軍ともあろうものが、その言葉を翻すわけにはいかなかった。
それに、南朝に降服してしまったことが、次第に深刻な影響を及ぼし始めている。身内の「わがまま…」にばかり煩わされてはいられぬものをと、尊氏は内心、忸怩たる思いであったに違いない。
南朝側の力が増したため、当然ながら幕府の力は急激に衰えたと見られた。南朝はついに、摂津国住吉までその本拠を移し、名将と評判の北畠親房を大将に立てて、京奪還を企てたのである。
幸子が義詮の子、千寿王を出産したのは、このような落ち着かぬ状況の中だった。さらに事態が深刻になった観応二年の十二月には、
「今一度、京を捨てねばならぬやもしれぬわ」
何度か京と住吉を往復し、一向に譲歩の気配が見られぬ南朝側との交渉に疲れた顔をした義詮は、生まれたばかりの我が子の顔を見ながら、苦々しげに吐き捨てた。
「こなたも、その覚悟はしておけ」
「まあ…それはまた、なにゆえにござりまするか」
夫の体からは、冬の風と枯葉の匂いがする。乳母に、千寿王を抱いて去るように言いつけ、幸子は夫の側へ少しにじりよった。すると、義詮はつと顔を背け、軽く咳をしてから、
「こなたも一応は大事な身ゆえ、あまり予に近づくな」
言って、再び咳込んだ。
(お風邪を召したらしい…)
幸子は黙って手焙りの上にかけてあった急須を取り、湯を注いだ湯飲みを差し出す。すると夫は驚いたように一瞬、眼を見張り、湯飲みを受け取って少しだけ微笑った。
「…父が、叔父御を鎌倉へ取り込めた。それを聞いて、庶兄も少し大人しくなったそうな」
「まあ、それはよい報せではありますまいか?」
「皇家が、父の将軍職を解任すると言い騒いでおる」
ため息と共に言って、義詮は残りの湯を一気に飲み干した。
「勇将、北畠が味方であるから、皇家も強気よ。こちらとしても、我らのお味方であった祟光上皇陛下や皇太子直仁殿下を廃されてしもうては、手も足も出ぬ。叔父御がせめて側におわせば…いや、これは言わいでものことであったわ」
よほど喉が乾いていたらしい。空になった湯飲みをそのまま手のひらで弄びながら、夫は疲れたため息をつく。
(ぽっかりと開いてしまった直義様という穴は、大きゅうござりまするなあ)
幸子は労わるようにそんな夫を見やりながら、黙ったまま再び急須を差し出した。傾けられた急須の口を、今度は当たり前のように湯呑みで受け、
「もしも、のう」
義詮は、妻の顔を首をかしげてつくづくと見る。
「父が征夷大将軍でなくなれば、予とてその跡継ぎではない。ただ人じゃ。こなたにも、予の周りにいる武士どもにとっても、何の価値もなくなる…となればのう、予を見捨てても良いぞと思うて」
「まあ…ホホホ」
すると、幸子は何がおかしいのか、声を上げて笑った。
「何を笑う」
笑われて、夫がいい顔をしなかったのは、疲労感が濃いためばかりでもなかったろう。
「これは失礼致しました。あまりにもつまらぬことを仰せあるもので」
「つまらぬと」
先ほどまで冷たい風に晒されて青かった義詮の頬は、怒りを帯びてきたらしく、今はほんのりと赤い。幸子は動じる気配もなく、
「はい、小さなことにござりまする」
むしろ慈愛すら瞳に湛えて夫を見返した。
「将軍家の跡継ぎでなくても、貴方様は貴方様で、私は貴方様の妻。否、形の上で将軍家でなくなりましても、貴方様やお父上様を我らが棟梁なりと慕う者ども、いくらでもございましょうに」
「…ふむ…」
義詮の顔から怒気が消えた。幸子は再び空になった夫の湯呑みへ湯を注いで、また柔らかく笑い、
「恐れながら、今の皇家が考えておわすことは、己と己の周りの栄華のみのように、幸子には見えまする。それでは集まってくるのはやはり、利に聡く、利を食らうものばかり…本物の人はついて参りますまい。尊氏様を慕う武士どもは、尊氏様こそが皆を仕合わせにして下さると、そう信じておりますからこそ、歯を食いしばって皇家の無体に耐えておるのでございましょう」
黙り込んでしまった夫へ、幸子は話し続ける。
「それゆえ、京を奪われようと、京からやむなく出なければならぬことになろうと、将軍でなくなろうと、慕う者どもがいる限り貴方様とお父上がいる場所が、すなわち幕府のあるところ。幸子もなあ、貴方様とともにいずれなりとも参りましょう。どこまでもお供致しまする」
「…そうじゃなぁ」
義詮はそこで、妻の顔を見て微苦笑を漏らし、
「お父上と、予があれば、京でなくてもそこが幕府か」
幸子の言葉を繰り返した。
「左様にござりまする。そのお心積もりでいらっしゃれば、どこへ参っても何とかなるもの。いずこにあっても、貴方様は貴方様」
すると、幸子も大きな目をすっと細めて笑う。
「はは、これは一本取られた。まこと、こなたの申す通りかもしれぬ」
ついに義詮も声を上げて笑った。本当は、形の上であっても皇家に任じられた将軍あってこその幕府なのだが、幸子の言うこともあながち間違ってはいない。将軍は、武士の棟梁でもあるのだ。
「僭越ながら機内におきましても私の父、細川様父子、そして近江の佐々木京極道誉様、播磨は赤松則祐様…皆、貴方様と尊氏様の味方ではござりませぬか。殊に細川頼之様、阿波で未だに踏ん張っておられまする。貴方様さえおわせば、幾度なりと立て直せましょう。ここで投げてしまわれては、それこそ皆の今までの犠牲は塵と化しまする」
「うむ」
「それゆえ、なあ。一旦は落ちぶれて京より追われても、生きてさえあればいくらでも取り返しはつく。元気をお出し下されませ」
幸子の言葉に、義詮もまた、己に言い聞かせるように何度も頷いていた。
だがこの頃、幕府の弱体化は既に顕著なものになっている。せっかく幕府によって立てられた北朝だが、天皇と皇太子は廃され、北朝側についていた公家どももまた逼塞する羽目になったので、
「あれ、また公家さんの首吊りじゃ」
「公家さんも、生きてゆけぬ世なんじゃの」
鴨川にかかる五条大橋では、京市民どもがごく自然にそう言って行き交うのが当たり前の光景になっていた。
関白や太政大臣といった、身分の高いものですら、
「日々の糧を切り詰めねばならぬ…」
なんとかしてくれと、幕府へすがり付いてくる。そもそもそれらの人々は、幕府が立てた北朝側の公家なのである。幕府が何とかするのは当たり前であろうと詰め寄り、しかし幕府も己を助けるだけで精一杯だと分かって、落ちぶれたわが身を嘆くのがオチなのであるから、公家とは名ばかりの末端貴族が「これでは生きてゆけぬ」と行く先に絶望するのも致し方ない。そもそもが、「額や手に汗して働くことを知らぬ」人々なのである。逆境には極めて脆い。
とにもかくにも、形の上では皇家が一つになって、元号も南朝側の「正平」となったはずであったが、年の暮れと戦と、まこと慌しい師走が過ぎ、なんとか明けて翌年二月。
「近江へ落ちる」
討議が終わり、足音荒く幸子のいる部屋へ戻ってきた義詮は、憮然とした表情でそう告げた。
「まあ…あの、では、鎌倉はどうなっているのでござりまする」
「叔父御の始末は父がつけたそうな。皇家は父の将軍職を解いた…代わりに幸坂宮(後醍醐天皇の皇子の一人、宗良親王)が征夷大将軍に就くと」
「それは…まあ」
(まるで他人事のような)
まさに尻に火がついているこの状況で、どこかのんびりしているというか、そもそも事態をきちんと把握しているのか、といった妻の様子に、
(少しは見所のあるおなごかと思うておったに)
好意へ少し傾きかけた天秤は、また水平に戻ってしまったらしい。常の彼にも似ず、畳の上へどっかりと腰を下ろした義詮は、疲れたように息を吐いた。
鎌倉では、包囲した直義の始末をつけた…これには尊氏が直義を毒殺したのだという不穏な噂が流れたが…ばかりの尊氏が、体勢を立て直す間もなく宗良親王を奉じた新田義興、義宗兄弟に攻められ、武蔵へ逃れている。
それを聞いてさらに強気になった南朝は、北畠親房を先頭に、京へ攻めかかってきたのである。既に戦の臭いを嗅ぎ付けていた京の市民どもは、あるだけの家財道具を抱えて家族もろとも周辺へ避難していたが、
「頼春が倒れた。頼之はようよう阿波の小笠原を成敗して、こちらへ向かってくる最中であろうし、則祐は播磨じゃ。予と義季…こなたの父だけでは到底、京を守りきれぬ」
「左様でございましたか」
義詮の言葉に、幸子の部屋へつめていた侍女たちが一斉に騒ぎ出した。それへ静まるように言い、
「それゆえ、近江の佐々木様を頼られることになさったのですなあ」
「そうじゃ。幸い、向こうから申し出てくれておる」
佐々木道誉ならば、折々この邸の庭でも見かけていた。近江源氏の血を引くのだというその顔を思い浮かべながら幸子が言うと、義詮は後を引き取って、
「そこで予は、年号を改める。正平ではなく観応へ戻す。お父上さえ戻られたなら、また巻き返しも出来ようゆえ。鎌倉へ、とも考えたが、南朝との対抗上、そこまでは退けぬ」
「はい…ですが」
夫の言葉のいちいちへ頷いていた幸子は、そこで首をかしげた。
「公家さま方や幕府へお味方くださっていた皇家の方々も、ご一緒で?」
すると、義詮の表情はまた、みるみるうちに苦いものになった。
幸子には内緒にしているが、彼の紀家通いは事態が紛糾するのと比例して、その度合いを増した。どこか『無神経』な正室にはない安らぎを求めたかったのに違いない。
(私を捨て行かれるのでおざりまするか)
つい先日も、紀家邸内で良子はそう言って泣きながらかきくどいた。思わず仰いだ紀家の天井は、煤けてどす黒い。その有様をありありと思い出してしまって、
「…こなたに答える義務は無い」
彼は素っ気無く言った。彼と良子が交わした会話まで幸子が知っているわけがないし、公家というのがすなわち、義詮が通う愛人のことを指して幸子が言ったわけでもないということを、彼はよくよく承知しているのだが、
(己を守るだけで手一杯…)
そんな自分の不甲斐なさを、妻の言葉によってより自覚させられたような気分になってしまったのだ。
事実、細川頼春の戦死によって、力関係の強弱は決定的なものになってしまい、幕府にともかくも味方してくれていた「元」北朝側の皇家や重だった公家の面々は、そのほとんどが南朝側に囚われてしまっていたのである。
三種の神器がなくとも、平安の昔から続いている「皇家の実質的政権保持者」である治天の君さえ確保しておけば、皇位継承は何とか形にはなった。我が子へ皇位を譲って自身が院政を行った白河上皇がその始まりで、以降、朝廷の間では、天皇家において上皇、天皇が己の子らへ皇位を継承させる折には、この治天の君の裁可が「大いに物をいう」のが慣例になっている。
よって、南朝側が「三種の神器」を保持してその正統性を主張していても、治天の君さえ幕府側にあれば、とりあえずの大義名分を主張することは出来た。時代が下るに連れて形だけのものになっていたとはいえ、やはり治天の君の威光はそれだけ大きかったのだ。
幕府によって北朝が建てられた時、尊氏は持明院党の光厳上皇を治天の君とし、その弟の豊仁親王を光明天皇として、征夷大将軍に任ぜられた。ゆえに、その光厳上皇や皇太子が連れ去られたのは、まことに大きな痛手なのである。
(そのような事情を申しても、おなごには理解できまい)
「ともかく至急、近江へ参る。その支度をいたせ」
子供のように目を見張る幸子へ、義詮は苦々しげに告げた。
攻め入ってきた南朝側は、敵であるとはいっても、もともと同じ貴族仲間で親類同士なのだ。武力を持たぬし、血を嫌うであろうから悪いようにはしまい。ゆえに朝廷やそれに近い公家らは無事であろう。よって義詮は、
「必ず戻るゆえ、待て」
と良子に告げたのだが、もちろん、それは男の理屈である。通じないのも当たり前で、後はただ無言で泣くばかりの良子を、やむなくそのままうっちゃって、彼は逃げるように紀家の屋敷を出てきたのだ。
(ともかくも、近江で善後策を練らねばならん)
連れ去られなかった皇族のうち、「治天の君」及び「天皇」として形だけでも立てるに相応しい人物の選出をせねばならぬし、これからの戦局の打ち合わせもせねばならぬ…と、幕府にとってはまさに瀬戸際のこの時、
(こちらにとって利用価値のある人間以外のことを考えてやれる余裕なぞ、あるものか。説明しようとしても理解しようとすらせず、結局は泣き崩れるのみのおなごなぞ)
追い詰められて、ただイライラと焦り、疲れてもいる義詮を責めることは出来ない。
幸い、光厳上皇、光明天皇の御母である広義門院(後伏見上皇女御、西園寺寧子)及び光厳上皇第二皇子、弥仁親王はまだ手元にある。それゆえ、皇家の出ではないが、緊急の手段として広義門院を治天の君として立て、弥仁親王を時代天皇にしてはどうかと、
「異例のことではあるが、致し方ありますまい」
後 に「ばさら殿」の異名を取った佐々木道誉の、まさに彼らしい意表を突く提案が出され、鎌倉で交戦中の尊氏からも「良きように…」との返事が来ている。
この頃にはもともと、夫を亡くせばその妻が家督を代行するという慣習が武士にはあった。しかしそれはあくまで武士の慣習であり、公家社会では見られない。尊氏が承諾したのも、その慣習が根にあったからであり、それを公家へも当てはめようとする道誉の奇策に、「やむを得ないこと」と心の中で賛同したためでもあろう。これが、観応二年六月のことである。
門院への交渉は、しかしすんなりとは行かなかった。ある意味、南朝よりも手ごわい相手であったろう。
「上皇方や皇太子をのめのめと連れ去られておきながら」
われらを良いように利用するだけじゃと、周囲のものへは幕府すなわち義詮への怒りと不信をあらわにし、しかし幕府の人間に対しては硬く澄んだ表情で、断る旨を厳かに告げたそうな。
門院にとっては、いずれも息子や孫たちなのである。お怒りになるのも無理はないがと、義詮や佐々木道誉、そして幸子の父である渋川義季は、そぼ降る梅雨の中、何度も御所へと足を運んで『交渉』を重ねた。
この間、主だった武家の家族は、難を避けて続々と京周辺へ逃れている。
(物見遊山の気持ちでおればよいが)
悲嘆にくれる周囲とは裏腹に、出立する時の幸子の様子はむしろ明るかった。近頃ようよう、伝い歩きを始めた我が子を抱いた乳母や侍女たちと共に『将軍屋敷』を出、雨の中を京は山科のはずれまでやってきたところで少憩をとっていると、
「幸子殿。お久しゅう」
そんな声がして、彼女を包んでいた人垣が崩れる。侍女数人の姿がそこから現れて、それが幸子へ近づくと人垣の崩れはさらに広がり、侍女に守られていた初老の貴婦人が彼女へ向かって微笑んだ。
「これはお姑様。婚儀以来、ご無沙汰いたしておりまする。こちらから折に触れてお伺いせねばならぬものを、大変にご無礼致しました」
侍女に守られていたのは、義詮の実母である赤橋(北条)登子で、
「よいよい。こなた様も大事な御身…このたびはまた、大変なことになりましたなあ。京より出たことのない御体。慣れぬ旅で大変であろ」
「いえ…むしろ私、楽しいとも思うておりますもの」
「いやいや、気遣いは無用じゃ。いつもなあ、こなた様とこなた様の御父上には済まぬことと申し訳なく思うておりましたぞえ。将軍家の正室ともなると、気苦労も多いもの…私がたれよりもよう存じておりまする」
幸子が恐縮し、かつ改まって頭を下げると、この北条一族の血を引く女人はしみじみと言うのである。
「こなた様に会うのも久しぶり。これはまた、大きゅうおなりじゃなあ…ほれ、この婆が抱いてしんじょう。こちらへおざんなれ」
優しい皺を刻んだ目を我が孫へ向け、同じように皺の刻まれた両手を差し出す祖母を見て、少しはにかんだ後、千寿王丸は彼女に抱きついていった。
「おお、重いこと」
登子の柔らかい声音と千寿王の歓声に、張り詰めていたその場の空気が少し和む。
この女人もまことに苦労人で、尊氏へ嫁に入って間もなく、当時は健在であった鎌倉幕府によって赤子の義詮と共に人質にされているし、後に夫が鎌倉幕府へ反旗を翻すと、父や兄弟全てを鎌倉幕府によって討たれてしまっている。
だが、登子の口からそのことについての夫への恨みが出たことは絶えてない。五十の声を聞くには未だ間があるのに、カラスの爪あとを刻んだ目元でもって、ただ微笑むのみである。
「千寿殿が大きゅうなられる頃には、この世も治まっておればよいのじゃがなあ」
「…まこと」
その言葉に、幸子もまた心から頷く。辛酸を舐めているだけに、またそれを普段は一切表に出さぬだけに、姑の言葉はさすがに楽天的な幸子の胸にも重く響くのだ。
「御覧なされ」
孫を抱いたまま、登子は白い指を翻して京の街を示す。ここから窺うことの出来るその町並みの、あちらこちらから今も黒い煙が上がっており、
「あちらにはなあ、今この時も逃げることすら叶わず、ただ怯えておるのみのこなた様らに似たような親子ばらがまだいるのではないかと、それを思うと胸がつぶれそうになるのじゃ」
たまさか、そこへ雲の隙間から柔らかい日差しが射す。いつの間にか雨は止んではいるが、
「戦は、止みませぬなあ」
「まこと愚かなことにござりまする」
姑の述懐に幸子が返すと、
「ほんにその通りじゃ」
姑も深々と頷くのである。京の東の外れである山科へ、そして近江へ…その道中も、埃にまみれて薄汚れた貧しい者どもが、形ばかりの家財道具を手押し車に乗せて逃れていく。夫を失い、行き場を失って、ただ呆然とするのみといった様子の母親に抱かれた乳のみ子もいる。
(初めて見た…私の認識はまこと、甘いものであったわ)
登子に言った、「楽しい」という言葉もあながち嘘ではない。だが、
(逃れ逃れて…あてはあるのじゃろうかなぁ)
物見遊山、などという気分は、屋敷を出た瞬間吹き飛んだ。表情を失ってさ迷う難民を見るにつけ、今まで己が、どれだけ恵まれた身分で幸せに育てられてきたか、初めて思い知った彼女なのである。
(戦は、男によって起きるもの)
そしてその認識だけは改まらないどころか、むしろ確信となって彼女の胸にある。
「お姑様。お恥ずかしい話ですが、私が戦というものを知ったのは、これが初めてにござりまする」
我が子を姑の手から抱き取りながら、幸子は登子を見つめた。
「ですが戦のたびに、お姑様は、このような様をご覧になってこられたのですなあ」
「…はい」
「まこと、迷惑なこと。戦など、人がおらぬところで存分にすればよいものを」
幸子の言葉に、登子は一瞬、目を見張ったが、
「仰るとおり」
目を伏せて頷いた。
(迷惑千万じゃ)
その姑から目を逸らし、幸子は京の街を見下ろした。御所周辺には、さすがに武士も攻め入る度胸はないらしい。そこだけがぽつりと昔の町並みを残しているのが、反って現在の京の町の無残な有様を際立たせていた。
(戦など、人のおらぬところで存分に)
変わり果てた町並みを見ながら、嫁ぐ前と同じ思いが彼女の胸によみがえる。しかしその思いは、もはや他人事のようなそれではなく、
(戦がなくならぬのは、われらが弱いからじゃ…足利が強くならねばならぬ)
「御台様、御方様、雨の降り出さぬうちに」
警護の武士どもに促されて姑へ軽く頭を下げ、千寿王と共に輿の内へ再びこもると、途端にそれはぐらりと揺れた。
(南朝方と仲たがいしたのが、なんとも拙かったの)
腕の中で抱き締めた我が子を無意識にあやしながら、幸子は宙を見据えて考え続ける。
(幕府とはそもそも、皇家を頂いてこそのもの。様にならぬからと言うて、形骸だけの北朝を建てたのからして拙い。皇家や取り巻きの公家ども自体には何の力も無い…大納言やら関白やら、大層な名前を並べてはいるが、皆、肩書きだけのデクノボウじゃ。だが、象徴としての権威だけは馬鹿には出来ぬ。それを、形だけでも征夷大将軍として武士の棟梁になりさえすれば、力のある武家の支持は得られると考えたのが、初代様の読み違えであったなア)
尊氏がもしも幸子の考えていることを知れば、きっと激怒したであろう。もちろん、彼女の考えには彼女の偏見や独断が多分に混じっている。そもそも「女子供には必要のないこと」と、政治向きの話はとんと聞かされぬのだから仕方がないのだが、
(皆、心のどこかで正当な皇家は南朝方であると考えておるし、何より後醍醐帝を吉野へ追い落として、そのまま身罷られるまで捨て置いた、というのも、こちらにいかな諸事情があったとしても申し開きは出来ぬ事態。御霊を慰め申し上げるために、夢窓国師が献策によって天竜寺を建てたというても、南朝方では片腹痛いわと嘲笑っておろう…形だけの皇家である北朝方に征夷大将軍に任じられても、武士どもは懐かぬ。反って舐められる元になっておるのじゃ)
幕府が『反幕府側』の武士どもに舐められているという認識は、あながち間違っているとは言い切れぬ。実際、いざ足並みを揃えて攻めかかれば敢え無く敗走する、このような「征夷大将軍」では舐められても致し方ない。
(幕府が…われらが舐められぬために、女の身でも出来ること)
だがそれは、『男社会』では限られている。考えあぐねて、思わず大きく息をついた時、
「御方様。ようよう山を越えました」
籠の外から、侍女の声がした。
「あれ、あのように大きな水溜りが…ここからでもよう見えまする」
「琵琶湖とか申す湖ではないかの」
中から言葉を返しながら、幸子は鼻を少しひくつかせた。
なるほど、頬に当たる風に、いささか水のにおいも混じっている。そしてふと気付くと、腕が痺れたように重い。
(あれあれ)
雨で冷えた我が子の肌が妙に温みを帯びてきたと思ったら、
(幼子は他愛ないの…)
思わず口元のほころんだ母の腕の中で、千寿王はいつの間にか無邪気な寝息を立てていた。
(この子が「三代」になるまでに)
姑が言っていたように、果たして戦は無くなるのであろうか。そもそも、「近江落ち」せねばならぬほどに切羽詰った幕府側の行く末さえ今は見えぬし、
(心の底で、女など…と小ばかにしておる男ども…将軍家御台とは申せ、私の考えなど誰も聞かぬであろう。将軍家の正室じゃというのも所詮は肩書きよ)
肩書きに心から頭を下げる人間などいないのである。
(じゃが、それをありがたがるだけでなくて、存分に利用することができれば…この世が男どもによって作られた舞台であるなら、女がそこへ食い入るためには)
「おお、佐々木様よりのお迎えが…あれ、あのように。もう安心にござりまするぞえ」
「ウン」
「御方様、お疲れ様にござりました」
「アア」
輿の周りで安堵のため息をつく周囲の言葉へおざなりに返事をしつつ、幸子は澄んだ眼差しを輿の天井へ向けたまま、考え続けた。
(一番良いのは仲直りすることなのじゃがなア)
幸子が「政治」というものと真っ向から向き合うきっかけになったのは、この「近江落ち」が最初であったと言っていい。
(仲直りするということは、つまり不自然に北と南に分かれてしまった皇家を一つに戻すということ。夢のような話じゃが、たれかがやらねばならぬ。じゃがそれは女である私の役目ではない…女たる私には、能の舞台と同じで出番が与えられておらぬゆえ、それは到底出来ぬ相談じゃ。戯言を、というて笑われるのが落ちであろう)
坂を下る輿の周囲で、次々と加わる警護の兵によるざわめきが次第に大きくなる。やがて再び雨が振り出したらしい。パラパラと細かいものが当たる音と共に、
「御方様、千寿王様、真に失礼かとは存知まするが、お顔をお出し下されますまいか」
窓のすぐ側から、野太い声もする。
「手前、佐々木道誉にござりまする。このたびは、尊きお方を我が家へお迎えできまいて、まっこと光栄に」
「…存じておりまする。懐かしいのう」
すらり、と、窓を開けて幸子は顔を覗かせ、そこに赤く照り映えた坊主頭を見つけて、顔をほころばせた。
「こなた様の振る舞い、見事な役者ぶりよと思いながら、折々京の屋敷にて拝見しておりました。じゃが、こうしてじかに言葉を交わすのはこのような折が初めてとは…なんとも粋なめぐり合わせ。面白いものと思うておりまする」
「これはなんとも…ハッハッハ。いやはや、そう申されればまことに粋なめぐり合わせ」
幸子の挨拶に、洒落たことの好きなこの「ばさら殿」は、剃りこぼった頭を分厚い手のひらでつるりと撫でて豪快に笑う。
(この挨拶、まこと良し。何とも出来た奥方じゃ)
「左様左様。人生とはさほどかように、予測不能の面白きもの…我が家へ次期将軍とそのご一族をお迎えすることになりまいたのも、何かのご縁。さあさ、これよりはこの道誉にお任せあって、心安らかに。なあに、近江は平安の昔より佐々木源氏の地。手前がしっかと守うておりまするゆえ、毛筋ほどの無礼者も近づかせはしませぬ」
「これは頼もしい見栄を切られる」
幸子が言うと、周囲に一層、安堵のざわめきが広がった。
この道誉、義詮がかつて播磨へ出兵した際には、尊氏との密約でもって赤松則祐と共にわざと南朝側へついて南朝側を油断させ、義詮と共に京を挟撃して奪還したり、一時的に南朝と仲直りした際には、後村上天皇から直義追悼の綸旨をもらうよう尊氏へ進言していたりもする。
このように「なかなか食えぬ」坊主ではあったが、道誉自身にとっては
(尊氏を頂いた武家政権をこそ…)
と、それのみを考えての行為であり、平常の彼は常に陽気で洒脱、加えて人の細かい失策や欠点を追及したりはしないので人気も高かった。
この時、道誉の本拠である勝楽寺へ向かいながら、
「いずれ初代も鎌倉より戻られましょうし、則祐も無論、手前も二代様と共に京を奪還いたしまするゆえ、今少しご辛抱を」
そう語る彼の口から幸子が初めて聞いたのが、先ほど戦死した細川頼春の息子、頼之の名である。
「あれもなあ、阿波より日に夜をついで戻っております最中の模様。親父殿に似ず生一本の『堅物』ではあるが、それゆえに信頼できるし学も深いし和歌もものしまする。二代様の補佐には、年は若いが頼之をこそ、と手前は義詮様にも申しておりますのじゃが」
「…細川殿のご忠誠は私ども、身に染みておりまする」
窓を開け放しながら話し合っていると、水の匂いがいよいよ濃い。京と同じ盆地でありながら、どこまでも広がるかと思える田の向こうには、曇り空を移して灰色に彩られた湖が小さく見えており、
「そのおせがれ様ならば、二代様もきっと信頼なされましょう」
(京は遠くなったもの…)
目を細めながら、幸子は言った。
勝楽寺へ向けて、幸子と千寿王、そして登子を乗せた輿は進み続ける。京とは違った、湿り気の濃い、しかしどこか暖かい風は開け放った小さい窓から吹き込んで、
「起きやったか」
幸子の腕の中で眠っていた千寿王の頬をくすぐったらしい。
「ほれ、御覧なされ。こなた様が眠っておいでの間に、ここまで参りましたぞえ」
ぐずりかけた我が子へ、窓の外を指しながら幸子が言うと、千寿王はつぶらな瞳を見張って母の指差すほうを見た。
「京は、まこと、遠くなり申した」
丸い頬へ唇を寄せるようにして彼女が言うと、千寿王は鈴を転がしたような声を上げて笑い、同じように外を指す。
彼の指した方角の田畑には二、三羽の燕も飛び交っており、
「…春も、遠いの」
それを見ながら彼女がつい漏らした言葉に、
「なんと。ついこの間、過ぎ去ったばかりではございませぬか」
侍女は怪訝な顔をしたが、道誉は口を結び、「フム」と頷いた。
「道誉殿」
「は」
どうやら道誉にはその言葉の意味が通じてしまったらしいと苦笑しながら、幸子は、
「お屋敷へ寄せて頂きましたらなア、早速ですが折り入ってお話したいことやお聞きしたいことがたんとござりまする。お時間を頂けましょうか」
「おお。それはもう」
道誉はそこで、我が胸をどんとばかりに叩き、
「二代様、そしてこなた様の御父、義季殿も、皇家の方々との折衝を終え、おっつけこちらへ参られると伺うておるが、それまでには間があろう。それゆえ、手前で分かることでございましたら、出来る範疇でお答え申しあぐる」
「それはよかった。よろしゅうお願い申しあげまする」
(出来る範疇で…とはのう)
さすがにここが、「食えない坊主」らしいと苦笑しながら、幸子は千寿王を抱き直して軽く頭を下げた。
勝楽寺は、大津より琵琶湖を左手に見ながら、湖南側をぐるりと回って京からちょうど東に位置している。曇り空がいよいよ暗くなってきた頃、
「やあ、到着しまいた」
道誉がガラガラ声で叫んだ。警護の武士や侍女は、それを聞いて疲労の色をさらに濃くしたが、
(いよいよじゃ。これからじゃ、戦いは)
道誉の家族や郎党が総出で頭を下げるのへ頷きながら、幸子は一人、気を引き締めていたのである。
「…左様、この十九日で我等もなんとか天皇を再び頂くことが出来まいて」
供の者達ともども顔や肌の汚れを落とし、道誉の屋敷にようやく落ち着いたのが、その日の夕暮れ。千寿王は旅の疲れもあったのだろう、案内された寝所でことりと眠りについてしまい、
「これで幕府としての面目は保てようと、我らも安堵致しましてござる」
中庭に面したとある一室。ほのかな明かりの元で、顔を引き締めた幸子と二人、向かい合った道誉は、そう言って安心させるように微笑った。
実際、「このままでは逆賊扱いとなり、攫われた皇家の方々の奪回もならぬしお守りすることも出来ぬ」とまで言って、義詮は広義門院へ迫ったのである。これにより、さすがに門院の心も折れた。
よって二七日に官位その他を正平一統前のものとする広義門院の令旨が出され、滞っていた政もようよう回転するようになったのである。またこれにより、優位に立ったはずの南朝側の立場は、再び覆されてしまった。
「その旨、軍旅の道中におわす初代様へも早馬を立ててお知らせしておるゆえ、御台様方にももどうぞお心を安う、と、手前、先ほども登子様へ申しあげまいた」
「…それは良かったこと」
「さて、それでは」
そこで道誉は襟を正して幸子へ向かって平伏し、
「御方様が手前にお尋ねになりたいこと、伺いましょう」
一度深く頭を下げ、引き締めた顔で彼女を見上げた。
雨は断続的に降ったり止んだりを繰り返している。冷えてしまった手のひらで、勧められた熱い湯の入った茶碗を包むようにしながら、
「この際であるから、ハッキリと申しあげておきましょう。私が貴方様に問いたいと思うておりまするのは」
しばらくしてホッとひと息をつき、幸子もまた、父の同僚をまっすぐに見つめ返した。
「幕府を強くする方法じゃ」
「…さ、それは」
「男のみによって政は動く。それゆえ女の出る幕は無い…女じゃから出来ぬ、と見られておるが、そんなはずはない。女じゃからこそ出来ることがあるはず。貴方様なら恐らくそれをご存知。それゆえ、貴方様にのみ問いまする」
さすがに困った風に、腕組みをしながら大げさに天井を仰ぐ道誉を見つめる幸子の目は揺るがない。
「今の足利幕府は弱い。女である私でさえ、どう贔屓目に見てもそう思えまする」
「…はい、その通りじゃ」
そして道誉も、
(これはおなごにしておくには惜しい…二代様なら口にも出さぬことを)
己の娘ほどの年ではあるが、次期将軍の正妻といった立場にもかかわらず、彼女は二代義詮よりも冷静に今の幕府のあり方を見つめている。ゆえに、この女性にはいつものホラやハッタリは効かぬと腹を定めたらしい。彼は視線を幸子へ戻して、
「そもそも初代様が京に幕府を定めたのは、吉野の南朝に対抗する上で、京を離れるわけには行かなかったがゆえ。それとこれは手前のみの考えながら」
その大きく、切れ長の目を見ながら語った。
「いずれは朝廷の官位をも取り込んでしまおうと…そういったお心なのではないかと」
「なるほどのう」
幸子は頷いて、道誉を促す。
「幕府が弱いのは、初代様が先の帝、後醍醐天皇を武力で持って京から追い出した…それが未だに尾を引いておるからじゃ。たとい形骸のみとは言うても、まだまだ皇家の人民に対する権威は侮れぬ。誰もが心の底で、今の幕府が頂いておるのは仮初めの帝じゃと思うておるし、またそれが当たり前じゃと手前は思うておりまする…否」
道誉はそこで苦笑し、
「貴女様の御父、義季殿、赤松の則祐、政所執事の斯波一族、そして先ほどの戦で亡うなった細川頼春…皆、どこかでそう考えておる」
「それゆえ、幕府は弱い…内でも一枚岩ではない故」
「左様」
後を引き取って幸子が言うと、道誉はそこで一旦口を結び、大きな鼻の穴からふうっと息を吐き出した。
つまり、幕府の重臣でさえも「自分たちは作り物である」と考えていて心が定まらぬ折がある。それゆえに戦いにも力を出しきれぬ、と、道誉は言いたいのだ。重臣でさえ南朝側を「正統」と考えてしまうのだから、一兵卒なら何をかいわんや、であろう。
「皇家同士の仲直りは…まだ出来ませぬのう」
「仲直りと。いやまこと、そうですなあ。積年の恨みがござるゆえ、仲直りは未だ難しい」
また女性らしい言葉を聞いたものと、南朝側との交渉役を一手に引き受けてきた道誉は苦笑しながら、
「まずは、足並みを揃えぬと…幕府についておれば、一応は甘い汁が吸える…そのような考えを持つものが、幕府の中から出でて再び南朝側へつく」
「ふむ…甘い汁が吸えぬとあって幕府へ弓引く時、その者どもらの寄り付く先は南朝。そもそも皇家が歩み寄れぬとあれば、こちらとしては内から強く。攻め込まれてもこちらが強くあれば、いずれ先方が枯れゆく道理。じゃが、いざ南朝側が結託して向かってくると、我らの心はあまりに脆い。それゆえ舐められて戦が絶えぬ」
勝楽寺への道々、考えていたことを幸子が話すと、道誉は大いに頷いて、
「左様、まこと左様。足利将軍家を頂いた我等はかほどに強いぞと、一度の戦で示すことが出来ればそれにこしたことはない…しかし頂点におわす二代様にしてからが…まあ、それは、のう…」
「いや、仰りたいことはよう分かりまする」
つい出たらしい道誉の失言に、幸子もまた苦笑した。
彼女の夫である義詮には、側にいる幸子の方が気の毒に思うほどに覇気も、そしてハッタリを飛ばすほどの度胸も、そして清濁併せ呑む度量も無い。加えて美男子ではあるがあまり健康でもない。要するに、兵たちを『姿をあおぐだけで畏服させる』要素がまるきりないのだ。ゆえにそれもまた、「足利幕府の頼りない要素」の一つになっているのだろう。
「いやいや、これはしたり。どうぞ今の手前の発言は夫君には内密に…じゃが、御方様」
道誉はそこでかすかに笑って幸子を見直した。だが彼女をじっと見つめるその目は、もはや笑ってはいない。
「貴女様には千寿王様がおわす。義詮様の御代で成し遂げられぬことでも、貴女様が初代様が目論んでおられることをお継ぎになればよろしい。貴女様次第でお世継ぎに箔さえつけることも出来よう」
「私が? …私に出来ましょうか」
突然、襖の向こうが明るくなった。どうやら雨を降らせていた雲が途切れて、そこから月が顔を出したらしい。その光は襖越しに彼ら二人の顔をこうこうと照らし、
「…男ならば角が立つことも、おなごであれば成し得る、そういったこともござりまする」
しばしの沈黙の後、すっかり冷めてしまった己の分の湯呑みを取り上げて口へ運びながら、道誉はぽつりと言った。幸子の顔も、ほのかに蒼い月光に照らされて冴え冴えと冷たい。
ここまで臣下から無礼な発言を受けて、普通の女性なら怒り出すどころか、
(怒りさえもどこかへ置き忘れたような)
道誉が心の中で密かに苦笑しているように、目の前の幸子の表情は、どこかとぼけているような、他人事のようなそれなのである。だが、
(むしろ逆に、奥方のほうにその素質があるのではないか)
恐らく、彼女は京から逃れてくる道々、そのとぼけた表情の下でずっと「幕府を強くするには」と、それのみを考えていたのだろう。亡き細川頼春が、彼女を息子の室にと切望していたその目はやはり正しかったのだと、改めて彼は将軍正室を見つめ、彼女の言葉を待った。
「…よう分かりました」
やがて、疲れたように息を吐き出して、幸子は白い両手に包んでいた湯呑みを受け皿へ戻した。その表情は、やはりどこかとぼけているが、
「お時間を使わせてしもうて済みませなんだ。じゃがなあ」
「はい」
裾を裁いて立ち上がった彼女のために襖を開けた道誉へ、
「貴方様との話し合い、まことにためになり申した。かたじけなく」
敷居に片足を乗せながら、軽く頭を下げた幸子を包む空気は、この部屋へ通された時のそれとはまるで違う。
「何の。手前との話がお役に立てまいたのなら、それはそれでまことに結構なこと」
道誉も、むしろそんな彼女の変化を楽しむように、口元へ笑みを浮かべ、
「もう夜も遅い。今宵は手足を伸ばされ、ゆるりと休息を取られよ。明日には二代様とこなた様の父御も到着されようゆえ、そうなればいよいよ京奪還の始まりでござるぞ」
言い終えて、カラカラと笑ったのである。
こうして北朝側は、「正平七年」を彼ら側の元号である「観応三年」に戻し、弥仁親王を同年八月には即位させて後光厳天皇となさしめ、なんとか体勢を立て直した。立て直すや否や、父尊氏が鎌倉を、子義詮が京をそれぞれ奪還し、京の八幡男山まで迫っていた南朝側を再び賀名生へ追い落とすことに成功する。
(昨日は東に今日は西に、なんと忙しいことよ。人の心というものは、かくも揺れ動きやすいもの)
そして京へ再び戻る輿に揺られながら、幸子は苦笑していた。このたびの戦勝は、もともと北朝側であった守護だけではなく、
(北朝側が体勢を立て直せたと聞いて、改めて北朝側へつき直した者のおかげもあろうの)
たとえ今は味方であるとはいえども、容易く心を許してはならないということをこの時、彼女は学んだのである。
ともかく、何とも煮えきらぬながら、後の世に「観応の擾乱」と呼ばれるこの戦いは終結を見た。ただし、ここで後光厳天皇が即位したことで、その兄筋である崇光天皇は嫡流から外され、その系統は後に伏見宮家として存続することになる。
(これがまた、『喧嘩』のタネにならねばよいがの…)
痛んでしまった屋敷の修復の槌音が、今日も響く。暦の上では初秋ではあるが、盆地である京の暑さは未だ厳しい。
(まこと、男どもとは仕様のないもの。くだらぬ地位に血眼になってしがみつく)
膝元で、他愛ない遊びに興じている我が子を見ながら、幸子は襟元を少しくつろげて、そこへ扇で風を送った。
すると、かすかな虫の音がする。思わず扇の先で我が肌を叩いてそれを見やり、
(…蚊じゃ。これも己のみが生き延びるために必死か)
幸子は口元にかすかな笑みを浮かべたのである。